かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

5.義経 鬱屈 その2

2008-04-13 20:06:29 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 確かに範頼は全軍を統率する大将軍として五万余の大軍を率い、生田の森から平氏本陣正面に攻め寄せていた。だが、結局義経の攻撃で平氏側が浮き足立つまで何ら為す術もなく、ただじっと戦いの行方を傍観していたに過ぎないのだ。もし義経の奇襲がなければ、一ノ谷の要害を利して平氏一の名将平知盛が構築した堅塁をいつまでたっても抜くことが出来ず、源氏頼み難し、とみた後白河法皇が、今度こそ本気で平氏との和平を実現させたに違いない。これでは、三〇年前の平治の乱における父義朝の恨みを晴らし、平氏に替わって全国の武士に号令しようと言う頼朝の願いも断ち切られる。いや、頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた希代の策謀家、後白河法皇の掌の上で、永遠に平氏との共存と競争を余儀なくされていたかも知れない。更にもっと恐ろしいのは、逆に鎌倉こそ諸悪の根元なり、と頼朝追討の宣旨が出る可能性すらあった。そうなれば、これまでただ静観を決め込んでいた北の奸雄藤原秀衡がどう動くか知れず、その動向によっては今度こそ源氏は叩きつぶされてしまったことだろう。そんな有り難くない未来をただ一戦で払拭し得たのは、まさに義経のおかげであるのだ。それを思えば、いかに殿へは厳しい頼朝公でも、いざ戦となればその力量を無碍には出来ない。そして今度こそ文句のつけようのない比類無い大戦果をものにし、鎌倉に殿の実力を認めさせてくれる。伊勢三郎義盛を筆頭に主だった側近達は、ただその思いで半年の間耐えてきたのであった。
 だが、その努力もこの一片の書状の前にあえなく露と消えた。
 以後の義経は、表だってはそれまでと変わりなくただひたすらに忠勤に励んだ。だが、酒量は夜毎に増え、心映えも、少しずつ変質していった。四月の儀式後、一旦は返上した臨時の位を、法皇は九月末になって今度は正式に義経に与えた。が、この時、義経は作法どおり形ばかりの辞意を示しただけで、何のてらいもなくすんなりと位に就いた。そして鎌倉には、ただ素っ気なくそのことを知らせたのみであった。
 このころの義経の心には、何もかも忘れてただ戦場に出たい、と言う一言だけが輻輳して鳴り響いていた。たとえ夜露に濡れそぼち、粗末な食事に飢えをしのぎ、敵の夜襲に備えて眠れぬ夜を過ごすことになろうとも、こんな自堕落な都の夜に比べれば何層倍も楽で楽しいか知れない。あの誰もが尻込みした一ノ谷の絶壁を先頭切って駆け下りたときの爽快さ。紅蓮の炎を上げて燃えさかる敵陣に切り込み、崩れ立った平氏の兵共を散々に追い散らしたあの高揚感が、何にも増して思い出されてならなかった。その癒しがたい心を鎮めるには、ただ酒の力を借りるよりなかったのである。
 やがて、夜も更けたころ、義経は思い出ししたように唐突に立ち上がった。どうしても気持ちが収まらないとき、宿直の者に「ちょっと出てくる」とだけ告げて、厩に向かう。そして、愛馬に自ら鞍を着けると、そのまま振り返ることなく京の町へと駆け出すのだ。だが、今宵だけは出かける直前にためらった。雪だ。既にくるぶしも埋まるほどに積もった雪が、今も音もなく降り積もっている。一瞬、今宵は諦めるか、と義経は思った。だが、それならそれで、鬱屈は一時の発散もなく蓄積されるだけである。それに、これはこれで幼時の平泉の様子が偲ばれるようでもある。結局義経は早々に引き上げる積もりで、馬蹄に雪を蹴散らしながら走り出た。
 およそどちらと言うつもりもなく走るうち、義経は程なくして鴨の河原まで出てきた。まだ酔いの残る体は冷えも少なく、満足のいくほど走ったという気持ちもない。義経はそのまま駒を北に向けると、鴨川に沿って走り出した。すると、たちまち一本の橋が右手に現れた。義経の館は六条西洞院にある法皇の居所、六条第のすぐ側にある。そこからまっすぐ西へ鴨川に出、そして北に道を取ったのであるから、それは五条の橋に相違なかった。そこを渡れば、対岸は平氏が栄華を極める六波羅の街路のはずである。
「少し足を伸ばしてみるか」
 義経は、再び馬首を東に振ると、その貧弱な橋桁に歩を進ませた。
 渡り終えたところで、河原を左に折れ、再び北へ駒を向ける。そして、すぐに目的の場所に着いた。あの四月、法皇より申しつけられて遷宮の奉行をした、小さな塚の跡である。あの日、その塚に建ったお堂から、一枚の古い鏡を取り出し、ずっと北、御所の南端、大炊御門大路の対岸に新たに建立された粟田宮と言う社に移したのだった。実際にはその一切は神職が取り仕切り、義経は「不測の事態に備えよ」との法皇の仰せのままに、戦場さながらに甲冑で身を固めて供奉したのであるが、高々鏡一枚移すだけでどうしてこのような大げさな儀式が必要なのか、当時は理解に苦しんだものだった。塚とお堂は、かつて崇徳上皇の愛妾であった兵衛佐の局と呼ばれる女房が、上皇の遺徳を偲ぶため建立し、その遺品である鏡を奉納したものと聞いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.義経 鬱屈 その3

2008-04-13 20:06:21 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 崇徳上皇は、ちょうど20年前に崩御された、第七五代天皇の事である。保安元年(1119年)に鳥羽天皇の第一皇子顕仁として誕生し、わずか四才で万乗の位にお就きあそばし、永治元年(1141年)、異母弟の体仁親王に譲位して上皇となり、保元元年(1156年)、保元の乱を起こして、歴史にその名を刻みつけた。
この時代、天皇とは以外に自由のきかない存在だったようである。天皇の位は、その歴史的経緯から摂政、関白と言った朝廷の制度と非常に密接な関係が出来上がっており、それら高位を独占した藤原氏の協力なくして、政治を執り行うことは不可能であった。その煩わしさに倦み、太古の天皇親政を別の形で目指したのが、院政である。即ち、制度的にも慣習の上からも全く束縛されることのない上皇の立場から、国政の運営を目指したのである。もともと上皇とは、本来生前に次の天皇に譲位した者に与えられる尊称であり、正しくは太上天皇という。その歴史は古く、文武元年(697年)に、時の女帝持統天皇が初めて太上天皇におなり遊ばしている。以来幾人かの上皇が歴史に登場することになるが、その中で、もっとも権勢欲に囚われたのが、鳥羽帝の父、白河上皇だった。自分の意のままにならぬのは鴨川の流れと賽の目と叡山の僧兵のみ、と豪語したこの絶対権力者は、天皇の窮屈な立場を捨て、実子鳥羽帝をわずか四才で位につけて、初めて上皇として権力を掌握したのである。以来、院政と言えばこの白河院の辿った道を踏襲する政治形態を指す様になった。だがこの権力の二重構造、即ち新しい院という力と、旧来の天皇中心の権力は、天皇が成長して自らの手腕を発揮したいと望むとき、かつてない危険を惹起する諸刃の剣を都に埋め込むことになった。
 崇徳天皇は、白河院の後を受けて自ら院政を開始した鳥羽院の子として、お飾りに即位させられた。そして即位後18年で、その危険が表面化する前に異母弟の体仁(近衛天皇)への譲位を強要され、近衛帝崩御の後は更にもう一人の弟雅仁親王へ帝位は移り、確実に権力の中枢から遠ざけられていった。そして頭上の巨大な岩石であった鳥羽上皇が遂に見罷った保元元年、権力の奪還を目指して弟後白河天皇に戦いを挑み、平清盛、源義朝ら武士勢力の結集に成功した後白河方に敗北、讃岐に流されたのである。つまり崇徳帝は、この平安後期に生まれた「院政」という新しい政治形態に翻弄され、その犠牲となって果てた天皇の一人であった。
 だが、崇徳院の物語は、実にその死後にこそ大きなうねりとなって、歴史の歯車をきしませ続けることになる。既にその悲劇的生涯が世人の同情を買うに充分なものがあったが、それを爆発的に増大させる事件が起こった。安元三年(1177年)と翌治承二年に相次いで都を襲った、大火災である。
 もともと崇徳帝は百人一首にも御詠歌が採り上げられるほど歌に堪能な文人天皇であり、後に承久の乱を起こす後鳥羽上皇のように、自ら剣を取って武士に号令するような豪傑めいたところはない。あの保元の乱も、長年の積もり積もった怒りをぶちまけた癇癪のようなもので、終わってしまえば存外さばさばしたものがあった。更に、当時の権力者には珍しく、乱を起こした反省と自分の無謀な試みのために亡くなった戦死者を哀悼する、情細やかな面もあった。その心が高じて、流刑地の讃岐に置いて、三年の歳月をかけ完成させたのが五部大乗経の写経である。天台宗の大乗教典である五つの経を書写する、というのは、その膨大な量を考えても大変な労力を要し、それ故にその功徳も絶大なものがあるとされていた。崇徳上皇は、この功徳をもって、自らの浄土への転生と、戦死者達の弔いを願ったのである。ようやくそれを書き上げたとき、崇徳院は既に後白河帝への恨みを忘れ、ただ極楽往生を静かに願う御心を起こされたに違いない。その御心のままに、この経をしかるべき寺に収めて供養を頼むために、つてを頼って都に送りつけた。が、これが程なくして讃岐の配所まで送り返されてしまう。当時後白河帝第一の側近であった信西が、「帝への呪詛が込められている疑いあり」としてそのまま突き返すことを強行に主張したためである。この事件はさすがに都人の非難を買った。崇徳院が怒りの余り送り返された経文に、自分の血で呪詛の言葉を書き連ね、海に投じて竜王に捧げた、というような話がまことしやかに囁かれ、その後崇徳院は爪も髪も切らず、生きながら天狗におなり遊ばした、と人々の噂は尽きなかった。
 そして、崇徳院の復讐が始まった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.義経 鬱屈 その4

2008-04-13 20:06:15 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
  後に「太郎焼亡」「次郎焼亡」と名付けられたこの大火災で都の大半が焼け野原となり、朝廷も、天皇の即位など重要な儀式を執り行うための大極殿を初めとする多くの建物が失われた。この時、都の人々は、天をも焦がす勢いの紅蓮の炎と猛烈な黒煙の中に、確かに幾百とも知れぬ異形の者共が飛び回るのを目にしたという。後にこの火災に愛宕山と比良山に棲むと言われた天狗の名が冠されたのも、これが天狗と化した崇徳院の怨霊の仕業であり、あの火災の中暴れていた者共こそ、大魔縁崇徳院の下知を受けて火を付けて回った都近辺の天狗達だと信じられたからであった。以後、全ての政変、天変地異が崇徳院の怨霊の仕業とされ、その最大の原因を生み出してしまった後白河法皇は、否応なくこの怨霊との対決を余儀なくされていった。
このたびのにわかな宮移しも、後白河院を夜毎襲う悪夢に促されたためのこと、と義経も話には聞いた。既に朽ち果てた堂の前に立ち、義経は崇徳院の怨霊について物思いにふけた。流浪生活の厳しさは、自分も幼少時から舐めた辛酸で知り尽くしている。また、自分を正しく評価されない悔しさ、信じていたものに裏切られたときの怒りも、今の義経には良く判る。
 鏡が遷された先は、かつて保元の乱の戦場となった春日河原である。それはそれで崇徳院と縁深い土地ではあるが、その場所で院のお気持ちは癒されるのであろうか。それに、始めに宮が営まれたこの場所はどういう意味があったのであろうか。この土地と崇徳院の関係は、少なくとも義経の耳には届いていない。あるいはここへ鏡を納めたという、崇徳院の愛妾と何か関係があるのだろうか? 義経はしばしの間そんな物思いに耽り、答えのでない問いを繰り返した。
 しんしんと音もなく雪が降り続ける。じっと立っていると、黒毛の愛馬も白馬に変じ、身も雪の彫像と化してしまいそうである。さすがに酔いも醒め始め、同時にぶるっと寒気を覚えた義経は、物思いを収めて今日はここまでしよう、と馬首を返した。
「御曹司、お待ちなさい」
 冷たい空気が、リン、と音を立てたように義経には聞こえた。思わず視線を落とした先に、一人の女が立っている。かぶっている市目笠が雪で真白く埋まりつつあるが、その内の顔は、暗いせいなのかしかと確かめることが出来なかった。もしや変化ではあるまいか。かつて、ご先祖である源頼光四天王の一人、渡辺綱が、この都で絶世の美女に化けた鬼に出会ったと言う。ただでさえこの夜更けの雪の中、都をはずれた鴨川の対岸に女が一人で立つなど、およそあり得る話ではない。義経は油断無く腰の刀に手をあてがうと、相手を威圧するように鋭く睨み付けた。
「何者だ。狐狸妖怪の類なら容赦せんぞ」
「おおこわい。さすが世をときめく五位判官殿であらっしゃる」
 女は手を顔の前にかざして恐れの色を作って見せたが、その動作ほどに義経を怖がっているようにも見えなかった。むしろおどけたような軽い動きで、くっくっ、とくぐもった忍び笑いさえ聞こえてくる。
「お察しの通り私は普通の女ではありませぬ。ですが、御曹司を害そうと言う気もございません。その腰に添えた怖い御手をお離し下さいませんか?」
「一体何の用だ」
 その様子に義経も少し警戒を解いた。いずれにせよ、今すぐ襲いかかってくる様子もない。すると、女は安心したのか、再びまっすぐ義経を見上げて言った。
「用と申しますのは、御曹司、貴方の閉じたご運を開いて差し上げようと思いました次第でございます」
「私の運? 何のことだ」
「これはおとぼけでいらっしゃる」
 ほほほ、と笑う女の嬌声を耳にしながら、義経もついおかしくなって笑みをこぼした。全く、この自分の苦境など、都に住む者ならば三才の童でさえ知っていることだろう。とうとうそれが、妖怪変化の類にまで聞こえたかと思うと、何か自嘲を通り越したおかしみを覚えたのである。
「ふん、いかにも今私の運は塞がっている。だが、それもそう長くはあるまい。遅くとも年明けには開けてくることもあろう」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.義経 鬱屈 その5

2008-04-13 20:06:09 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 義経の物言いはけして根拠のないものではない。現に範頼率いる所の平氏追討軍は、既に四ヶ月にもなるというのに未だにはかばかしい戦果が挙がらず、長門国に立ち往生していた。平氏が瀬戸内海沿岸を利用して山陽道に重深陣を敷き、足止めを試みる一方で、船を使って後続の兵糧その他を焼き払うなどの後方攪乱に徹したため、範頼軍は身動きがとれなくなっていたのである。やっとの思いで敵軍の所在を掴んで攻めかかれば、瞬く間に船で沖合いに逃げてしまうという、これまでの平氏にはなかった自在の進退ぶりに範頼は翻弄され、与力の諸将も戦いに倦んで単独で引き上げにかかる者も出始めている始末だった。こうなればやはり戦は義経、と言う声が挙がるのも当然で、後白河院からもしきりに鎌倉に向け義経を出すよう陰に陽に工作がなされている。それを考えれば、いずれ近い内に義経へ平氏追討を命じる頼朝の声がかかるのは必定と思われた。
「ですが、それで御曹司は平氏にお勝ちになれるつもりですか? 舟戦ではいかに御曹司と言えども平氏には及びますまい」
「確かに海上では相手に一日の長がある。だがこの一年で我らも紀伊熊野の水軍衆を味方に付けているし、四国の強者共の中にも平氏に従わぬ者もある。そなたが申すほど我らに分が無いとも思えぬ」
「それは結構にございます。でも、相手には御曹司もご存じ無い想像もされぬ力がございますよ」
 想像もしない力? 義経は首をひねった。確かに平氏の戦力は未だ侮りがたいものがあるが、その力の程は一ノ谷で充分掴んだ積もりである。もしや、範頼軍の不甲斐なさに一度はこちらになびいたはずの各地の大名小名共が、また平氏の方になびこうとしているとでも言うのであろうか?
「いえいえ、御曹司が想像なさるような世俗の力ではありませぬ。我らのような者こそが持つ力」
「お前達?」
「そう。妖しの者だけが持つ闇の力。その中でも飛び切りの強い力が、平氏方に付いておりまする」
 妖しの者だけが持つ闇の力? 確かにそれは義経には想像の埒外にあるものだった。だが、それが何ほどのことがあろう。平氏は既に厳島明神の神明にも放たれ給う一方で、こちらには八幡大菩薩のご加護がある。あるやんごとなき方の夢見によれば、藤原氏の氏神春日大明神や宮家の御祭神天照大神も平氏を亡ぼすことで話がまとまったそうだ。そんな平氏に力を貸すような酔狂がいるというのだろうか?
「そう、神々はもはや平氏を助けはいたしますまい。ですが、平氏に付くのはそんな神をも凌駕する途方もない力なのです。これを前にすれば、いかに八幡大菩薩のご加護を頂く御曹司と言えども、手もなくひねられることになりましょう」
「おこなることを申すな。妖しの力如きが、我が八幡大菩薩のご威光に敵うはずがない!」
 義経の怒りに、女はまたほほと口元に手を当てて笑い声をたてた。
「そうお怒りなさるな。ですが、私が申したのもまた事実」
「まだ言うか」
「まあ御聞きなさい、御曹司」
 思わず手にした刀の柄から、義経は今一度手を離した。だが、次にまた世迷い言を並べるようなら、容赦なく切り捨てる積もりである。それを知ってか知らずか、女は少し口調を改めて義経に言った。
「御曹司のおんため、その力を確実に破る策を授けて進ぜましょう」
「そんなものが要りようとも思えぬが、まあ申してみよ」
「この社の正面、川を渡った向こうに、ある小路が一本、西に向かって伸びておりまする。御曹司にはここからまっすぐ川を渡り、その小路に上がってひたすら西へとお駆けなされ。さすれば、やがて正面にさる神社が現れまする」
 義経は少し首を傾げた。
「この対岸というと、四条大路の辺りよのう。その近くの小路というと、北の錦小路か、南の綾小路か・・・」
「さすがによくご存じですね。お察しの通り、綾小路になります」
「だが、綾小路の末に神社など、わしは知らぬぞ」
「いえ、普段は人目に付かぬようある力で隠れているだけで、社は確かにありまする。その名も夢神社」
「夢神社?」
「そうです。その鳥居をくぐって正面の社殿の奥に入るのです。そこに、まっすぐ東に向けて弓と矢が据えられております。実はそれこそ、かつて都を騒がせた鵺(ぬえ)なる物の怪を射貫いた弓と矢でございます」
「何? 鵺だと! するとその弓矢はまさか・・・」
 女はにやりと笑みを浮かべて頷いた。
「そう。御曹司のご想像通り、その弓矢こそ、若かりし時の源三位入道頼政様が手になる破魔の弓矢にございます」
 頼政公の弓矢! と義経は顔色を変えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5.義経 鬱屈 その6

2008-04-13 20:06:02 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 源三位入道頼政。保元、平治の乱で衰運極まった源氏のうちで、ただ一人平家全盛の都にあって公卿の座にまで成り上がった才人である。また武勇にも優れ、安徳帝即位で湧く都の内で、不遇の皇子以仁王を奉じ、最初に平氏へ反旗を翻した源氏の老雄であった。
 さて頃は応保(1161~63年)年間。深夜の宮中に鵺と呼ばれる怪鳥が現れ、時の二条天皇を悩ませた。朝廷では、有徳の大僧正や陰陽師等を集めて調伏を試みさせたがどれも効験現れず、夜毎鵺のあざ笑うが如き怪音が内裏の障子を震わせ、人々の肝魂を障子同然に震撼させた。そこで朝廷は、藁をも掴む思いで、勇者として名高い源頼政に鵺退治の勅命を下した。当時の貴族の感覚として、命を的に弓矢を撃ちあい、刀剣で争う武士という存在は、ほとんど鵺と変わらぬ異質の生き物であった。故にこそ、普通の調伏法では効果のない鵺にも、いわば毒をもって毒を制するの理で効果があることだろう、と発想されたのである。
 謹んで拝命した頼政は、三日の潔斎の上、五月二〇日の深夜に宮中紫宸殿の階の下に身を潜めた。やがて三条の森よりおどろおどろしくも流れ出てきた黒雲が御殿を覆い、鵺の鳴き声が木霊したと思った途端、頼政は手にした弓矢をひょうつばっ! と放ち、見事鵺を射落としてその名を天下に轟かせたのである。その由緒ある破魔の弓矢が、綾小路の西の果てにあるという夢神社なる社に奉納されているというのだ。義経は俄然興味を抱いて女の言葉に聞き入った。
「御納得いただけましたか? では御曹司には、必ずその弓矢を手に入れ、次の戦いにお持ち下され。さすれば、たとい神をも超える力と言えども、何も恐れる必要はありませぬ」
 義経は思った。今更そんな力を恐れるつもりはないが、ただ一人都で平氏打倒の兵を挙げ、この戦乱の口火を切った源氏の大先達が残した神弓と神矢があるというなら、是非一度見てみたい。
 もちろん面識はない。義経が都にいたときはまだ幼かったし、仮にその時分会う事があったとしても、義経の方には記憶に残る事はなかっただろう。どうせ自分ももう宿所に帰るつもりだったのだ。ここは一つ、帰るついでにこの怪しげな話に乗ってみるか・・・。
「ここから、すぐにまっすぐ行かねばならぬのか」
「そうです。だがご心配めさるな。川は何の苦労もなく渡れます。御曹司にはただひたすら西に向けて馬を走らせなされ。ただ、絶対に手綱を緩めぬ事。馬の息が上がろうとも、ひたすらに駆けるのです。さすれば、神社の方から御曹司の前に姿を現しましょうぞ」
「判った・・・」
 義経は、白い闇に閉ざされたはるか西を見据え、馬首を巡らせた。
「一つだけ聞きたい。何故その様にわしに肩入れする? お主、何者じゃ?」
「この辺りに巣くう一介の狐とも、鞍馬山の天狗の一人とでも、お好きなように思し召せ。いずれを取りましても、さしたる違いはありませぬ。あえて申せば、その三位入道殿といささかご縁がありまする」
「そういうお主が鵺なのではあるまいな」 
 ご冗談を、と笑う女が浮かべた冷や汗は、義経には遂に見えなかった。
「まあよい。本当に弓矢が手にはいるなら、素直に礼を申そう。では参る」
「御武運を」
 女は初めて笠を取って義経に頭を下げた。再び上がった顔に、義経は一瞬だけはっとなった。
 美しい。情人の静と比べても、おさおさ見劣りしない美しさだ。だが義経はすぐに目を上げた。今は何といってもその弓矢を手にすることだ。女は、つい先日、屋島の仮御所で平氏御曹司に向けたのと同じ笑顔を形作り、颯爽と駆けだした義経の後ろ姿を満面の笑みで見送った。
 
 いつになく遅い帰りをじりじりとして待っていた伊勢三郎義盛は、夜も白々と明け始めた時分にようやく戻ってきた主の顔が蒼白に抜けていることに驚いた。
「殿! 一体こんな雪の夜に馬を召すなど、尋常ではございますまいぞ!」
 だが義経は、顔色ほどには乱れのない足並みで第一の側近の前を通り抜けると、身に積もる雪を乱暴に払いのけ、弓を肩からはずしてどっかりと腰を据えた。
「心配ない。それよりも熱い湯を持て。すっかり身が冷えてしまったわ」
 義盛は、早速宿直の者に下知して、湯の用意をさせた。
「殿、まずは奥にてその濡れたお召し物を替え給え。ん? 殿、その弓はいかがされたのです? また随分と古そうな物ですが」
 ここで初めて、義盛は主が肩からはずした弓と矢に気が付いた。いつも義経が愛用する重藤の弓ではない。随分と薄汚れているばかりでなく、まるでその辺の木の枝を折り取り、そのしなりに弦を張ったようななりをしている。一緒に置かれた矢筒の矢も、恐らく一二束に足りない随分と短い矢だ。矢羽も既にぼろぼろで、元がどんな模様の、何の羽だったのかも窺えない。これでははたしてまっすぐ飛ぶのかさえ怪しい代物だ。だが義経は、義盛が触ろうとする手をはねのけ、義盛が初めて聞く荒々しい声で言った。
「触るな! 家人にも良く言いつけておけ!これに触れた者は、委細無くその場で斬る!とな」
「は、はい・・・」
 義経はようやく湯を持ってきた宿直の部下にも厳しい視線を一閃させると、その湯呑みを荒々しくひっつかみ、そのまま奥に消えた。後に残された義盛は、ただ呆然と見送るばかりであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.顕姫 繚乱 その1

2008-04-13 20:05:33 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 二人にとっては、久しぶりの都であった。日本第一の都市であるだけに、連年の飢饉や戦災にも関わらず、もう夜も更けるというのに大路小路は人で溢れかえり、その活気はまさに屋島の比ではない。だが、二人の胸に懐かしさは微塵もなかった。主と共に都をあとにして以来、二人にとってここはただ過去だけが埋まる通過点に過ぎなくなったのだ。
 くすんだ緋の打掛けに市目笠姿の色葉と、すり切れた狩衣を身に纏った匂丸は、折からの強風に砂塵が舞い、妙に生暖かく冬の気配が失せた東京極大路を、まっすぐ北に向けて歩いていた。夫婦連れ、と見るにはまだ余りに若い二人だが、その様子は子供子供もしていない。ちょっと見にはやや身分のある者の所で使われている童女と童子、と言う所だろうか。まあ、京の町中ではごくありふれた一組に過ぎず、道行く人の目を引くこともない。
 五条大路を横目で見ながら、二人は更に北を目指す。目的地はもう目と鼻の先だ。そこから今度は西に向きを転じ、あとはわき目もふらず走る。二人は、なるべく人目に付かないように気を配りながら、五条大路より三本北に上がった一本の小路で向きを西に変えた。
「行くぞ伊呂波。遅れるなよ」
「仁保平こそぐずぐずしてると置いていくよ」
 互いに一言掛け合って、二人はまっすぐ真西に顔を向けた。一旦呼吸を落ち着かせ、地面を軽く二度三度と蹴って、足裏のかかりを確かめる。そして、ひのふのみ、と調子を合わせ、二人は同時に全速力で駆け出した。通行人の何人かが唐突に走り出した二人に驚いた様子を見せたが、その後ろを「この盗人待て!」と言いつつ追う輩もいないことを確かめると、また何事もなかったかのように歩いていった。
 二人は巧みに通行人を避けつつ、ただひたすらに走り続けた。瞬く間に富小路、万里小路を続けて渡り、かつて、平重盛の館であった綾小路亭の前を駆け抜けて、東洞院大路を横切った。既に一六〇丈(約480メートル)余りを全力疾走しているというのに、この男女の足の速さは一向に衰える様子がない。更に烏丸小路、室町小路と走り過ぎて町尻小路の辻神の祠前まで進んだところで、ふっと二人の姿が道から消えた。軽く、一陣の風が道ばたの草の葉を揺らし、町行く人々の頬をなでたが、すぐに猛烈な風が東から巻き起こり、一瞬辺りを霞ませるほどの砂埃がたって、二人の走っていた気色をすっかり拭き去ってしまった。
 二人は、まだ綾小路を疾駆していた。だが、あれほど雑踏に溢れた道に人々の姿はなく、ただ人気のない街路が、ただ真っ直ぐ西に向いて開けるばかりである。あれほど難渋した風も、嘘のように静まり返り、二人は、ただ自分達が地面を蹴り、耳元で風切る音だけを聞きながら、更に足の運びを速めた。一気に中央を貫く幅二四丈の朱雀大路を渡りきる。そこから先は、京中でも開発が遅れ、まばらな宅地よりも畑の方が目立つ右京になる。ともすれば畑が道を浸食し、小路とは言え四丈(12メートル)の幅を持つ綾小路が、ほんのあぜ道ほどに狭まる所もある。だが、二人はそんな道路事情の悪化もいとわず、ただひたすらに走り続けた。やがて、前方に一つの鳥居が見えてきた。ちょうど綾小路そのものが参道であるかのように、正面で道をまたいでいる。更にその奥にこじんまりとした社が一つあった。鳥居に掛かる扁額にはただ一言、「夢」と書き付けてある。ここまで辿り着いて、二人は初めて足の運びをゆるめた。二人は軽く息を整えて社殿の前で立ち止まったが、額にわずかな汗を浮かべるだけで息一つ切らせているわけでもない。全力で一五〇〇丈もの距離を走ったというのに、まるで疲れを見せないのは驚異を通り越して異質な戦慄を覚えさせるものがある。その異様さの本質を知る者は、現世に置いてはただ三人しかない。夢御前麗夢、その想い人四位少将平智盛、そして智盛の側近築山公綱の三人だけである。都落ちの一日を通じて、この五人は、誰に知られるわけにもいかない秘密を共有する仲になった。今二人が屋島を離れ、遠く都の、既に過去の遺物となってしまったはずの夢神社に詣でたのも、この五人の和を乱そうとする悪しき力の存在をかぎ取ったからである。
「相手はこれまでよりも遙かに調伏の難しい強敵となりましょう。力を隠蔽するのもうまく、私でさえこうして舞を舞い、心を澄ませて探りを入れても、はたしてどこにいるのかさえ感じることもできません。ですから、くれぐれも・・・、智盛様と公綱殿には気取られぬように」
 何故智盛の名前の前で、珍しくも口ごもったのか。色葉と匂丸は僅かに不思議な思いに囚われたが、これから相手する事になる敵が、恐らくはあの夢の大老さえ凌駕する強敵になろうという主の予測への驚愕で、すぐに忘れてしまった。目を丸くした二人に、主は伏せ目がちなやや暗い顔で言った。
「頼みがあります。夢神社の様子を確かめてきてはくれまいか? どうも嫌な予感がするのです」
 いつになく沈み込んだ様子の主を気遣いつつも、二人は主の言うままに、ここ夢神社まで出向いてきたというわけだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.顕姫 繚乱 その2

2008-04-13 20:05:28 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 夢神社とは、かつて夢守の拠点として栄えた、綾小路の末にある夢の聖域である。だが今は、やむにやまれぬ事情を抱えて迷い込んだ人々に、救いの手を差しのべていた昔日の栄光はない。ただ、大老亡き後も、未だ浄域として魔や邪の存在を許さない神秘的な結界が張り巡らされ、社に残されたただ一つの神宝を護っているはずであった。
 早速匂丸は目をつむって鼻をつきだした。目よりも鼻で嗅ぎ取る方が、はるかに匂丸に豊穣な色彩を見せるのだ。そうして匂丸があちこち嗅ぎ回る内に、色葉は笠を取って真っ直ぐ社殿に付けられた段を上がり、その扉を開けた。ほとんど明かりらしい明かりもなく、ただ真っ暗としか見えない中を、二つ並べた宝玉のように目を光らせて一瞥する。そのまま社殿の奥まで進んだ色葉は、やがて、麗夢が自分達をこちらにわざわざ派遣した理由を知った。
「ちょっと! 仁保平こっちに来て!」
色葉に呼ばれて匂丸も社殿に足を入れた。そして、また続けて鼻を鳴らした匂丸は、暗闇の中、目だけをきらりと輝かせて色葉に言った。
「もう大分前になるようだな。だが、はっきり残っているぞ」
「誰か判るかい?」
「ちょっと待て、確かこいつは・・・、そうだ! 一ノ谷で嗅いだことがある。智盛様の傍らにいたときに、数ある源氏の奴らでただ一人、やたらと強烈な気をまき散らしていた奴がいた。そいつの匂いだよ。名前は・・・、義経。源九郎判官義経の匂いに違いない」
 残り香から匂丸は色々な情報を読みとることが出来る。冷え冷えとした雪に埋もれたこの神社に、全身を牡丹雪で装った小柄な騎馬武者が走ってくる。社前で降り立ったその男が無造作に社殿の扉を開け、やがて、中央に東へ向けて引き絞られていた古い弓と矢を手に取ると、乱暴に扉を閉めて一目散にまた東に向けて去っていった・・・。
「義経? なんでそんな奴がこの場所を知っているのさ?」
 想像もしていなかった名前に、色葉も困惑の色を隠せない。匂丸もその気持ちは同じだが、だからといってここでそれを二人で言い合いしても答えが出るはずもなかった。
「判らぬ。だが、確かに奴はここに来て、ここの弓矢を持ち去ったんだ。・・・いや待て!」
 匂丸は更に丹念に辺りを嗅ぎ回り、もう一つの、幽かな匂いを捕まえた。だが、その匂いが誰か思い至った時、匂丸は、義経の時とは比較にならない驚愕に、暫し言葉を失った。
「そ、そんな、信じられん」
「どうしたの?」
 顔色を変えた匂丸を、不審げに色葉がのぞき込んだ。
「妾の匂いを嗅ぎつけたのでしょう」
 はっと振り返った二人は、鳥居の真下に一人の女が立っているのを見て仰天した。
「お前、顕姫!」
「たかが白拍子のお付きの餓鬼に、呼び捨てにされるとは、妾も随分舐められたものじゃ」
 だが、言葉とは裏腹に、唐突に現れた顕姫は、さもおかしそうに右手で口元を覆い隠し、社の中の二人に目を細めた。
「貴様! この神域にどうやって入ってきた!」
「妾に行けぬ所はないぞよ。御所でも、唐天竺でも、智盛殿の寝所でもの」
「何だと!」
 ほほと高笑いする顕姫に、二人はかっとなって社殿を飛び出した。
「貴様が出て来てから、姫様と智盛様の仲がおかしくなったんだ!」
「義経にここの弓矢を渡したのも貴女ね?! 何が狙いなの? 正体を現しなさい!」
 歯をむき出しにして迫る二人の迫力を、顕姫は余裕で受け止めた。
「正体を現すのは、お前達であろ? 隠している醜き獣の姿を現してはどうじゃ?」
 二人は同時に顔色を変えた。何故この女はそんなことまで知っているのか?
「知りたいか? 妾のことが。ならば付いて参れ。鳥辺野で躯をさらす前に、せめてそれくらいは教えてやらう」
「何を!」
「待て!」
 二人は、袖を翻して神社を後にする顕姫の背中に、脱兎の勢いで飛びかかった。だが、つかんだ!と見えた瞬間、顕姫の体がふっと消え、色葉と匂丸は思い切り互いの頭を打ち付けた。目に飛んだ火花でしばし視界を奪われた二人を後目に、顕姫の体は遙か十間以上も先を歩いていた。
「ほほほ、随分とのろまじゃのう」
 顕姫はちらりと振り向いて嘲笑を振りまくと、何が起こったのか理解できずに涙目で見送る二人を残したまま、滑るように歩き出した。
「いてててて、大丈夫か? 伊呂波」
「ええ、それより一体何があったの?」
 色葉も涙目で匂丸を見るが、今は痛みよりも目の前の不思議に気を奪われている。匂丸は前をゆるりと歩く緋の打ち掛けを睨み、色葉に言った。
「次は俺一人で飛びかかる。お前は少し離れたところで、一体何が起こったのかしっかりと見ているんだ」
 判った、と色葉が頷くのを合図に、二人は再び顕姫に迫った。今度は慎重に、と狙いを定め、追いつく少し前で、一気に足の運びを加速した。咄嗟にかわそうにも絶対に逃れることの出来ない突進に、今度こそ顕姫も匂丸の手にかかったかに見えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.顕姫 繚乱 その3

2008-04-13 20:05:21 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 ちかっ!
 匂丸は、突然目の前で光が散ったのを感じた。目眩まし、と言うには微弱な輝きであったが、それでもその瞬間、匂丸は今にも掴もうとした緋色の袖を見失った。はっと気づいたときには、顕姫の姿は遙か一五間は先の道の上を、今までと何も変らない様子で歩き続けていた。
「どうだ! 判ったかっ!」
 顕姫の様子に気を配りつつ、匂丸はじっと猫の目で瞬きも堪えていた色葉に振り返った。
「判った。あのお姫様、影だわ!」
 色葉が駆け寄りながら匂丸に言った。
「影? どう言うことだ?」
「あのお姫様は、あそこにはいないのよ」
「いない?」
「どこか遠いところにいて、姿だけをそこに映しているんだわ。だから、こっちが追いかけても追いつけないし、咄嗟に飛びかかっても捕まえることもできない」
 どうする仁保平、と問いかけられて、匂丸は腹をくくった。
「どうするもこうするも、こうなったらあいつの言うとおり、付いていくしかなかろう? 鳥辺野に骸を晒すのはどちらか、行ってしっかりと教えてやらないと。でも、こうゆっくりでは埒があかないからな。お姫様にも、もっと先を急いでいただこう」
 幼さも残る顔に凄みのある笑みが浮かんだ。
「行くぞ、伊呂波!」
 匂丸は一声叫ぶと、脱兎の勢いで全速力に駆けだした。その後をほとんど同時に、色葉が追いかける。二人は今度は捕まえようともせず、そのまま体当たりしてはね飛ばす程の勢いで、顕姫に迫った。
「ほう? さすがは夢守最強の霊獣と言うわけか。もう気づいたと見える」
 ちらりと振り返った顕姫は、それまでとは様子が違う二人の走りを看取すると、自分も道行きを速めた。と言って、足の動きは相変わらずのんびりとそぞろ歩きを楽しむ風情である。それなのに、まるで宇治川の急流を落ちる木の葉のような勢いでせまる色葉、匂丸二人の全力疾走が、全く届きそうにない。やがて、顕姫は西京極大路に達すると、まだ歩みを緩めずそのまま鴨の河原へと降り立った。そこから鴨の流れの上を滑るように渡りきると、更に方角を左に転じ、今度は鴨川を北へ遡りはじめた。後を追う二人は、こちらはさすがに水音も立てず、と言うわけには行かなかったが、それでも一瞬鴨川の流れが止まったかと見えるほどにその流れを突っ切り、向かい側の河原へと駆け上がった。
「ここは確か・・・」
 二人は、そこにあるはずの社が失せ、すっかり土地が均されていることに愕然となった。ちょうど二〇年前、自分達の仲間である夢守の一人が、都に祟る大魔縁の力を抑えるため、この綾小路河原に小さな社を一つ建立したはずだった。その社が跡形もなく消えてなくなっているのだ。あの都を挟んで対面していた夢神社の弓矢は、もともとこの社にしまわれたあるものに狙いを定め、その盲動を牽制していたのである。それが、今や弓矢は失われ、社とその中にある悪しき力の源もどこかに消え去ってしまった。屋島で麗夢からその恐れを説かれ、都に戻り確かめるよう聞いたときには、まだ半信半疑だった。大老を失ったとはいえ、夢守の神域はそうそう簡単に犯せるものではない。その確信が、今目の前であっさりと覆されてしまったのである。
「急ごう! こうなったら何としてもあの女の正体を掴まないと!」
 匂丸の言葉に色葉も頷いた。見ると顕姫はまだ十間先をゆるゆると北に向かっている。こちらが速く駆けようが止まっていようがまるで変わらぬ距離を保つ様子が、何とも小面憎い。二人は怒りを新たにして再び猛然と駆けだした。こうして更に十二、三町も河原の砂利を駆け続けた頃、ようやく顕姫の足が止まり、その姿がくるりと二人の方に向けられた。
「あれ!」
 色葉がまず見つけ、匂丸も色葉の指さす先に、その建物を見た。まだほとんど汚れが目立たない、真新しい白木づくりの社であった。囲いをした神域も綾小路河原のそれとは規模が違い、随分と大きく、かつ広い。その鳥居の前に、顕姫がこちらを向いてにやにやと笑みを浮かべている。二人は、程なくしてその真ん前にざっと駆け込んだ。
「よう付いて参った。そなた等の遺骸は妾がちゃんと鳥辺野まで運んで仕わす故、安堵してあの世に参れ」
「随分と自信があるようだが、多少の術を使うからと言って女の身一つで我ら二人を相手にしようというのは、少々無謀が過ぎるのではないか?」
 匂丸の舌なめずりに、顕姫は大笑いを返した。 
「妾は一人ではない。そなた等二匹をしとめるのに過不足ない頭数を用意しておるぞ」
 突然、社の扉から幾筋もの光がの束があふれ出た。続けてその扉の留め具がすっとはずれるや、勢いよく扉が開き、中に収められていた一枚の鏡から、膨大な光が鴨川上空目がけて照射された。
「さあ、相手になって進ぜようぞ。なるべく妾を楽しませてくりゃれ」
 ほほほ、と嗤う声が天をどよもす大合唱となって色葉と匂丸を覆い尽くした。そこには、三十年前の合戦の時をはるかに凌駕する数を揃えた、顕姫の姿があったのである。手に手に大長刀を構えた顕姫は、色葉と匂丸を遠巻きに囲い込み、じりじりとその包囲の輪を縮めてきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.顕姫 繚乱 その4

2008-04-13 20:05:15 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 だが、少なくとも二人は慌てたり、ましてやおびえを見せたりすることもなかった。夢守を守護する者として、これ位の修羅場で音を上げていては、夢御前様に笑われようと言うものである。
「これは、確かに手こずりそうだな」
「でも急いで片付けないとね」
 二人は互いに軽く目をかわすと、にやりと笑って自ら枷をはめていた本来の力を解放した。
 突然、二人を中心に巨大な光が炸裂した。鏡から溢れる光が一瞬色あせるほどな光はすぐに薄れたが、既にそこには、愛らしささえ感じる男女一対の童の姿はなかった。
 無数の顕姫が上げた嗤いを、二つの異なる咆哮が、雷鳴のごとく切り裂いた。一つは小山のような巨大な体を漆黒の毛並みで覆い、盛り上がった前肢の筋肉とその先に生えた太刀そのもののような巨大な爪を河原に踏みしめていた。もう一つは、まぶしいほどな白銀の毛並みが、これもしなやかな筋肉と巨大な骨格を包み込み、牛なら一呑みにする程に大きく開いた口に、鋭い剣を無数に植え付けた様な牙が並んでいる。夢守を守る最強の霊獣、伊呂波、仁保平の真の姿が、辺りを圧する巨体と殺気を身に纏って、ここに降臨したのである。
「ほほほ、賢しげな餓鬼の姿を象るよりも、その姿の方が余程化け物然としてそなた等には相応しいのう」
 顕姫の群は、それぞれが長刀を思い思いに構えると、一斉に突進した。
『行くぞ伊呂波! 油断すなっ!』
『仁保平こそ、危なくなっても助けないからねっ!』
 声だけは人そのままに憎まれ口をたたき合う伊呂波と仁保平は、それが合図だったかのように、押し包む顕姫の群に踊りかかった。
 漆黒の颶風と化した伊呂波の強烈な一撃に、数人の顕姫がまとめて吹っ飛ぶ。仁保平は頭を低くして三人の顕姫を同時にその口へすくい取ると、容赦なくその得物ごと噛み砕いた。顕姫の群も鋭い切っ先を振るって伊呂波、仁保平に斬りかかるが、銀針の様な仁保平の毛並みに阻まれ、矢すら通さぬ伊呂波の強靱な皮にはじかれて、有効な一撃を与えることが出来ない。伊呂波、仁保平はただ前に立ちはだかる顕姫達を文字通り粉砕した。
「ほう、最強の霊獣というのは伊達ではなかったと見える。では、妾も奥の手を出そうぞ」
 いつの間にか輝く鏡を抱え、社前に立つ顕姫の言葉が終わる間もなく、その後ろから五匹の蛇が躍り出た。それぞれ胴回りが人一人では抱え切れぬほどあり、赤い舌をちろちろとのぞかせるその口は、仁保平のそれに匹敵する大きさである。二匹の霊獣は一旦足を止め、群がりたかる顕姫達を煩わしげに前足と尻尾でなぶりながら、地響きの如きうなり声を上げた。五匹の蛇も一斉に鎌首をもたげ、そこだけは真っ赤な口を大きく開けて、生臭い息を二匹に吐きかける。
 先に焦れて動いたのは、白蛇の方であった。
 空気を震わせる威嚇音も高らかに、二匹の蛇が純白の帯となって銀と黒の巨獣に襲いかかった。同時に二頭の霊獣も、まとわりつく顕姫達を蹴散らかして飛びかかった。伊呂波の、熊の張り手を思わせる前足が一匹の蛇の横面を打ち据えた。仁保平の牙が、突進する蛇の頭をかいくぐり、その首筋に食らいつく。蛇は胴体をくねらせながら仁保平に巻き付き、満身の力を込めて締め上げる。伊呂波吹っ飛ばされた蛇も、その尾を伊呂波に叩き付けた。そこへ、更に二匹の蛇が襲いかかり、伊呂波と仁保平のそれぞれの前足に噛みついた。顕姫の刃をはじき返した強靱な二匹の皮も、この蛇の牙には抗しきれなかった。たちまち鮮血が前足を彩り、伊呂波と仁保平に苦悶のうなり声をあげさせた。
「ほほほ、そろそろお前達も最後の時のようじゃな。では、約束通り妾のことを教えて進ぜよう。妾はもちろん人にはあらず。その本体は、かつて都で怪音を轟かせ、時の帝に祟りをなした、鵺じゃ」
『鵺だと!』
 仁保平は意外な相手の正体に驚いた。
『だが鵺なら、源三位入道頼政の手で射落とされ、うつほ舟に詰められて流されたはず』
「ほう、これは化け物のくせに意外と物知りじゃの。その通り。我はあの憎き痴れ坊主の矢に無念にも射取られ、霊木をくりぬいた中に押し込められて海に流された。じゃが、捨てる神あれば拾う神もあり。我が身は遠く讃岐の地に流れ着き、そこで新たな力を授けられたのじゃ!」
 讃岐・・・。仁保平はその言葉に不吉な予感を覚えた。
「ふふふ、気づいたようじゃな。そうじゃ。その蛇共はお前達には倒せぬ。これは我が主が三年の月日を費やして編み上げた、天台の教典、五部大乗経の化身よ。経文に抱かれて死ぬるとは、なかなかあり得ぬ功徳ぞ。心安う、極楽に咲くという蓮の花の上にでも転生するがいい」
「くっ! 五部大乗経に呪詛を込めて海に投じたという噂は本当だったのか!」
 顕姫は、にいと笑みを浮かべた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6.顕姫 繚乱 その5

2008-04-13 20:05:08 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「生きては万乗の君となり、お隠れの後は九萬八千五百七拾弐の神とその眷属九億四萬三千四百九拾弐の鬼類の頂点に立ちたもう闇の帝。その第一の従者たる我に刃向こうた、己が不明を恥じるがよい」
 顕姫の言葉が終わると同時に、既に絡みついている二匹の蛇の締め付ける力がぐいと増す。みしみしと伊呂波、仁保平の骨が鳴り、蛇の力に対抗した筋肉が、限界寸前まで張りつめる。
「ほほほ、義経は早や舟を出す。弓も矢も、もはや貴様等には戻ることはない!」
 そうだ! ただじっと二人のやりとりを聞いていた伊呂波は、ここに至った本当の目的を思い出した。夢守の力を込めたあの弓と矢を取り返すことこそ、自分達がここに至った一番の理由ではないか。
『仁保平、まだ大丈夫?』
『ふん、これくらいで音を上げてたまるか! お前こそそろそろ限界じゃないのか?』
『ふふ、まだそんな減らず口がたたけるようならまだ行けそうね。でも、このままでは弓矢を取り返すことが出来ない』
『だから何だ!』
 苦しさの余りつい短気になった仁保平に、伊呂波は言った。
『これからあんたを自由にするから、その自慢の足で海まで走るんだ。そして義経から弓矢を取り返すんだよ!』
『この俺に逃げろっていうのか!』
 仁保平の目に凄まじい怒りの色が炎(ほむら)立った。
『そうじゃない! 今、一番大事なのはこんな戦いじゃなくて、弓と矢を取り返すことだよ! それも一刻も争うんだよ!』
『それなら、俺がお前を自由にしてやるからお前が行け! 俺はこいつ等に背を向けるのは嫌だ!』
『もう! 私よりあんたの方が足が速いから御願いしているんじゃない! さあ、判ったらさっさと行きな!』
 突然伊呂波から閃光が発し、その巨体が消え失せた。二匹の白蛇は取り付いていた相手を失い、たちまちその白い胴体を絡めあった。抜くに抜けないまま互いの絞める力で互いの肉体を破壊するその僅かな隙を縫って、小さな影が飛び出した。女房装束の色葉である。色葉は軽やかな身のこなしで一回転して地に立つと、そのまま一気に鏡を持つ顕姫目がけ駆け寄った。これには顕姫も蛇達も意表を突かれた。顕姫の背後で控えていた一匹が猛然と襲いかかってきた時には、色葉は既に顕姫の目の前まで飛び込んでいたのである。
「遅いんだよ!」
 色葉は蛇に食いつかれて鮮血に染まった右腕を、顕姫目がけ振り回した。真っ赤な飛沫が宙を飛び、身じろぎもできなかった顕姫の、その抱える鏡に降り注いだ。
『伊呂波!』
 驚き慌てた二匹の蛇を振りほどき、仁保平も駆け寄ろうとした。だが、再び閃光を放って漆黒の巨獣と化した伊呂波は、きっと鋭い視線で仁保平を制した。
『早く行け! 仁保平!』
 そしてそのまま、ようやく態勢を整えて正面から襲ってきた白蛇と、絡まりあって地に落ちる。その前で、初めて焦りを見せる顕姫の姿があった。手にする鏡は初めの輝きがすっかり失せ、所々血が掛からなかったところから僅かな光を上げるばかりである。伊呂波は、あの鏡、夢守の弓矢が常に狙いを定めていた崇徳帝の遺品、八角の大鏡こそ、この顕姫の力の源泉であることを見破ったのである。その事を悟った仁保平は、ようやく冷静に自分の使命を思い起こすことが出来るようになった。
『判った。伊呂波、死ぬなよ!』
 対する伊呂波は、仁保平に目を合わせ、にやりと口元をゆがめて返事にした。後は頼む、とその目に読んだ仁保平は、たちまち身を翻して鴨川の流れに沿って走り出した。
「い、行かせてはならぬ! 者共、追え!」
 鏡の血を拭おうと躍起になっていた顕姫は、仁保平の動きに大慌てになって下知を下した。だがそれに応える顕姫の群は既にない。辛うじて、仁保平に絡みついていた二匹の蛇が、その後を追ってその鎌首を南に振った。だが、二匹はそこから一歩も動けなかった。
『行かせるわけにはいかないよ。ここで、もうしばらく私の相手をして貰おうか』
 伊呂波の両の前足が、しっかと二匹の蛇の尻尾を抑え付けていた。
「ええい! どうして取れないんだこの血は!」
 瞬く間に駆け去っていく仁保平の後ろ姿を見やりながら、顕姫はその袖を朱に染めて、鏡に付いた伊呂波の血をぬぐい取ろうと必死だった。
『そう易々とは取れないよ。下賤な獣の、呪いがこもった血だからね』
 その様子をちらりと見てあざ笑う伊呂波に、顕姫は怒り心頭に発して怒鳴りつけた。
「こうなったらその化け物をまず始末しておやり! どうせ今から急いでも追いつけるはずはない!」
『そう来なくっちゃ』
 伊呂波を振り払って仁保平を追おうとしていた二匹の蛇が、頭の向きを反対にしてその漆黒の巨体に躍りかかった。もう一匹も、既に巻き付いていたその体を一段と力を込めて締め上げる。こうして、三対一の新たな戦いが、幕を切って落とされた。
 
 その夜深更。眠りにつく都の人々の耳に、野分を思わせる強い風に混じって、獣ならぬ咆哮が漏れ聞こえていた。およそ一刻ほども続いたその咆哮は、やがて次第に静かになり、ついには聞こえなくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.義経 憤怒 その1

2008-04-13 20:04:42 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 元暦二年(1185年)二月一六日夜。
 源氏水軍の拠点、摂津国渡辺津の陣屋は、一種異様な緊迫の内にあった。
 出陣前というものは、参加する武将達の高揚した戦意が重なり合って、期待と恐怖の入り混じる、独特の雰囲気が充満するものである。ましてや勝勢にある軍勢では、その意気込みが炎だって見えるかと思えるほどに、心地よささえ覚える緊張感が全軍に漲っている。だが、今この陣屋を覆うのは、そんな空気とは明らかに異なっていた。その中心部、本陣の一家屋の中では、緊迫が波乱を含んだ険悪な色合いへと急速に変化しつつあった。
 二つに分けられた異なる色は、真ん中に、都から派遣された従三位高階泰径を置き、向かって右側に源九郎義経、左に梶原景時が、それぞれ頼みとする子息や近臣郎党を引き連れて気炎を上げていた。平家物語「逆櫨論争」の一幕である。だが、いかに源氏が舟戦に暗いからと言って、さすがに舟の進退を自在にするために舳先へも櫨を取り付けよ、などという、「平家物語」作者が創造した奇天烈な話をしている訳ではない。この場での話は、もっと深刻で、現実に差し迫った問題について互いに声を張り上げていたのであった。
 義経が平氏追討を後白河院に奏聞したのは、明けて一月一〇日の事である。鎌倉の頼朝は、三ヶ月悩みに悩んだ末に、是非なし、との苦渋の思いで、義経に平氏追討を命じるよう、院に申し送ったのである。それというのも、満を持して送り出した蒲冠者範頼の軍の形勢が、一向に芳しくないためであった。
 範頼率いる五万の兵は、三ヶ月かかってようやく長門国まで辿り着いた。だが、彦島に寄る平知盛の水軍に散々にあしらわれ、兵糧が底を尽く一方で、目的である九州への渡海は、まるで舟の調達が出来ないまま、むなしく日を過ごす有様である。範頼に付けられた諸将の疲労と士気の低下は著しく、頼朝に帰還を願う書状がひっきりなしに届く一方、範頼の不甲斐なさに腹を立てたご家人などは、陣を引き払って都まで戻ってしまう有様であった。
 事ここに至っては、頼朝も決断せざるを得ない。頼朝には、後白河院に取り込まれ、その掌で舞っている異母弟の知恵のなさが憎らしくてならない。このままではいずれ院の吹く笛のままに、自分に追討の兵を向ける日も訪れるやもしれぬ。頼朝はその点、都流の処世術を骨の髄まで知り抜いていた。かつて、自分が伊豆に配流されたあの平治の乱や、その前の保元の乱でも、貴族や上皇達は武士を骨肉相争う戦いに駆り立てる一方で、自らは蚊帳の外で収穫された果実を味わうのが習性になっているのである。この源平相争う戦乱も、元はと言えば平相国清盛の力が強くなりすぎたため、それを掣肘するためにこの頼朝を担ぎ出したに過ぎない。つまり、こちらが力を付ければ当然それを抑えようと動く。その役として、あの「大天狗」後白河法皇は、平氏に替わって弟義経を選んだのだ。そのことに気づかず、有頂天になっているとは、全くもって度し難い。とても平氏を討ち滅ぼして後、共に手を組んで世に立つ事など出来ようはずがない。
 肉親に情薄く、冷酷非情と後世称される頼朝ではあったが、その透徹とした怜悧な感覚こそが、京の都に互して、この鎌倉に武士の世を華咲かせる源泉となったと言えるだろう。後に幕府を開き全国の武士を統括する大政治家は、この時確かに遙けき未来を実感しながら、けして手元の事柄も、見落としてはいなかったのである。だから、目先に囚われる愚かさを理解もし、その理解によって感情を一時ねじ伏せる必要も知っていた。
 頼朝は決断した。手柄を立てるならそれもよし、とにかく事は平氏を亡ぼしてからだ。頼朝は自分の気持ちを先送りして、ついに義経へ平氏追討を命じたのである。
 頼朝の命を欣喜雀躍して受け取った義経は、引き絞られた弓が遂に放たれたがごとく、馬車馬になって戦の準備に邁進した。そして一ヶ月を経過したところで、必要な軍船をここ渡辺津に結集し、あとは纜(ともづな)を解くばかりと言うところまで持ってきたのである。
 ところが、今にも出撃、と言うところで思わぬ横槍が入った。昨夜から吹きすさぶ凄まじい風と雨である。群れ集う武士達の中には、日本海を発達しながら通過する低気圧に、傷がうずく古強者も何人かいたに違いない。後に、春一番として一般に膾炙(かいしゃ)される気象現象は、平均風速20メートルを超す突風を吹き荒れさせ、渡辺の津に集った多数の軍船を、片っ端から損壊させた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.義経 憤怒 その2

2008-04-13 20:04:36 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 当時の舟は、木を刳り抜いて作った舟形に、舷側を張り合わせた準構造船と呼ばれるものである。舟の末端には張り出しを設け、その上に立って櫓を漕ぐ仕組みだ。従って、後世作られるようになる竜骨を通した構造船よりも、遙かに脆弱で壊れやすい。それを狭いところに何百艘もつなぎ止めていたのだから、破損しない方が不思議であろう。それでも義経は、使用に耐える舟だけを応急に修理し、僅かな手勢でも出撃することを諸将に告げて、およそ肝の太さでは人後に落ちない面々を驚かせた。そこへ、義経の軍監として頼朝から付けられた梶原景時が、この出陣に待ったをかけた。老練でなる景時からすれば、このような嵐の中舟を出すなど正気の沙汰ではない。更に、従三位高階泰径を通し、後白河法皇までも、この出陣を一時見合わせるように勧告してきた。自然形としては、若い悍馬そのものの義経が猛々しくおのが主張を叩き付け、老練でなる梶原景時が切り返して諫止するのを繰り返すことになる。だが、いつまで立っても平行線のまま埒が明かぬ二人のやりとりが、次第に取り巻きの血の温度を高ぶらせた。双方とも既に主将の後で手に手に刀の鍔口に効き手をかけ、いつでも目の前の相手に日頃の丹念な手入れぶりを味あわせてくれんと身構えている。ほんの一瞬、誰かがくしゃみでもしようものなら、たちまち辺りは剣戟飛び交う修羅場と化したかに違いないほどに、爆発寸前の怒気が充満していたのである。間に立つ泰径とては、後白河院より託された自分の目的から言っても、何とか梶原方に与した形でこの場を仲裁したい。だが、無闇にここで口を開いては、お互いに目の前しか見えてない荒くれ者共の目がそのまま自分の方へ向くやも知れぬと思うと、一言半句も口を挟めたものではなかった。
 その内にも景時は、あくまで口調を抑え、また同じ事を義経に繰り返していた。
「御大将は出陣なさると言うが、我らが舟は昨日来の風で大方壊れ、修理なくしてはまともに海に浮かぶことすらかなわぬ。それにこの風、この波をどうなさる? とても櫂はこげぬし、帆を張ればたちまち水を含んで舟をひっくり返すに決まっている。今それ程に急がずとも、範頼君と呼吸を合わせて堂々と西下なされば、平氏の残りかすなど掌の間に挟んだ卵も同然、ただ一揉みに揉み潰せよう。それが判っていて何故にそうも無理をなさる」
 対する義経も、強硬な態度で自説を繰り返した。
「この風、この波で平氏の一党は絶対に源氏は出て来るまい、と油断しておるに決まっている。そこを突けばこそ、勝利は容易う手に入るのじゃ」
「そこを突く、と御大将は申すが、舟もなく波風も凌げずどう突くとおっしゃる」
「舟はある! 修理を急げば五艘でも一〇艘でも出せる舟はあるはずじゃ! それに、わしとて逆風に逆らって漕ぎ出せと言うほどおこではない。幸い今の風は追い風じゃ。これなら幾らでも凌ぎようがあろう」
「たった五艘や一〇艘でどれほどの兵が送れようか。せいぜい三〇〇騎を過ぎまいに。平氏は屋島に数千騎を集めているのですぞ。それにここは淀の河口で海からは一段も二段も奥まった所にある。その奥でさえ舟をこぼつ程に大風が吹きすさんでおる。外海へ出れば、波も風もこんなものではなかろう。それを凌いで無事四国までたどり着くなど到底不可能だというのが判らぬのか」
「判らんのは景時の方じゃ。送り出せる兵力が少ないからこそ、相手の意表を突く必要があるのだ! 波がなんだ。風がどうした? そんなもの、必勝の信念で乗り出せば、必ず四国まで到達できる!」
 景時は、何と度し難い若君じゃ、と心中苦虫を噛みつぶしながらも、なお根気よく説得を続けた。
「御大将が、そんな猪武者同然にただ突っかかるばかりでいてどうなさる。突くときは突き、退くときは退く。その呼吸を心得てこそ大将軍と言えるのですぞ。それも判らぬでは、いつか必ず命を落としましょうぞ」
「義経の戦に退くという言葉はない! 戦というものは、ただ平攻めに攻め勝ってこそ気持ちのいいものじゃ! それに、我が命は既に兄者たる鎌倉殿に預け奉っているのだから、今更あえて顧慮する必要もない。それとも景時は命が惜しいか? この期に及んで、命を的にする事が怖くなったのかこの臆病者!」
 この一言には、さすがに根気よく相手をしていた景時も顔色を変えた。
「この景時を、臆病者だと?」
「ああそうじゃ! 風が強いの波が高いのとぐずぐず言い訳してこの絶好の好機を棒に振るなど、臆病者でなくて誰がなしえようぞ!」
 思わず景時は、自分の右手が太刀に伸びそうになるのを懸命に堪えた。ここでこの若造を斬りつけるのは簡単だが、自分には鎌倉殿より申しつけられた大事な務めがある。景時は全身の筋肉を硬直させて心中荒れ狂う衝動を抑え付けると、今にも暴発しそうな後ろの若者達をきっと睨み付け、やっとの思いで口調を整えた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.義経 憤怒 その3

2008-04-13 20:04:29 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「御大将! この景時は鎌倉の大殿の命を受け、御大将の軍監としてお諫め申しておるのじゃ。即ち我が言は鎌倉殿の言も同じぞ」
 義経はせせら笑いを浮かべて、景時を嘲った。
「景時は、兄者の威を借る狐よ。おのが信念を披露するに、兄者の口を借りねばならんのか?」
 景時はこれにも耐えた。もはやまともな話など出来そうにない。ええい勝手にしろ! と口をついて出そうになるが、言うべき事を言い、すべき事をしてからでないと、鎌倉の大殿に負託されたこの分からず屋の面倒を、途中で放り出したとそしられるのも恥辱である。
「御大将、法皇の君もこうして泰径様をわざわざこの陣屋にお遣わしなさり、出陣を見合わせてはどうか、とのお言葉を賜ってござる。その有り難きお志を無碍にして何となさる」
 泰径は、自分の名が出た途端、さすがにびくりと心臓が高鳴るのを覚えた。だが、そこは交渉上手を院に見込まれて、高貴とは言い難い家の出ながら今や従三位の高位を賜った実力者である。九条兼実などから、「従三位の高位にありながらのこのこ陣屋などへ自ら足を運ぶとは・・・」などと嫌みを言われつつも、そのまめさがあったからこそ後白河院に引き立てて貰ったという自負がある。泰径は、院の代理としてここに来ているという威厳を表に精一杯あらわして、ともかくもまず胸を張った。
「梶原殿の申す通りじゃ。主上におかれても、此度の出陣には危惧を抱かれておられる。それに御大将ともあろう者が真っ先駆けて切りこもうなど、唐天竺まで求めてもそんな先例はあるまい。まずは次将をして遣わされ、しかる後大将が後詰めされては如何?」
 義経の背後で動揺のさざ波が揺れ動いた。だが、義経には、都一の実力者、後白河法皇の言葉さえ、まともには耳に入っていない様子であった。
「院には先に平氏追討を奏聞のおり、一念あって陣中にて一命を捨てる覚悟なることを申し上げてござる。それに、征旅にあっては君命も受けざるなき事はこれ兵法の極意。泰径様もこの義経の覚悟の程をご覧じあらば、源氏の必勝を信じ、主上にもご安心召されるよう申し上げていただきたい」
 義経は、さすがに相手の高位をはばかって口調だけは丁寧ではあったが、泰径が帯してきた法皇の意向は全く顧慮しようとしなかった。泰径ももうこれ以上の話し合いは無益だと悟った。口先三寸で、必ずや廷尉(えんじょう)の足を留めて見せまする、との院への約束をどう言い繕うか。既に関心はそちらの方へ向かいつつある。梶原も、ここまで言って聞かぬのなら、と腹を決めた。
「そこまでして行くといわれるなら景時これ以上止めようとは思わぬ。だが法皇の君の仰せも大殿に大権を負託されたこの景時の言葉も耳に入らぬとは、とんだ不忠者じゃ。こんな分からず屋の若造に、一体誰が付いていこうものか!」
 すると、それまでも充分に猛り狂っていた義経は、血走った両眼を飛び出さんばかりに見開き、吼えるがごとくに大喝した。
「黙れ臆病者! よいか! 風の波のと小うるさく逃げの一手を決め込む輩は皆ここから都に帰れ! 敵と組んで死ぬこそ本望と思う勇士だけが、わしと共に参るがいい!」
 本陣を取り囲むようにして居並んでいた大小名の面々が、一斉にどよめいた。その中で、源氏軍の中核をなす梶原一党の大所帯が、早くも足取り荒々しく陣屋を後に引き退く。それをみて、梶原に近い一部の大小名が、それぞれ手勢を引いてその場を立ち上がり、結局畠山重忠、熊谷直実、那須与一などに、義経子飼いの郎党、伊勢三郎義盛、佐藤継信・忠信兄弟などを合わせてほぼ一五〇騎ほどの軍勢だけが、その場に留まった。皆、義経神速の用兵に心服する大小名達であり、一騎当千を歌われる剛の者揃いである。義経は、その頼もしい面構えの数々にこれこそ源氏の名を辱めぬ勇者揃いぞ、と斜めならず喜び、早速出航の準備をせよ、と下知を下そうとした。
「殿、あいやしばらく」
「なんだ義盛、まだ何かあるのか?」
 やっと自分の思い通りになった、と有頂天になったところで水を差され、義経は自分が最も信頼する一二の郎党に不満げな声をかけた。義盛は、昨年一二月の雪の夜以来、激変した主君の様子に不安を抱いたまま、腫れ物に触る気持ちで義経に言った。
「今すぐ出られそうな舟は五艘あります」
「それは上々、ここにおる皆がすぐにも乗って出られるではないか」
 何をぐずぐずしている、行くぞ! と皆をせき立てる義経に、義盛は開きにくい口をもう一度義経に向けた。
「ですが殿、楫取(かんとり)達が、この波では到底沖に漕ぎ出すなど無理だ、と申しておりまする」
「何だと?!」
 たちまち義経の眉間に深い立て皺が何本も浮かび出た。あの雪の日以来義盛が何度も目にした、怒りの形相である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.義経 憤怒 その4

2008-04-13 20:04:22 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 少なくともあの日まで、義経は表だって怒気を発することはまずなかった。自分の貧弱な出自が、その様な我が儘を許さなかったからである。
 当時の武士とは、皆それぞれなにがしかの荘園を経営する一事業主であり、普段は自ら鋤鍬を振るうこともある農場の主であった。それにはもちろん規模の大小があり、梶原景時のように、古くから関東に根を張って大規模経営を営むちょっとした領主格の大名もいれば、その日の暮らしもかつかつで、人の荘園の代官などで世すぎせざるを得ない小名もいる。大名級になると自分の血族を中心に大規模な部隊を編成し、戦場に乗り出してくる。自分がそういきり立って活躍しなくても、一族郎党で手柄を上げれば、それは自分の手柄となって返ってくるのである。一方、今義経麾下にはせ参じた熊谷次郎直実などに代表される小名達は、そんな悠長に構えるわけには行かなかった。彼らにとって戦とはまさにのし上がるための夢の舞台であり、少々無理をしてでも手柄を上げて自分の所領を増やす努力をしなければならない身の上なのである。「一所懸命・・・一つ所に命を懸ける」と言う言葉は、決して後世一生懸命、などと間違えていい質のものではなかった。自分達の土地を命がけで手に入れると言うことは、彼らにとってまさに金科玉条そのものだったのである。「平家物語」に華々しい活躍を描かれる直実も、裏からみれば実はそうせざるを得ない追いつめられた立場にあるのだ。彼を初めとする小名達がこの無謀としか思えない四国遠征に名乗りを上げたのも、まさにそのためであった。だが、所帯の大きさを問えば、実のところ義経はそんな小名達にさえ劣る。位こそ五位検非違使尉と武士達の中では頼朝に次ぐ高位にあるが、自分の手足になって働いてくれる血族は一人もない。熊谷直実でさえ、息子一人を戦場に連れてくる「ゆとり」を持っているのに、義経にはそんな親子兄弟は一人もいない。また、直実でも戦が終われば帰る自分の所領があるのに、義経は全くの根無し草に過ぎない。それだけに、義経の器量に惚れて自発的に付いてきてくれる伊勢三郎のような男には、義経も一目も二目も置いて重用した。また、そんな人間が増えてくれるように、と自分の言動や振る舞いには注意を払い続けた。その努力と一ノ谷の合戦で見せた鮮やかな戦術の妙が合わさって、義経の虚像をいやが上にも名将に飾り立てていたのだった。
 だが、あの雪の日以来、義経は自分を抑えるのを止め、まるで怖いものなど何もなくなったかのごとく、意のままに振る舞いだした。そして、自分の希望が通らないときの癇癪のすさまじさは、これまで謙譲を人に固めたかのような日々を知る者にとっては、別人としか思えない荒れように見えた。
 それでも義盛以下がそんな義経をもり立て、俄に表面化した欠陥を露出しないように勤めたのも、一ノ谷以来義経が舐めてきた辛酸を知るが故であった。だがこの場での義経の振る舞いは、これまでそんな努力の末に営々と築き上げられてきた名声を、一挙に突き崩しかねない乱暴なものだ。待望の戦となれば少しは元の殿に戻られるか、と期待していた義盛は、かえって狂騒の質が悪化した主に、暗澹たる思いを禁じ得なかった。それでも義盛は義経に使えるしかない。自分の浮沈をこの戦の天才にかけたときに、他の選択肢は全て切り捨ててしまったのである。義盛は、意を決して義経に言った。
「楫取達の申し条はいちいちもっともかと義盛愚考いたしまする。せめて今しばらく、出撃を延期なされては如何?」
 すると義経は、燃えさかる怒りの火炎を今度は義盛に吐きかけた。
「義盛まで臆病風に吹かれたか! 楫取が何と申そうと舟を出させるのじゃ! 舟を出さぬならこの場で斬る! とこう言ってやれ!」
 そんな無体な、と一同はどよめき立ったが、言い出したら聞かない最近の主を知る義盛は、自ら太刀を抜いて震え上がる楫取達に迫ろうとする主を取りあえず抑え、同僚の和田兄弟に後を頼むと、楫取達の説得に向かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7.義経 憤怒 その5

2008-04-13 20:04:14 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 エイ、ホ、エイ、ホ、と数人の男達が調子を合わせる力強い声が響く。心なしか震えを帯びているように聞こえるのは、今にも舟を押し倒そうとするかのように吹き付ける強風と、巨岩のようにそびえ立ってはまた沈む、舟より大きな波のうねりのただ中にいるためであろうか。あるいは、時ならぬ追い風に日頃の船足の何倍もの速さで海面を疾駆する舟に、おののいているのかも知れない。
 結局義経と麾下一五〇騎は、五艘の舟に別れ、日も改まった一七日丑の刻に及んで、ようやく出航した。もちろん楫取、水手(かこ)達は、伊勢三郎義盛や淀の舟奉行江内忠俊が選び抜いた超一流の漕ぎ手達である。義盛は、職人としてこの天候に舟を出す危険を知り抜いている彼らをなだめすかし、義経の言うままに脅しもして、ようやく船端に立たせることに成功したのであった。だが、それもいつまで続けられるか心許ない。うねりはますます酷くなり、今にも舟そのものが押しつぶされてしまいそうである。熟練した楫取が、目ざとく波の合間を縫うようにして舟を操るおかげで無事でいるが、水手達の危惧するごとく、ほんの一瞬判断を誤れば、たちまち舟は膨大な水圧に押しつぶされ、武士と水手併せて四〇人が藻屑と消え果てることは必定であった。特に、東国武士は水が苦手で、まともに泳げない者も一人や二人ではない。まして月星も分厚い雲で覆われて、目に墨を流し入れたも同然の闇の中、吹きすさぶ風音と馬上では考えられないほどに動揺する舟中では、日頃怖いもの知らずで鳴る武士達も、ただじっと船底にしがみついてじっとしていることしか出来ない。だが、ただ一人義経だけは、水手達の詰める艫の辺りで、じっと闇の向こうを見つめていた。端から見れば、主将自ら難儀を極める水手達を督戦している様に見える。事実義経は焦っていた。もっと速く、もっと速く走れ! もっと速く! と、心の内で狂おしいほどに祈り、叫んでいたのである。
 義経には確信があった。「何か」が自分を追ってきている。この、大事な弓を取り返しにやってくる! 義経は昨夜来続く瘧(おこり)のようなこの不安感に苛まされ、とにかく早く四国に向けて出発する事で、それを解消したかった。時ならぬ大風に舟を打ち壊されて覚えたやりきれない怒りは、恐らく源氏の強者共の中でも、義経のそれが一番強かったことだろう。もしかなうことなら自分一人でも早舟を仕立てて出ていきたかった位なのだ。だからこそ日頃の君子ぶりもかなぐり捨て、源氏の重鎮、梶原平三景時に満座の中で恥をかかせる重大事を起こしてでも早期の出発にこだわったのである。だが、荒れ狂う海に出て安心したのも束の間、陸にあって覚えていた焦りは、今更に強く胸を圧迫して、義経を苛立たせた。
(一体何が来る? 何がわしを追ってきているのだ?)
 何かも判らない。何時来るかも判らない。だが確かに来る。その事だけが判っている。弓を握りしめる手が痛みを覚えるほどに力を込めたが、そんなもので不安は一向に解けなかった。義経は、ただじっと待つより無い。大風に身を晒しながら、ほとんど視界の効かない海を見つめ、それがやってくるのを待つほか無いのである。
 !
 それは、唐突に義経の背筋を戦慄となって駆け抜けた。波間にちらり、と、確かに見えたのだ。だが、水手達は舟のことに手一杯なのか、その姿を見た様子はない。義経ですら、普段なら確実に見落としていただろう。だが、今の義経は確信を持って「敵」の襲来を察知していた。あれは敵だ。射よ。射止めよ。おことなら出来る。たとえどのような化け物であろうとも、おことの弓と矢なら止めることが出来る。さあ射よ。射よっ!
「うぉおをぁう!」
 義経はこみ上げる激情のまま、体を支えていた手も舷側から離し、天に向かって咆哮した。そして、驚くべき平衡感覚で甲板に立つと、肩の弓を取り、左後ろに背負った矢筒から、一本の矢を取り出して弓につがえた。矧いだ鳥の羽も大方抜け落ち、まばらにまとわりつくだけになった古ぼけた矢は、早くも限界まで引き絞られた弓の弦に添えられ、その切っ先を海に向けた。さすがに何人かの水手が、この異変に気が付いた。御大将が何かを射止めようと弓に矢をつがえていなさる。中にはその矢が自分達に向けられたもの、と早合点して冷や汗にまみれた者もいたが、大方は矢の行く末を推し量り、遠い波間にその相手の姿を追っていた。やがて、誰かが叫んだ。
「ありゃあ一体なんだ?」
 真っ黒な波間に、銀灰色の輝きが映った。大きい。ちょっとした鯨くらいはありそうだ。水手達は見る間に震えて狂おしく櫂を操った。あれは天をも恐れない自分達を呑み込むために、竜王が使わされた恐ろしい海の魔物に違いない! などと思いのままに話を膨らませ、互いの想像に想像を重ねて、その恐怖の姿に恐れおののいた。だが、それもそう長くは続かなかった。
「うぉりゃあ!」
 義経は、波間にそれが映った、と意識するよりも速く矢を放った。その矢は、今にも舟に躍り上がろうとしていた巨体を、ものの見事に射貫いた。
「ぎゃあああぁあっ!」
 吹きすさぶ風をつんざいて、この世の者とも思えぬ凄まじい叫び声が海上を奔った。義経はがっくり肩を落とし、その場にへたり込んだ。これで安心じゃ。もう自分を追う者はない・・・。急に全身の力が萎えて、強烈な眠気が義経を襲った。義経は何とか起き上がると、他の武将達が震えながらへばりついている船底に、身を横たえるべく這っていった。水手達は、海の魔物をただ一矢で防ぎ止めた義経の技量と度胸に感動し、時に絶望したくなる心身を叱咤して、いよいよ力を込めて舟を操った。こうして義経主従一五〇騎は、通常三日かかるこの航路をたった一日半で乗り切る奇跡を現出させた。世上名高い屋島の合戦が、今始まったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする