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仏教史・ひろさちや・著“はじめての仏教―その成立と発展”を読んで
北京冬季五輪カーリング女子ロコ・ソラーレが凄かった!準決勝の試合に臨む登場シーンで、彼女達4人は音楽に合わせて踊りながら楽しそうに登場した。それを横目で見ていたスイス・チームのメンバーは呆れた表情だったのが象徴的だった。
それにしても、スキーやスノーボードで空中に飛び上がって、クルクル回るのばかり見せつけられるのでは飽きてしまうので、何とかしてほしいと思うは、私ばかりだろうか。
この五輪での様々な疑惑。どうやらIOCの国家主義的発想が諸悪の根源のようだ。甚だしいのはドーピング疑惑。それに伴うロシアでの児童虐待が透けて見える。
国家主義ならば、中国は得意満面だろう!疑惑判定が目立つが、そもそもこんなものだ!という見解もある。そんな五輪を神聖視して何で大騒ぎするのだろうか。
それに日本人選手のエッジに引っかかるアクシデントも多過ぎる印象、フィギュア、パシュート、スキー回転、カーリングのゴミ。TV]解説ではあまり問題にしないので、従来からこんなものだったのだろうか。
メダル授与式の国歌吹奏ももういい加減に止めたらどうかと思う。五輪に政治を持ち込むな!と、言うのであれば19世紀的国家主義的発想を止めて、個人主義で考えるべきことだろう。ならば、予選のやり方から考えねばならぬ。早急にそれを検討開始するべきであろう。
日本のアイス・ダンス代表は小松原夫妻だが、夫は米国人Tim Koletoだったという。五輪参加のために、米国籍から日本に帰化して名前まで変えたようだ。自分の名前はパーソナリティつまりアイデンティティの基本、すなわち基本的人権の一部、そのものだ。背景にある事情詳細は知らないが、五輪参加のためにかなりの無理をしている印象だ。五輪に政治を持ち込むな!個人参加だ!となればこんな無理をしなくて済むではないか。それ以外にも五輪参加のために、わざわざカンボジア人になった御仁も居た。そんな無理をして、何が楽しいのか?痛々しさが募るだけだ。痛々しい参加者を見て何が楽しいのか?
IOCのアナクロの国家主義的発想と商業主義が五輪を相当歪めている。時代遅れ!SDGsの観点からこれを批判する声が上がらないのは何故?!SDGsの観点から、基本的人権を阻害する五輪開催を反対する、その発想は間違っているか?児童虐待を誘発する国家主義ほどおぞましいものはない!
五輪が終われば、いよいよロシアによるウクライナ侵攻が始まると言われている。そのための情報戦は既に始まっているようだ。
週末の報道では、ロシアが“ウクライナ軍によるジェノサイド”をアピールしているが、これは自作自演の可能性は高い。戦前の日本も自作自演の日本人虐殺を平気でやった可能性は高い。その様子は、映画“戦争と人間”を見ていても分かる。日本人が日本人を殺しておいて、これを中国人の犯罪として治安維持のため日本軍の出動を促す、というもの。これと全く同じ手法なのだ。それは非人間の極みではないのか。
このそもそもの原因は、ウクライナ政府のNATO加盟推進政策だ。だからウクライナのゼレンスキー大統領が“NATO加盟はしない”と断言すれば、プーチン・ロシア大統領の付入る隙を塞いでしまうことになるはずだが、そういう動きはないように見える。ウクライナ国民の側からもそういう声は上がっていないようだ。
これは、日本政府と日本国民に置き換えてみると、考えられない事態ではないだろうか。日本ならば、こういう大きな問題になる前までに、そういう不加盟宣言をするだろうし、もし政府が宣言しなければ国民の側が許さないだろう。ウクライナ国民には“自存自衛”の強い“覚悟”があると見るべきではないだろうか。報道によれば、ウクライナの一般国民の間では、銃砲の取扱を学んで、侵略者と戦う姿勢を見せている、ともいう。これまでの厳しい歴史的背景がそうさせるのだろうか。
だが現実はどうやら、そんな言葉の上での“宣言”では済まないようになっているようだ。ウクライナ憲法に“政策としてのNATO加盟推進”を記載しているようなのだ。だから、ゼレンスキー大統領は“加盟は儚い夢”とまでは言ったが、国際的には事実上無視されているようだ。否、憲法に記載するということは、政権が替わってもNATO加盟からEUへの加盟への政策断念は容易にできないようにしたのだ。それは現在のウクライナ国民の悲願として“覚悟”していたことのようなのだ。
そうだ、ウクライナにはチェルノブイリがある。ウクライナは旧ソ連=現ロシア政府に酷い目にあっている。それに西側諸国に憧れもある。だから、ロシアを嫌悪するのだ。ウクライナには、それ以外にも原発と化学工場、天然ガスのパイプラインもある。そこが戦場に成れば、汚染が大変なことになるとの見解もあり、ウクライナ駐日大使はその懸念を表明している。
人種的には両者は非常に近い。近親憎悪の側面もあり、心理的にも非常に複雑なものがあるようだ。ウクライナ東部では極めて複雑のようだ。それをプーチンは利用しているかのようだ。
だが既に過去数年にわたるロシアの軍事的圧迫により、ウクライナの青年たちに1.5万人の犠牲が出ているようだ。(コロナ禍の日本人死者は2/18/17時現在で2.1万人)それでも、ロシアの圧力に屈しない、強い意志をウクライナ国民に見ることができるのだ。“国を守る”とは、そういう覚悟が必要なことなのだ。それが現実であることを日本人は知らなければならないのではないか。
だからそういう厳しい国際政治の舞台に日本政府が立てないのは、不思議でも何でもないことが分かるような気がする。たかが尖閣のような無人島のことで、オロオロするような政府に世界が納得するような強い外交政策ができるとは、思えない。国民の側にもある種の“覚悟”がなければ、それを代表する政府が、強い政策は取れないのも道理なのだ。
一方、ロシアでは1月31日、驚愕の出来事が起こった。「全ロシア将校協会」のHPに「ウクライナ侵攻をやめること」と「プーチン辞任」を要求する「公開書簡」が掲載された、という。
ロシアのレオニド・イヴァショフ退役上級大将が書いたとされるが、彼は“個人的見解ではなく、全ロシア将校協会の総意だ”としている、という。ちなみにイヴァショフ氏は、もともとかなり保守的で、これまでプーチン政権を支持してきた。国営のテレビ番組にもしばしば登場し、著名で影響力のある人物の由。
この極寒の地で、クリスマスも正月もなく野営しているロシア軍兵士の不満も繁栄していると見るべきであろうか。或いは、ロシアのラブロフ外相もプーチンべったりではないように報道していた。テレビ放映されたプーチンとの打ち合わせのシーンでは、プーチン-マクロン会談より距離があったことは、それを雄弁に証明している、との解説もあった。
要するにウクライナ情勢の事態は非常に流動的になっている。熱い戦争になれば、ロシアへの返り血も相当なものになると予想されるようだ。要は、それがロシア社会の破滅への道となる可能性も秘めているようだ。そろそろプーチン劇場も破綻を迎えるのかも知れない。
だが、それは物価の上昇となって、日本社会・経済を直撃するものとなる可能性も含んでいるようだ。
コロナ禍の感染拡大は“そろそろピークが見えて来た観がある”、と言い続けて来たが、いよいよそれが現実のものとなった。実効再生産指数が、先週末18日現在で0.96と1を遂に割った。各地も1未満になってきた。いよいよ感染拡大は逆転して縮小となるはずだ。
地域 実効再生産指数最大時期 ピーク値 先週末2月18日の値
全国 9日 5.9 0.96
東京 10日 5.26 0.95
大阪 9日 4.82 0.97
兵庫 10日 5.48 0.94
京都 11日 3.80 0.94
3回目ワクチン接種は普及し始めた。お蔭で私も先週終えることができた。希望に反してオール・ファイザーとなってしまったので、効き目は割り引かれるようだが、副反応は少なかった。しかし、少々辛い時はあったが日常生活に支障があるレベルではなかった。
だが、世の中の目下の問題は基礎疾患ある高齢者の死亡者が多いことのようだ。酷い例は、3回目接種を終えていても感染し、重症化したのがあったようだ。これはある程度予想されたこと。何故、予想されていたにもかかわらず、しっかり対策が出来ていないのか。厚労省の感染対策が不十分なことが問題なのだ。しっかりして欲しい。
さて今週は、ひろさちや・著“はじめての仏教―その成立と発展”を紹介したい。
仏教に関し、ひろさちや氏の著作を読み続けて来たが、仏教史全体を示したこの本を読んで、ひろさちや仏教観の全体像を理解して、一応の自分の中での総括としたいという思いで読んだ。文庫本で全299頁、これほどコンパクトにまとめられ、要領よく日本に至るまでの仏教史を分かり易く解説した本はないのではないか、と読み終えた今も思っている。
ここで改めて仏教についてのある種の私の思いを整理しておきたい。
私としては、“空の思想”について知りたい・・・とかねがね思って来た。それはいわゆる“無念無想”へと繋がる根本思想であると思っていたからだ。それは剣術や武道の世界でよく言われる境地であるが、具体的にどの様なものなのか、非常に魅惑的な境地のように幼い頃から思い続けて来ている。しかし剣豪小説を読んでも、結局のところは良く分からない。時にはある種“無敵”の境地であるかのようにも言われている。だからある種、憧れの境地なのだ。そして、それは“禅”において強調される世界だ。時には“剣禅一致”などとも称される。さらには、“活人剣”などと称して、矛盾した概念を平気で振り回す。これは一体、どういうことだろう。そう思わない方が、変ではないか。
ところが私の読んだ禅の解説本には、それは極端な応用編なのか、禅のどういったところで関連するのか未だ不明のままなのだ。そういう点で、仏教に興味がある。
或いは、我が家の宗旨・浄土真宗の念仏にも興味がある。開祖・親鸞はただ“南無阿弥陀仏”と声明すれば“極楽往生”できると説き、妻帯までした。それで、仏教の真髄が守れているのか、不思議でならない。
禅に興味を持ち、浄土真宗にも関心がある。“自力”と“他力”いずれが、確かなのか、それにも興味がある。そんなところだ。
このようにして先ずは、ひろさちや氏の著作を読むことで、概括的にしかも正確な仏教像を把握したかった。“仏教入門”の段階を一通りの知識を得て、改めてその歴史をたどることで整理し、一旦総括したいと思った次第である。そういう意味で、ここで一旦、“ひろさちや仏教”のお勉強は終えることとしたい。今後は仏教については、さらに知識を深めるべく、他の碩学の著作にてお勉強したいと考えている。今後、ひろさちや氏の著作を読むことがあっても、それは碩学の1人として考えてのことだ。また、本書はそうい“けじめ”にふさわしい著作であり期待に応えてくれた本だった。
この本は文庫本であるが、その表紙・折り返しには次のように本書概要を記述している。
“2600年前、釈尊の教えから始まった仏教は、インドから中央アジア、中国、朝鮮、日本へと伝播するうちに思想を変化させながら発達した。エイr-トのための仏教から、民衆のための仏教に変貌した過程を豊富な図版により解説する。”
目次・構成は次のようである。
第1章 釈尊の仏教
第2章 阿羅漢の仏教
第3章 菩薩の仏教
第4章 曼茶羅の仏教
第5章 中国の仏教
第6章 日本の仏教
まさに経時的に網羅的に記述されてはいるが、本書でも断ってはいるが、東南アジアに広まり、日本には伝わらなかった“小乗仏教”については省略されている。
そして、この本ではそれは不当な“貶称”であるとして、“阿羅漢の仏教”と呼称している。
“阿羅漢(あらかん)”とは、“サンスクリット語の‘アルハット’の音写語であり、「尊敬を受けるに値する人」の意味”である。一般的には仏教に従い出家し最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるとされる。”この本では、“小乗仏教”を“阿羅漢の仏教”と呼称し、“出家者の仏教”の意味となっている。
ちなみに、“出家”とは、一般的に“師僧から正しい戒律を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(サンガ)に入ること”であり、輪廻に迷う一般人である衆生の在家信者と対比的に使われる用語だ。
さらに、“輪廻”とは、“回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が六道(地獄界,餓鬼界,畜生界,修羅界,人界,天界)の迷いの世界に生死を繰り返すこと”で、インドで古くからしんじられている世界観の一つとされる。この輪廻転生も“苦”であり、最高の悟りを得ればこの苦から脱出でき“解脱”できるというのだ。
天界もあくまで六道の1つであり、天界の住民である天人も悟りは開いてはおらず衆生にすぎない。天人は長寿ではあるが不死ではなく(天人が死ぬ前には天人五衰*という非情に苦しい兆しが現れる)、死ねば他の衆生同様、生前の行いから閻魔が決めた六道のいずれかに転生する。仏教の背景には、こうしたインド人の世界観が強くあるということのようだ。
一つひとつ説明を始めると長くなってしまうのだ。
*三島由紀夫の“豊饒の海”第四巻の題名でもある。
序文は次のような説明から始まる。
“仏教の歴史は、今からおよそ2600年の昔、インドはブッダガヤ―の一本の菩提樹の下で釈尊が悟りを開かれたことに始まる。釈尊は、悟りを開いて‘仏陀’となられた。仏陀とは、インドのサンスクリット語(梵語)で「目覚めた人」といった意味の‘ブッダ’を音写した語である。もちろん、「真理に目覚めた人」の意味だ。釈尊は真理に目覚めて仏陀となられ、その真理をわれわれに教えられた。その仏陀の教えが‘仏教’である。だから、仏教は釈尊に始まる。”
この本では、“‘縁起’こそが仏教の根本思想”として、次のように言っている。
“この世の中の事物はすべて相互に依存し合っており、いずれも相対的な存在である。それを仏教では‘縁起’と呼んでいるのである。
・・・・
縁起の理法とは、われわれのこの宇宙をトータル(全体的)に説明する原理である。しかし、ブラックボックス型宗教の思考ではそんな原理や理法は全く必要ない。人々は行き当たりばったりに試行錯誤的な行動をとる。それで十分なのである。宇宙的な原理など、そこではなんの役にも立たない。”
ここでいう“ブラックボックス型宗教”の事例として、インド古来のバラモン教や(日本の)神道を挙げ、次のような特徴があると言っている。①「行き当たりばったり主義」②「併存主義」(多神教で他の神の存在を許容)③「だめでもともと主義」。要は、中身・内容は不明のままだが、“祈願”のインプットがあれば何やら試行錯誤の“御利益”のアウトプットがある宗教だというのだ。
そして、仏教の発展を次のように概括的に説明している。これを本書全体で詳細に述べているのだ。
“仏教はインドの地に生まれ、そしてインドの地で発展した。あたりまえのことであるが、その「発展」は時代の順を追って発展していったのである。・・・まず最初に釈尊の仏教(根本の仏教)があり、次いで阿羅漢の仏教(小乗仏教)が出てきて、その後で菩薩の仏教(大乗仏教)が興起した。さらに後には曼荼羅の仏教(密教)が登場する。それはあくまで順を追っての展開であり、そのように展開すべき思想史的必然性があったわけだ。”
ここで私が興味を持つ“空の思想”はどこで登場したか。それは“菩薩の仏教(大乗仏教)が興起した”時のことらしい。“般若経”が“空の思想”を示した経典だが、それはこの本の第3章 菩薩の仏教で説明されている。
“釈尊(肉体の釈尊)が入滅された後も、山林隠棲者はそのまま修行を続けた。・・・・彼らは瞑想体験のうちで「空」なる釈尊に会い続けていたのだ。”“山林修行者たちは瞑想をよくした。彼らは瞑想体験の中で釈尊に出会うことができたのである。”ここに魔術的なものを感じてしまう。
山林修行者たちは釈尊に会っては疑問を質して、回答を得てそれを経典に文字化した。その一つに“空の思想”があったことのようだ。著者の推理では、こうして般若心経は作られたという。
ここで、“「般若」というのは、六波羅蜜の実践によって獲得される「より高次の智慧」と考える”としている。六波羅蜜とは、大乗仏教で説く悟りの彼岸に至るための修行徳目で、次の6つである。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧で得られるのが「般若」となる。
著者は、般若の肯定的側面を“諸法実相”とし、否定的側面を“空”として、最初に主流だったのは“空”の哲学であり、“般若経”や“維摩経”で説かれ、後に“諸法実相”を説いたのは“法華経”であったという。この両者の差は“表現方法が否定的か肯定的かという差だけであり、中身は同じ仏教思想”であるとしている。
この“空”とは一体何か。これは“「差別するな」、「こだわるな」”に尽きるという。物事の(例えば棒の)“長-短、美-醜、善-悪、・・・・といった差別は存在そのものにはない。棒そのものは「空」であって、それをわれわれがかってに長い-短いと区別しているのである。・・・そのような差別をやめよ、と教えているのが「空」の思想なのである。”という。
ならば、“「差別するな」、「こだわるな」”と“無敵”の境地である無念無想はどうつながるのであろうか。これについての答えは私は未だ得られていない。永遠のテーマとなるのだろうか。
これに対し“諸法実相”は全肯定である。全てのものにレーゾンデートル(存在価値)を認める考え方である。実例として、江戸時代の禅僧・良寛が虱を可愛がったエピソードが紹介されている。
“大乗仏教では、仏に向かって近づく歩みを‘方便’と呼んだ。そして、そのような方便を行じている者を‘菩薩’と呼んだのである。”“菩薩とは本来は「求道者」の意味である。”
一般的には“菩薩(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァの音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教においては菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する。”
弥勒菩薩は現在の宇宙仏である阿弥陀仏の次の宇宙仏となることが約束された菩薩で、(日本の伝承では)56億7千万年後の未来に、この世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。(残念ながら同じ菩薩の観音様ではない!)それまでは兜率天やこの娑婆でも身近で修行(あるいは説法)されていると言われる。
また本書では“まだまだ低い段階を歩んでいるわれわれではあるが、仏に向かって歩んでいる(方便を行じている)限りにおいてわれわれだって菩薩なのだ。その意味で、大乗仏教そのものを「菩薩の仏教」と呼ぶことができる”としている。
第4章の“曼荼羅の仏教”では密教の解説がなされる。密教は“菩薩の仏教”で進んだ民衆化による究極の姿だという。曼荼羅は、この民衆化により土着のヒンドゥー教化して現れた多数の仏、菩薩、明王、諸天諸神を整理して説明する必要があって登場したものだという。著者はこれは本来球形の3次元的なものでなければならないが、それは困難なので2次元的図にしたのだと言っている。
顕教の宇宙仏は毘盧遮那仏(例えば奈良の大仏)だが、密教では大日如来となり、曼荼羅では中心に描かれる。毘盧遮那仏は直接説法はさず、釈迦牟尼仏を通してされる。大日如来は片時も黙さず説法をされているが、“宇宙語”で話されているので、普通の耳の者には理解できていない。修行して“耳を澄まし、目の曇りをとれば”それが理解できるというのだ。
“密教の基本にある思想は「仏との合一」である。・・・密教ではこれを‘加持’と呼んでいる。・・・サンスクリット語の‘アディシュダーチ’の訳語であり、「力を加える」という意味である。・・・空海は、これを「加」と「持」に分けて解釈している。「加」とは・・・仏の方から凡夫(行者)に力が加えられる、「持」とは・・・凡夫(行者)がその力を受け止め、持ち続けること”なのだという。ヒンドゥー教の母胎となったバラモン教の哲学書『ウパニシャッド』に“梵我一如”という考え方があるが、密教においては“仏凡一如”つまり、“われわれ凡夫も究極においては仏と合一して一如になることができる”との主張だという。
“中国の仏教”では“禅宗”と“浄土教”の解説がある。
本来、仏教の六波羅蜜の修行において禅定は一つの徳目であったが、“禅宗においてはこの禅がいっさいであるとする”。“そして、禅宗においては、真の禅は経典や論書の学習によっては学べないとする。禅は「不立文字」の教えであり、「教外別伝」の教えである。”“禅宗が教えていることは、むしろ悟りに至るプロセス(方便)を大事にしようということだ。”
“浄土教は、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願う仏教のひとつの派である。”一般社会の娑婆では、在家での六波羅蜜にしても仏道修行が困難である。しかし、“浄土では生活の心配もいらない。修行の条件はみごとなまでに整っている。われわれはこのような理想の道場である極楽世界に生まれ、そこで仏道修行をして悟りを開こう”というのが浄土教である。そして、その極楽浄土へは、阿弥陀仏を憶念することで往生できるとした。つまり“念仏”することは、中国では“観念の念仏”つまり“心の中で静かに仏の功徳や姿を思い浮かべる”易行であるとされた。
第6章 日本の仏教では、最澄と空海の仏教観の驚くべき差異を説明している。最澄は、仏教を小乗仏教と大乗仏教に大分類し、大乗仏教を顕教と密教に分けて考えた。そして、比叡山で開いた仏教の総合大学でのカリキュラムもそれに沿って揃えた。それは円(大乗仏教)、禅、戒(戒律)、密(密教)と科目(学部)を分けた。そして、最澄は空海に密教学部の学部長をやってもらおうとした。
しかし、空海は仏教は顕教と密教に分かれるとし、顕教の中に小乗仏教と大乗仏教があると考えたと言っている。勿論、立場の異なる最澄と空海は別れてしまい、しかたなく最澄は弟子を中国に派遣して密教を学ばせ、帰国した弟子を大学の教師に据えた。空海は密教を最新最上の仏教であると考えて、別に高野山に寺を開いたのだ。
そして、日本における末法思想の影響で浄土教が発展したと説明があり、他力の親鸞、自力の道元を日本仏教の最終的双璧であると評している。
また最後に著者は、日本で“鎌倉時代までに思想的な面で仏教は完成してしまった”と言っている。その中で、“仏教の思想は、ある意味で日本人の血となり肉となった。しかし、まさにそれゆえに、仏教の教えはかつての力強いエネルギーを失ってしまった”とした上で、“今仏教に求められているのは、その教えで持ってわたしたちが現実の苦悩と闘う力である。仏教はまちがいなくそのような力をうちに秘めている。わたしはそう確信している。”と続けて、本書本文は終わっている。
著者はその “あとがき”で“宗論はどちらが負けても釈迦の恥”という格言を紹介して、追い打ちをかけているのが面白い。
つまり、現在の仏教は現代人を救う力はあるが、それが現実に顕現していない、と言っているのだ。ということは、現代の仏教には現代的宗教改革が必要だということではないだろうか。
上手く説明できないが―それは浅学非才のため当然だが―私も、仏教は西洋哲学ではカントあたりまでは先進的であったが、ハイデガーあたりから明らかに遅れてしまっているのではないかと最近思い始めている。つまりは、圧倒的に分析的で実証的な近代科学の前に、仏教の世界観は古代の御伽噺になってしまっている。また本書で最新の仏教と評されている密教は、表面的な呪術的な怪しい世界に生きているかのように一般人には見えているのだ。勿論、相当な知識人もそのような目で密教を見ているのは、梅原猛氏による指摘の通りである。
少なくとも、その御伽噺の部分を革新しなければ、日本の仏教には“その教えで持ってわたしたちの現実の苦悩と闘う力”を獲得することはできないのではないだろうか。高邁な仏教者の登場に期待するばかりなのだろうか。そういう“地上の星”は既にこの世に存在するのであろうか。居て欲しいものである。改革者、出でよ!!

それにしても、スキーやスノーボードで空中に飛び上がって、クルクル回るのばかり見せつけられるのでは飽きてしまうので、何とかしてほしいと思うは、私ばかりだろうか。
この五輪での様々な疑惑。どうやらIOCの国家主義的発想が諸悪の根源のようだ。甚だしいのはドーピング疑惑。それに伴うロシアでの児童虐待が透けて見える。
国家主義ならば、中国は得意満面だろう!疑惑判定が目立つが、そもそもこんなものだ!という見解もある。そんな五輪を神聖視して何で大騒ぎするのだろうか。
それに日本人選手のエッジに引っかかるアクシデントも多過ぎる印象、フィギュア、パシュート、スキー回転、カーリングのゴミ。TV]解説ではあまり問題にしないので、従来からこんなものだったのだろうか。
メダル授与式の国歌吹奏ももういい加減に止めたらどうかと思う。五輪に政治を持ち込むな!と、言うのであれば19世紀的国家主義的発想を止めて、個人主義で考えるべきことだろう。ならば、予選のやり方から考えねばならぬ。早急にそれを検討開始するべきであろう。
日本のアイス・ダンス代表は小松原夫妻だが、夫は米国人Tim Koletoだったという。五輪参加のために、米国籍から日本に帰化して名前まで変えたようだ。自分の名前はパーソナリティつまりアイデンティティの基本、すなわち基本的人権の一部、そのものだ。背景にある事情詳細は知らないが、五輪参加のためにかなりの無理をしている印象だ。五輪に政治を持ち込むな!個人参加だ!となればこんな無理をしなくて済むではないか。それ以外にも五輪参加のために、わざわざカンボジア人になった御仁も居た。そんな無理をして、何が楽しいのか?痛々しさが募るだけだ。痛々しい参加者を見て何が楽しいのか?
IOCのアナクロの国家主義的発想と商業主義が五輪を相当歪めている。時代遅れ!SDGsの観点からこれを批判する声が上がらないのは何故?!SDGsの観点から、基本的人権を阻害する五輪開催を反対する、その発想は間違っているか?児童虐待を誘発する国家主義ほどおぞましいものはない!
五輪が終われば、いよいよロシアによるウクライナ侵攻が始まると言われている。そのための情報戦は既に始まっているようだ。
週末の報道では、ロシアが“ウクライナ軍によるジェノサイド”をアピールしているが、これは自作自演の可能性は高い。戦前の日本も自作自演の日本人虐殺を平気でやった可能性は高い。その様子は、映画“戦争と人間”を見ていても分かる。日本人が日本人を殺しておいて、これを中国人の犯罪として治安維持のため日本軍の出動を促す、というもの。これと全く同じ手法なのだ。それは非人間の極みではないのか。
このそもそもの原因は、ウクライナ政府のNATO加盟推進政策だ。だからウクライナのゼレンスキー大統領が“NATO加盟はしない”と断言すれば、プーチン・ロシア大統領の付入る隙を塞いでしまうことになるはずだが、そういう動きはないように見える。ウクライナ国民の側からもそういう声は上がっていないようだ。
これは、日本政府と日本国民に置き換えてみると、考えられない事態ではないだろうか。日本ならば、こういう大きな問題になる前までに、そういう不加盟宣言をするだろうし、もし政府が宣言しなければ国民の側が許さないだろう。ウクライナ国民には“自存自衛”の強い“覚悟”があると見るべきではないだろうか。報道によれば、ウクライナの一般国民の間では、銃砲の取扱を学んで、侵略者と戦う姿勢を見せている、ともいう。これまでの厳しい歴史的背景がそうさせるのだろうか。
だが現実はどうやら、そんな言葉の上での“宣言”では済まないようになっているようだ。ウクライナ憲法に“政策としてのNATO加盟推進”を記載しているようなのだ。だから、ゼレンスキー大統領は“加盟は儚い夢”とまでは言ったが、国際的には事実上無視されているようだ。否、憲法に記載するということは、政権が替わってもNATO加盟からEUへの加盟への政策断念は容易にできないようにしたのだ。それは現在のウクライナ国民の悲願として“覚悟”していたことのようなのだ。
そうだ、ウクライナにはチェルノブイリがある。ウクライナは旧ソ連=現ロシア政府に酷い目にあっている。それに西側諸国に憧れもある。だから、ロシアを嫌悪するのだ。ウクライナには、それ以外にも原発と化学工場、天然ガスのパイプラインもある。そこが戦場に成れば、汚染が大変なことになるとの見解もあり、ウクライナ駐日大使はその懸念を表明している。
人種的には両者は非常に近い。近親憎悪の側面もあり、心理的にも非常に複雑なものがあるようだ。ウクライナ東部では極めて複雑のようだ。それをプーチンは利用しているかのようだ。
だが既に過去数年にわたるロシアの軍事的圧迫により、ウクライナの青年たちに1.5万人の犠牲が出ているようだ。(コロナ禍の日本人死者は2/18/17時現在で2.1万人)それでも、ロシアの圧力に屈しない、強い意志をウクライナ国民に見ることができるのだ。“国を守る”とは、そういう覚悟が必要なことなのだ。それが現実であることを日本人は知らなければならないのではないか。
だからそういう厳しい国際政治の舞台に日本政府が立てないのは、不思議でも何でもないことが分かるような気がする。たかが尖閣のような無人島のことで、オロオロするような政府に世界が納得するような強い外交政策ができるとは、思えない。国民の側にもある種の“覚悟”がなければ、それを代表する政府が、強い政策は取れないのも道理なのだ。
一方、ロシアでは1月31日、驚愕の出来事が起こった。「全ロシア将校協会」のHPに「ウクライナ侵攻をやめること」と「プーチン辞任」を要求する「公開書簡」が掲載された、という。
ロシアのレオニド・イヴァショフ退役上級大将が書いたとされるが、彼は“個人的見解ではなく、全ロシア将校協会の総意だ”としている、という。ちなみにイヴァショフ氏は、もともとかなり保守的で、これまでプーチン政権を支持してきた。国営のテレビ番組にもしばしば登場し、著名で影響力のある人物の由。
この極寒の地で、クリスマスも正月もなく野営しているロシア軍兵士の不満も繁栄していると見るべきであろうか。或いは、ロシアのラブロフ外相もプーチンべったりではないように報道していた。テレビ放映されたプーチンとの打ち合わせのシーンでは、プーチン-マクロン会談より距離があったことは、それを雄弁に証明している、との解説もあった。
要するにウクライナ情勢の事態は非常に流動的になっている。熱い戦争になれば、ロシアへの返り血も相当なものになると予想されるようだ。要は、それがロシア社会の破滅への道となる可能性も秘めているようだ。そろそろプーチン劇場も破綻を迎えるのかも知れない。
だが、それは物価の上昇となって、日本社会・経済を直撃するものとなる可能性も含んでいるようだ。
コロナ禍の感染拡大は“そろそろピークが見えて来た観がある”、と言い続けて来たが、いよいよそれが現実のものとなった。実効再生産指数が、先週末18日現在で0.96と1を遂に割った。各地も1未満になってきた。いよいよ感染拡大は逆転して縮小となるはずだ。
地域 実効再生産指数最大時期 ピーク値 先週末2月18日の値
全国 9日 5.9 0.96
東京 10日 5.26 0.95
大阪 9日 4.82 0.97
兵庫 10日 5.48 0.94
京都 11日 3.80 0.94
3回目ワクチン接種は普及し始めた。お蔭で私も先週終えることができた。希望に反してオール・ファイザーとなってしまったので、効き目は割り引かれるようだが、副反応は少なかった。しかし、少々辛い時はあったが日常生活に支障があるレベルではなかった。
だが、世の中の目下の問題は基礎疾患ある高齢者の死亡者が多いことのようだ。酷い例は、3回目接種を終えていても感染し、重症化したのがあったようだ。これはある程度予想されたこと。何故、予想されていたにもかかわらず、しっかり対策が出来ていないのか。厚労省の感染対策が不十分なことが問題なのだ。しっかりして欲しい。
さて今週は、ひろさちや・著“はじめての仏教―その成立と発展”を紹介したい。
仏教に関し、ひろさちや氏の著作を読み続けて来たが、仏教史全体を示したこの本を読んで、ひろさちや仏教観の全体像を理解して、一応の自分の中での総括としたいという思いで読んだ。文庫本で全299頁、これほどコンパクトにまとめられ、要領よく日本に至るまでの仏教史を分かり易く解説した本はないのではないか、と読み終えた今も思っている。
ここで改めて仏教についてのある種の私の思いを整理しておきたい。
私としては、“空の思想”について知りたい・・・とかねがね思って来た。それはいわゆる“無念無想”へと繋がる根本思想であると思っていたからだ。それは剣術や武道の世界でよく言われる境地であるが、具体的にどの様なものなのか、非常に魅惑的な境地のように幼い頃から思い続けて来ている。しかし剣豪小説を読んでも、結局のところは良く分からない。時にはある種“無敵”の境地であるかのようにも言われている。だからある種、憧れの境地なのだ。そして、それは“禅”において強調される世界だ。時には“剣禅一致”などとも称される。さらには、“活人剣”などと称して、矛盾した概念を平気で振り回す。これは一体、どういうことだろう。そう思わない方が、変ではないか。
ところが私の読んだ禅の解説本には、それは極端な応用編なのか、禅のどういったところで関連するのか未だ不明のままなのだ。そういう点で、仏教に興味がある。
或いは、我が家の宗旨・浄土真宗の念仏にも興味がある。開祖・親鸞はただ“南無阿弥陀仏”と声明すれば“極楽往生”できると説き、妻帯までした。それで、仏教の真髄が守れているのか、不思議でならない。
禅に興味を持ち、浄土真宗にも関心がある。“自力”と“他力”いずれが、確かなのか、それにも興味がある。そんなところだ。
このようにして先ずは、ひろさちや氏の著作を読むことで、概括的にしかも正確な仏教像を把握したかった。“仏教入門”の段階を一通りの知識を得て、改めてその歴史をたどることで整理し、一旦総括したいと思った次第である。そういう意味で、ここで一旦、“ひろさちや仏教”のお勉強は終えることとしたい。今後は仏教については、さらに知識を深めるべく、他の碩学の著作にてお勉強したいと考えている。今後、ひろさちや氏の著作を読むことがあっても、それは碩学の1人として考えてのことだ。また、本書はそうい“けじめ”にふさわしい著作であり期待に応えてくれた本だった。
この本は文庫本であるが、その表紙・折り返しには次のように本書概要を記述している。
“2600年前、釈尊の教えから始まった仏教は、インドから中央アジア、中国、朝鮮、日本へと伝播するうちに思想を変化させながら発達した。エイr-トのための仏教から、民衆のための仏教に変貌した過程を豊富な図版により解説する。”
目次・構成は次のようである。
第1章 釈尊の仏教
第2章 阿羅漢の仏教
第3章 菩薩の仏教
第4章 曼茶羅の仏教
第5章 中国の仏教
第6章 日本の仏教
まさに経時的に網羅的に記述されてはいるが、本書でも断ってはいるが、東南アジアに広まり、日本には伝わらなかった“小乗仏教”については省略されている。
そして、この本ではそれは不当な“貶称”であるとして、“阿羅漢の仏教”と呼称している。
“阿羅漢(あらかん)”とは、“サンスクリット語の‘アルハット’の音写語であり、「尊敬を受けるに値する人」の意味”である。一般的には仏教に従い出家し最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるとされる。”この本では、“小乗仏教”を“阿羅漢の仏教”と呼称し、“出家者の仏教”の意味となっている。
ちなみに、“出家”とは、一般的に“師僧から正しい戒律を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教コミュニティ(サンガ)に入ること”であり、輪廻に迷う一般人である衆生の在家信者と対比的に使われる用語だ。
さらに、“輪廻”とは、“回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が六道(地獄界,餓鬼界,畜生界,修羅界,人界,天界)の迷いの世界に生死を繰り返すこと”で、インドで古くからしんじられている世界観の一つとされる。この輪廻転生も“苦”であり、最高の悟りを得ればこの苦から脱出でき“解脱”できるというのだ。
天界もあくまで六道の1つであり、天界の住民である天人も悟りは開いてはおらず衆生にすぎない。天人は長寿ではあるが不死ではなく(天人が死ぬ前には天人五衰*という非情に苦しい兆しが現れる)、死ねば他の衆生同様、生前の行いから閻魔が決めた六道のいずれかに転生する。仏教の背景には、こうしたインド人の世界観が強くあるということのようだ。
一つひとつ説明を始めると長くなってしまうのだ。
*三島由紀夫の“豊饒の海”第四巻の題名でもある。
序文は次のような説明から始まる。
“仏教の歴史は、今からおよそ2600年の昔、インドはブッダガヤ―の一本の菩提樹の下で釈尊が悟りを開かれたことに始まる。釈尊は、悟りを開いて‘仏陀’となられた。仏陀とは、インドのサンスクリット語(梵語)で「目覚めた人」といった意味の‘ブッダ’を音写した語である。もちろん、「真理に目覚めた人」の意味だ。釈尊は真理に目覚めて仏陀となられ、その真理をわれわれに教えられた。その仏陀の教えが‘仏教’である。だから、仏教は釈尊に始まる。”
この本では、“‘縁起’こそが仏教の根本思想”として、次のように言っている。
“この世の中の事物はすべて相互に依存し合っており、いずれも相対的な存在である。それを仏教では‘縁起’と呼んでいるのである。
・・・・
縁起の理法とは、われわれのこの宇宙をトータル(全体的)に説明する原理である。しかし、ブラックボックス型宗教の思考ではそんな原理や理法は全く必要ない。人々は行き当たりばったりに試行錯誤的な行動をとる。それで十分なのである。宇宙的な原理など、そこではなんの役にも立たない。”
ここでいう“ブラックボックス型宗教”の事例として、インド古来のバラモン教や(日本の)神道を挙げ、次のような特徴があると言っている。①「行き当たりばったり主義」②「併存主義」(多神教で他の神の存在を許容)③「だめでもともと主義」。要は、中身・内容は不明のままだが、“祈願”のインプットがあれば何やら試行錯誤の“御利益”のアウトプットがある宗教だというのだ。
そして、仏教の発展を次のように概括的に説明している。これを本書全体で詳細に述べているのだ。
“仏教はインドの地に生まれ、そしてインドの地で発展した。あたりまえのことであるが、その「発展」は時代の順を追って発展していったのである。・・・まず最初に釈尊の仏教(根本の仏教)があり、次いで阿羅漢の仏教(小乗仏教)が出てきて、その後で菩薩の仏教(大乗仏教)が興起した。さらに後には曼荼羅の仏教(密教)が登場する。それはあくまで順を追っての展開であり、そのように展開すべき思想史的必然性があったわけだ。”
ここで私が興味を持つ“空の思想”はどこで登場したか。それは“菩薩の仏教(大乗仏教)が興起した”時のことらしい。“般若経”が“空の思想”を示した経典だが、それはこの本の第3章 菩薩の仏教で説明されている。
“釈尊(肉体の釈尊)が入滅された後も、山林隠棲者はそのまま修行を続けた。・・・・彼らは瞑想体験のうちで「空」なる釈尊に会い続けていたのだ。”“山林修行者たちは瞑想をよくした。彼らは瞑想体験の中で釈尊に出会うことができたのである。”ここに魔術的なものを感じてしまう。
山林修行者たちは釈尊に会っては疑問を質して、回答を得てそれを経典に文字化した。その一つに“空の思想”があったことのようだ。著者の推理では、こうして般若心経は作られたという。
ここで、“「般若」というのは、六波羅蜜の実践によって獲得される「より高次の智慧」と考える”としている。六波羅蜜とは、大乗仏教で説く悟りの彼岸に至るための修行徳目で、次の6つである。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧で得られるのが「般若」となる。
著者は、般若の肯定的側面を“諸法実相”とし、否定的側面を“空”として、最初に主流だったのは“空”の哲学であり、“般若経”や“維摩経”で説かれ、後に“諸法実相”を説いたのは“法華経”であったという。この両者の差は“表現方法が否定的か肯定的かという差だけであり、中身は同じ仏教思想”であるとしている。
この“空”とは一体何か。これは“「差別するな」、「こだわるな」”に尽きるという。物事の(例えば棒の)“長-短、美-醜、善-悪、・・・・といった差別は存在そのものにはない。棒そのものは「空」であって、それをわれわれがかってに長い-短いと区別しているのである。・・・そのような差別をやめよ、と教えているのが「空」の思想なのである。”という。
ならば、“「差別するな」、「こだわるな」”と“無敵”の境地である無念無想はどうつながるのであろうか。これについての答えは私は未だ得られていない。永遠のテーマとなるのだろうか。
これに対し“諸法実相”は全肯定である。全てのものにレーゾンデートル(存在価値)を認める考え方である。実例として、江戸時代の禅僧・良寛が虱を可愛がったエピソードが紹介されている。
“大乗仏教では、仏に向かって近づく歩みを‘方便’と呼んだ。そして、そのような方便を行じている者を‘菩薩’と呼んだのである。”“菩薩とは本来は「求道者」の意味である。”
一般的には“菩薩(ぼさつ)とは、ボーディ・サットヴァの音写である菩提薩埵(ぼだいさった)の略であり、仏教においては菩提(悟り)を求める衆生(薩埵)を意味する。”
弥勒菩薩は現在の宇宙仏である阿弥陀仏の次の宇宙仏となることが約束された菩薩で、(日本の伝承では)56億7千万年後の未来に、この世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。(残念ながら同じ菩薩の観音様ではない!)それまでは兜率天やこの娑婆でも身近で修行(あるいは説法)されていると言われる。
また本書では“まだまだ低い段階を歩んでいるわれわれではあるが、仏に向かって歩んでいる(方便を行じている)限りにおいてわれわれだって菩薩なのだ。その意味で、大乗仏教そのものを「菩薩の仏教」と呼ぶことができる”としている。
第4章の“曼荼羅の仏教”では密教の解説がなされる。密教は“菩薩の仏教”で進んだ民衆化による究極の姿だという。曼荼羅は、この民衆化により土着のヒンドゥー教化して現れた多数の仏、菩薩、明王、諸天諸神を整理して説明する必要があって登場したものだという。著者はこれは本来球形の3次元的なものでなければならないが、それは困難なので2次元的図にしたのだと言っている。
顕教の宇宙仏は毘盧遮那仏(例えば奈良の大仏)だが、密教では大日如来となり、曼荼羅では中心に描かれる。毘盧遮那仏は直接説法はさず、釈迦牟尼仏を通してされる。大日如来は片時も黙さず説法をされているが、“宇宙語”で話されているので、普通の耳の者には理解できていない。修行して“耳を澄まし、目の曇りをとれば”それが理解できるというのだ。
“密教の基本にある思想は「仏との合一」である。・・・密教ではこれを‘加持’と呼んでいる。・・・サンスクリット語の‘アディシュダーチ’の訳語であり、「力を加える」という意味である。・・・空海は、これを「加」と「持」に分けて解釈している。「加」とは・・・仏の方から凡夫(行者)に力が加えられる、「持」とは・・・凡夫(行者)がその力を受け止め、持ち続けること”なのだという。ヒンドゥー教の母胎となったバラモン教の哲学書『ウパニシャッド』に“梵我一如”という考え方があるが、密教においては“仏凡一如”つまり、“われわれ凡夫も究極においては仏と合一して一如になることができる”との主張だという。
“中国の仏教”では“禅宗”と“浄土教”の解説がある。
本来、仏教の六波羅蜜の修行において禅定は一つの徳目であったが、“禅宗においてはこの禅がいっさいであるとする”。“そして、禅宗においては、真の禅は経典や論書の学習によっては学べないとする。禅は「不立文字」の教えであり、「教外別伝」の教えである。”“禅宗が教えていることは、むしろ悟りに至るプロセス(方便)を大事にしようということだ。”
“浄土教は、阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願う仏教のひとつの派である。”一般社会の娑婆では、在家での六波羅蜜にしても仏道修行が困難である。しかし、“浄土では生活の心配もいらない。修行の条件はみごとなまでに整っている。われわれはこのような理想の道場である極楽世界に生まれ、そこで仏道修行をして悟りを開こう”というのが浄土教である。そして、その極楽浄土へは、阿弥陀仏を憶念することで往生できるとした。つまり“念仏”することは、中国では“観念の念仏”つまり“心の中で静かに仏の功徳や姿を思い浮かべる”易行であるとされた。
第6章 日本の仏教では、最澄と空海の仏教観の驚くべき差異を説明している。最澄は、仏教を小乗仏教と大乗仏教に大分類し、大乗仏教を顕教と密教に分けて考えた。そして、比叡山で開いた仏教の総合大学でのカリキュラムもそれに沿って揃えた。それは円(大乗仏教)、禅、戒(戒律)、密(密教)と科目(学部)を分けた。そして、最澄は空海に密教学部の学部長をやってもらおうとした。
しかし、空海は仏教は顕教と密教に分かれるとし、顕教の中に小乗仏教と大乗仏教があると考えたと言っている。勿論、立場の異なる最澄と空海は別れてしまい、しかたなく最澄は弟子を中国に派遣して密教を学ばせ、帰国した弟子を大学の教師に据えた。空海は密教を最新最上の仏教であると考えて、別に高野山に寺を開いたのだ。
そして、日本における末法思想の影響で浄土教が発展したと説明があり、他力の親鸞、自力の道元を日本仏教の最終的双璧であると評している。
また最後に著者は、日本で“鎌倉時代までに思想的な面で仏教は完成してしまった”と言っている。その中で、“仏教の思想は、ある意味で日本人の血となり肉となった。しかし、まさにそれゆえに、仏教の教えはかつての力強いエネルギーを失ってしまった”とした上で、“今仏教に求められているのは、その教えで持ってわたしたちが現実の苦悩と闘う力である。仏教はまちがいなくそのような力をうちに秘めている。わたしはそう確信している。”と続けて、本書本文は終わっている。
著者はその “あとがき”で“宗論はどちらが負けても釈迦の恥”という格言を紹介して、追い打ちをかけているのが面白い。
つまり、現在の仏教は現代人を救う力はあるが、それが現実に顕現していない、と言っているのだ。ということは、現代の仏教には現代的宗教改革が必要だということではないだろうか。
上手く説明できないが―それは浅学非才のため当然だが―私も、仏教は西洋哲学ではカントあたりまでは先進的であったが、ハイデガーあたりから明らかに遅れてしまっているのではないかと最近思い始めている。つまりは、圧倒的に分析的で実証的な近代科学の前に、仏教の世界観は古代の御伽噺になってしまっている。また本書で最新の仏教と評されている密教は、表面的な呪術的な怪しい世界に生きているかのように一般人には見えているのだ。勿論、相当な知識人もそのような目で密教を見ているのは、梅原猛氏による指摘の通りである。
少なくとも、その御伽噺の部分を革新しなければ、日本の仏教には“その教えで持ってわたしたちの現実の苦悩と闘う力”を獲得することはできないのではないだろうか。高邁な仏教者の登場に期待するばかりなのだろうか。そういう“地上の星”は既にこの世に存在するのであろうか。居て欲しいものである。改革者、出でよ!!

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