今日でついに2月も終わり。正月以来どうも何かにつけて低調だった気がするのですが、いよいよ月も春の月に改まるのですし、そろそろ風向きも上り調子に変わって欲しいと思います。
取りあえず幸いにして頭痛は今朝にはほとんど意識されないほどになっていました。やはり寝不足が主たる原因だったようです。胃のことを考えるとアスピリンもなるべくなら飲まないで済ませたいので、少しほっとしております。
さて、オウム真理教の事件で一躍全国に名が知れ渡った上九一色村(おお、一発で変換された!)が消滅というネットニュースを見て、遂に過疎の村から自治体を組織できないほどに人口が減少して廃村になる所が出てきてしまったか、と早合点してしまいました。事実は昨今はやりの市町村合併で、地名として上九一色村というのが地図上から消えるという事だそうです。ちょっと珍しい合併方法で、むらを南北に分けてそれぞれ別の市町に合併されるのだとか。同じ村でも生活圏が異なるためだそうで、確かに面積が大きくて住民が点在しているような所では、そう言うこともあるだろうな、と思いました。
ところで私がその様な早合点をしたのは、この間、知り合いの人と日本農業や田舎の状況を語り合ったときに、そう遠からぬ将来に住民が死に絶えて消えて無くなる村が日本のあちこちに出現する、という話が出ていたからでしょう。と言うか、そう言いだしたのは私なのですが。総務省の資料によりますと、人口1000人を切る過疎の村は全国に22あるそうです。5000人未満までですと218になります。もっとも基礎数字は平成12年の国勢調査人口だそうですので、それから6年ほど経過した今日では、もう少し数字は変わっているかも知れません。
そう言う人の少ない村は、大抵の場合住民の平均年齢は他の所よりも高く、要するにおじいちゃんやお婆ちゃんばかりが住んでいると言うことになります。幾ら長寿国日本と言えども不老不死はありえませんから、このような仙人の住まうが如き村々は、櫛の歯の欠けるがごとく住民が次第に彼岸に逝き、いずれ自治体として維持できなくなることは明らかです。そればかりか、それ以上の人口を持つ市町でも、田舎ほど平均年齢や高齢者人口比率が高く、近隣の大きな都市へ人が収斂していく事になるのではないかと思われます。
確かに田舎には田舎のよさがあると田舎に住む私は思いますし、私は大阪下町の出身ではありますが、ああいったごみごみせかせかしたところへ住みたいとは、今のところ余り思えません。でも最低インターネットはブロードバンドと呼ばれるような回線が欲しいですし、トイレは水洗であって欲しいですし、ちょっとしたスーパーやコンビニが近くに欲しいわけで、そうなるとあまり田舎過ぎても駄目なわけです。田舎と言うよりちょっと街に近い、きらびやかな都会には電車で1時間もあれば十分到達できるような場所が、すみかとしては好適なのではないかと思うのです。
日本中の人が皆私と同じように考えるとは思いませんけど、その様な生活環境を維持できる場所に今後人が集まってくるとしたら、今後人口も減ってくるのですから、田舎の中の田舎からは人がいなくなるのが道理です。そうして100年もしますと、かつての地中海文明のごとく、都市があちこちに点在して、都市と都市の間は人一人住まぬ原野になる、と言うような光景が現れるかも知れません。
今回上九一色村は村としては消えますがかつての村民はそのままちゃんと残っています。でも、いずれ必ず住民が死に絶えて廃村になる所が出てくるはずで、その最初が我が奈良県の山の中に幾つかある人口千人未満の村のどれかではないだろうか、と密かに思っていたりするのです。
取りあえず幸いにして頭痛は今朝にはほとんど意識されないほどになっていました。やはり寝不足が主たる原因だったようです。胃のことを考えるとアスピリンもなるべくなら飲まないで済ませたいので、少しほっとしております。
さて、オウム真理教の事件で一躍全国に名が知れ渡った上九一色村(おお、一発で変換された!)が消滅というネットニュースを見て、遂に過疎の村から自治体を組織できないほどに人口が減少して廃村になる所が出てきてしまったか、と早合点してしまいました。事実は昨今はやりの市町村合併で、地名として上九一色村というのが地図上から消えるという事だそうです。ちょっと珍しい合併方法で、むらを南北に分けてそれぞれ別の市町に合併されるのだとか。同じ村でも生活圏が異なるためだそうで、確かに面積が大きくて住民が点在しているような所では、そう言うこともあるだろうな、と思いました。
ところで私がその様な早合点をしたのは、この間、知り合いの人と日本農業や田舎の状況を語り合ったときに、そう遠からぬ将来に住民が死に絶えて消えて無くなる村が日本のあちこちに出現する、という話が出ていたからでしょう。と言うか、そう言いだしたのは私なのですが。総務省の資料によりますと、人口1000人を切る過疎の村は全国に22あるそうです。5000人未満までですと218になります。もっとも基礎数字は平成12年の国勢調査人口だそうですので、それから6年ほど経過した今日では、もう少し数字は変わっているかも知れません。
そう言う人の少ない村は、大抵の場合住民の平均年齢は他の所よりも高く、要するにおじいちゃんやお婆ちゃんばかりが住んでいると言うことになります。幾ら長寿国日本と言えども不老不死はありえませんから、このような仙人の住まうが如き村々は、櫛の歯の欠けるがごとく住民が次第に彼岸に逝き、いずれ自治体として維持できなくなることは明らかです。そればかりか、それ以上の人口を持つ市町でも、田舎ほど平均年齢や高齢者人口比率が高く、近隣の大きな都市へ人が収斂していく事になるのではないかと思われます。
確かに田舎には田舎のよさがあると田舎に住む私は思いますし、私は大阪下町の出身ではありますが、ああいったごみごみせかせかしたところへ住みたいとは、今のところ余り思えません。でも最低インターネットはブロードバンドと呼ばれるような回線が欲しいですし、トイレは水洗であって欲しいですし、ちょっとしたスーパーやコンビニが近くに欲しいわけで、そうなるとあまり田舎過ぎても駄目なわけです。田舎と言うよりちょっと街に近い、きらびやかな都会には電車で1時間もあれば十分到達できるような場所が、すみかとしては好適なのではないかと思うのです。
日本中の人が皆私と同じように考えるとは思いませんけど、その様な生活環境を維持できる場所に今後人が集まってくるとしたら、今後人口も減ってくるのですから、田舎の中の田舎からは人がいなくなるのが道理です。そうして100年もしますと、かつての地中海文明のごとく、都市があちこちに点在して、都市と都市の間は人一人住まぬ原野になる、と言うような光景が現れるかも知れません。
今回上九一色村は村としては消えますがかつての村民はそのままちゃんと残っています。でも、いずれ必ず住民が死に絶えて廃村になる所が出てくるはずで、その最初が我が奈良県の山の中に幾つかある人口千人未満の村のどれかではないだろうか、と密かに思っていたりするのです。