青山四二番地は、地元の交番や不動産屋でも、道を尋ねられると満足に答える事が難しい。高層ビルに四方を囲まれ、表通りからどうやって入ればいいのか、地図を見ただけではまるで判然としないのだ。榊も初めてそこを尋ねたときは、進入路を探しあぐねてしばらくその周辺をぐるぐる歩き回ったものである。今日も住宅地図にすらきちんとは記載されていない狭い路地を抜け、一向に日の射す事のない土地に悄然と佇むその木造二階建てのぼろアパートを見ながら、ふと、榊はこの道を初めて発見したときのことを思い出した。あれから随分経ったように思うが、ちゃんと指を折ってみると意外なほど時は過ぎていない。榊が戸惑いのも無理は無い。休む間もなく次々に発生する難事件。死神博士の一件より今日に至るまで、この路地の湿った関東ローム層に自分の靴跡を記す時は、いつだってそんな難題を抱えていたのだ。
榊は不気味に音を立てて軋む階段と廊下を歩き、今日もまたそのドアの前に立った。「怪奇よろず相談」の看板を掲げるそのドアは、そうした事件の解決に繋がる最良にして唯一の入り口だ、と、榊は信じている。
「あら、いらっしゃい」
ノックに続いて開いたドアの向こう、外見からはおよそ想像を絶する明るくお洒落な内装を背景に、その少女はにっこりと微笑みかけた。
「やあ麗夢さん、お帰りを待ちわびてましたぞ」
すると少女ー私立探偵綾小路麗夢は、ほころんだ顔へ更に笑顔を刻むと、腰まで届く豊かな碧の黒髪を翻し、榊のために道を開けた。
「どうぞお入りになって」
「ああ、ありがとう」
言われるままに事務所に入った榊は、目の前の応接セットに見慣れない先客の姿を捉えた。ソファごしにこちらを垣間見るその姿は、どうも自分の娘、ゆかりとさして違わない年頃に見える一人の女の子である。
女の子は榊のこわもてする髭面に軽く驚きながらも、ぺこりと無言で会釈した。硬い表情で胡散くさげに見つめる視線を痛いほど感じながら、榊は自分の驚きを隠すのに苦労した。
「これは、先客がありましたか。では出直してきましょう、麗夢さん」
「大丈夫よ榊警部。お話は大方すみましたから。どうぞこっちに座って」
麗夢に招かれて少女の対角線のソファに移動した榊を、先客の女の子が驚きの目でもう一度見た。
「この人が榊警部さん?」
不審の色は大分薄れているようだが、まだ戸惑いは隠せないようだ。心の内で苦笑する榊を前にして、麗夢は明るく少女に答えた。
「ええそうよ哀魅さん。この人が、警視庁にその人有りと歌われた、敏腕警察官の榊警部よ」
榊は麗夢のウインクに、今度は正直に苦笑しながら座に着いた。
「そしてこちらが、哀魅さん」
それに会わせて女の子がまたぺこりと頭を下げた。榊も会釈を返しながら、その名前と容姿を記憶のライブラリから大急ぎで検索した。
「ああ、この間うかがった吸血鬼の・・・」
「彼は吸血鬼じゃありません!」
思わずつぶやいた榊の一言に、哀魅はきっと柳眉をつり上げると、ぴしゃりと言い放った。
「ご先祖様はともかく、彼はニンニクのたっぷり利いた餃子が好きでトマトジュースばかり飲んでる人畜無害の男よ! 蚊だってまともに殺せないんだから!」
「い、いやすまない。ドラキュラの子孫とうかがっていたものでね。気にさわったのなら謝る」
余りにも素直に榊が頭を下げたため、哀魅の興奮も急速に静まったらしい。今度は哀魅の方が慌てて手を振った。
「い、いえ、こちらこそごめんなさい! ちょっと気が立っていて・・・」
「哀魅さんはハンスさんのことになると落ち着いていられないんですものねー」
「もう! 麗夢さんったら!」
麗夢の冷やかしにようやく哀魅の表情に笑顔が宿る。こうして最初のわだかまりを解いた二人に、麗夢はにっこり笑顔を返し、新たに淹れたコーヒーを榊の前に置いた。
「実は、そのハンスさんが行方不明らしいの」
「行方不明?」
「ええ、先週の金曜日におつかいへ出たまま、帰ってこないんです。それで麗夢さんに探して貰おうと思って・・・」
なるほど、と榊は頷いた。榊の知る日頃の麗夢は、死夢羅のような凶悪極まりない化け物と対峙する雄々しき戦士であるが、探偵と言うからには人捜しなども仕事のうちであるに違いない。でもそれは、自分達警察の所管業務でもある。
「失踪届は出したのかね?」
「ええ。でもお巡りさんもあんまり真剣じゃなさそうで・・・」
一週間、あちこち探し回ってことごとく徒労に終わった哀魅の声は、重く沈んでいた。榊も口では「けしからんな」と相づちを打ちながらも、事件性が見えてこない限りそう簡単には重い腰を上げないのが警察という組織だと言うことは百も承知している。それ故にこそ、探偵という職業もまた成り立つのであろう。だが、目の前でしょげ返る女の子を見ては、榊も気休めでも一言かけないではいられなかった。
「私からも所管の部署に念押ししておこう。何、大丈夫だ。きっと見つかる」
「ありがとう、警部さん」
「そうそう、絶対見つかるわ。何たってハンスさんはちょっと目立つから、いなくなったとしても必ず人目を引いてないはず無いもの。それにいざとなればこの子達もいるし」
部屋の隅でじゃれ合っていたアルファとベータが、顔を上げてそれぞれの鳴き声で返事をした。三人の頭の中に、「大丈夫!」という威勢のいいイメージが流れ込んでくる。
「ハンスさんが夢を見たらこの子達なら一発で見つけられるわよ」
改めて麗夢が請け負うと、哀魅もようやく安心したのか、朗らかな笑みが返ってきた。
「うん。私信じてます。頼むわね、アルファ、ベータ」
哀魅の言葉に、二匹は器用に後ろ足で立ち上がって、「任せといて!」とイメージを送ってきた。ベータは同時に前足で自分の反り返った胸をどんと叩き、バランスを崩して仰向けにひっくり返った。慌てて起こすアルファに、したたかに床で打った頭を抱える涙目のベータ。そのユーモラスな仕草に場はひとしきり朗らかな笑いに包まれた。
「ところで榊警部のご用って何?」
笑いがようやく収まったところで、麗夢は榊に問いかけた。榊は、そうそう、と一口コーヒーをすすると、おもむろに麗夢へ向き直った。
「実は、最近夢見小僧がとんと現れないんだ。麗夢さん、何かご存じ無いですか?」
榊は、先日鬼童と張り込んだ国立博物館を初め、その後、事前に予告されていた三つの現場のどれにも夢見小僧が現れなかった事を、麗夢に明かした。
「へえ、白か・・・じゃない、夢見さんが出てこない?」
麗夢も腕組みして考え込んだ。神出鬼没にしてこれまで一度として予告を違えたことの無い夢見小僧が、三回も続けてドタキャンするなど確かに尋常とは思えない。
「予告状が悪戯だったとか?」
「いや、それはない。鑑識の結果、ほぼ本物に間違いないという鑑定が出ているんだ」
「ひょっとして、狙われた財宝が、既に精巧なレプリカにすり替わっていたりして・・・」
「それもない。その他、我々としても考えられる有りとあらゆる可能性を検討してみたんだが、どうしてもすっぽかされた、という他考えられないんです。上の連中はお気楽に警備の勝利をほざいちゃいるが、そんなはずは絶対にあり得ない。となると、夢見小僧の身に何か起こったとしか私には思えないんだ」
「随分夢見さんのことを心配なさってるのね、警部」
「そ、そりゃあ、重要な窃盗犯ですからね。それより麗夢さん、何か知っていることがあったら教えて下さい。どんな些細なことでもいいですから」
榊が「重要犯人」だから心配しているというのは、一種の照れであることは麗夢にもお見通しである。だが、状況はその事をからかって楽しめる所ではないようだった。とはいえ麗夢も、普段から夢見小僧こと白川蘭とそれほど親しく付き合っているわけではない。彼女の消息について知っていることと言ったら、榊と五〇歩一〇〇歩なのである。麗夢にその事を告げられた榊は、まさに残念という言葉を全身にまとって、ソファーに深く沈み込んだ。
「うーん、麗夢さんもご存じ無いとすればこれはお手上げだな。こうなったら仕方がない。もし何か情報があったら、すぐ私に連絡して下さい」
「判ったわ、榊警部。それにしても人捜しが二件もなんて、今日は不思議な日ね」
「確かに」
麗夢と榊はやや深刻げに頷きあったが、事態がまだほんの序の口に過ぎないことまではまだ気がつかなかった。帰ろうと出口に歩み寄った榊の前で、突然ドアが慌ただしくノックされたかと思うと、麗夢が返事する間もなく開いたドアを押しのけるようにして、一人の女性が飛び込んできたのである。
「あ、危ない!」
榊が、入り口でつまづいて倒れそうになった女性の肩を支えると、その女性は榊の腕を振りほどいて、文字通り血相変えて麗夢に迫った。
「麗夢さん! 美奈が、美奈がお邪魔してませんか?!」
それは、いつもの隙無く固めたキャリアウーマンをかなぐり捨てた、美奈の母親の姿であった。
榊は不気味に音を立てて軋む階段と廊下を歩き、今日もまたそのドアの前に立った。「怪奇よろず相談」の看板を掲げるそのドアは、そうした事件の解決に繋がる最良にして唯一の入り口だ、と、榊は信じている。
「あら、いらっしゃい」
ノックに続いて開いたドアの向こう、外見からはおよそ想像を絶する明るくお洒落な内装を背景に、その少女はにっこりと微笑みかけた。
「やあ麗夢さん、お帰りを待ちわびてましたぞ」
すると少女ー私立探偵綾小路麗夢は、ほころんだ顔へ更に笑顔を刻むと、腰まで届く豊かな碧の黒髪を翻し、榊のために道を開けた。
「どうぞお入りになって」
「ああ、ありがとう」
言われるままに事務所に入った榊は、目の前の応接セットに見慣れない先客の姿を捉えた。ソファごしにこちらを垣間見るその姿は、どうも自分の娘、ゆかりとさして違わない年頃に見える一人の女の子である。
女の子は榊のこわもてする髭面に軽く驚きながらも、ぺこりと無言で会釈した。硬い表情で胡散くさげに見つめる視線を痛いほど感じながら、榊は自分の驚きを隠すのに苦労した。
「これは、先客がありましたか。では出直してきましょう、麗夢さん」
「大丈夫よ榊警部。お話は大方すみましたから。どうぞこっちに座って」
麗夢に招かれて少女の対角線のソファに移動した榊を、先客の女の子が驚きの目でもう一度見た。
「この人が榊警部さん?」
不審の色は大分薄れているようだが、まだ戸惑いは隠せないようだ。心の内で苦笑する榊を前にして、麗夢は明るく少女に答えた。
「ええそうよ哀魅さん。この人が、警視庁にその人有りと歌われた、敏腕警察官の榊警部よ」
榊は麗夢のウインクに、今度は正直に苦笑しながら座に着いた。
「そしてこちらが、哀魅さん」
それに会わせて女の子がまたぺこりと頭を下げた。榊も会釈を返しながら、その名前と容姿を記憶のライブラリから大急ぎで検索した。
「ああ、この間うかがった吸血鬼の・・・」
「彼は吸血鬼じゃありません!」
思わずつぶやいた榊の一言に、哀魅はきっと柳眉をつり上げると、ぴしゃりと言い放った。
「ご先祖様はともかく、彼はニンニクのたっぷり利いた餃子が好きでトマトジュースばかり飲んでる人畜無害の男よ! 蚊だってまともに殺せないんだから!」
「い、いやすまない。ドラキュラの子孫とうかがっていたものでね。気にさわったのなら謝る」
余りにも素直に榊が頭を下げたため、哀魅の興奮も急速に静まったらしい。今度は哀魅の方が慌てて手を振った。
「い、いえ、こちらこそごめんなさい! ちょっと気が立っていて・・・」
「哀魅さんはハンスさんのことになると落ち着いていられないんですものねー」
「もう! 麗夢さんったら!」
麗夢の冷やかしにようやく哀魅の表情に笑顔が宿る。こうして最初のわだかまりを解いた二人に、麗夢はにっこり笑顔を返し、新たに淹れたコーヒーを榊の前に置いた。
「実は、そのハンスさんが行方不明らしいの」
「行方不明?」
「ええ、先週の金曜日におつかいへ出たまま、帰ってこないんです。それで麗夢さんに探して貰おうと思って・・・」
なるほど、と榊は頷いた。榊の知る日頃の麗夢は、死夢羅のような凶悪極まりない化け物と対峙する雄々しき戦士であるが、探偵と言うからには人捜しなども仕事のうちであるに違いない。でもそれは、自分達警察の所管業務でもある。
「失踪届は出したのかね?」
「ええ。でもお巡りさんもあんまり真剣じゃなさそうで・・・」
一週間、あちこち探し回ってことごとく徒労に終わった哀魅の声は、重く沈んでいた。榊も口では「けしからんな」と相づちを打ちながらも、事件性が見えてこない限りそう簡単には重い腰を上げないのが警察という組織だと言うことは百も承知している。それ故にこそ、探偵という職業もまた成り立つのであろう。だが、目の前でしょげ返る女の子を見ては、榊も気休めでも一言かけないではいられなかった。
「私からも所管の部署に念押ししておこう。何、大丈夫だ。きっと見つかる」
「ありがとう、警部さん」
「そうそう、絶対見つかるわ。何たってハンスさんはちょっと目立つから、いなくなったとしても必ず人目を引いてないはず無いもの。それにいざとなればこの子達もいるし」
部屋の隅でじゃれ合っていたアルファとベータが、顔を上げてそれぞれの鳴き声で返事をした。三人の頭の中に、「大丈夫!」という威勢のいいイメージが流れ込んでくる。
「ハンスさんが夢を見たらこの子達なら一発で見つけられるわよ」
改めて麗夢が請け負うと、哀魅もようやく安心したのか、朗らかな笑みが返ってきた。
「うん。私信じてます。頼むわね、アルファ、ベータ」
哀魅の言葉に、二匹は器用に後ろ足で立ち上がって、「任せといて!」とイメージを送ってきた。ベータは同時に前足で自分の反り返った胸をどんと叩き、バランスを崩して仰向けにひっくり返った。慌てて起こすアルファに、したたかに床で打った頭を抱える涙目のベータ。そのユーモラスな仕草に場はひとしきり朗らかな笑いに包まれた。
「ところで榊警部のご用って何?」
笑いがようやく収まったところで、麗夢は榊に問いかけた。榊は、そうそう、と一口コーヒーをすすると、おもむろに麗夢へ向き直った。
「実は、最近夢見小僧がとんと現れないんだ。麗夢さん、何かご存じ無いですか?」
榊は、先日鬼童と張り込んだ国立博物館を初め、その後、事前に予告されていた三つの現場のどれにも夢見小僧が現れなかった事を、麗夢に明かした。
「へえ、白か・・・じゃない、夢見さんが出てこない?」
麗夢も腕組みして考え込んだ。神出鬼没にしてこれまで一度として予告を違えたことの無い夢見小僧が、三回も続けてドタキャンするなど確かに尋常とは思えない。
「予告状が悪戯だったとか?」
「いや、それはない。鑑識の結果、ほぼ本物に間違いないという鑑定が出ているんだ」
「ひょっとして、狙われた財宝が、既に精巧なレプリカにすり替わっていたりして・・・」
「それもない。その他、我々としても考えられる有りとあらゆる可能性を検討してみたんだが、どうしてもすっぽかされた、という他考えられないんです。上の連中はお気楽に警備の勝利をほざいちゃいるが、そんなはずは絶対にあり得ない。となると、夢見小僧の身に何か起こったとしか私には思えないんだ」
「随分夢見さんのことを心配なさってるのね、警部」
「そ、そりゃあ、重要な窃盗犯ですからね。それより麗夢さん、何か知っていることがあったら教えて下さい。どんな些細なことでもいいですから」
榊が「重要犯人」だから心配しているというのは、一種の照れであることは麗夢にもお見通しである。だが、状況はその事をからかって楽しめる所ではないようだった。とはいえ麗夢も、普段から夢見小僧こと白川蘭とそれほど親しく付き合っているわけではない。彼女の消息について知っていることと言ったら、榊と五〇歩一〇〇歩なのである。麗夢にその事を告げられた榊は、まさに残念という言葉を全身にまとって、ソファーに深く沈み込んだ。
「うーん、麗夢さんもご存じ無いとすればこれはお手上げだな。こうなったら仕方がない。もし何か情報があったら、すぐ私に連絡して下さい」
「判ったわ、榊警部。それにしても人捜しが二件もなんて、今日は不思議な日ね」
「確かに」
麗夢と榊はやや深刻げに頷きあったが、事態がまだほんの序の口に過ぎないことまではまだ気がつかなかった。帰ろうと出口に歩み寄った榊の前で、突然ドアが慌ただしくノックされたかと思うと、麗夢が返事する間もなく開いたドアを押しのけるようにして、一人の女性が飛び込んできたのである。
「あ、危ない!」
榊が、入り口でつまづいて倒れそうになった女性の肩を支えると、その女性は榊の腕を振りほどいて、文字通り血相変えて麗夢に迫った。
「麗夢さん! 美奈が、美奈がお邪魔してませんか?!」
それは、いつもの隙無く固めたキャリアウーマンをかなぐり捨てた、美奈の母親の姿であった。