確かに範頼は全軍を統率する大将軍として五万余の大軍を率い、生田の森から平氏本陣正面に攻め寄せていた。だが、結局義経の攻撃で平氏側が浮き足立つまで何ら為す術もなく、ただじっと戦いの行方を傍観していたに過ぎないのだ。もし義経の奇襲がなければ、一ノ谷の要害を利して平氏一の名将平知盛が構築した堅塁をいつまでたっても抜くことが出来ず、源氏頼み難し、とみた後白河法皇が、今度こそ本気で平氏との和平を実現させたに違いない。これでは、三〇年前の平治の乱における父義朝の恨みを晴らし、平氏に替わって全国の武士に号令しようと言う頼朝の願いも断ち切られる。いや、頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた希代の策謀家、後白河法皇の掌の上で、永遠に平氏との共存と競争を余儀なくされていたかも知れない。更にもっと恐ろしいのは、逆に鎌倉こそ諸悪の根元なり、と頼朝追討の宣旨が出る可能性すらあった。そうなれば、これまでただ静観を決め込んでいた北の奸雄藤原秀衡がどう動くか知れず、その動向によっては今度こそ源氏は叩きつぶされてしまったことだろう。そんな有り難くない未来をただ一戦で払拭し得たのは、まさに義経のおかげであるのだ。それを思えば、いかに殿へは厳しい頼朝公でも、いざ戦となればその力量を無碍には出来ない。そして今度こそ文句のつけようのない比類無い大戦果をものにし、鎌倉に殿の実力を認めさせてくれる。伊勢三郎義盛を筆頭に主だった側近達は、ただその思いで半年の間耐えてきたのであった。
だが、その努力もこの一片の書状の前にあえなく露と消えた。
以後の義経は、表だってはそれまでと変わりなくただひたすらに忠勤に励んだ。だが、酒量は夜毎に増え、心映えも、少しずつ変質していった。四月の儀式後、一旦は返上した臨時の位を、法皇は九月末になって今度は正式に義経に与えた。が、この時、義経は作法どおり形ばかりの辞意を示しただけで、何のてらいもなくすんなりと位に就いた。そして鎌倉には、ただ素っ気なくそのことを知らせたのみであった。
このころの義経の心には、何もかも忘れてただ戦場に出たい、と言う一言だけが輻輳して鳴り響いていた。たとえ夜露に濡れそぼち、粗末な食事に飢えをしのぎ、敵の夜襲に備えて眠れぬ夜を過ごすことになろうとも、こんな自堕落な都の夜に比べれば何層倍も楽で楽しいか知れない。あの誰もが尻込みした一ノ谷の絶壁を先頭切って駆け下りたときの爽快さ。紅蓮の炎を上げて燃えさかる敵陣に切り込み、崩れ立った平氏の兵共を散々に追い散らしたあの高揚感が、何にも増して思い出されてならなかった。その癒しがたい心を鎮めるには、ただ酒の力を借りるよりなかったのである。
やがて、夜も更けたころ、義経は思い出ししたように唐突に立ち上がった。どうしても気持ちが収まらないとき、宿直の者に「ちょっと出てくる」とだけ告げて、厩に向かう。そして、愛馬に自ら鞍を着けると、そのまま振り返ることなく京の町へと駆け出すのだ。だが、今宵だけは出かける直前にためらった。雪だ。既にくるぶしも埋まるほどに積もった雪が、今も音もなく降り積もっている。一瞬、今宵は諦めるか、と義経は思った。だが、それならそれで、鬱屈は一時の発散もなく蓄積されるだけである。それに、これはこれで幼時の平泉の様子が偲ばれるようでもある。結局義経は早々に引き上げる積もりで、馬蹄に雪を蹴散らしながら走り出た。
およそどちらと言うつもりもなく走るうち、義経は程なくして鴨の河原まで出てきた。まだ酔いの残る体は冷えも少なく、満足のいくほど走ったという気持ちもない。義経はそのまま駒を北に向けると、鴨川に沿って走り出した。すると、たちまち一本の橋が右手に現れた。義経の館は六条西洞院にある法皇の居所、六条第のすぐ側にある。そこからまっすぐ西へ鴨川に出、そして北に道を取ったのであるから、それは五条の橋に相違なかった。そこを渡れば、対岸は平氏が栄華を極める六波羅の街路のはずである。
「少し足を伸ばしてみるか」
義経は、再び馬首を東に振ると、その貧弱な橋桁に歩を進ませた。
渡り終えたところで、河原を左に折れ、再び北へ駒を向ける。そして、すぐに目的の場所に着いた。あの四月、法皇より申しつけられて遷宮の奉行をした、小さな塚の跡である。あの日、その塚に建ったお堂から、一枚の古い鏡を取り出し、ずっと北、御所の南端、大炊御門大路の対岸に新たに建立された粟田宮と言う社に移したのだった。実際にはその一切は神職が取り仕切り、義経は「不測の事態に備えよ」との法皇の仰せのままに、戦場さながらに甲冑で身を固めて供奉したのであるが、高々鏡一枚移すだけでどうしてこのような大げさな儀式が必要なのか、当時は理解に苦しんだものだった。塚とお堂は、かつて崇徳上皇の愛妾であった兵衛佐の局と呼ばれる女房が、上皇の遺徳を偲ぶため建立し、その遺品である鏡を奉納したものと聞いた。
だが、その努力もこの一片の書状の前にあえなく露と消えた。
以後の義経は、表だってはそれまでと変わりなくただひたすらに忠勤に励んだ。だが、酒量は夜毎に増え、心映えも、少しずつ変質していった。四月の儀式後、一旦は返上した臨時の位を、法皇は九月末になって今度は正式に義経に与えた。が、この時、義経は作法どおり形ばかりの辞意を示しただけで、何のてらいもなくすんなりと位に就いた。そして鎌倉には、ただ素っ気なくそのことを知らせたのみであった。
このころの義経の心には、何もかも忘れてただ戦場に出たい、と言う一言だけが輻輳して鳴り響いていた。たとえ夜露に濡れそぼち、粗末な食事に飢えをしのぎ、敵の夜襲に備えて眠れぬ夜を過ごすことになろうとも、こんな自堕落な都の夜に比べれば何層倍も楽で楽しいか知れない。あの誰もが尻込みした一ノ谷の絶壁を先頭切って駆け下りたときの爽快さ。紅蓮の炎を上げて燃えさかる敵陣に切り込み、崩れ立った平氏の兵共を散々に追い散らしたあの高揚感が、何にも増して思い出されてならなかった。その癒しがたい心を鎮めるには、ただ酒の力を借りるよりなかったのである。
やがて、夜も更けたころ、義経は思い出ししたように唐突に立ち上がった。どうしても気持ちが収まらないとき、宿直の者に「ちょっと出てくる」とだけ告げて、厩に向かう。そして、愛馬に自ら鞍を着けると、そのまま振り返ることなく京の町へと駆け出すのだ。だが、今宵だけは出かける直前にためらった。雪だ。既にくるぶしも埋まるほどに積もった雪が、今も音もなく降り積もっている。一瞬、今宵は諦めるか、と義経は思った。だが、それならそれで、鬱屈は一時の発散もなく蓄積されるだけである。それに、これはこれで幼時の平泉の様子が偲ばれるようでもある。結局義経は早々に引き上げる積もりで、馬蹄に雪を蹴散らしながら走り出た。
およそどちらと言うつもりもなく走るうち、義経は程なくして鴨の河原まで出てきた。まだ酔いの残る体は冷えも少なく、満足のいくほど走ったという気持ちもない。義経はそのまま駒を北に向けると、鴨川に沿って走り出した。すると、たちまち一本の橋が右手に現れた。義経の館は六条西洞院にある法皇の居所、六条第のすぐ側にある。そこからまっすぐ西へ鴨川に出、そして北に道を取ったのであるから、それは五条の橋に相違なかった。そこを渡れば、対岸は平氏が栄華を極める六波羅の街路のはずである。
「少し足を伸ばしてみるか」
義経は、再び馬首を東に振ると、その貧弱な橋桁に歩を進ませた。
渡り終えたところで、河原を左に折れ、再び北へ駒を向ける。そして、すぐに目的の場所に着いた。あの四月、法皇より申しつけられて遷宮の奉行をした、小さな塚の跡である。あの日、その塚に建ったお堂から、一枚の古い鏡を取り出し、ずっと北、御所の南端、大炊御門大路の対岸に新たに建立された粟田宮と言う社に移したのだった。実際にはその一切は神職が取り仕切り、義経は「不測の事態に備えよ」との法皇の仰せのままに、戦場さながらに甲冑で身を固めて供奉したのであるが、高々鏡一枚移すだけでどうしてこのような大げさな儀式が必要なのか、当時は理解に苦しんだものだった。塚とお堂は、かつて崇徳上皇の愛妾であった兵衛佐の局と呼ばれる女房が、上皇の遺徳を偲ぶため建立し、その遺品である鏡を奉納したものと聞いた。