三艘の小船が一列縦隊になって、ようやく収まりを見せ始めた波を突っ切っていく。十数人乗れば一杯になりそうな小さな船体が、まるで飛び魚のようにうねりの上を走る。恐らく、この舟が海に浮かんで以来、初めて出す速度であろう。かけ声もいつもの五割増しで、それぞれの口から一斉に放たれる。だが、その先頭の舟の、更に舳先近くに陣取る若者は、まだ速度が足りない、とばかりに、焦慮の色を露わにして前を見つめていた。伊予攻め総大将、平智盛である。その髪が、東から吹き付ける風に煽られて獅子のたてがみのようにはためいている。その傍らに立てられた赤い旗も、今にもちぎれてどこかに飛んで行ってしまいそうだ。実際、大慌てに乗り組んだ時、甲板のそこここに無造作に放置した笠の類は、とっくの昔に巻き上げられ、竜王への貢ぎ物になってしまっている。それでもなお、智盛には船足の伸びが鈍く感じられてならなかった。
焦りの中に浮かぶ言葉はただ一つ。見通しが甘かった、と言うことに尽きる。
(まさかこの嵐を突いて出てこようとは、わしとしたことが完全に油断していた)
智盛がほぞをかんだのは、自分が今、屋島を遠く離れ、伊予讃岐の国境に居たからだった。
元暦二年(1185年)二月。伊予の豪族、河野四郎通信がまた蠢動を始めている、との飛報が、彦島の知盛から届いた。平氏の生命線は、屋島から彦島にかけての瀬戸内海を領海とし、その沿岸部に武威を張ることで維持されている。ために昨年九月以来山陽道を西進してきた源範頼率いる大軍にも果敢に戦闘を挑み、その足取りを著しく阻害して出血を強要した。また、淡路で在地の豪族が反旗を翻したと聞けば、直ちに軍兵を送ってこれを討ち滅ぼした。そんな平氏方にとって、まさに喉に引っかかった骨と言えるのが、河野通信の存在である。事あるごとに平氏に逆らい、九州の反平氏勢力と結託して、四国山陽道における平氏の覇権をゆるがせ続けた。そのため、これまでにも何度も征旅を企て、その度に完膚無きまで叩きのめしてきたのだが、通信自身は見事なまでに逃げ上手であり、辛き命を何度も生き延びて、しばらくするとまた勢力を盛り返す、といういたちごっこが続いていたのである。そこで、今回は何が何でも通信の首を上げ、四国を安堵せしめようと、屋島に駐留する軍勢のうち、中核をなす阿波、讃岐の兵三千騎を送ることになったのだった。
智盛は、当初この遠征に反対だった。
いつ義経が寄せてくるとも知れないこの情勢下、主力を遠地に派してもしその隙を突かれたら如何なされるのか、を、口を酸くして評定の場で説いたのである。だが、智盛の見通しに対して、諸将の反応は冷たかった。曰く、ここで河野通信の勢力を放置すれば、四国山陽道の豪族達に平氏与し易しと見られ、赤旗を白旗に替える輩が続出するだろう。そうなればもはや戦どころではない。ここは一挙に大兵を催し、今度こそ通信の息の根を止めるに如く無し。また義経の屋島攻略部隊が摂津国淀口の渡辺津に集結中であるが、昨夜来の大風で、我らでさえ舟で出るのは躊躇う程に海は荒れている。讃岐の豪族達の話を聞いても、この荒れ様は二、三日で収まるものではないとも言う。そんな海を、舟戦の不得手な東国勢がわざわざやってくるとは思えない。つくづく、少将殿の深謀遠慮は我らも存じるところなれど、今にも義経が襲うて来るというのは、少しばかり度が過ぎる用心と心得るが如何?
そこで智盛は、自説に固執するのを止め、かわって遠征軍の指揮を執ると言い出した。
確かに長老達の言うことは智盛としても肯うに足る説得力を有していたし、軍を出す、となれば速戦即決が最も肝要となる。ならば人には任さず、自分が出て行くのが一番手っ取り早い。そう智盛は考えたのである。
智盛は、実際に平氏を支える実戦指揮官として数々の功を上げ、その戦闘指揮には、彦島で頑張る兄知盛からも全幅の信頼を置かれている。周囲も智盛に任せておけば戦は安心、と言う空気があったし、自身も自分ならばこそ、と言う自負の念が強かった。
だが、この場合、やはり智盛は増長していたと言うそしりを免れないであろう。度重なる河野通信征伐の失敗を見るにつけ、自分なら逃しはしない、との思いを強くしていた智盛であったが、結局は自分も、通信を取り逃がした将軍の列に連なることになってしまったのだから。しかもあれほど危惧していたのに、土壇場になって楽観論に傾いてしまった見通しの甘さが、最悪の結果となって跳ね返ったときては、もはや言いつくろうわけにもいかなかった。
焦りの中に浮かぶ言葉はただ一つ。見通しが甘かった、と言うことに尽きる。
(まさかこの嵐を突いて出てこようとは、わしとしたことが完全に油断していた)
智盛がほぞをかんだのは、自分が今、屋島を遠く離れ、伊予讃岐の国境に居たからだった。
元暦二年(1185年)二月。伊予の豪族、河野四郎通信がまた蠢動を始めている、との飛報が、彦島の知盛から届いた。平氏の生命線は、屋島から彦島にかけての瀬戸内海を領海とし、その沿岸部に武威を張ることで維持されている。ために昨年九月以来山陽道を西進してきた源範頼率いる大軍にも果敢に戦闘を挑み、その足取りを著しく阻害して出血を強要した。また、淡路で在地の豪族が反旗を翻したと聞けば、直ちに軍兵を送ってこれを討ち滅ぼした。そんな平氏方にとって、まさに喉に引っかかった骨と言えるのが、河野通信の存在である。事あるごとに平氏に逆らい、九州の反平氏勢力と結託して、四国山陽道における平氏の覇権をゆるがせ続けた。そのため、これまでにも何度も征旅を企て、その度に完膚無きまで叩きのめしてきたのだが、通信自身は見事なまでに逃げ上手であり、辛き命を何度も生き延びて、しばらくするとまた勢力を盛り返す、といういたちごっこが続いていたのである。そこで、今回は何が何でも通信の首を上げ、四国を安堵せしめようと、屋島に駐留する軍勢のうち、中核をなす阿波、讃岐の兵三千騎を送ることになったのだった。
智盛は、当初この遠征に反対だった。
いつ義経が寄せてくるとも知れないこの情勢下、主力を遠地に派してもしその隙を突かれたら如何なされるのか、を、口を酸くして評定の場で説いたのである。だが、智盛の見通しに対して、諸将の反応は冷たかった。曰く、ここで河野通信の勢力を放置すれば、四国山陽道の豪族達に平氏与し易しと見られ、赤旗を白旗に替える輩が続出するだろう。そうなればもはや戦どころではない。ここは一挙に大兵を催し、今度こそ通信の息の根を止めるに如く無し。また義経の屋島攻略部隊が摂津国淀口の渡辺津に集結中であるが、昨夜来の大風で、我らでさえ舟で出るのは躊躇う程に海は荒れている。讃岐の豪族達の話を聞いても、この荒れ様は二、三日で収まるものではないとも言う。そんな海を、舟戦の不得手な東国勢がわざわざやってくるとは思えない。つくづく、少将殿の深謀遠慮は我らも存じるところなれど、今にも義経が襲うて来るというのは、少しばかり度が過ぎる用心と心得るが如何?
そこで智盛は、自説に固執するのを止め、かわって遠征軍の指揮を執ると言い出した。
確かに長老達の言うことは智盛としても肯うに足る説得力を有していたし、軍を出す、となれば速戦即決が最も肝要となる。ならば人には任さず、自分が出て行くのが一番手っ取り早い。そう智盛は考えたのである。
智盛は、実際に平氏を支える実戦指揮官として数々の功を上げ、その戦闘指揮には、彦島で頑張る兄知盛からも全幅の信頼を置かれている。周囲も智盛に任せておけば戦は安心、と言う空気があったし、自身も自分ならばこそ、と言う自負の念が強かった。
だが、この場合、やはり智盛は増長していたと言うそしりを免れないであろう。度重なる河野通信征伐の失敗を見るにつけ、自分なら逃しはしない、との思いを強くしていた智盛であったが、結局は自分も、通信を取り逃がした将軍の列に連なることになってしまったのだから。しかもあれほど危惧していたのに、土壇場になって楽観論に傾いてしまった見通しの甘さが、最悪の結果となって跳ね返ったときては、もはや言いつくろうわけにもいかなかった。