かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

8.智盛 焦燥 その1

2008-04-13 20:03:48 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 三艘の小船が一列縦隊になって、ようやく収まりを見せ始めた波を突っ切っていく。十数人乗れば一杯になりそうな小さな船体が、まるで飛び魚のようにうねりの上を走る。恐らく、この舟が海に浮かんで以来、初めて出す速度であろう。かけ声もいつもの五割増しで、それぞれの口から一斉に放たれる。だが、その先頭の舟の、更に舳先近くに陣取る若者は、まだ速度が足りない、とばかりに、焦慮の色を露わにして前を見つめていた。伊予攻め総大将、平智盛である。その髪が、東から吹き付ける風に煽られて獅子のたてがみのようにはためいている。その傍らに立てられた赤い旗も、今にもちぎれてどこかに飛んで行ってしまいそうだ。実際、大慌てに乗り組んだ時、甲板のそこここに無造作に放置した笠の類は、とっくの昔に巻き上げられ、竜王への貢ぎ物になってしまっている。それでもなお、智盛には船足の伸びが鈍く感じられてならなかった。
 焦りの中に浮かぶ言葉はただ一つ。見通しが甘かった、と言うことに尽きる。
(まさかこの嵐を突いて出てこようとは、わしとしたことが完全に油断していた)
 智盛がほぞをかんだのは、自分が今、屋島を遠く離れ、伊予讃岐の国境に居たからだった。
 元暦二年(1185年)二月。伊予の豪族、河野四郎通信がまた蠢動を始めている、との飛報が、彦島の知盛から届いた。平氏の生命線は、屋島から彦島にかけての瀬戸内海を領海とし、その沿岸部に武威を張ることで維持されている。ために昨年九月以来山陽道を西進してきた源範頼率いる大軍にも果敢に戦闘を挑み、その足取りを著しく阻害して出血を強要した。また、淡路で在地の豪族が反旗を翻したと聞けば、直ちに軍兵を送ってこれを討ち滅ぼした。そんな平氏方にとって、まさに喉に引っかかった骨と言えるのが、河野通信の存在である。事あるごとに平氏に逆らい、九州の反平氏勢力と結託して、四国山陽道における平氏の覇権をゆるがせ続けた。そのため、これまでにも何度も征旅を企て、その度に完膚無きまで叩きのめしてきたのだが、通信自身は見事なまでに逃げ上手であり、辛き命を何度も生き延びて、しばらくするとまた勢力を盛り返す、といういたちごっこが続いていたのである。そこで、今回は何が何でも通信の首を上げ、四国を安堵せしめようと、屋島に駐留する軍勢のうち、中核をなす阿波、讃岐の兵三千騎を送ることになったのだった。
 智盛は、当初この遠征に反対だった。
 いつ義経が寄せてくるとも知れないこの情勢下、主力を遠地に派してもしその隙を突かれたら如何なされるのか、を、口を酸くして評定の場で説いたのである。だが、智盛の見通しに対して、諸将の反応は冷たかった。曰く、ここで河野通信の勢力を放置すれば、四国山陽道の豪族達に平氏与し易しと見られ、赤旗を白旗に替える輩が続出するだろう。そうなればもはや戦どころではない。ここは一挙に大兵を催し、今度こそ通信の息の根を止めるに如く無し。また義経の屋島攻略部隊が摂津国淀口の渡辺津に集結中であるが、昨夜来の大風で、我らでさえ舟で出るのは躊躇う程に海は荒れている。讃岐の豪族達の話を聞いても、この荒れ様は二、三日で収まるものではないとも言う。そんな海を、舟戦の不得手な東国勢がわざわざやってくるとは思えない。つくづく、少将殿の深謀遠慮は我らも存じるところなれど、今にも義経が襲うて来るというのは、少しばかり度が過ぎる用心と心得るが如何?
 そこで智盛は、自説に固執するのを止め、かわって遠征軍の指揮を執ると言い出した。
 確かに長老達の言うことは智盛としても肯うに足る説得力を有していたし、軍を出す、となれば速戦即決が最も肝要となる。ならば人には任さず、自分が出て行くのが一番手っ取り早い。そう智盛は考えたのである。
 智盛は、実際に平氏を支える実戦指揮官として数々の功を上げ、その戦闘指揮には、彦島で頑張る兄知盛からも全幅の信頼を置かれている。周囲も智盛に任せておけば戦は安心、と言う空気があったし、自身も自分ならばこそ、と言う自負の念が強かった。
 だが、この場合、やはり智盛は増長していたと言うそしりを免れないであろう。度重なる河野通信征伐の失敗を見るにつけ、自分なら逃しはしない、との思いを強くしていた智盛であったが、結局は自分も、通信を取り逃がした将軍の列に連なることになってしまったのだから。しかもあれほど危惧していたのに、土壇場になって楽観論に傾いてしまった見通しの甘さが、最悪の結果となって跳ね返ったときては、もはや言いつくろうわけにもいかなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8.智盛 焦燥 その2

2008-04-13 20:03:40 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
(やはり一時の不利を甘受してでも、屋島の守りを固めるべきであった。相手が奇襲に出てくることは判っていたのに、この嵐では船出は無理、と思いこんだのが間違いだった)
 智盛は油断していたのだ。屋島の御所を初めとする邸宅の数々を吹き壊したあの大風の中、幾ら義経が奇襲好きだからと言って船出することはあり得ない、と。そして自分なら、風が収まり波が静まるまでに河野通信を討ち滅ぼし、とって返して義経の進撃を迎え撃つことが出来る、と思いこんでしまったのだ。それがいかに甘かったのか、智盛は嫌と言うほど思い知らされた。
 その間にも、頻々として屋島の急を告げる早馬が陣中に駆け込んでくる。曰く、この大風で壊れた屋島御所から六万寺に行幸されていた安徳天皇以下平氏の主力は、屋島を捨て海上に避難したこと。義経の率いる軍勢は、以外に少数で三百騎を過ぎないこと、などの情勢が次々と知らされてくる。兄上、どうして今少しでも屋島の木戸口で敵を支えてくれなかったのか。そうすればこの主力軍で少数の義経勢を挟撃し、討ち果たすことも叶ったろうに・・・。智盛は報告を聞きながら天を仰いで慨嘆したが、これもまた会にあわぬ花、六日の菖蒲である。智盛は即座に気を取り直し、直ちに部隊の主だった者を集め命を下した。
 一、智盛は少数の側近を引き連れ、直ちに屋島本軍に合流、海上から源氏を牽制する。
二、本隊は田内左衛門教能が率い、源氏を陸から強襲する。
三、その際呼吸を合わせて屋島本軍も上陸作戦を敢行し、海陸から源氏の軍勢を包囲殲滅する。
 もしこれが決まれば源氏は四分五裂に敗滅するより無く、憎っくき義経の首もほぼ確実に上げることが叶うであろう。
「義経を討ち、屋島を回復できるか否かは全て我ら次第だ。者共、ぬかるな」
 智盛は噛んで含めるように何度も皆に言い聞かせ、僅かな側近を連れて舟に乗った。ここから屋島に向かうには、陸路より海の方が速い。
 この時代、馬は現代のポニ-程度の大きさしかない。普段は大半が農耕馬として飼われていることが多く、馬力はあるが走るのは苦手だ。ましてや一式が二〇キロを超える大鎧を纏った武士一人を乗せるのだ。並の体力ではすぐにへばってしまう。故に武士は、暴れ馬と呼ばれる位に力のある馬を欲し、日頃から少しでも息長く走ることが出来るように鍛錬を重ねたのである。一方当時の舟は、馬に軍馬と農耕馬の区別がないのと同じように、軍船と輸送船の区別が無く、その速度はせいぜい馬の並足ぐらいの速さだ。ただし舟は、風さえ受ければ何時まででも走ることが出来る。櫓も、交代で漕ぐことで長時間速度を維持することが可能だ。つまり長距離を素早く動くには、舟が最適な移動手段なのである。更に、屋島の本陣は既に海上に浮かんでおり、いずれは舟を調達しなければならない。それならと智盛は直ちに周辺の民家より三艘の小船を徴用し、焦る心にせき立てられるようにして、海の上に浮かんだのである。
 その智盛の心を占めるのは、一人の女の面影であった。
 凛々しい白拍子姿や艶やかな女房装束、夜具に包まれたたおやかな肢体。腰を隠す髪の一筋一筋から、吸い込まれそうになる漆黒の瞳と朱を差した唇。ちょん、と膝の前に揃えられた紅葉手の肌が白く透き通るように見える様子など、その全てが、智盛の脳裏に膨大な感情で彫り込まれている。自分から一方的に喧嘩を売ってしまったにもかかわらず、智盛はその娘、白拍子の麗夢を、決して無碍にしようとは思わなかった。いやむしろ、喧嘩別れをして以来、愛おしさを覚えるその切なる想いはどんどん智盛の中で成長するばかりだった。
 帰ったら今度こそはっきりと素直に謝ろう。そして、もう一度やり直すのだ。その想いを抱いたまま、智盛は河野通信征伐に赴いたのである。
 だが、事態の急変が、そんな智盛の甘い想いを踏みつぶした。入れ替わりに胸の内を浸食してきたのは、麗夢は無事か? という心配である。義経を逃さない、というのは現実として智盛の心の一端を占めてはいた。だがそれでもなお、麗夢を思う気持ちの大きさから比べれば、義経の首など羽毛ほどの価値しかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8.智盛 焦燥 その3

2008-04-13 20:03:34 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 こうして舟が、今、瀬戸大橋がかかる与島の手前まで差し掛かり、遙か遠くに屋島の沖合いにある女木島の姿が霞んで見え始めた頃であった。それまで逆風に吹き荒れていた東北からの風がにわかに改まり、西向きの追い風に変化して、水手達が慌ただしく帆を張る準備に取りかかる。その喧噪の最中、智盛の側近、築山次郎兵衛公綱のまん丸な目が、遙か水平線からゆらゆらと漂いつつ流れてくるぼろ布を捉えた。その文様に何となく見覚えを感じた公綱は、それが船端近くまで漂着したとき、顔色を変えて海に飛び込んだ。配下の武士や水手達が突然の事に驚いたが、公綱はわき目もふらずそのぼろ布に向かって泳いだ。やがてぼろ布を拾い上げた公綱は、器用にその布を抱えつつ真っ直ぐに泳ぎ着いた。
「公綱! 何をしている・・・?」
 怒鳴りつけようとした口が、その形のまま一瞬だけ凍り付いた。智盛も悟ったのだ。何故公綱がこの布の塊をわざわざ海に飛び込んだ末、自分の舟ではなく、真っ直ぐ主の舟まで運んできたか、を。智盛は、公綱からひったくるようにしてそのぼろ布を抱き取ると、あらん限りの声張り上げて、そのぼろ布に呼びかけた。
「し、しっかりせよ! 匂丸!」
 見ればその胸に深々と一筋の矢が突き立っていた。長らく海に浸かっていたと見えて、矢は矢羽も大方抜け落ち、篦(の)も薄汚れて今にも崩れそうなくらいに痛んでいる。智盛は矢を強引に抜き取って、あふれ出る血にもかまわずそのはだけた胸に耳を当てた。その耳に、ぐったりとした外観からは以外と思えるほどしっかりした鼓動が届く。
「おい!しっかりしろ! 匂丸!」
 公綱以下、智盛の回りに集まった者達も口々に声をかけ、濡れた服を脱がせて傷の手当をした。更に楫取が持ってきた布と菰(こも)で小さな体をくるんだ頃には、ようやく匂丸も意識を取り戻した。
「と、智盛様・・・」
「おう! 気が付いたか、匂丸!」
「ここは?」
「屋島に向かう舟の上だ。それよりどうした。屋島で何かあったのか?」
 この時、智盛は匂丸が麗夢の命を受けて都に潜入したことをまだ知らない。匂丸は、色葉や麗夢と共に、屋島に居るとばかり思っていたのだ。だから智盛は、匂丸の漂着を屋島での不測の事態に結びつけて不吉な予感に囚われた。まさか、義経の軍勢がこれまでの情報よりもはるかに強大で、海上に逃れた安徳帝以下平氏の面々が、八島沖からも蹴散らされたのではないか、と危惧したのだ。だが、匂丸はそれには応えず、水を一杯所望すると、むさぼるようにそれを飲んで、智盛に言った。
「姫様が、麗夢様が危ない!」
「何! やはりそうか! して、何があった!」
「それはおいおい話します。ここは一刻も早く麗夢様の元へ!」
 智盛は予感が的中したと誤解して、水手達に帆の準備を急ぐように命じた。公綱も自分の舟に移るため、早く寄せろと大声で指示を出す。そんな慌ただしさの中、匂丸は足元をふらつかせながらも立ち上がると、船縁によってそのまま身を海に落とした。時ならぬ水音に一同あっと声を上げる間もなく、突然真白き光が跳ね上がる水を追いかけて海面からはじけた。智盛は急いでその光の際に身を寄せると、既に巨大な銀の狼に変じた仁保平が、首だけをねじ曲げて智盛に言った。
『智盛様、この舟では遅すぎる! さあ早く乗って!』
「しかし、お前怪我を・・・」
『大丈夫! それより今は少しでも早く姫様の元へ帰らないと!』
 周囲の人は何事が起こったのかと智盛の背中越しにいぶかしい視線を海面に注ぎ、そこに浮く異様な生き物に息を呑んだ。智盛もなお躊躇いを見せる中、事情を察知した公綱が、智盛の背中を押した。
 「殿、ここはこの公綱に任せて、急ぎ参られよ。匂丸が人目もはばからず変化したのは余程のことですぞ」
 よく焼けた鼻の頭に生乾きの塩をこびり付かせて言う公綱に、智盛は決断した。
「判った。後は任せる。出来るだけ急いで八島沖まで来てくれ」
「御案じ召さるな。さあ、とうとう!」
 智盛は兜の緒を締め直すと、船端に足をかけ、えいと一声かけて仁保平の大きな背中に飛び移った。着地の瞬間、仁保平は口から苦しげなうめき声を漏らしたが、気遣う智盛に強いて『何でもない』を繰り返し、早く座れ、と逆にせかした。
『では、落ちないようしっかり掴まって!』
 智盛が首筋にしっかり掴まったのを確かめると、匂丸は胸を貫く激痛に歯を食いしばり、猛然と足を動かし始めた。凄まじい勢いで近くの岸に上がった仁保平は、その銀毛を照り輝かせるや、どんな名馬にも出せない素晴らしい速さで、一路海岸線を東に向けて走りだした。たちまち小さく見えなくなっていく主の背中を見届けていた築山公綱は、ふと目をやった海面に、赤く染まったまだら模様がちらほらと波に揺らいでいるのに気が付いた。
(匂丸、無事でいろよ。殿もどうか公綱が参りますまでくれぐれも無茶だけは慎んで下され)
 そうして公綱は、まだ唖然としている配下の者共を叱りとばし、舟の準備を急がせた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9.麗夢 扇舞 その1

2008-04-13 20:03:18 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 海上はまだうねりが高く、唐舟仕様の豪華な大船も、回りに浮かぶ大小の舟達と同様、大きく揺れて宗盛の不快をかき立てた。その苦虫を噛みつぶした顔の前に、一日の戦闘で疲れ切った諸将の顔が並んでいる。もっとも実際に干戈を交え、義経の猛攻に身を晒したのは、侍大将の越中次郎兵衛盛嗣を初めとする少数の者だけであり、そのほとんどは、ただ大慌てに舟に飛び乗り、源氏の矢が届かない沖合いまで逃げ奔っただけであった。だが、義経勢の実像が判り始めるにつれ、舟上の平氏勢はほぼ全員が、余りに早まったかと後悔のほぞを噛むに至った。何と、何千騎居るやも知れぬ、と思われた義経軍は、どうやら僅かに三〇〇騎に満たない小勢であることが判ってきたからである。そして、その早すぎる退避命令がどこから出たのかについては、ほぼ全ての目が、一致して一番上座に座る男の不満顔に向けられていた。何しろ総大将の早逃げは、一ノ谷の合戦に次いでこれで二度目になる。一ノ谷の時も、義経によって山側に布陣していた資盛が破られたと知った途端に、安徳帝や二位の尼、建礼門院を連れてさっさと沖合いに船を漕ぎ出していた。まだ最前線では、知盛や重衡、教経らが激戦の渦中にあったというのにである。一般に一ノ谷の合戦は、義経の鵯越奇襲攻撃が平氏の堅陣を崩壊させたとして知られているが、宗盛の早逃げもまた、平氏の敗北を決定づけたという点ではまさに歴史に残る一事であったろう。総大将が無闇に動いてはならないことは兵学の基本であり、後世武田信玄も、その旗印に「動かざる事山のごとし」と記して、その重要性を明らかにしている。
 当時の将兵は、少しでも戦が不利と思えば至極容易に戦場を逃げ出すのが常であった。実力伯仲の戦が、ちょっとしたきっかけから一方的に勝敗を決するのも、僅かな不安で戦場を離脱するこの種の将兵が軍の大半を占めていたからと言える。第一、まだこの時代には忠義の概念が無い。どんなに過去重恩を被ろうとも、現状不利と見ればあっさり裏切るのは当たり前、というのが社会通念であった。中には、木曽義仲と今井四郎兼平、義経と伊勢三郎義盛の様な実の肉親をも超えるほどの繋がりを結ぶ主従もあったが、それとて忠義の概念と言うよりは、友情、愛情の類と見るべき質のものだろう。一ノ谷で平重衡を裏切った後藤盛長のように、乳母子として幼い頃から主従関係にあったものでさえ、いざ自分の命が危ないとなれば主人を見捨て、敵の手にゆだねることも躊躇わないと言うのが、この時代の常識なのである。そんな将兵をまとめ上げ、戦にし向けるには、並の力量ではとてもできる相談ではない。その総大将が、戦い幾ばくもせぬ内にきれいさっぱり引き下がってしまったらどうだろう。兵達はたちまち不安に駆られ、勝手気ままに退却を始めるに違いない。そうして軍は軍の形を成さなくなって、一挙に崩壊するのである。宗盛は、その失敗をまたも繰り返してしまったのだ。しかも相手は、どちらもあの源九郎義経であった。
 もちろん宗盛にも言い分はある。先頃の大風で屋島御所が崩れ、対岸の五剣山麓にある六万寺に御所を移したために、ただでさえ薄い守りが分散されて更に弱体化していたこと。戦上手の智盛がそうであったように、自分もよもやこの波風を突いて義経がやってこようとは夢にも思わなかったこと。しかも、それも日頃想定していた沖合いからの攻撃ではなく、予想外の阿波路からの奇襲攻撃だったこと、など、冷静な判断もする暇もなく、ただ帝の玉体を安んじ奉るのが何よりも肝要と判断したと言いたいのである。だが、これも実のところ、事情を知る諸将には説得力に乏しかった。何となれば宗盛は、その肝心の帝がどの舟に乗り何時岸を離れたか、沖合いに出てからしばらくの間、把握することが出来ないでいたのである。幸い、帝は二位の尼、建礼門院初めとする宮中の女達と共に、平時忠の手で無事海に逃れていた事が、後になって判明した。だが総大将たる宗盛はそれを知らず、しかも時忠から無事を告げる使者が届くまで、帝の安否を一度も問うことなく過ごしてしまった。これでは総大将失格だ、と周りが思うのはやむを得ないところであろう。だが、本人が死ぬなり出奔するなりしてその地位を投げ出さない限り、自分達はこの頼りない頭を担いで行くしかない。それが平氏諸将の士気を、いやおうなく落ち込ませていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9.麗夢 扇舞 その2

2008-04-13 20:03:12 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 そんな重苦しい雰囲気の中で、ただ一人平氏の長老、大納言時忠だけが、快活な笑いを見せていた。
「皆の衆、そう暗い顔をしなさるな。我らはまだ負けたわけではない。確かに屋島を早逃げする愚を犯したが、相手のことがはっきりしたのじゃ。まだまだ逆転の方法はあろうぞ」
 と暗に宗盛を皮肉る時忠に、その横に坐る長老の一人、平通盛が言った。
「じゃが上陸して屋島を奪還するには、この手勢ではちとしんどかろう。古来、岸に上がって戦うのは、受ける側が圧倒的に有利なものじゃ。それに、相手はほぼ全員が馬に乗っているのに対して、こちらの将兵には馬が少ない。幾ら人数ばかり多くても、馬と徒歩ではまるで勝負にはならぬぞ」
「さよう、僅かに残していた貴重な馬も、屋島が陥落するときにほとんどそのままにしてしまいました。手元にあるのはほんの数騎にすぎませぬ。これでは、とても上陸して戦うなど難しいと存ずる」
 ただ一人奮戦した盛嗣が、通盛の意見に賛同した。
「しかし、いかに最初の誤りで不利を生じたとはいえ、このまま義経を捨て置けば、今は我らに従う四国の兵共も、やがて我らを見限って源氏に組みするのは必定。ここは何とかして策を練り、義経から屋島を奪還しませんと」
 今は小松家を代表する資盛も、亡父にはるかに劣る叔父のやりようを当てこすりつつ、意見を述べた。他にも意見が幾つか上がったが、どれも本論は異なれど、枕詞に使われるのは全て婉曲な宗盛批判である。さしもの宗盛も、ついにいたたまれなくなった。
「ええい皆の衆、舌ばかり動かしていても、よい策はあり得ぬぞ。それより皆は忘れているのではないか? もう少し待てば、智盛が帰ってくる。主力三千騎を率いて智盛が帰ってくれば、源氏の小勢など一撫でするだけで討ち滅ぼすことが叶うではないか」
「ですが、それまでの間、どうやって義経の動きを封じるのです? 義経とて、我らの内情を知ればこそ、わざわざ主力が出ていった隙を狙って兵を動かしたのでしょう。ならば我らの主力が程なく戻ってくることも、義経には計算の内のはず。義経が動き回って四国にこの我らの敗戦を触れ回れば、智盛殿が戻ってくるまでに陣容を改めるかも知れませんぞ」
「我らはまだ負けたわけではない!」
「ですがこうして海に追い出されては・・・」
「追い出されたのではない! 自発的に一時引いたまでじゃ!」
「大臣殿(おおいどの)がどう言いつくろうとも、義経がそうはやし立てれば、それまで」
「だから智盛が帰るまで何とかするのじゃ」
「どうやって?」
「それを今皆で考えておるのじゃろうが! 大体智盛めも遅すぎる! どこで道草を食っておるのかっ?!」
 宗盛と諸将の実りのない言い合いをじっと聞いていた時忠は、ついに宗盛がかんしゃくを起こしたのを見て、おもむろに口を開いた。
「さればそれがしに、義経を足止めするよい手だてがありまする。しかも、うまくいけば敗戦に沈んだ我が勢を、大きく勢いづけることがかないまする」
 はたして八方ふさがりの宗盛は、時忠の提案に食らいついた。
「おお、さすがは大里殿じゃ! して、その策とはいかに?」
「扇占をやるのですよ」
「扇占?」
 怪訝な顔で問いただす宗盛以下の諸将に対し、時忠はこの一石二鳥の策について説明を始めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9.麗夢 扇舞 その3

2008-04-13 20:03:05 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「私めに舟の上で舞え、と?」
 屋島から脱出後、突然女ばかりが乗る舟に麗夢を来訪したのは、平大納言時忠であった。時ならぬ高位の公達の来訪に女達は不安な面もちを隠さなかったが、一人麗夢だけは別のことに気を取られ、時忠から呼び出されるまで、自分の身に降りかかる火の粉の存在を知ることもなかった。
 一介の白拍子に、わざわざ時忠が自ら会いたいという。それも、この非常時に。麗夢ならずとも一体何事かと気遣うのは当然であり、ましてや麗夢には、まさか智盛様の御身に何か異変が?! と言う不安もある。こうして気もそぞろに時忠の前にひれ伏した麗夢は、時忠の言葉を思わずそのまま呟き返した。
「さよう。これは、智盛殿が屋島まで戻られるまで、敵に気取られぬよう引きつけておくのが一番の目的じゃ。そのためには、敵の目をこの扇占に寸時も離さぬよう引きつけておかねばならぬ。そこでじゃ、麗夢。そなたの舞はここに居る女達の中でもことのほかに優れておる。そなたが舟の上で舞えば、東国の田舎武者共は必ずそなたの舞に見とれ、扇占の行方だけに心囚われることとなろう。どうじゃ、やってくれぬか」
 扇占は、平家物語では王朝風の雅な催しとして取り上げられているが、本来はそんなのんびりした性格のものではない。先に麗夢は一ノ谷の合戦で智盛の依頼を断ったことがあったが、これもまたその時と同じ質のもの、即ち、軍の行く末を占う神事であった。竿の先に付けた扇を相手に射させ、はずせば我の勝ち、射止めれば彼の勝ち、との神託を得るのが目的である。従って、使われる扇もただの扇ではない。ここで選ばれた扇は、平家が都落ちのみぎり、途中立ち寄った厳島神社で、安徳天皇の身を安んじ奉る目的で贈られた、神聖なる一差しであった。白地に赤丸、後に日の丸として知られる絵柄をあしらったその扇は、かつて安徳帝の父高倉院が御幸の折り、厳島神社に奉納した五〇差しの内の一つである。宮司は、その扇を持っていれば敵の矢もことごとく相手に返る事でしょう、と言って安徳帝に進呈したが、もちろん追従や冗談で言ったのではない。それだけの呪力を秘めた神扇であることを、宮司は披露したのである。この扇ある限り、平氏に負けはない。そんな大事な一差しをもって、扇占に臨もうというのであった。
 一通りの事情を聞いた麗夢は、返事の前に、一つだけ時忠に問いただした。
「この事は、智盛様はご存じなのでしょうか?」
「もちろんじゃ! 智盛には早馬を飛ばして、早く帰れと申し伝えてある。そなたには何の心配も遠慮も不要じゃ」
 妙に口早にそれだけ言うと、時忠は一呼吸おいて更に言葉を継いだ。
「本来なら、一言「舞え」と命じてもよかったのだが、敵の矢面に立って舞うというのはどれほどか恐ろしい事か、とそなたの気持ちを慮かるが故に、こうして下手に出ておるのじゃ。どうかこの老体に力を貸して欲しい」
 麗夢が聞きたかったのは、この扇占に自分が舞うことを智盛が承知しているのか、と言うことであった。あの喧嘩別れした夜の事は、麗夢の心に鋭い棘となって残っている。今、この平氏の陣を窺う人智を超えた力に対するためだとはいえ、自分は何とつっけんどんに智盛の相手をしてしまったことだろう。もう少し言いよう、やりようがあったのではなかったか。だが、今回の相手は智盛と睦みながら相手できるほど軽い敵ではない。たとえ一時智盛の不興を買おうとも、その身を全身全霊で守ることこそ、自分が何よりもやらなければならない事だと自らに言い聞かせ、狂おしいほど会いたいのを堪えて、そのままにしておいたのである。それでも、あの時言われた一ノ谷の一件だけは麗夢も譲れない。やはり夢守の力を普通の人々相手に使うことは正しいとは思えない。智盛には、何とかそれだけでも理解して欲しかった。故に麗夢はあえて時忠に問うたのだが、答えは得られそうもない。
(智盛様がもしいらしたら、今度も舞って欲しいと言われるだろうか)
 麗夢は、胸の内に智盛の闊達な笑顔を思い浮かべ、その顔に問いかけた。もちろん魅惑的な笑みを浮かべるだけで、心像の智盛は答えない。
 結局麗夢は、それ以上時忠に問いを重ねることなく、また平伏して一言言った。
「その儀、慎んでお受けいたしまする」
「そうか! やってくれるか!」
 時忠は満面の笑みを浮かべて言った。
「扇占にはそなた一人を危ない目に遭わせたりはせぬ。扇をもって舟に立つのは、我が娘顕姫にやらせる。そなたも平氏のため、全身全霊をもって一代の誉れとなる舞を見せてくれい!」
 では、すぐに迎えを寄越すので仕度を整えよ、と言いつつ席を立った時忠の背中を、麗夢はじっと見つめて一人ごちた。
「顕姫殿が矢面に出られる?」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10.与一 眩惑 その1

2008-04-13 20:02:38 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 屋島の陣屋や御所を一介の灰燼に帰せしめ、小勢よく大兵を破る痛快な勝利に酔った源氏勢は、やがて遠く矢の届かぬ沖合いに出た平氏の中から、一艘の美麗な飾り付けを施した舟が寄せてくるのを見て色めき立った。血気にはやる者などは、早くも矢をつがえて狙いを定めようと血走った目で舟を睨んだが、やがて、その舟にここが戦場であることすら忘れかねない光景が繰り広げられていることを知ると、矢を放つことも忘れてその夢の宴に目を奪われた。
 波の音に混じって、笙や笛、鼓の音が届いてくる。そして、一人の白拍子が舟の上で舞っていた。真白き狩衣と袴に身を包み、それそのものが艶めかしい別の生き物であるかのように光をはじく黒髪を元で結わえて、黒い烏帽子を高々と載せている。容(かんばせ)はつい先頃まで比叡の山を覆っていた雪よりも白く抜け、朱を差した唇と濡れているような艶やかな睫が鮮やかに映える。扇を持つたおやかな手が時に二の腕までのぞき、清楚な出で立ちの中に媚びを含んだ色香がかいま見える。舞を踏む足はまるで宙に浮いているかのようにただ軽く、その動きは渚に寄せるさざ波のごとく穏やかでゆったりしているのに、決して止まることがない。源氏の諸将はただ唖然として、海より寄せるこの薫風に身を任せた。やがて、舟は岸から七、八段ばかりとなったところで向きを変え、岸と平行に並んでそこに静止した。すると、白拍子に目を奪われていた武者達も、別の艶やかなものが目に入って、心をざわめかせた。舟の真ん中に、目も覚めるような朱の打ち掛けに見事な黒髪を伸ばした美しい女房が座り、手にした長い旗竿の先へ開いた扇を一振り付けて、こちらに笑顔で手招きしているのである。
「あれは何事だ?」
「一体何をしているのだろう?」
 源氏勢は時ならぬ極楽浄土を思わせる目の前の光景に見入り、その目的をいぶかってざわめき立った。義経も血走った目でこの光景を見つめていたが、やがて、あっと声を漏らすと、驚愕の表情のまま固まってしまった。
(あの女!)
 それは確かに見覚えのある顔であった。二ヶ月前の雪深き都のはずれで出会ったあの女。それが今都も遠いこの屋島の濱に、艶やかな衣装を身に纏ってこちらに手招きを繰り返しているではないか。やがて女も義経の姿を認めたのであろう。一段と笑顔を輝かせ、優美に手招きを繰り返した。やがて、驚き呆れる義経の耳元に、あの、雪の中自分を弓に誘(いざな)った、女の転がる鈴のような声が聞こえてきた。
『御曹司、よくぞここまで参られました。再会の栄に浴し、恐悦に存じまする』
 はっとなって首を左右に振り、声の主を捜す義経の耳に、また婉然とした嬌声が届いた。
『ほほほ、御曹司、私はこちらですよ。舟にいるのは御曹司もご存じでしょうに』
 義経はその声に導かれるまま、また顔を海上の顕姫に向けた。何か言いかけて、ふと思いとどまる。相手が何者であるか、義経は思いだしたのだ。
『そうそう、落ち着いてくらしゃれ。こここそ御曹司の正念場。都での妾の話は覚えて下さりますでしょうね』
 ここが正念場? 義経は頭の中で反芻して、また竦然としてその事を悟った。自分を阻む、八幡大菩薩の加護よりも大きな力。それが今この場にあるというのか! 
『その通りです。御曹司、まずはこの扇を射て注意を逸らすのです。当たりはずれはこの際問いませぬ。ですが扇の行方が決したその時、必ず隙が出来まする。そこを御曹司の持つその弓で射れば、必ずや倒すことが叶います』
 一体どこを射ればいいのだ? 義経がそう思考した途端、顕姫の声がまた耳元で囁かれた。
『御曹司もご覧でしょう。白々と我が前で小うるさく舞う一羽の虫を』
 義経は、顕姫の言う「虫」の姿に気が付くと、またぎょっとして顕姫を見た。我に、白拍子を、女を射よと申すのか?!
『左様でございます。ですが、外見の色香に惑わされてはなりませぬ。この者こそ平氏を守護し、今また御曹司の身を危殆に落とそうと計る闇の力の持ち主です。お疑いあるなら、弓を手にして白拍子を見りゃれ』
 義経は、操り人形のように顕姫の言うとおりにした。するとどうであろう。今までただ美麗な舟と扇の的、顕姫、そして美しくも儚げな白拍子の姿がおぼろに薄くなり、替わって白拍子の舞う姿を中心に、濃い霧のようなものが沸き立つように現れ、海の上を這うようにして次第に辺りに広がって行くのが見えるではないか。
『見えましたか。これぞ夢守の結界。妾でさえ、御曹司の耳に囁くことしかできなくするほどの、強い力でございます。この力に護られている上は、いかなる手だてをもってしても御曹司には平氏のもののふ達に指一本触れることも叶いませぬ』
 義経は目をしばたたいてもう一度白拍子を見た。その姿は、隣で宛然と笑みを振りまく顕姫とは対照的ながら、その容(かんばせ)や立ち居振る舞いは義経をして息を呑むほどに美しく、清々しさを覚えさえする。それをあの綾小路の果てで見た神社奉納の神弓と神矢で射殺せ、と言う。そうしなければ源氏の敗北は必死だ、と。義経は、手が白く変じるほどに強く弓を握った。相手は女の形をした化け物だ。我に祟る物の怪の類なのだ。けして外見に惑わされてはならぬ。本当の姿を見るのだ。惑わされてはならぬ、惑わされては・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10.与一 眩惑 その2

2008-04-13 20:02:30 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「・・・いしょう、御大将いかがなされた? 御大将!」
 義経は、はっとなって耳元でがなりたてる殺気だった声に気が付いた。弓を握る手を緩め、夢守の結界という白い靄のかかった世界から帰ってきた。
「な、なんだ義盛、わしがどうかしたか?」
「い、いえ。何やら御大将も我ら雑兵と同じくあの女共に心奪われている御様子に伺われましたので」
 義盛はあの雪の日以来ただ義経の身を案じ、可能な限り目を離さないようにしていた。今もほぼ全員の目が沖合いの女二人に注がれている折も、目を離しがたいのを無理に引き剥がし、義経の異様な姿に視線を転じていたのである。
「ハハハ、義盛、それは違うぞ。わしはあの扇の意味を考えておったのだ」
 義経は内心冷や汗にまみれながらも、手にした弓で舟を指し、艶やかな女房の上で上下に揺れる扇の方へ、義盛の注意を逸らした。
「そうですか。で、御大将には、あの舟を如何ご覧じる?」
 なおも不審げな様子を見せながらも、義盛は義経の話に乗った。義経は胸をなで下ろしつつ、今し方顕姫に教えられた通りに義盛に説明した。
「・・・つまりあの扇を、我らに射てみよ、と平氏の公達達は申されておるので?」
「そうよ。それで我らがそれを拒否すれば源氏は卑怯にも挑戦を逃げたとあざ笑い、いざ受けて立ってし損じれば、また嗤うに違いない。東国武士の習いとして、敵の挑戦に後ろを見せたり、ましてや負けることなど許されぬ。つまり、この勝負は受けるより他に手だてが無く、しかも絶対し損じる訳にはいかぬのじゃ。どうじゃ義盛、主が挑戦を受けてみるか? 主も弓には相応の自負があろう」
「い、いえ! 私の拙い芸ではとても射抜くのは難しゅうございます。それよりも、もっと優れた手練れの仁が、御大将の手の者にございますぞ」
「ほう? 義盛より優れておる者が、ここにいると? 面白い。すぐに呼べ!」
 やがて、明らかにほっと胸をなで下ろしつつ義盛が連れてきたのは、小柄な一見線の細い若者だった。
「下野国の住人、那須太郎資高が一子、与一宗高にございまする」
 義経は、自分とそれ程変わらない背の低い若者を一瞥し、不審の色も露わに義盛に言った。
「あの体つきで、本当にあの扇を射落とすほど強く弓が引けるのか?」
「大丈夫です。この者は、飛ぶ鳥も三羽に二羽は必ず射落とす手練れにて、見かけに似ず、三人張りの弓と一二束三伏の矢を使う強者です」
 弓の強さは、その弦を張るときに何人がかりで弓をたわめるか、で計られる。三人張りとは、屈強の男が三人で弓をたわめないと弦をその両端に引っかけられないと言うもので、まずは強弓の類と言ってよい。ちなみに、義経の叔父の一人で関東一の精兵の名をほしいままにした為朝は、五人張りの弓を引いたという。事実とすれば、そら恐ろしくなる程の怪力である。一方、矢は長いほど強く射ることが出来る。矢の長さは、篦(の)、即ち篠竹で作った軸の部分を計る。束とはこぶしが何個並ぶか、であり、実際に両手で交互に篦を握って幾つ握れたかで長さを記す。伏は束で余りが出たときのもので、その部分に指を並べて計る。即ち一二束三伏はこぶし一二個分と指三本分の長さの矢であり、ほとんど一三束に近い長さとなる。矢の標準的長さは一二束ちょうどなので、与一の矢は標準よりも指三つ分長い。もっとも、遠矢を競うときはもっと長大な矢が用いられることもある。後の壇ノ浦合戦では、平家物語に源平双方の精兵が、互いに矢の飛距離を争う場面があるが、そこで使われた最大の矢は、何と一五束もある。
 さて、義経は義盛の言になおも納得しがたいものがあったが、他に託せる者もない。義経はふっと一息つくと、目の前に跪く若者に言った。
「宗高、平氏の公達共があのような戯れ事を催して我らを嘲笑おうと待ちかまえておる。その方に命ずる。あの扇を見事射抜き、源氏の精兵ぶりをあ奴らに見物させてやれ」
 宗高は、やはりその話か、と密かに息を呑んだ。これがただの仲間内の戯れ事ならば、おうまかせろ、と一言に肯い、そして恐らく、見事ど真ん中を射抜いて見せたことだろう。だが、今この状況は、失敗したからといって、笑っていられる状況ではない。この一矢には、大げさでなく東国武士の名誉そのものがかかっているのだ。まさに真剣勝負。失敗したときの責任は、おのが命で購わなければならないだろう。良き敵と組み合っての討ち死にならまだ誉れもあるが、このようないわば芸事に命を懸ける価値があるだろうか? 義盛に声をかけられてからずっとその事を反芻していた宗高は、結局用意していた言葉を義経に説いた。
「確かに射止められると言う自信がございませぬ。それにここで射損じれば、永く味方の傷となるでしょう。何卒この儀は、確かに射落とすことの出来る御仁に御命じ下さりますよう」
 すると、見る見る義経の形相が変化した。義盛はまずい! と一言義経に声をかけようとしたが、それよりも早く、義経の大喝が宗高を襲った。
「この痴れ者がぁっ! この義経の命を何と心得おるか! 誰であろうと、この義経の命に逆らうことは許さん! もし聞けぬとあらば、早々にこの場から立ち去れ! そして二度とわしの目の前に現れるな! 義盛、その臆病者を我が陣から放り出せ!」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10.与一 眩惑 その3

2008-04-13 20:02:23 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 宗高は、思いもよらぬ義経の剣幕にすっかり縮み上がった。何といっても、まだ二〇そこそこの若者である。聞いていた話とは随分違う、と言うのも宗高の心には大きな衝撃だった。義経という人は随分気働きの人であり、滅多に他人を怒らず、また役目上叱らざるを得ないときも、回りに人が居ないことを確かめてからそっと叱ると聞いていた。また、それで相手が十分に反省すれば、必ず人前で褒める機会を作り、面目を保ってやると言う、細やかで情の効いた優しい人物、であるはずだった。だからこそ、伊勢三郎や佐藤兄弟のように、本来地縁も血縁も全く無い赤の他人が、この人のためなら命を落としても悔いはない、と言わせるだけの固い絆を結ばせたのだろう。宗高は、そんな有り難い関係に一種の憧憬を持って義経麾下にはせ参じた口だった。
 確かに、そう宗高を思わせたこの義経の主従関係は珍しいものである。比肩する者を捜すとすれば、木曽義仲と今井兼平主従が上げられようが、この二人は幼少時からの竹馬の友である。この義経主従のように、長じてからの出会いでここまでの結束を固める例はまず見あたらない。気働きなら故入道相国平清盛が有名で、平氏隆盛の一因に上げられるほどの人たらしの才を誇ったが、義経のそれは清盛すら凌駕するものがあったかも知れない。地縁、血縁といった古い秩序を重んじる頼朝からすれば、このような集団は明らかに異質であり、脅威であった。頼朝がこの弟を嫌い、恐れさえした理由の一端が、ここにあったのだろう。
 こうして与一宗高は、想像上で慕っていた義経の現実との落差に戸惑い、めまいすら覚えたが、もはや是非なし、と思い切った。もともともう一方の雄と言える梶原景時とはそりが合わなかったし、義経を主人と選び、あの危険な四国渡海まで付き合った以上、今更渡辺津までのこのこ帰ることは出来ない。それに、今の癇癪を爆発させた義経こそ幻滅するものがあるが、四国に渡ってからの指揮ぶりはほとんど無謬に近く、御大将に仰ぐだけの非凡が迸っていた。宗高はその事を思い起こし、一時の癇癪で主を替えるような軽はずみなことはしてはならない、と自分に言い聞かせた。
「判りました。確かに射抜けるかどうかは判りませんが、御大将のご命令とあれば、宗高、しかと承りましてござりまする」
 すると、義盛になだめられてなおわめき散らしていた義経は、それまでの怒りをけろり、と忘れたような笑顔を宗高に向けた。
「うむ、頼むぞ」
 続けて義盛の、見るからに胸をなで下ろした安堵の声が、喜色を帯びて宗高に届いた。
「御大将、この者ならば必ずご期待に添うこと間違いありませぬ」
 宗高は薄気味悪い思いを胸にしまい込みながら、一礼して自分の馬に戻ると、直ちに従者達に命じて鞍や鐙の準備をさせた。自分も高紐に掛けていた兜を改めてかぶり、ぎゅっと緒を締めて気合いをいれる。次に七尺三寸ある愛用の弓を手に取り、弦をはじいてその張り具合を入念に確かめた。更にかねて用意の鏑矢一筋を手にして、一二束三伏ある篦が歪んでないか、白地に黒褐色の斑紋も鮮やかな切斑の矢羽が乱れていないかも丹念に見定めた。やがて、馬の準備もできた。黒くたくましい馬体に、小房の鞦(しりがい(馬の尾から鞍に掛け渡す組み紐)とまろぼやの紋を刷って磨き上げた鞍が見るからに美しく映えている。どちらの馬具も、きっと来るに違いない大一番に備え、特にあつらえた逸品である。宗高は満足げに馬を眺めると、若者らしいきびきびとした動きで、その鞍にまたがった。
 この日の与一の出立ちは、褐色に赤地の錦で飾った直垂の上に、萌黄縅の鎧着て、足白なる銀こしらえの太刀をはき、重藤の弓を脇に挟んでいたと平家物語は言う。今にも西の海に沈まんとする夕日を、まだ幼さも残る左頬に受け、真一文字に結んだ口元や決意を秘めた鋭い視線。艶やかな衣装に身を包み、颯爽と進む様は、まさに一幅の絵を成すに足る美々しさであったそうだ。もっとも、舞台は屋島東岸であり、高さ300メートル近い台形の山が聳えるふもとで、美しい夕日が見えていたとは実のところ考えづらい。恐らく屋島の地形を知らぬ、平家物語作者の創作であろう。だが、確かにここは、印象的な平家物語の情景描写の中でも特に秀逸な出来映えである。そこでここは、そんな美しい描写をなしえた平家物語の作者に敬意を表し、あくまで物語の叙述通りの舞台として、この話を進める。
 閑話休題。
 宗高は駒を進めて海に入った。源平は誰が音頭をとったわけでもないまま、しん、と静まり返って一人の若者の一挙手一投足に視線を注ぐ。辺りは、小船で催される楽、時に砂をも舞上げるほどに強く吹く北風と波、それに宗高の乗る馬が踏む砂と水の音だけが、この夕日一色に染まった世界に聞こえてくる。宗高が見やる舟までの距離は、およそ八段余り(約90メートル)。飛ばすだけならともかく、確実に射当てるのは難しい距離である。それを見て取った宗高は、躊躇いもなく馬を更に沖へと進めさせた。
(大丈夫だ、必ずやってくれる)
 義盛は、宗高の落ち着いた手綱さばきを見て自分に言い聞かせた。宗高に無言の応援を送り続ける義盛は、知らず知らずの内に義経の傍らから離れていた。替わりに義経の傍らには、佐藤三郎兵衛嗣信が、苦笑の色を顔に閃かせながら付いた。自ら推挙した以上入れ込むのも判るが、御大将の元まで離れてどうする、と言うわけである。ちなみに、嗣信も義経が成人してからの従者である。もともと幼い義経を匿い養っていた藤原秀郷の家臣であり、義経が挙兵した頼朝の元へはせ参じたとき、秀郷より特に命じられて義経に付いた、東北随一の勇者であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10.与一 眩惑 その4

2008-04-13 20:02:14 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
そうする内にも、宗高は馬を一段ばかり海に乗り入れた。そこで、具合良く砂から突き出ていた岩に馬の前足をかけた。ここで改めて丹田に力を込めて腰を据える。弓道で言うところの胴づくりに当たる、重要な動作である。こうして自身の身をしっかりと固定した宗高は、左に弓、右に用意の鏑矢を持って、彼方の舟に目をやった。ふと、扇の他に、その脇で舞う白拍子に目がいった。ちょうどくるりと回って真白き容が前を向いたとき、その目が大きく開いて、自分の視線と交錯したように宗高は感じた。その途端である。確かに後七段ばかり、と見ていたはずの舟までの距離が、にわかに遠のいたように見えた。思わず目をしばたたいて見直したが、今度は何か白い靄がかかったように視線が霞み、開いた扇に描かれた赤い丸が、小さく、小さく縮こまってほとんど点に変じたように見えた。緊張の余りか、一瞬意識が遠のき、腰を据えたはずの体が、思わずぐらりと傾きかけた。
(駄目だ、はずす!)
 一旦そう頭に浮かぶと、幾ら振り払おうとしてもこびり付いて離れない。
(し、しっかりしろ! このままではやり損なうぞ!)
 焦りが身を竦ませ、痺れた手から思わず落としそうになっては、慌てて矢を握り直す。過敏にも宗高の動揺を察知した馬も、海に入る辛さを今更ながらに思い出したように、ぶるぶると身じろぎをして宗高を慌てさせた。後方の海岸から、大丈夫か? と囁きかわすざわめきが聞こえてきた。覚悟を決めて出てきたはずなのに、宗高は、恥も外聞も捨ててこのまま無性に濱に向かって駆け出したくなった。もはや矢など射れるはずもない。海岸で、自分を推挙した伊勢三郎義盛のうろたえたような、怒ったような視線が注がれ、思わず宗高は反射的に振り返った。そして、見た。御大将義経が、手にした弓を引き絞り、自分の背中に狙いを定めて矢をつがえているではないか!
 はっとなった宗高は、その瞬間、自分を内から縛り上げていた見えない呪縛を振りほどいた。そうだ、命を承ったときに、もしはずすことあればその場で自害して果てよう、と決めたのではないか。勝負は知らず、たとえその末に死を選ぶことになろうとも、敵を前に逃げ出して、味方から討たれるなどというみっともない恥をさらすなど、到底許せるはずはない。そんな恥辱を受ける位なら、いっそ堂々とはずして死ねや宗高!
 宗高は、顔を上げて舟を見た。さっきまでに比べると波も風も穏やかになったのか、舟の揺れも収まっているかのように見える。それに、手を伸ばせば届くのではないか、と思うほどに舟が近くに見える。いや、既に宗高の目には、扇の的以外に目に入るものはなかった。もう宗高は迷わなかった。
「参る」
 一言呟いて矢をつがえた宗高は、いと軽々と弓を引くと、何の躊躇いもなく右手の力を抜いた。たちまち、数千匹の蜂が群を成して飛んでいくような、鏑矢独特の飛翔音が海面を圧して鳴り響いた。そしてその二股になった鏃は、まるで初めから見えない糸で結ばれていたかのように、真っ直ぐ扇の要に吸い込まれていった。
 カン!
 金属と金属が打ち合う小さな音が、源平両陣営の、固唾を呑んで見守っていた千を越える耳を貫いていった。やかましいほどににぎやかだった音曲が途絶え、勢いを失った鏑矢が水に落ちる音が妙にはっきりと響いた。同じく千を越える目が、夕日にきらめく海上を、ふわふわと舞う一差しの扇の姿を追った。ただ一対の目を除いて・・・。
 その瞬間、ビン! と空気を引き裂いた弓弦の音は以外に小さく、すぐ近くにいた佐藤嗣信以外に気付いた者はなかった。が、音に驚いて振り返った嗣信も、ちらり、と何かまぶしい光が、真っ直ぐ海上に突き進むのを見るのがやっとであった。その光は、大役を果たして精根尽き果てがっくり肩を落とした与一宗高の傍らを瞬時に走り抜け、遙か一〇段は隔たった沖合いで、呆然と宙を舞う扇を見上げる一人の白拍子の胸に吸い込まれた。白拍子は、嗣信が、あっ! と声を上げる間もなく仰向けに倒れ、小さな水音を立てて嗣信の視界から消えた。信じがたい光景に我が目を疑った嗣信は、弓弦の音の方に目をやって思わずぞっと怖気を振るった。唯一無二、と思い込んでいた我が主君が、手にする弓で女を射て、にやりと笑みを浮かべたのだ。嗣信はたちまち爆発的な怒りの感情が、腹の底から紅蓮の炎を渦巻いて身を焼き焦がすのを覚えた。君臣の間のわきまえなど、その怒りを前にしては、紗(うすぎぬ)一枚の抵抗すらなしえなかった。
「御大将!」
 感情の高ぶるままに嗣信が叫んだその時だった。
「敵襲だっ!」
 新たな叫びが、今にも沈まんとする真っ赤な太陽の方から迸った。思わず振り向いた諸将の目に、全身を赤く染めた異様に大きな一騎の騎馬武者が映った。騎馬武者は、狂ったような雄叫びを上げながら、凄まじい勢いで源氏がたむろする海岸に、突っ込んで行った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11.智盛 狂乱 その1

2008-04-13 20:01:54 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 砂浜を、岩場を、海岸沿いに駆け抜ける一陣の疾風がある。背に真っ赤な夕日を浴びつつ東へと飛ぶそれは、馬の数倍ある巨体を白銀の毛並みに包んだ一頭の狼と、その背にしがみつく白銀作りで鎧うた一人の若武者、仁保平と智盛である。二人が築山公綱率いる側近達と別れてまだ小半時もたっていないのに、早くもその視界には海に突き出す黒々とした屋島の姿が映っている。付け根辺りから立ち上る煙が、北からの風に煽られて陸の方になびいている様が、はっきりと見て取れる。
(大丈夫、まだ間に合う。まだ間に合う!)
 智盛は必死にしがみつきながら、ひたすらその事だけを念じた。
 仁保平の背中は、どんな悍馬をも自在に乗りこなす智盛でさえ、大変な苦労を伴う場所である。第一に、とてつもなく速い。しかも、浜だろうが岩だろうが雑木林だろうが、お構いなしに最短距離をただ突っ走るのだから、いわば単騎万を超える敵軍に突進しているようなものだ。顔や肩には次々と小石や折れ枝の類がぶつかってくる。震動も激しい。もともと馬と狼では走るときの姿勢が異なる。下手に口を開けばたちまち舌を噛むことになるし、ちょっとでも気を許せば、その瞬間に落馬ならぬ落狼を余儀なくされるであろう。もともと鞍も鐙もない獣の背中へ直にしがみついているのだから、いかに智盛が馬術の達人だからと言って出来ることはたかが知れている。
 それでも、この状況にあってなお智盛は、仁保平に状況を聞きたがった。仁保平もまた、智盛に事態の深刻さを知って貰う必要を感じたのであろう。とぎれとぎれになりながらも、出来る限り詳しく智盛にこれまでの経緯を語った。そして智盛は知った。麗夢が、源氏軍などものの数ではない大変な相手と人知れず敵対していたことを。
(何故わしに言ってくれなかったのだ!)
 智盛は唇を噛み締めてそう思い、すぐに、言えるはずのない麗夢の立場に思い至った。そもそも智盛は気づきさえしなかったのだ。あれほど後生大事と思っていた女性の悩み事を、その片鱗さえ感づいてやることが出来なかった。
(全ては、わしが悪い)
 智盛は自分の迂闊さ、愚かさに無念のほぞを噛んだ。麗夢が言えないようにしたのは自分ではないか。些細なことで齟齬をきたし、距離を離れ壁をこさえていたのは、誰あろう自分自身だ。麗夢を信じてやれなかったのは、この四位少将平智盛という愚か者ではないか。神々しいまでの笛と舞、煙る様な微笑み、たおやかだが、芯に強い力を感じる心映え。全てあれほど愛おしいと思い、我が生の全てを上げて尽くしたいと願っていたというのに、この愚か者はただただ相手に甘えるばかりであった。
(済まぬ、麗夢。今度こそわしは素直に謝る。だから、無事でいてくれ!)
 元より、麗夢が相手をする巨大な力、大魔縁崇徳院に対し、一介のもののふたる自分が何を出来ようとも思えない。だが、ちゃんと信じてやれれば、今度こそ一点の曇りもなく麗夢を信じることが出来れば、あの娘の力は十億万土に遍く渡る、如来のそれすら凌駕する無限の力を生み出すはずだった。
(無事でいてくれ。無事でいてくれよ、麗夢!)
 そうこうする内に、仁保平は早くも屋島西側の対岸に辿り着いた。そしてそのまま水も干上がるかと言わぬばかりに盛大な飛沫を上げて海を突っ切ると、正面の断崖を一足飛びに駆け上がった。その時、ちらと見えた行き過ぎし海辺が、妙に赤い事に智盛は気付いた。夕日に映えるにしては少しおかしい。雑木林と断崖絶壁を飛ぶように駆け上がり、獅子霊巌と名付けられた岩を飛び越えて山頂の屋島寺境内に踏み込んだとき、唐突に智盛は、その赤いものの正体に気が付いた。
「匂丸! 大丈夫か!?」
 仁保平は一旦見晴らしのいい東側の断崖手前で立ち止まると、苦しげに舌を出し、幾ら呼吸しても息が足らぬと言わぬばかりにただハアハアと繰り返した。時折、目を固く閉じるのは、ただ一人、大事と願う姫の身を案じ、尽きようとする命を必死でつなぎ止める為の儀式である。既に四肢に力が入らない。ちょっとでも気を抜けば、そのままどうと横倒れになってしまうだろう。だが、ここまで来て、倒れるわけには行かなかった。ましてや眼下はるかに浮かぶ一艘の舟に、おのが主の無事な姿を見たからには。
『と、智盛様、あれ……を』
 仁保平は智盛の問いに答えず、顎をしゃくって眼下の海上に注意を促した。
「あれは! 一体何をしているんだ?」
『行く、ぞ。し、しっかり掴まって!』
 仁保平は、麗夢の傍らに座る人物の姿もしっかりと目に留めた。間に合った。だが、危険はすぐ側に迫っている。奴は、最大の敵は自分達よりもはるかに姫の側近いところで、婉然と機会を窺っている! 猛然と東の崖を駆け下りようとした二人の耳に、遠くで熊ン蜂が猛々しく唸りを上げて飛ぶような音が届いた。次の瞬間には、目に、舟の上から何か白いものがひらり、と舞飛ぶのが見えた。そして主が余りに無防備に、舞を止めてその白いものを見上げる様子が見えた。
『危ない!』
 仁保平の叫びと同時に、眼下の海岸から飛んだ一筋の光が主の胸に吸い込まれた。
 智盛と仁保平の目がこれ以上ないほどに見開かれた。唯一無二の存在が、今、ぐらりと仰向けに倒れ、そのまま船端を越えて小さな水柱を上げる様が、妙にゆっくりと二人の目に映った。同時に、胡麻粒のようにしか見えないはずの光を放ったその元で、にやりと口をゆがめて弓を収める若者の姿が、何故かはっきりと二人には見えた。
 二人の中で、何かが切れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11.智盛 狂乱 その2

2008-04-13 20:01:45 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「うぉおおおぉおぅっ!」
 次の瞬間、智盛の腹の底から突き上げてきたものは、ほとんど人間のそれとは思えない膨大な感情の爆発であった。それに唱和するように、仁保平の地鳴りするが如き遠吠えが屋島の山に木霊する。その一瞬後、二人の姿は山頂から唐突に消えた。
 駆け下りる、などというような生やさしいものではない。まさに落ちると言うに相応しい勢いで、二人は目の前に陣取る源氏の勢に、文字通り飛びかかっていった。
「道を開けろっ!」
 海岸に降り立つや、智盛はやにわに弓を手に取ると、ほとんど目に留めることさえ出来ぬ早業でたちまち一〇の矢を放ち、居並ぶ騎馬武者を一〇人まで射倒した。疎らになった源氏軍のただ中を、狂った野獣が突進する。突然のことに対応できない武者の群が、右往左往して仁保平の巨体に当てられぬよう逃げまどう。智盛は手当たり次第に矢を放ち、その度に源氏の名だたる武将達が手傷を負い、命を落とした。
「匂丸! 突っ込め!」
『おう!』
 白銀の色をした一陣の疾風が、迅雷となって源氏勢のただ中を稲光った。智盛と仁保平の前に立つ武士は無く、一直線に、目指す相手の姿が浮かび上がった。
「義経っ! そこな動くなぁっ!」
 義経は身じろぎもせず金縛られたかのごとく立ちつくしているように智盛には見えた。
 だが、混乱する源氏勢を文字通り切り裂いてもう義経までは一駆けとなったその時だった。ただ目を丸くしているばかりに見えた義経の口元が、ぐにゃりと歪んで上に引きつった。同時に、所在なく垂れ下がっていた腕がすうっと音もなく上がり、手にした弓を真っ直ぐ智盛に向けた。
 !
 次の瞬間、義経の手元から放たれた光に、智盛は反応することが出来なかった。義経は待っていたのだ。どんなに智盛が優れた武将であったとしても、絶対に避けることが出来なくなるその瞬間まで、惚けた振りをして智盛達を呼び込んだのである。智盛は背筋を貫く戦慄すら覚える暇もなく、麗夢を貫いた同じ光に、その身を晒すしかなかった。
「ぐぅわぁあぁっ!」
 獣じみた悲鳴が、智盛の目の前で打ち離された。気が付くと智盛の視界は、銀色の毛並みに覆い尽くされ、あの、にやりと口を曲げた忌々しき反っ歯も、こちらに向けられた古色蒼然とした弓も見ることが出来なかった。智盛は悟った。あのとてつもなく速い矢にただ一人反応できた者がいたことを。
 どう、とその者が倒れた拍子に、智盛も溜まらず前に放り出された。智盛は、痛みも忘れてすぐに立ち上がると、血を吐いて動きを止めた巨大な狼に駆け寄った。
「匂丸、しっかりしろ!」
 光をはじく美しい白銀の毛並みが艶を失い、その胸だけが夕日に負けぬほどに朱に染まり、流れ出る新たな血が、川となって砂に吸い込まれていった。都での激闘の後、淀の沖合いで義経に射られ、一晩を冷たい海中に漂い、更に傷の手当もままならぬままここまで智盛を乗せて全力疾走してきたのである。体力はほとんど限界を超えていたであろう。ただそれを姫様愛おしの一念だけで支えてきたのだ。だが、義経に加えられた新たな一矢が、その仁保平最後の支えを突き崩した。もはや、幾ら心は猛く思えども、流れ出た血は心で支えられる量を超えてしまった。仁保平がその巨体を砂浜に横たえて間もなく、その全身の銀毛がにわかにぶれると、数万の蛍がそこから空に群舞するかのように、無数の淡い光の粒が仁保平の全身を包み込んだ。その光は、ふわふわと仁保平の上に浮かび上がっては、空中に溶けるようにして消えていった。やがて最後の一粒が宙に消えた時、仁保平の巨体はそこになく、幼さを残す童が横たわるばかりであった。
「に、にほへ・・・匂・・・丸・・・?」
 智盛は、言葉を忘れたかのように一言一言頼りなげに発音すると、わななく両の手を匂丸の方に向け、今は小さな童子となったその体を抱き上げる。だが、童子はただぐったりと九の字に曲がり、智盛の手を滑り落ちた。
「あ・・・あっ! う゛ぁああああああああああああああっ!」
 大きく目を見開いた智盛は、今失ってしまった命を前に、頭をかかえて絶叫した。そして再び前を向いて、また智盛は人とも思えぬ凄まじい絶叫を放った。今矢を放ったばかりの弓をまだこちらに向けたまま。その小柄な武将がまたもにやりと口元をゆがめるのが見えたからである。
 怒りの形相も新たに智盛は弓を手に取るや、瞬き一つする間も許さず必殺の矢を射放った。だが、智盛渾身の一閃も、義経を捉えるには至らなかった。ずん、と敵の肉体に矢が突き通る独特の手応えを感じた智盛は、その目の前に狙っていた相手とは似ても似つかぬ髭面の甲冑姿を見た。
「お、御大将・・・」
 義経は、すぐ脇に立っていた佐藤嗣信の襟元に手を伸ばし、自分の盾に引きずり出したのである。
「嗣信、大儀であった」
 義経は冷然と言い放つと、胸の鎧を射抜かれて致命傷を負ったその騎馬武者を、無造作に足元へ放り投げた。命を失った肉体が砂にのめり込む音が智盛の耳に届き、痺れた心に活を入れた。
「お、おのれ・・・、おのれ、おのれ、おのれっ!」
 智盛は頂点を突き抜けた怒りに我知らずわめきたてながら、今一度矢を放とうと矢筒に手をやった。が、矢を求めて二度掌が空を切ったとき、智盛は自分が矢を射尽くしたことを悟った。どんな戦場でも、自分の矢の残数を忘れたことの無かった勇将が、今、この場に我を忘れたあげく、矢種を撃ち尽くしたことに全く気づかなかったのだ。だが、最も強力な武器を失ったからと言って智盛の戦意は衰えない。いや、たとえ肉体一つになったとしても、智盛の突進は止まなかっただろう。むしろその怒りの火に油が注がれた形となって、智盛はまだ残された強力なる武器、腰の太刀に手をかけた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11.智盛 狂乱 その3

2008-04-13 20:01:37 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「殿! 待たれい!」
 突然智盛はがっしと後ろから羽交い締めにされた。聞き覚えのある声が耳を打ち、智盛の顔を振りかえらせた。そこに、ついさっき別れたばかりの見慣れた丸顔があった。だが智盛は、ようやくのことで追いついてきた我が側近の手を、ただ絶叫をわめき散らしながら振り払おうと暴れまくった。対する築山公綱も、その手を固く抱えて離そうとしない。
「殿、しっかりなされよ! 今は引くのじゃ! これ以上無益な殺し合いを続けていてはいけませぬ!」
 智盛は、もう一度自分を羽交い締めにするそばかすだらけの丸顔に振り返った。
「離せ公綱! あの、あの男を許す訳にはいかんのだぁっ!」
 智盛の怒りが見えない炎となって義経の姿に吹きかけられる。一目たりとも見逃さぬと言う決意が、その反っ歯に焦点を合わせている。狂える奔馬と化した危険な強者を、公綱も必死の形相で押さえ込んだ。
「源氏の重囲にあってはいかに智盛様とて一人では何もできますまい! ここは一旦引いて下され!」
 公綱は、まさか自分の敬愛する主がここまで荒れるとは思いもよらなかった。裏を返せば、それだけ失われてはならぬものを失ってしまったと言うことだ。公綱は自分が一歩及ばなかったことに歯がみして悔しがった。転覆の危険を冒してまで強風下に帆を掛け、公綱自らも櫓を取って船を漕いできたというのに、夢御前が、そして匂丸までが失われる悲劇が待っていたとは。その上自分の主まで、こんなところで失うわけには、公綱としては死んでも許すわけにはいかなかった。だが、智盛の執念はそんな公綱の思いすら上回った。智盛はまた一段と凄まじい咆哮を上げると、公綱のがっしと抱え込んだ腕に噛みついたのである。
「殿!」
 思わず腕を緩めた公綱を振りほどき、智盛は腰の刀を抜き放つと、真っ直ぐ義経目がけ突進した。危険を覚えた周りの武者が次々と矢を放ったが、智盛は水車のごとく大刀を振り回して矢を切り落とし、僅かに二筋を右肩の大袖と左胸の鳩尾の板に立てただけで、目指す義経を射程距離に捉えたのである。
「どけっ!」
 横薙ぎに払った智盛の太刀が、義経の前に盾となろうとした武者の首をひいふつ、と切り落とした。たちまち頸動脈から噴水の如き血が天を指して吹き上がり、あたりを金気臭い匂いで染め上げる。首を失った体が二、三歩ふらついてどうと倒れると、智盛は思い切りよく砂を蹴り、義経目がけて飛びかかった。同時にその切っ先を逆袈裟に切り上げる。その瞬間、かん、と乾いた音を残し、刀の勢いを一心に受けた一張りの弓が、義経の手を離れて飛んだ。弓はそのまま海まで飛び、それに相応しい水音を立てて、波間に消えた。
「あっ、弓が!」
 それまで傲岸不遜の代名詞だった顔が、まるで大事な宝物を無理解な大人に捨てられた子供のように泣き崩れた。義経は辛うじて智盛をかわすと、弓の飛んだ方へ馬を走らせようとした。
「御大将! 何をしておられる!」
 理性を失ったとしか思えないその腕を押さえたのは、第一の忠臣伊勢三郎義盛だった。
「今はお引きなさい! このまま乱戦に呑み込まれては、数に劣る我らが不利じゃ!」
「でも、弓が!」
「たかが一張りの弓! 捨ておかれい!」
「あの弓は、ただの弓ではないのだ! 離せ義盛!」
「お聞き分けなされ御大将! さあ、こちらへ!」
 義盛は相手の馬の口を捉えると、そのまま強引に後方へ引きずった。
「待て義経っ!」
 智盛もまた、再び公綱に取り付かれて義経への二撃目を阻まれていた。期せずして双方の側近の思惑が一致した。互いに再戦を誓う目配せをかわすと、公綱と義盛はおのが主を無理矢理自分の望む方向に引きずったのである。だが、馬上引かれる方はまだ抗いながらもその手を振り払って走り出すほど暴れはしなかった。問題は海目がけて引かれていく方であった。公綱は一人では抑えきれない、と、更に配下の強力でなる若者を二人呼び寄せて智盛の身を抑えさせた。だが、それでもやもすると振りほどかれかねない。もはや尋常の手段では我が主をお止めすることが出来ない。公綱は是非無し、と決断せざるを得なかった。
「殿っ! ご免!」
 公綱は智盛の鎧の草摺を掻き上げ、更に腹を覆う弦走りをもたくし上げると、渾身の力を右の拳に託し、敬愛する主の鳩尾を打ち据えた。智盛は、ぐっとうなり声を漏らして海老なりに背中を丸めると、そのまま脱力して公綱にもたれかかった。拳がそのまま背中に突き抜けるのではないか、とはた目には映るほどに強烈な一撃だけが、ようやく狂える魂を一時的に封印できたのである。意識を失って急に重さを増したその体を支えながら、公綱は不安な面もちを隠そうともせず、ただ一人ごちた。
「さて、目覚められた時にはたして何と申し上げようか・・・」
 公綱の疲労で落ちくぼんだ目が、次第に暗さを増していく中、すっかり日が没した海をあてど無く見つめていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.麗夢 哀恋 その1

2008-04-13 20:00:58 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
 大小二〇〇を越える船団が、おだやかさを取り戻した夜の海をたゆたっていた。その進路は、既に真円からははずれてやせが目立ち始めた月に照らされつつ、全体に西へ舳先を向けている。だがその足取りは鈍く、また頼りない。日のある内は、勇壮なまでに風になびいていた赤い旗も力無く垂れ、舳先に灯された篝火も、ゆらゆらと揺れて今にも消え入りそうにさえ見える。敗けるというのは、実はこう言うところに現れるのかも知れない。それぞれの舟の中は、悔恨、悲嘆、やりきれない怒りと無力感で満たされている。もはや逆転など金輪際ありえない。船団は、そんな絶望の淵をなぞるようにして、ただひたすら彦島を目指して進んでいた。
 智盛は、そんな船団の中央付近にある、一際大きな舟の奥に身を横たえていた。鎧兜は既にその身からはずされていたが、おぼろに桜をあしらった直垂と裾を絞った袴はそのままである。直垂のそこここに点々と染まる黒い染みは、恐らく仁保平の熱き血潮であろう。智盛はまだ、戦場の匂いを体中にまとわりつかせてこんこんと眠り続けていた。
 その匂いに誘われるように、幽かな衣擦れの音が近づいてきた。やがてその音は、智盛の眠る部屋に、舟板一枚軋ませることなく流れ込んだ。寝ずの番で宿直に付いているはずの若侍が、その持ち場ですうっと眠りに滑り込んだのを皮切りに、衣擦れを中心に眠りの輪が広がっていった。その衣擦れは、やがてこの唐船の全てが眠りにつくと、くくく、とくぐもった笑い声を幽かに立てた。
「今少しじゃ。今度こそこの肉体を手に入れてくれる」
 綾錦も麗しき女房装束に身を包んだ美しい娘が、胸に八角形の大きな鏡を抱えて立っていた。扇占の後、忽然と姿を消していた、平大納言時忠が娘、顕姫である。だが、その口調は微妙に顕姫のそれとは異なっていた。智盛を見下ろすその視線も、かつて男達に見せていた媚びるような色がすっかり消え、傲慢で自信に満ちあふれたものに変わっている。その強者ならではの力強い視線が、智盛を見る内に陶酔の柔らかさを宿していった。
 全く、ほれぼれするような美しい肢体だった。均整良く発達した骨格と、それを包む躍動感溢れる筋肉。それは、天才仏師が精魂込めて打ち出した仁王像に比べてもおさおさ劣らない美しさだ。違いがあるとすれば、仁王が足を地面にめり込ませんばかりに踏ん張る重厚な力強さを溢れさせているのに対し、こちらはより柔軟で瞬発力に優れた、カモシカのそれを彷彿させる颯爽とした生きの良さを想起させる点にあるだろう。
(鎮西八郎や悪源太でも、これほどの美しさはなかった)
 顕姫は、かつて見た豪傑達と足下のそれとを比較して舌なめずりすると、これぞ我が体と成すに相応しい、とほくそ笑んだ。後は一つになっておのが精をこの深い眠りに落ちた身に注ぎ込むだけである。再び衣擦れの音を引きずって、智盛の側に跪いてにじり寄る。鏡を抱いたまま器用に顔を智盛の顔に寄せた顕姫は、そっとその唇に自分の唇を重ね合わそうとして、ふと止まった。幽かに、だが確かにある旋律を持った笛の音色が、顕姫の耳に届いたのである。それは過ぐる日、屋島にあった維盛の屋敷に流れたものと同じ音色であった。顕姫は眉をひそめて顔を上げると、辺りをゆっくりと見回した。
『顕仁殿、それ以上智盛様に近づくことは許しませぬ』
 いつの間にか、すぐ側に白い影が立っていた。全体がおぼろに見えるのは、内から光を放つからであろうか? 純白の狩衣袴にその肢体を包み、黒い烏帽子の下で、つやつやと輝く真っ直ぐな黒髪がその背中を覆い隠している。眠るように目を閉じ、その衣装に勝るとも劣らぬ白き肌を二の腕まで露わにして愛用の横笛をそと摘み、一心に奏でている。だが、その笛の下、胸の所からにょっきりと生えているものは、全体を彩る淡い柔らかな光を、禍々しい暗い闇におとしめるほどな、一種異様の非現実感を醸し出していた。顕姫も、それを認めてにやりと嗤った。
「生きていたか、夢守。やはりおことも、化け物よの」
 すると麗夢は、笛を操ったまま音ならぬ声で顕姫に言った。
『夢守は、夢の中では死にませぬ。ここは智盛様の夢の中。顕仁殿の思い通りにはさせませぬぞ』
「邪魔だては無用じゃ、夢守よ。確かにおことの体には辛うじて息があるらしいが、ここで無理をすればたとえそなたとて無事では済まぬぞえ」
『我が身はどうなろうとよいのです』
 相変わらず笛が室内を音で浸すようにゆっくりと旋律を繰り返す。顕姫は、その音色が微妙に変化したのを聞き分けた。
「化け物でも恋の病に落ちるとはのう。力を温存しておれば助からぬ事もあるまいに、それでも我に逆らうというのか」
 返事は、ない。ただ一心に笛を吹く姿があるばかりだ。顕姫は大げさに一つため息を付いた。
「だが、もはやおことには邪魔だてする暇もあるまい。我が唇をこの男に重ねることを、そんな離れた場所から阻むことができようものか」
 返事が無いのを良いことに、顕姫は笛の音を無視して強引にかがみ込んだ。
 ばちっ! と軽い火花が散って、顕姫の唇をしたたかに打ち付けた。思わず距離を取った顕姫の唇から、一筋の赤い血が形の良い顎に流れ出る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12.麗夢 哀恋 その2

2008-04-13 20:00:51 | 麗夢小説『麗しき夢 屋島哀悼編』
「なるほど、結界かえ」
 ぺろり、と長い舌を出して血を舐め取った顕姫は、智盛の側から立ち上がると、笛を止めない白拍子に相対した。
「やはりおことには死んでもらわねばならぬらしいな、夢守」
 手にした鏡が、突然明るく光を放った。鏡面が水のようにさざ波立ち、光に押し出されるようにして、五匹の蛇がその太い体をくねらせながら現れ出た。ほとんど部屋一杯に広がった大蛇達は、生臭い臭いを充満させて、清楚な音色を駆逐していった。
「我が夜を日に次いでしたためた五部大乗経の功徳じゃ。浄土の蓮池でも地獄の釜でも、望むところに逝くがいい」
 笛の音色が強まった。音の大きさや高さが変化したのではない。音の密度、とでも言えばいいのであろうか。それまで、ただ静かに辺りを支配していた空気が、更に力を加えて他を圧するほどに気配を強めたのである。
「ほう、なかなかやるな。だが、その程度の結界ではものの役に立たぬぞ」
 一旦たじろぎを見せた大蛇達は、再び鎌首をもたげていと小さき白拍子に迫った。大蛇が進むたびに床がきしみ、絡み合う尾が舟を揺るがせるほどに右に左に打ち振られる。やがて、その内の一匹が一段とその首を高くもたげると、赤い口を大きく広げ、麗夢の頭上から襲いかかった。
 そのまま麗夢を一のみにせんと降ってきた蛇の頭が、突然巨大な巌に激突したかのように空中で静止した。その蛇の鼻面に、小さな男女の手が添えられている。さすがに顕姫も目を剥いてその姿を凝視した。
「何故じゃ。何故生きておる?」
 二人は見かけに相応しからぬ獰猛な笑みを浮かべると、信じがたい膂力を発揮して、大蛇の首を投げ飛ばした。
「夢の姫君あらせられる所、守護し奉る霊獣有り!」
 もんどり打って向かいの壁面に叩き付けられた大蛇に向かって、童子、匂丸は胸を張った。
「そうよ。たとえ肉体が滅んでも、夢にある限り我らは不滅なの!」
 匂丸の横にすっくと立ったのは、無邪気なえくぼも可愛らしい童女、色葉の姿である。
「こ、この化け物共が・・・。もはや容赦はせん。今度こそ二度と復活できないようにすりつぶしてくれる」
 鏡の表面が再びさざ波立った。急速に渦を巻く黒雲が鏡の中に浮かび上がり、その中央に、一人の男が現れた。かつては典雅で理知的な眼差しを浮かべていたであろう両の目は深く落ちくぼみ、殺気溢れる鋭い眼光を宿している。かつてはふくよかで優しげな内心を映していた顔が、こそげ落ちた肉と張りの失せた肌でどす黒く染まっている。かつては美しく梳られていた艶やかな黒髪が、伸び放題のざんばらに乱れ、ほとんど煤けた灰白色を呈している。口の周りや顎も同じ色、同じ様子の髭で散々に覆われ、かつてはきれいに剃り上げてぼかし墨を点じられていた眉もまた、どうすればこれほどまでに伸びるのか、と驚くほどに、艶の失せた毛を顔からはみ出させている。歌に優れ、慈悲と優しさに満ちたかつての貴公子、崇徳上皇のなれの果てが、かつては見事に鉄塗りして美しく黒かったはずの乱杭歯をむき出しにし、麗夢達に向かって吼え立てた。途端に顕姫の姿も奇怪な変化を遂げ始めた。蠱惑的な肢体が徐々に縮み、見る者全てを振りかえらせる眉目秀麗な顔立ちが崩れだした。獰猛な筋肉質の毛むくじゃらな肉体が、華麗な女房装束を内から引き裂き、鏡をそのまま人に練り上げたようななめらかな肌へ獣のそれを思わせる剛毛が生えてくる。やがて姿を露わにしたそれは、かつて、鵺(ぬえ)と呼ばれた怪物へと姿を変えた。
 平家物語によると、源三位頼政が射落としたその姿は、頭が猿、体が狸、尾が蛇、四肢は虎のようであり、ヒヒと鳴いて帝を惑わしたという。珍妙なキマイラであるが、今、麗夢達の目の前に現れたのはそんな文章から読みとれるものよりは、はるかに迫力と獰猛さとを併せ持った、文字通りの怪物であった。さすがに超一流の武人頼政が命を賭して渡り合っただけのことはある。五匹の大蛇を背後に従えたその怪物は、舟を震撼させるうなり声を上げて、麗夢とその従者二人を圧倒した。これに対して、麗夢は初めて笛を口元からはずし、目を開いた。人の魂魄をただ見つめるだけで吸引するような漆黒の瞳が、哀しげな色を湛えて鵺の抱える鏡の奥へ向けられた。
「顕仁殿、いえ、崇徳院様。どうしても智盛様を欲すると仰りますのか」
「知れたこと。時忠では老いが過ぎていた。維盛は柔若で体が弱い。だがその男は違う。昔日の清盛や重盛を彷彿とさせる素晴らしい肉体ではないか。これこそ我が野望を遂げるのに相応しい。その上この身体はかつて三種の神器を振るったではないか。この身体を得てここに揃うかの秘宝を操れば、我が野望もいと容易くかなうこと必定じゃ。さあ、その男を、我が贄に供するがいい」
 匂丸と色葉が、やや間隔を狭めて麗夢と崇徳院の間に入った。もはや避けられない一戦に、二人の顔へ緊張の見えない電光が迸る。だが、その後ろに立つ主は、あくまで冷静であった。
「今お引き下されば、私めが非力を尽くして崇徳院様の菩提を弔いましょう。どうか静かにこの四国の地で御眠り下さりませぬか?」
「くどい! どかぬなら挽き潰すまでじゃ!」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする