かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

1.漂着 その1

2008-04-13 19:57:43 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
 漆黒の空を無数の星がまたたき、もう少しでまん丸に成るであろう月が、暗い海上を淡く照らしている。そんな月を、時折ぽつ、ぽつ、と、浮かぶ白い雲がかすめては、また流れていく。喉が渇いた。周りは見渡す限り水しかないと言うのに、それを飲むことが出来ない。平氏家人築山公綱は、むくんだ顔で恨めしげに空を眺めていた。もう何日になるだろう。あの、絶望的な戦いに敗れてから、こうしてあてどもなく漂流を始めて・・・。
 二〇人は完全武装の武者が乗れる船に、今は二人がいるばかりだ。船尾の張り出しには、十人は水手が並んで櫓を漕いでないといけないのに、破壊され、へばりついているばかりで水手も櫓も残ってはいない。風をはらんで船を進ませるべき帆も既に原型が無く、二人には大きすぎるこの船は、緩やかに東へと進む海流だけを頼りに、ただゆっくりと進んでいる。櫓も帆も人も無しでは、いかに操船の達者な公綱でも出来ることは何もない。運良くどこかの海岸に漂着するか、漁師が沖合いまで出て自分達を見つけてくれるのを期待するばかりだ。大の字に舳先近くで寝ころぶ公綱は、少し顔を上げて帆柱にもたれてうずくまる人影、主人である四位少将平智盛の姿を見た。うつむいたままほとんど微動だにしないところが不気味だが、それでも月明かりの下、時折無償髭にまみれた顔が揺れるのが見える。公綱は、まだ生きておられるらしい、と半ばほっとしつつ、半ばは痛ましさに胸を痛めて、また空を見上げた。
 元暦二年(1185年)三月二四日壇ノ浦。西日本全域を巻き込んで五年に渡った源平の覇権争いは、遂に源氏方圧勝で決着した。公綱も死力を振り絞って主智盛の背後を護り、名だたる東国武士達を周防灘の藻屑にと沈めたが、多勢に無勢、周囲の味方が櫛の歯の欠けるように次々脱落していく中では、いかに心猛く抗おうにも、いかんともなしえなかった。この上はせめて義経なと組んで死出の道連れに、と、主と共に敵の総大将へ追いすがるうちに、公綱は不覚の一撃を頭にくらい、昏倒してしまったのである。そして、気が付いたときには主と二人きり、どこともしれぬ海上を、ただ彷徨うばかりの身の上になっていたのであった。その後、星の位置、雲や潮の流れから、どうやら自分達が後世対馬海流と呼ばれる流れにのって東北へ向かっていることが知れたが、だからといってどうなると言うものでもなかった。
 一方、気が付いて以来、公綱は智盛に一言も声をかけてはいない。どう言葉を飾ろうとも、その深く傷ついた心を慰めることなど出来ないことを、公綱は知っている。最愛の女を屋島に失い、心の支えであった一族郎党ことごとくを壇ノ浦に失った。公綱にはまだ護るべき主人、智盛があるが、その肝心の智盛には、もう心を砕いて護るべき者がいないのだ。公綱が時折気を配って智盛の気配を伺うのも、そうして虚無に囚われた主人が、自ら身を処するのを未然に防ぐためであった。
(でも防いでどうする? このまま命ながらえて一体どうすればいい? いや、時を過ごせば主従二人、命果てるのももはや旦夕のうちだ。結局わしは、まるで無駄なことをしているのではないか?)
 ただじっと雲を眺めていると、公綱もまた気が滅入ってくるのを感じる。それが何とかここまで保っているのは、屋島で落命した佳人の言葉を支えにしているからである。
『築山殿、智盛様を、よろしくお願いします』
 あの、見る者全てを吸い込んでしまいそうな潤い帯びた瞳や、血に汚れた我が手を取った真白くおやかな手を思い出すたび、公綱はそんな虚ろな深淵から強引に這い上がった。
 こんな事でくじけてはならぬ。最期の瞬間まで智盛様を護ることこそ我が務めだ。公綱はそう自分に言い聞かせ、一瞬たりとも怠ることなく、智盛に気を配っていた。
 こうしてその夜も、ただ黙って雲の行方を見送っていた公綱は、ふと、智盛の顔がまっすぐ正面を向き、その両目を見開いていることに気が付いた。
「・・・陸だ・・・」
 ぼそり、とつぶやいた智盛の声に、公綱はがばと跳ね起きた。慌てて舳先を向いて、その先に何か真っ黒い巨大なものがうずくまるように見える陸地の姿を見た。まだかなりの距離があるが、このまま進めば夜が明ける頃にはたどり着けるかも知れない。見つめる内にも、前方の海岸とおぼしき辺りに、幾つか小さな赤い火の揺れるのが見えた。舟は、その篝火に誘われる夜虫のように、まっすぐ砂浜目指して進んでいく。助かった、と公綱は心から安堵した。火の存在は、少なくとも人がいることを暗示している。上陸したらまず水だ。そして食い物! 公綱は久しぶりに顔に生色を甦らせた。その活気づいた気配は智盛にも感じられたらしい。智盛は、今度ははっきりと公綱に向かって話しかけた。
「公綱、おことには随分と世話をかけた。このまま人知れず常世の国に行くならその供を願おうと思っていたが、こうして命永らえたからにはもうよい。暇を取らすがゆえ、北にでも行くがいい。奥州平泉の秀衡卿なら、おこと程の男を無碍にもすまい」
「何を仰います! この公綱、左様なことを聞くために殿について参ったのではありませんぞ!」
 公綱が声を荒げて智盛に迫った。
「大体公綱を放擲して殿はいかが成される? よもや、一人勝手に自害して果てようなどとお思いではありますまいな!」
「自害するつもりは、ない」
「では公綱と共に奥州に参りましょう。そして藤原秀衡様に辞を低くして兵を借り、もって鎌倉を討てばよろしかろう」
 公綱が言い終わると、智盛はじっと目をつむった。
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1.漂着 その2

2008-04-13 19:57:17 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
「それはわしも考えた。だが、わしはもう秀衡殿の手を借りる必要が無くなったのだ。わしにはまだ充分遣いでのあるもののふ共が待っている」
「何と仰います? 情けなき事ながら、今殿のお側にお仕えいたすはこの公綱ただ一人。確かに我は殿のためなら百人、千人分の働きをいたす覚悟なれど、その公綱さえ殿は暇をとらすと仰る。それで一体どこに殿の力となる味方が居るというのです?」
 すると、智盛の手がすっと上がった。右手人差し指がまっすぐに伸び、公綱の背後の海岸を指し示す。
「あそこに、我ら平氏の軍勢が居る」
「あ、あの篝火が味方だと仰るので?」
「そうだ。あそこに忠綱や、景高等が軍勢を揃えて我の到着を待っている」
 忠綱に景高だと? 公綱は智盛の口から出た名前に自分の耳を疑った。平氏方で忠綱と言えば上総太夫判官藤原忠綱、同じく景高は飛騨太夫判官藤原景高に相違ない。どちらも父祖代々の平氏家人であり、一人当千の強者として知られる剛の者である。だがその二人とも、過ぐる寿永二年(1183年)夏、北国討伐の途上で木曽義仲の奇襲に会い、越中国倶利伽羅峠で無念の最期を遂げたと聞いた。その二人が実は生き残っており、今また兵を集めて智盛様を待っているというのか?
 疑い深げに岸を見る公綱に、智盛は言った。
「心配いたすな、公綱。我を信じよ」
 そう言って智盛はじっと近づいてくる岸を眺めた。公綱は、そんな智盛が急に遠く離れてしまったように感じて、思わず覚える寒気に身を震わせた。
 こうして東の空がほのかに白み始めた頃、舟は砂浜へと乗り上げた。あちこちに焚かれたかがり火のもと、うごめく人影は、ざっと百人はくだらない。
 公綱は、万一相手が敵方だったときは、残る力を振り絞って智盛だけでも逃がすことを考えた。真っ先に飛び降り、刀の柄に手をかける。智盛と二人万全の体勢なら、この程度の人数、蹴散らすことはたやすい。だが、幾日ともしれずろくに飲食もままならぬまま波に揺られた身では、たとえ相手が童どもだったとしても危ういかもしれなかった。そう思うと気が気ではない公綱だったが、今回だけはそれは杞憂だった。
「おお、そこにいるのは公綱ではないか!」
 聞き覚えのある野太い声が耳に届いた。と同時に、よく見知ったひげ面が、暗闇から浮き上がるように現れた。
「景高殿?」
 公綱は緊張の構えのまま、平氏侍大将藤原景高の姿を凝視した。
「何? 公綱だと?」
 その隣から、また別の声が上がる。かがり火に照らされ浮かんだ顔は、確かに忠綱の姿をしていた。その懐かしい顔が、一斉に跪いた。かがり火の周りにたむろする人影も、歩調を合わせて皆拝跪する。
「久しいな。皆、息災であったか?」
 智盛が降りてきたのだ。公綱は腑に落ちぬ思いを抱きながらも、自身少し脇に下がって智盛のために道をあけた。
「はっ! 一同智盛様のお越しを一日千秋の思いで待ち望んでおりました。どうか今度こそ我らに下知を賜り、鎌倉の田舎武士どもに目にもの見せてくれましょうぞ」
 景高の力強い言葉に、智盛の両目が妖しく光を放った。
「殊勝なり景高。皆の者! 見事頼朝が首を上げし者は、いかなる者であれ望みの一国を授けようぞ。皆、この智盛に力を貸せ!」
「おおぉう!」
 地鳴りのような鬨の声が、殷賑と海岸に鳴り響いた。
「お待ちくだされ殿! まさかこの人数で鎌倉を攻撃する、と仰せか?」
 あわてて公綱が呼びかけると、智盛に変わって忠綱が答えた。
「心配いたすな。今、源氏の主力はまだ西国の彼方じゃ。鎌倉に残るはいくらもあるまい」
「だが、ここは北陸のどこかであろう? それならこれから鎌倉までは加賀、越中、信濃、甲斐と幾つもの国を超えて行かねばならぬはずじゃ。しかもそれは険しき山道ばかり。一体幾日かかるか考えておるのか? それまでに我らの動きを知られれば、たちまちに鎌倉には関八州の軍勢が集まってくるぞ。それをこの人数で攻めるなど・・・」
「安心いたせい。木曽義仲が滅んでこの方、ここから鎌倉までは束ねる者を失った烏合の衆共ばかりじゃ。それらを糾合しつつ進めば良い。それにここにいるのは智盛様をお迎えに参上した一部の者じゃ。ちゃんと万余の軍勢が別に控えておるわ」
 万を超える大軍だと? 公綱は目を丸くして言葉を失った。平氏がそんな人数を動員したのはただ一回。木曽義仲討伐のための北陸遠征軍だけではないか。しかもその大半は倶利伽羅峠で全滅したはず。いや、この者達だって、伝え聞くところによると確かに戦死している。そのために都に残された老親達がいかに嘆き悲しみ、相次いで儚く世を去っていったことか。確かに戦いでは、戦死する者よりも逃げ散る者の方が遙かに多い。それらをまた集め得たとするなら万の軍勢も夢ではなかろう。だが、天下の大勢が決した今、遙かに平氏が求心力を持ち得た二年前にすら逃げ散った者共が、いかに名将智盛を頭にいただくとはいえ、はたして帰ってくるだろうか? 考えれば考えるほど、それは絶望的にしか見えない。そんな公綱に対し、景高は言った。
「まあ先のことはともかく、今は取りあえず飯にせぬか? 智盛様もお疲れであろうし、お主も腹一杯喰って疲れを癒せば、我らの言うことも少しは納得できようて」
 結局何より智盛の身を案じる公綱は、景高の一言で黙るしか無かった。
「ささ、こちらへ」
 景高、忠綱が先導して智盛を誘った。公綱は鷹揚に頷いて付いていく智盛に従い、黙然と向こうの篝火に照らされる、幔幕の方へと歩いていった。
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2.悪夢 その1

2008-04-13 19:56:54 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
 久しぶりに揺れない床で結んだ夢は、その安心感からはほど遠いものでしかなかった。公綱は、寝ている間に水に落ちたのではないか、と錯覚するほどの寝汗にまみれ、やがて、強い寒気に襲われて目を覚ました。明るい、ただ明るいだけの虚ろな世界が、公綱の身体にまとわりついた。だが、少なくとも今見たばかりの阿鼻叫喚図はそこにはない。鳥の声、風の音、己の息づかい。耳に入るのはそんな静けさを際だたせる平穏な気配に満ちている。しばらく周りに気を配っていた公綱は、夢で良かった、と半ば本気で安堵のため息を付いた。
 恐ろしい夢であった。
 白骨と化した幽鬼共が甲冑を着込んで列をなし、自分と智盛を押し包んでいる。智盛もまた骨だけの馬に鞍を置いてまたがり、弓を取って奇怪な幽鬼の軍団に下知を飛ばしている。ところが、ふとのぞき込んだ甲の下の智盛の顔もまた・・・。公綱はそこまで思いだして思わず悲鳴を上げそうになった。いつの間に現れたのであろうか。誰もいないはずの目の前に、一人の白拍子が頼りなげに立っていたのである。
「あっ、貴女様は、・・・夢御前様!」
 しかし、夢御前麗夢は、ただ黙って哀しげな顔で公綱を見つめるだけで、一言も話そうとはしなかった。公綱は、自分のしどけない格好も構わず、その場に平伏して震えるばかりであった。剛毅と言う字を人に練り上げたような公綱も、本物の幽霊の類にはそう強い方ではない。
「ま、まさか化けて出て参られたのか? 貴女様は屋島にて儚うおなり遊ばしたはずじゃ」
 うろ覚えの念仏が、震える口をついて出る。それを黙って見つめる麗夢だったが、 やがてその姿がうっすらと透けて行き、辺りは再び明るい光を取り戻した・・・。
 はっと公綱は飛び起きた。辺りをきょろきょろと見回して、妙に人気のない辺りの様子に、安堵のため息を大きくついた。
(あれも夢か?)
 と公綱が思った時、ふと、麗夢が立っていた辺りの床に、きらりと光をはじくものが見えた。何事、と近づいてみると、今水から引き上げたばかりのように輝く数本の黒髪が落ちている。公綱の背筋に、再び冷たいものが流れ落ちた。そうしてしばらく髪の毛を見つめていた公綱は、ふと、一体どうして夢御前様が自分の枕元に迷って出てこられたのかと考えた。まだ瞼の裏に、あの、哀しげな、こと問いたげな容が焼き付いている。夢でただ恐ろしいと言うしかない智盛の姿を見た直後とあって、公綱の不安はいや増しに増した。

 夜。漆黒の闇に包まれた山道を、千は下らない軍勢が足早に進んでいた。時折雲間からのぞく月が、その軍勢のそこここにひらめく、血で染めたような赤い幟を照らし出している。その中程、見た目にも太くたくましい馬にまたがり、さねよき鎧を着た集団がある。その中心で降り注ぐ月光をきらりとはじく白銀の鎧を輝かせているのが、総大将平智盛である。そのすぐ脇、半歩下がって付き従いながら、築山公綱はほれぼれとしておのが主の偉容を眺めていた。
(やはり智盛様はこの姿に限る)
 公家装束をまとい、牛車に収まる生まれながらの貴公子といった姿も捨てがたい魅力があるが、馬上凛々しく大軍の指揮を執る姿に比べれば、照り輝く太陽と消えかけの篝火ほどの差があると公綱は思う。昨日あれほど感じた強い不安も、こうして智盛と共に軍勢の中に立てば、かえって希望と自信が湧いてくるのだから現金なものである。ただ、この行軍の速さには公綱も舌を巻いた。一応周りの徒立ちの者が松明を持って付いているのだが、昼間でさえ視界の効かぬ山の間道を夜中に進むのは、馬術達者な公綱でも容易なことではない。だが、昼間にこれだけの人数が動けば、いかに義仲亡き後の真空地帯だと言っても、その一行が目に付くのは避けられないだろう。故に、移動はもっぱら闇に乗じて進み、昼間は見つかりにくい場所に隠れて人目を避ける、という景高の献策は理解できないこともない。だが、見るところ行軍に難渋しているのは一人公綱だけのようだ。馬も人も皆、足場の悪い山道をまるで真昼の街道を行くかのように進んでいく。しかも、少しでも距離を稼ぎたいから、と、ほとんど休みなしに歩き続けるのだ。公綱はそれに付いていくのがやっとである。永らく舟に浮かんでいる間にすっかり馬の扱いが下手になってしまったか、と、少々情けなさも募る。そんな状態だから、完全に昼夜逆転の異様な生活を始めたというのに、明るい内は息も絶えたかと言うほどに熟睡してしまう。そんな日を一日、二日と続ける内に、公綱は自分の身体にかつてないほどの違和感を意識し始めた。
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2.悪夢 その2

2008-04-13 19:56:28 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
 それは、一日中戦場を走り回った夕刻の様な、と言えば似つかわしいであろうか。全身が何となく鈍く、だるい。意識もあやふやになり、時折、馬上ではっと気が付いたりもする。馬が勝手に歩いてくれるとはいえ、下手をすれば落馬しかねない有様だ。これはいかん、と気を取り直して手綱を握るのだが、半時もするとまたうつらうつらと眠くなってくる。それでも何とか馬にしがみついていた公綱だったが、五日目の夜が明け、東の空が白々としてきたときには、さすがに限界を覚え初めていた。
 いずことも知れぬ森の中、少し開けたところにそそり立つ崖があった。その崖にぽっかりと横穴が開いている。乗馬した騎馬武者が悠々入ることが出来る大きさであり、奥も深い。辺りに人家は無く、智盛一行は、夜までこの洞窟で過ごそうと衆議一決した。公綱はようやく休めると安堵しつつ、馬を下りて川を目指した。
「公綱、どこに参る?」
「はい、顔など洗いに参ります。すぐ戻りますので・・・」
 おう、と智盛が鷹揚に答える声を背に、公綱は森に分け入った。生い茂る樹木の下はまだ暗いが、一晩中矩火だけを頼りに暗い山道を進んできた公綱にとっては、さほどの苦労はない。谷川の流れる音を追い、程なく森を抜けて岩場へと出た。結構水量豊かな谷川が、瀬を打ち、渦を巻きなどしながら足早に流れている。公綱は、けだるい身体を滑らせないよう気をつけながら、水辺まで下りた。まずしゃがみ込んで水をすくう。だが、どう言うわけか指の間から水が逃げて、なかなかうまくすくえない。それでも何度か繰り返し顔に水を運ぶ内に、折から日が昇り初め、辺りの明るさが一段と増した。その時、ふと自分の指を見て、公綱は愕然となった。太く短いはずの指が、妙に細く筋張って見える。よく見ると、ほとんど骨皮ばかりにやせ衰えているのである。これでは幾ら水をすくおうとも、指の間からあらかた落ちてしまうはずだ。更に公綱は、ややあって揺れが収まった水面を見て、声にならない悲鳴を上げた。
(あ、あれは、わしか?)
 恐る恐る、もう一度水面が澄むのを待つ。ゆらゆら揺れる自分の顔が、再び形を成して目に入った。無精ひげに覆われた顔がげっそりとやせこけて、顎の骨が薄皮一枚の下にはっきりと浮かび上がっている。どす黒いくまがはっきり映ったその上で、落ちくぼんだ目の奥に力のない虚ろな視線が漂っている。
 前に自分の顔を見たのはいつだったか? あのけして美男子とは言い難いが、愛嬌のあるといわれた丸い顔。それを見たのは、確かついこの間、漂う舟の上のことだ。死ぬ前にせめて身支度くらいは整えてから、と思って、たまたま残っていた鏡を覗き込んだ。あの時も随分落ちくぼんだ頬を見て一人苦笑したものだが、こんな別人同然にはなっていなかった。それに、あの直後に奇跡的な上陸をはたし、藤原景高らの饗応を受けて、この五日と言うもの、食だけは満足に摂ってきた。いかに深夜の行軍がつらかろうとも、こんな重い病にでもかかったかのような姿になる道理はないのだ・・・。信じがたい思いで立ち上がろうとした公綱は、ふらっと覚えためまいのままに、前のめりに川へ飛び込んだ。
 「あっ!」
 しまった、と思う暇もない。気が付いたときには、激流が公綱をからめ取り、立つことも出来ずにそのまま水の中を転がった。口と言わず目と言わず、水しぶきが雨霰と飛び込み、耳元は流れの轟音で潰されたも同じである。身体に力が入らず、あがこうにも、絡みつく衣装が手足の邪魔をして、一向に顔が水面に上がらない。泳ぎでは平家家人の中で五指に入ると言われた名人も、身を襲う異変を前にしてはあえなく溺れるより無かった。故に、その声が聞こえたのはほとんど奇跡と言ってよかっただろう。
『こちらへ!』
 首が水面を割ったとき、リン、とした声が公綱の耳を打った。公綱は必死で腕を振り回し、何度目かのあがきでようやく手に触れた縄に必死になってしがみついた。そして激流に抗すること数瞬、ようやく公綱は、自分の身体を砂州に上げることが出来た。砂塗れになるのも構わず、どうとうつぶせに砂の上に倒れ込んだ。
『ご無事でようございました』
 荒い息を繰り返す公綱の耳に、聞き覚えのある声が届いた。辛うじて細く開いた目に、見覚えのある顔が流れ込んでくる。
「夢御前様・・・」
 公綱は、全身の力を奮い起こして起きあがった。
「わしをわざわざお迎えに参られたのか?」
 寒い。思わず歯ががちがちとなり、全身に震えが走る。だが、前に夢見たときとは違い、公綱は恐ろしいとは思わなかった。既に肉体の衰えが進み、感性が麻痺していたのかも知れない。あるいは二度目とあって覚悟が付いたのか。いずれにせよ、身体は濡れ鼠で震えながら、その心は泰然としていつもの公綱であり得たのである。そんな心映えの変化を夢御前、麗夢も感じたのであろう。その可憐な唇にうっすらと笑みを浮かべて、公綱に言った。
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2.悪夢 その3

2008-04-13 19:56:20 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
『いいえ、私は築山殿をお迎えに上がったのではありません。智盛様のために、是非貴方の力をお借りしたくてこうして忍んで参ったのです』
 智盛と聞いて、公綱の意識が一段と明敏になった。
「殿のこととあれば我が微力を尽くして仰せに従いますぞ、麗夢様」
 すると麗夢は深々と頭を下げて、公綱に言った。
『さすが殿が唯一無二と頼みにされる御仁ですね。どうか私に与力下さり、智盛様を連れ去ろうとする悪夢と戦ってくだされ』
「悪夢ですと?」
 公綱は首を傾げて麗夢の言葉を反芻した。
『そうです。五日前、ご覧になった夢を覚えていらっしゃいますか? あれは貴方に助けを請うため、私がお見せしたのです。でもあれはただの夢ではございません。今、智盛様がおかれている立場をそのままにうつしたのでございます』
 麗夢の言葉に、公綱ははっと思いだした。まさかあの夢は・・・。
「そんな! 景高や忠綱が幽鬼と仰られますのか?」
『あの者達だけではありません。今、この陣屋の中で、生きてらっしゃるのは公綱殿、貴方お一人なのです』
 さては上陸からこっちの薄気味悪さは、故無きことではなかったのか、と合点がいった公綱は、一つ重要なことに気が付いた。
「麗夢様、今、生きているのは拙者一人と仰られたが、智盛様は一体?」
『夢でご覧になられたはずです。築山殿』
 公綱は、自分の顔から急速に引いていく血の流れの音を聞いた様に感じた。白骨の馬上、雄々しく下知する智盛の顔は・・・。
「そ、そんなおこなることが・・・」
『まことです。築山殿』
 麗夢の声は、静かであったが、公綱に有無を言わせぬ響きがこもっていた。
『誠に無念この上なきことながら、まことなのです』
 麗夢が幾分うつむき加減で話すのを、公綱は痺れた頭で聞いていた。
『殿は、築山殿が気を失っている間に、漂う波間の内、ただ源氏憎しの一念を抱いたまま自害し果てられたのです。恐らくは、築山殿も果てたと早合点されたのでありましょう。今、築山殿がお仕えする殿は、その妄念のみが残った殿のなれの果てに過ぎませぬ』
 公綱は、夢に見た智盛の姿をもう一度思い起こして怖気を振るった。白骨の馬上絢爛豪華な白銀の鎧をまとうその凛々しき姿。しかし燦然と輝く鍬形打ったる甲の下の顔は、虚ろな眼孔を大きく開けた、髑髏のそれでしかなかった・・・。
『殿の妄念を解き放ち、その魂を安らげ奉るのは容易ではございません。恐らく百年、いえ、千年を要するやも知れませぬ。ですが、このままでは未来永劫、智盛様の御心は醜く恐ろしい妄念に囚われたまま、解き放たれることはないでしょう。ですが、今なら例え千年かかろうとも、やがては安寧の時を迎えられるようにすることは出来ます。どうかお力をお貸し下さい、築山殿』
「しかし、景高や忠綱、いや、兵共も皆幽鬼とあっては、拙者一人で一体何ほどのことがかないましょうや」
『あれらの者は、殿がその妄念によって、倶利伽藍の峠に朽ち果てた髑髏に仮の命を吹き込まれたに過ぎませぬ。いわば実体のない影のようなもの。殿の妄念をお諫めすれば、雲散霧消して塵一つ残らぬでしょう』
「では、いかがすればよろしいのでしょう、麗夢様」
 すると麗夢は、また哀しげに顔色を沈ませ、顔を伏せてしばしの間黙した。公綱もまた、じっと麗夢の言葉を待つ。やがて麗夢は、顔を上げて公綱に言った。
『今日、明るい日のある内に智盛様の御しるしを上げ、風穴の奥に封印して下され』
 公綱は、麗夢の沈黙の意味に気が付いた。たとえ永劫の闇から解き放つためとはいえ、全てを捧げた愛しき男の首を切れ、とは、簡単に言える言葉ではないだろう。恐らく想像を絶する想いがその無言の時に凝縮していたことを、公綱は理解した。公綱は威儀を正して跪くと、美貌の白拍子にはっきり答えた。
「御命、しかと承りましてござりまする」
『では、これをお持ち下さい』
 麗夢は、そ、とたおやかな指に濡れたような艶を放つ自らの髪を絡ませると、くい、と引いて幾筋かを抜き取った。
『手首に巻いて、常に身から離さぬように。この五日で築山殿はやせ衰えるほどに陰気を浴びてしまわれましたが、これでもう陰気に染まることはないでしょう』
「忝ない」
 公綱は、押し戴くようにしてその長い黒髪を受け取った。すると、あれほどけだるく重かった身体に、力が甦るのが感じられた。震えるほどな寒さも収まり、ほのかな暖かみさえ覚えてくる。
『では、御武運を・・・』
 公綱が下げた頭を再び上げたとき、既に麗夢の姿はなかった。
 ・・・ばっと公綱は両手を付いて上体を上げた。口の中に飛び込んだ砂利が疎ましかったが、それよりも辺りを見回して夢御前の姿を探す方に意識をとられた。
「また、夢だったのか?」
 覚えずつぶやく独り言は、全てが口から出る前にすうっと消えた。公綱はじっと自分の手を見ていた。そこに、しっとりと濡れたような光を放つ、数本の長い髪が握られていた。
 これは夢ではない。
 公綱は生乾きの身体のまま、既に中天高く駆け上がった太陽の下、急ぎ智盛の元へと立ち上がった。
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3.封印 その1

2008-04-13 19:56:12 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
 仮の陣屋にたどり着いたとき、公綱は思わず顔をしかめて口と鼻を手で覆った。飢饉の都や戦場で幾らも嗅いだこの臭い。人間の肉体が腐敗して朽ち果てる前に出す猛烈な臭気が、公綱の五感を襲ったのである。まるで皮膚から染み通るようにさえ感じられるほどの強烈な臭いは、辺り一面に散らばった無数の人馬の残骸から生じているに違いなかった。どれもこれも、色あせ、朽ちかけた鎧や甲をまとい、虚ろな眼孔であらぬ方を睨んでいる。ほとんど白骨と化した手には、弦が切れた弓や折れて錆を浮かせた刀を握っている。公綱はその一つ一つを確かめ、鎧の模様や甲の鍬形の形から、忠綱と景高のなれの果てを探し出した。
「今すぐ迷妄から助け出してやる。しばらくそのままじっとしていろよ」
 公綱は、仲良く並ぶ平氏恩顧の侍大将の前で手を合わせ、その後ろの洞窟の方へと足を進めた。松明に火をつけ、それを掲げて奥へと進む。揺れる火影に岩々が一種荘厳な姿をさらす一方で、コウモリが驚き慌てて飛びさるのが見える。
「智盛様は何処へ?」
 時に狭く、時に広く、どこまで続くとも知れぬ洞窟。半時ほども進んだであろうか。さすがに焦りの色が見え始めた辺りで、突然公綱の視界が大きく開けた。三〇人や五〇人はゆうに展開できる広大な地下の広場が出現したのである。さすがに一本の松明では端まで照らし出すことが出来なかったが、暗がりに閉ざされそうなその先に、公綱はようやく目指すものを見つけだした。
「と、智盛・・・様・・・」
 ちょうど床几ほどに出張った磐の上に、智盛は静かに鎮座していた。白銀をあしらった美麗な鎧や先祖伝来の雄々しき甲が、松明の火を映して鈍い赤に染まっている。しかし、甲の下に収まるその顔は、平安京で貴賤を問わず若い女性を惑わしたという精悍かつ端麗な生気を失い、虚ろに開いた眼孔と髑髏にへばりつく引きつり乾いた肉と皮膚が目立つ、一体の木乃伊に他ならなかった。公綱は心の奥で、ほんの僅かに残していた希望のかけらが、今無惨に砕け散ったことを実感した。もはや智盛様はこの世にいない。優しく全てを包み込むが如き笑みも、あらゆる敵をうち砕くに違いないと信じさせた頼もしい雄叫びももう見られない。半ば呆然として公綱はその場に膝をついた。何故に自害の時、自分に供を命じてくれなかったのか。死ぬときは共に、と、幼少時より約束していたではないか。いや、戦いの最中、不覚にも気を失った自分が悪かったのだろうか。公綱は、一人残されたと思ったときの智盛の心情を忖度し、目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
「申し訳ございませぬ。公綱が不甲斐ないばかりに殿には無用の苦しみを味あわせてしまいました。この上は殿の迷妄を御祓いいたし、十万億土の浄土まで、遅ればせながらお供いたす」
 公綱は脇差しを抜いて、智盛のミイラに近づいた。甲のしころを引き上げ、かさかさになった喉元に、その切っ先を突きつける。
「殿、御免!」
 ぐい、と公綱が柄を握る手に力を込めたその時である。
「何をする、公綱」
 はっと驚く公綱の手首に、錦の手甲を付けた指が食い込んだ。
「と、殿!」
 公綱の目に入ったのは、紛う事なき生前の智盛の顔であった。そしてその声は紛れもなく智盛のものである。さてはまだ生きてらっしゃるのか? いや、これが智盛様の怨念というものなのか。
「殿! 殿は悪い夢を見てござるのじゃ! 今、公綱がお目を覚まして差し上げましょう!」
「おこなることを申すな! わしは憎みても余りある頼朝、義経が兄弟のそっ首上げねば、浄土へも地獄へも参れぬわ!」
「それで殿の御気が済むとは公綱には思えませぬ! 殿は血迷うておられる。きっと、周りも、自分自身も焼き尽くすまでは、その怒り、恨みは消えますまい!」
すると、智盛は妖しく目を輝かせて笑い声を上げた。それは、生前の鈴が転がるような涼やかな音色を失い、ただ地獄からわき上がる業火の唸りが咆哮しているように公綱には聞こえた。
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3.封印 その2

2008-04-13 19:55:56 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
「その通りよ公綱! 骨の髄まで焼けるほどに募った我が恨み晴らすには、源氏が兄弟の首二つでは到底足らぬ。我を京より追い立てた今上帝や都に居る貴族共、頼朝に味方した武士共、不甲斐なくも破れた平氏の者共、更にはこの国に住まう一木一草に至るまで、全てを我と共に地獄の方へ移り参らせん!」
 智盛の指に一段と力がこもった。余りの強さに、公綱が思わず脇差しを取り落とす。智盛は座ったままの姿勢で公綱の腕を強引に引き寄せ、公綱が腰砕けに倒れ込んだ所を、思い切りよく放り投げた。公綱の身体がまりのように跳ね転げ、元来た道へ戻される。ようやく止まった公綱は、うめき声と共に辛うじて立ち上がった。
「と、殿、そんなことをして麗夢様がお許しになると思うてか!公綱はただただ殿を不憫と思うてならなかったが、もう思い切りましたぞ! 殿、この公綱がどこまでもお供いたす故、浄土へなとご一緒いたしましょう!」
 麗夢の名に、智盛は一瞬確かにたじろいだ。公綱はここが先途と言い放った。
「さあ! 公綱が案内仕る。麗夢様の元へ参りましょうぞ!」
「うるさい! 黙れ黙れ黙れっ!」
 智盛の鎧姿がゆっくりと立ち上がった。
「公綱、これ以上邪魔立てするとあらば、まずおことから先にあの世へ行って、我らが参るを待っているがいい!」
 智盛の太刀がすらりと引き抜かれ、抜き身の白刃が松明の火をはじいた。公綱も腰の太刀の鯉口を切った。
「どうしてもお判りいただけぬとあれば、公綱、差し違えてでも殿を止めてみせる」
「わしの怒りを受けられるか! 公綱!」
 智盛の肉体が瞬時に飛んだ。遠い間合いを一足で詰め、右手一本で振り上げた太刀を、岩も砕けよとばかりに公綱目がけて打ち下ろした。公綱は一歩も引かずに全力で迎え撃った。鞘走った必殺の刃が智盛の刀をはじき返す。金属の打ち合う音が洞窟を木霊し、雷の如き閃光が、智盛と公綱を一瞬だけ照らし出した。智盛の刀をはじいた公綱が、返す刀で袈裟懸けに斬り降ろす。が、その切っ先はすんでの所で智盛の刀に受け止められた。今度は両手で智盛が押し込み、つばぜり合いに公綱が押され気味になる。ここだとばかりに智盛が圧力を高めるのと同時に、公綱は智盛の右に身体をかわした。そしてつんのめる智盛の斜め後ろから、再び太刀を振り下ろす。それを智盛は刀を肩に担いでしのぎ、そのまま身を沈めると全身のバネを利かせて公綱の刀を跳ね上げた。そうしてがら空きになった胴に、智盛の斬撃が打ち込まれる。一瞬の判断で受け止めつつ地面に倒れ込んだ公綱は、確かめる間もなく左の方へ身を転がした。その、公綱の残像目がけて二度三度と智盛の太刀が襲いかかった。辛うじて全てをかわしきった公綱が勢いに乗じて立ち上がり、太刀を正眼に構えて智盛に対峙した。智盛も右手の剣を自然な下段に置いて、一見無防備な構えで公綱を見た。
「やはり強いな、公綱は」
 洞窟の暗がりの中、確かに智盛がにやっと笑ったように公綱には感じられた。途端に、遠く遙かな深淵に去ってしまったと思っていたものが、意外に近いと思えてくる。公綱も微笑みを浮かべて言葉を返した。
「殿こそ、いささかも衰えがございませんな」
「おこともな。よくその身体でわしの剣を受けられるものよ」
 じりじりと間合いを詰めつつ、公綱はこれが最期だ、と思い切った。あと一太刀。公綱は残りの力のあるだけを、来るべき次の瞬間にかき集めた。
「参る!」
「来い! 公綱!」
 脱兎のごとく飛び出した公綱に、智盛もまた溜を効かせて地面を蹴った。互いの全力を叩き込みあったその一瞬、公綱の脳裏に、乳兄弟として幼き頃より泣き、笑い、喧嘩し、遊んだ智盛との二〇年余りが、ほとんど同時に流れ去った。公綱の両の手に疑いなき重い手応えが感じられ、同時に左の肩口に焼け火箸を押し当てられたような熱い衝撃が走り抜けた。耐えきれずに手をついてがっくりその場にへたり込むと、松明の暗い明かりでも左腕を伝って血だまりが広がっていくのが見える。肩で大きく息をしながら刀を杖に何とか立ち上がった公綱は、力が入らなくなった左腕をかばいつつ、智盛の方へ歩み寄った。
「殿・・・」
 倒れ伏す白銀の鎧に、雄々しき甲は既に無い。公綱渾身の一撃は、見事甲のしころをかいくぐり、智盛の首をはね飛ばしたのである。その首は、身体からほど遠からぬ場所に、まるでそうすえ付けたかのように公綱を向いて立っていた。
「見事だ、公綱」
 唇から血を流しつつも、智盛は首だけで語りかけた。
「おことと剣を交える内に、わしは昔、おことと共に笑い、泣き、怒り、喜びしたことを思い出した。あのころは本当に楽しかった。なぁ、公綱」
 公綱は両目に溢れた涙をどうすることも出来無かった。
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3.封印 その3

2008-04-13 19:55:49 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
「殿、お許し下され。ですが公綱、殿が迷妄に囚われたまま未来永劫地獄の業火に焼かれ続けるのを黙ってみていることができませなんだ。これよりわしもそちらに参り、麗夢殿の所へ先導仕りましょうぞ」
 公綱は刀を返すと、自分の首元にあてがった。すると、智盛は言った。
「待て公綱。舟でも言ったとおり、おことには暇を出すゆえ、わしに従うことはない」
「それは異な事を仰る! 死ぬときは一緒にとあれほど堅く誓ったではござらぬか。殿がいかに宣おうとも、公綱、誓って智盛様と共に参りますぞ」
「いや、おことには是非生きて我が菩提を弔って欲しい。わしの魂魄はまだ救われてはおらぬのじゃ」
 智盛の言葉が引き金になったのだろうか。突然智盛が苦しげな顔を見せたかと思うと、うつぶせに倒れ伏した首無しの鎧が、ゆっくりと蠢き始めたではないか。
「な、なんと!」
「はようせい公綱! はよう我が首を封じるのじゃ! さもないと、わしの怒り、恨みが再び我を狂わせる。そうなればもはやおことの力ではわしを止めることはかなわぬぞ!」
 公綱は慌てて駆け寄ると、智盛の首を拾い上げ、洞窟の奥目がけて走った。その後ろで智盛の身体が立ち上がった。刀を振りかざし、公綱の後をまっすぐ追いかけてくる。尋常とは思えない速さで追われて、公綱は焦った。封じろと言うが一体どうすれば封じられると言うのか。その時、公綱の耳に、どこか聞き覚えのある笛の音が流れ込んできた。その音色にはっと閃いた公綱は、目の前の小さな横穴に飛び込んだ。
「ようやって下さいました。築山殿」
「れ、麗夢様・・・」
「あとはおまかせ下され」
 そこに立っているのは、白拍子の衣装をまとい、愛用の笛を手にした夢御前麗夢の姿であった。
「おお、久しいな麗夢」
「智盛様、さぞお苦しみ遊ばされたことでしょう。麗夢、これよりはいついつまでも殿のお側でお慰め申しまする」
 麗夢は智盛の首を受け取り、替わりにその笛を公綱に手渡した。
「築山殿、お願いがござります。内にては私が智盛様をお慰め申しましょうが、築山殿には是非外にて、智盛様の菩提を弔って下さりませぬか」
「わしは、どこまでもお供仕る所存にて・・・」
 恭しく笛を受け取りながらも、公綱は従来の主張を繰り返した。ここまで来て置いていかれてはたまらない、と言う思いもある。だが、麗夢はじっと公綱を見つめて言った。
「築山殿、前にも申しました通り、智盛様の怒りを解くには、恐らく数百年の時が必要と相成りましょう。その時までここを静かに守る方が必要なのです。築山殿には更なる苦労をおかけすることになりますが、何卒その役、お引き受け下さりませ」
「・・・わしに塚守になれ、と」
 麗夢が黙って頷いた。
「わしからも頼む。このようなことが頼めるのは、公綱、おことしかおらぬ」
 そんなご無体な、と言う言葉が喉元まで出かかったが、公綱はその言葉をぐっと呑み込んだ。
「判りました。御命、しかと承りましてござりまする」
「忝のうございます。築山殿」
「さらばじゃ公綱。後を頼むぞ」
 智盛の首を抱えた麗夢の姿が、すうっと滑るように洞の奥に引き込まれていく。あ、と手を挙げて止めようとした公綱は、広げた手を握りしめ、肩を震わせて見送った。止めどなく流れ落ちる涙が視界を霞ませる中、洞の入り口が塗り込められたように岩壁へと変化した。はっと気づくと、鎧をまとった智盛の身体もいつの間にか消えていなくなっていた。夢か、と思う一方で、智盛の斬撃を浴びた左肩が痛み、愛刀には激闘を物語る刃こぼれが刻みつけられている。それに、手首に巻いた数本の黒髪。公綱はふらつきながらも洞窟を出た。既に山の西の端に届きつつあった夕日が長く影を引くその広場で、辺り一面に散らばる骨が、砂のように崩れて折からの風に吹き散らされていく。一種幻想的なその光景を見送った公綱は、その夜一人、洞窟の前でむせび泣いた。
 
 その後、髪を下ろして僧になった公綱は、麗夢の遺髪を植えた人形を作り、洞窟の側に社を築いて安置した。そして諸国行脚の修行を重ねること数年。洞窟へと戻ってきた公綱は、有徳の僧として自分を慕う人々と共に、一つの村をここに営んだ。公綱の没後も、村は平家最期の武将、四位少将平智盛の夢を隠した郷として、霊験あらたかな夢見人形と共に後世に残り、激動の時代をくぐり抜けた。そして800有余年。そこに碧の黒髪なびかせた美少女が一人、訪れる。智盛の怒りと絶望を癒すための最後の戦いを、この夢隠村で幕開くために。
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あとがきにかえて

2008-04-13 19:55:39 | 麗夢小説『麗しき、夢 完結編 智盛封印』
 この小品で、「麗しき、夢」シリーズもようやく完結いたしました。
 私は、長編短編を問わず、その内容はは必ず読み切りにして、創作したキャラや設定は二度使いしない、というのを意識してやってきました。「麗夢」には原作が構築している世界があり、その世界を大切にして壊さないようにするためには、勝手にレギュラーキャラを増やして話を作らないようにする、というのが大事だと思っているからです。だからなのか、基本的に私は、別作品とのカップリングというのもあまり好きではありません。それぞれの作品にはそれぞれの世界観があり、それをごっちゃにして楽しむ、というやり方は、どうも私にはなじめないのです。ところが、この「麗しき、夢」だけはその考え方を少々捻じ曲げて、お話の都合上創作したサブキャラクターをそのまま使い続けるという形になりました。これは、原作における智盛と夢御前様の話があまりに短く、ある程度こちらで肉付けしないと話にならなかったという作品構成上の計算と、自分でも思っても見なかったほど、この連作にのめりこんでしまうという誤算との結果です。つくづく、自分は「夢隠 首無し武者伝説」がすきなのだな、と改めて感心してしまいますが、その一方で平家物語や歴史絵巻も好きなので、あまりにそれを無視した話作り、というのもできかねました。この最後の1篇は、原作にあった智盛東征伝説、そして部下背任説を、そんな歴史的背景に矛盾することなく、どう形にするか、という一点に絞ったまさにつめの一手だったと自分では思うのですが、エンターテイメントでそこまでこだわる自分の頑固さに、あきれつつもちょっと誇らしく思ったりもしないでもない、病膏肓にいることを証明したお話でもあります。だから、この一連の作品について、色々ありましたが総じて作者としては満足しています。

 ただ、一点この「麗しき、夢」シリーズに作者として痛恨の極みだったのは、全体を通してどうにも暗いというか、悲劇が悲劇のまま最後まで行ってしまった、ということです。もともと平家物語自体が悲劇的なお話ですし、その背景で話を作ると、それは悲劇しか生み出せないでしょうが、同人としてならもっと何かやりようがなかったのか、と忸怩たる思いが禁じえないのです。悲劇がダメ、というわけではないのですが、やっぱり自分としては、自分が作るお話はハッピーエンドでケリをつけたい、と言う気持ちが強くでます。だからこそ、夢御前様と智盛卿のお話は、更にエンターテイメント性を高めた形で、全く新しいシリーズとして書くことが出来たら良いな、と昔から考えてました。絢爛たる平安絵巻のなかで、麗夢と智盛をもっともっと思い切りいちゃつかせて上げたいですし。このシリーズの設定をそのまま使い、延長線上に話を作るべきか、あるいは全く一から描き直すか、多分書き直したほうが何かと都合がいいように思うのですが、アルファ、ベータの代わりの伊呂波、仁保平や、築山公綱といったキャラはなかなか捨てがたい魅力がありますし、それらを活かしながらとにもかくにももう少し二人の幸せな時間を描き出すことが出来たら良いな、と今回読み返しながら思いました。

 ・・・まあいつ実現するか判りませんけど(苦笑)。
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