漆黒の空を無数の星がまたたき、もう少しでまん丸に成るであろう月が、暗い海上を淡く照らしている。そんな月を、時折ぽつ、ぽつ、と、浮かぶ白い雲がかすめては、また流れていく。喉が渇いた。周りは見渡す限り水しかないと言うのに、それを飲むことが出来ない。平氏家人築山公綱は、むくんだ顔で恨めしげに空を眺めていた。もう何日になるだろう。あの、絶望的な戦いに敗れてから、こうしてあてどもなく漂流を始めて・・・。
二〇人は完全武装の武者が乗れる船に、今は二人がいるばかりだ。船尾の張り出しには、十人は水手が並んで櫓を漕いでないといけないのに、破壊され、へばりついているばかりで水手も櫓も残ってはいない。風をはらんで船を進ませるべき帆も既に原型が無く、二人には大きすぎるこの船は、緩やかに東へと進む海流だけを頼りに、ただゆっくりと進んでいる。櫓も帆も人も無しでは、いかに操船の達者な公綱でも出来ることは何もない。運良くどこかの海岸に漂着するか、漁師が沖合いまで出て自分達を見つけてくれるのを期待するばかりだ。大の字に舳先近くで寝ころぶ公綱は、少し顔を上げて帆柱にもたれてうずくまる人影、主人である四位少将平智盛の姿を見た。うつむいたままほとんど微動だにしないところが不気味だが、それでも月明かりの下、時折無償髭にまみれた顔が揺れるのが見える。公綱は、まだ生きておられるらしい、と半ばほっとしつつ、半ばは痛ましさに胸を痛めて、また空を見上げた。
元暦二年(1185年)三月二四日壇ノ浦。西日本全域を巻き込んで五年に渡った源平の覇権争いは、遂に源氏方圧勝で決着した。公綱も死力を振り絞って主智盛の背後を護り、名だたる東国武士達を周防灘の藻屑にと沈めたが、多勢に無勢、周囲の味方が櫛の歯の欠けるように次々脱落していく中では、いかに心猛く抗おうにも、いかんともなしえなかった。この上はせめて義経なと組んで死出の道連れに、と、主と共に敵の総大将へ追いすがるうちに、公綱は不覚の一撃を頭にくらい、昏倒してしまったのである。そして、気が付いたときには主と二人きり、どこともしれぬ海上を、ただ彷徨うばかりの身の上になっていたのであった。その後、星の位置、雲や潮の流れから、どうやら自分達が後世対馬海流と呼ばれる流れにのって東北へ向かっていることが知れたが、だからといってどうなると言うものでもなかった。
一方、気が付いて以来、公綱は智盛に一言も声をかけてはいない。どう言葉を飾ろうとも、その深く傷ついた心を慰めることなど出来ないことを、公綱は知っている。最愛の女を屋島に失い、心の支えであった一族郎党ことごとくを壇ノ浦に失った。公綱にはまだ護るべき主人、智盛があるが、その肝心の智盛には、もう心を砕いて護るべき者がいないのだ。公綱が時折気を配って智盛の気配を伺うのも、そうして虚無に囚われた主人が、自ら身を処するのを未然に防ぐためであった。
(でも防いでどうする? このまま命ながらえて一体どうすればいい? いや、時を過ごせば主従二人、命果てるのももはや旦夕のうちだ。結局わしは、まるで無駄なことをしているのではないか?)
ただじっと雲を眺めていると、公綱もまた気が滅入ってくるのを感じる。それが何とかここまで保っているのは、屋島で落命した佳人の言葉を支えにしているからである。
『築山殿、智盛様を、よろしくお願いします』
あの、見る者全てを吸い込んでしまいそうな潤い帯びた瞳や、血に汚れた我が手を取った真白くおやかな手を思い出すたび、公綱はそんな虚ろな深淵から強引に這い上がった。
こんな事でくじけてはならぬ。最期の瞬間まで智盛様を護ることこそ我が務めだ。公綱はそう自分に言い聞かせ、一瞬たりとも怠ることなく、智盛に気を配っていた。
こうしてその夜も、ただ黙って雲の行方を見送っていた公綱は、ふと、智盛の顔がまっすぐ正面を向き、その両目を見開いていることに気が付いた。
「・・・陸だ・・・」
ぼそり、とつぶやいた智盛の声に、公綱はがばと跳ね起きた。慌てて舳先を向いて、その先に何か真っ黒い巨大なものがうずくまるように見える陸地の姿を見た。まだかなりの距離があるが、このまま進めば夜が明ける頃にはたどり着けるかも知れない。見つめる内にも、前方の海岸とおぼしき辺りに、幾つか小さな赤い火の揺れるのが見えた。舟は、その篝火に誘われる夜虫のように、まっすぐ砂浜目指して進んでいく。助かった、と公綱は心から安堵した。火の存在は、少なくとも人がいることを暗示している。上陸したらまず水だ。そして食い物! 公綱は久しぶりに顔に生色を甦らせた。その活気づいた気配は智盛にも感じられたらしい。智盛は、今度ははっきりと公綱に向かって話しかけた。
「公綱、おことには随分と世話をかけた。このまま人知れず常世の国に行くならその供を願おうと思っていたが、こうして命永らえたからにはもうよい。暇を取らすがゆえ、北にでも行くがいい。奥州平泉の秀衡卿なら、おこと程の男を無碍にもすまい」
「何を仰います! この公綱、左様なことを聞くために殿について参ったのではありませんぞ!」
公綱が声を荒げて智盛に迫った。
「大体公綱を放擲して殿はいかが成される? よもや、一人勝手に自害して果てようなどとお思いではありますまいな!」
「自害するつもりは、ない」
「では公綱と共に奥州に参りましょう。そして藤原秀衡様に辞を低くして兵を借り、もって鎌倉を討てばよろしかろう」
公綱が言い終わると、智盛はじっと目をつむった。
二〇人は完全武装の武者が乗れる船に、今は二人がいるばかりだ。船尾の張り出しには、十人は水手が並んで櫓を漕いでないといけないのに、破壊され、へばりついているばかりで水手も櫓も残ってはいない。風をはらんで船を進ませるべき帆も既に原型が無く、二人には大きすぎるこの船は、緩やかに東へと進む海流だけを頼りに、ただゆっくりと進んでいる。櫓も帆も人も無しでは、いかに操船の達者な公綱でも出来ることは何もない。運良くどこかの海岸に漂着するか、漁師が沖合いまで出て自分達を見つけてくれるのを期待するばかりだ。大の字に舳先近くで寝ころぶ公綱は、少し顔を上げて帆柱にもたれてうずくまる人影、主人である四位少将平智盛の姿を見た。うつむいたままほとんど微動だにしないところが不気味だが、それでも月明かりの下、時折無償髭にまみれた顔が揺れるのが見える。公綱は、まだ生きておられるらしい、と半ばほっとしつつ、半ばは痛ましさに胸を痛めて、また空を見上げた。
元暦二年(1185年)三月二四日壇ノ浦。西日本全域を巻き込んで五年に渡った源平の覇権争いは、遂に源氏方圧勝で決着した。公綱も死力を振り絞って主智盛の背後を護り、名だたる東国武士達を周防灘の藻屑にと沈めたが、多勢に無勢、周囲の味方が櫛の歯の欠けるように次々脱落していく中では、いかに心猛く抗おうにも、いかんともなしえなかった。この上はせめて義経なと組んで死出の道連れに、と、主と共に敵の総大将へ追いすがるうちに、公綱は不覚の一撃を頭にくらい、昏倒してしまったのである。そして、気が付いたときには主と二人きり、どこともしれぬ海上を、ただ彷徨うばかりの身の上になっていたのであった。その後、星の位置、雲や潮の流れから、どうやら自分達が後世対馬海流と呼ばれる流れにのって東北へ向かっていることが知れたが、だからといってどうなると言うものでもなかった。
一方、気が付いて以来、公綱は智盛に一言も声をかけてはいない。どう言葉を飾ろうとも、その深く傷ついた心を慰めることなど出来ないことを、公綱は知っている。最愛の女を屋島に失い、心の支えであった一族郎党ことごとくを壇ノ浦に失った。公綱にはまだ護るべき主人、智盛があるが、その肝心の智盛には、もう心を砕いて護るべき者がいないのだ。公綱が時折気を配って智盛の気配を伺うのも、そうして虚無に囚われた主人が、自ら身を処するのを未然に防ぐためであった。
(でも防いでどうする? このまま命ながらえて一体どうすればいい? いや、時を過ごせば主従二人、命果てるのももはや旦夕のうちだ。結局わしは、まるで無駄なことをしているのではないか?)
ただじっと雲を眺めていると、公綱もまた気が滅入ってくるのを感じる。それが何とかここまで保っているのは、屋島で落命した佳人の言葉を支えにしているからである。
『築山殿、智盛様を、よろしくお願いします』
あの、見る者全てを吸い込んでしまいそうな潤い帯びた瞳や、血に汚れた我が手を取った真白くおやかな手を思い出すたび、公綱はそんな虚ろな深淵から強引に這い上がった。
こんな事でくじけてはならぬ。最期の瞬間まで智盛様を護ることこそ我が務めだ。公綱はそう自分に言い聞かせ、一瞬たりとも怠ることなく、智盛に気を配っていた。
こうしてその夜も、ただ黙って雲の行方を見送っていた公綱は、ふと、智盛の顔がまっすぐ正面を向き、その両目を見開いていることに気が付いた。
「・・・陸だ・・・」
ぼそり、とつぶやいた智盛の声に、公綱はがばと跳ね起きた。慌てて舳先を向いて、その先に何か真っ黒い巨大なものがうずくまるように見える陸地の姿を見た。まだかなりの距離があるが、このまま進めば夜が明ける頃にはたどり着けるかも知れない。見つめる内にも、前方の海岸とおぼしき辺りに、幾つか小さな赤い火の揺れるのが見えた。舟は、その篝火に誘われる夜虫のように、まっすぐ砂浜目指して進んでいく。助かった、と公綱は心から安堵した。火の存在は、少なくとも人がいることを暗示している。上陸したらまず水だ。そして食い物! 公綱は久しぶりに顔に生色を甦らせた。その活気づいた気配は智盛にも感じられたらしい。智盛は、今度ははっきりと公綱に向かって話しかけた。
「公綱、おことには随分と世話をかけた。このまま人知れず常世の国に行くならその供を願おうと思っていたが、こうして命永らえたからにはもうよい。暇を取らすがゆえ、北にでも行くがいい。奥州平泉の秀衡卿なら、おこと程の男を無碍にもすまい」
「何を仰います! この公綱、左様なことを聞くために殿について参ったのではありませんぞ!」
公綱が声を荒げて智盛に迫った。
「大体公綱を放擲して殿はいかが成される? よもや、一人勝手に自害して果てようなどとお思いではありますまいな!」
「自害するつもりは、ない」
「では公綱と共に奥州に参りましょう。そして藤原秀衡様に辞を低くして兵を借り、もって鎌倉を討てばよろしかろう」
公綱が言い終わると、智盛はじっと目をつむった。