学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『二条良基研究』

2010-03-17 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)23時08分30秒

小川剛生氏の『二条良基研究』は1万4千円(税別)もするので購入時には若干躊躇いましたが、内容はその金額にふさわしい充実ぶりですね。
笠間書院のホームページには井上宗雄氏、五味文彦氏の推薦文が載っていますが、国文学・歴史学の両碩学からここまで絶賛される書物も珍しいでしょうね。

http://kasamashoin.jp/2006/10/28.html

今日、入手した『三田評論』(2007年5月号)には、「話題の人 『二条良基研究』で角川源義賞を受賞 国文学研究資料館准教授小川剛生さん」というインタビュー記事が掲載されており、小川剛生氏が二条良基研究を始めたきっかけが書かれているので、少し紹介してみます。
「インタビュアー」は『武士の家計簿』の著者、磯田道史氏(茨城大学准教授)ですね。

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──このたびは『二条良基研究』で最年少での角川源義賞受賞おめでとうございます。最初にどうして二条良基という人物を研究しようと思ったのかをおうかがいしたいのですが。

小川 まず二条良基が作者として最もふさわしいと言われている『増鏡』が好きで読んでいたということがあります。『増鏡』は鎌倉時代の宮廷を描いた歴史書ですが、動乱の世にこんな優雅なことを書いていていいのかと、時代錯誤だとしてあまり評価されていなかった。だけど、乱世のなか平安時代の残っている優雅な面を書いているわけですから、これはちょっと尋常な精神の持ち主じゃないなと逆に思ったんですね。実際文学として読んでみるとなかなか一貫性のあるおもしろい読み物だし、時代に背を向けているのは、それはそれで一つの主張を持った人物の生き方ではないか。それで良基について書かれたものを読んでみたら、これが『増鏡』の作者だということと切り離して考えても、おもしろい人物だったんです。(中略)

──良基は非常に大きな幅の広い人物ですよね。歴史学者や国文学者は解剖学者のように、分析する対象を捌くのですが、二条良基は巨大な牛のような巨人で、牛を解体できる刀と技術を持った料理人でなければ、とても扱えない。だから二条良基の研究は小川さんだからこそできたのではないか。
 この研究のすごさは、歴史叙述から、和歌や連歌から、一番大切な南北朝時代の朝儀の復興、つまり天皇をいかに即位させ、維持していくかという儀礼の問題まで研究し捌いていること。これは、歴史学者であり、和歌や有職故実の研究者であるような人でないとできない。小川さんの場合、二条良基が大きな人だということは、『増鏡』から入って感じられたのですか。

小川  そうです。『平家物語』のように、古典文学はたいてい作者不明で、作者探しというのは魅力的なテーマなのだけど、たいてい作者としてこの人がふさわしい、という推測にとどまる。『増鏡』については、逆に二条良基の伝記、業績の研究から入って、結果的にどう見えてくるかとい手法でやったほうがいいと思った。非常に迂遠だけど、初心忘れるべからずという感じでやったんです。
(後略)
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「牛を解体できる刀と技術を持った料理人」という磯田氏の表現は、随分と生々しい比喩ですね。
言いたいことは何となく分かりますが、牛を解体するのは料理人とは別の職業なので、単に洗練されていないだけでなく、適切でもない比喩ですね。
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「礼服御覧」

2010-03-17 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)22時39分13秒

>筆綾丸さん
鶴巻温泉元湯陣屋のホームページを見ましたが、「ロビー階段上の玉兎の盃は和田義盛公と曽我兄弟がお酒を酌み交わした盃です。」という記述には笑ってしまいました。
本物ならば国宝級のお宝ですね。

>「第十章 中世の「礼服御覧」と袞冕十二章」
読み直してみましたが、この論文については納得できない点が多いですね。
「おわりに」には、

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 礼服の検分は、実際的な検分だけではなく、袞冕十二章の紋章の観察も兼ねて行われた。この、「内々」とわざわざ断って行われた袞冕十二章の実質的な「御覧」は、一部の公卿だけが参加していたことからも、ますます貴重な機会と認識され、袞冕十二章の存在は、さらに特権化されていった。また、幼帝に代わって摂政が「礼服御覧」を行った場合、「内々」の「御覧」は行われなかったことからも、「礼服御覧」における「内々」の「御覧」は、即位する天皇が握っていた特権であった。
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とありますが、限られた人が地味に服を見ているだけの行事について、松本氏は過剰に意味を求めているように思います。
この程度の行事から「王権構造」に迫るのは無理じゃないですかね。
後深草院や伏見院、後伏見院が「礼服御覧」について詳細な記録を残している点は興味深いですが、もともと持明院統の天皇方はみんな筆まめですし、内容は懐かしい昔の思い出に耽っているだけのような感じですね。
また、筆綾丸さんが指摘された部分、確かに「西園寺史観」の悪影響が伺われますね。
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「文観房珠音と河内国」

2010-03-17 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月17日(水)08時10分7秒

井野上真弓氏の「文観房珠音と河内国」(『戒律文化』第2号、2003年)を読んでみましたが、河内の観心寺文書には宛所を「珠音上人室」とする元応二年(1320)の後宇多上皇院宣と、宛所を「観心寺々僧中」とする元弘三年(1333)の後醍醐天皇綸旨があるそうですね。
井野上氏によれば、

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(前略)とすると、文観と王権との関係は、従来指摘されてきたような後醍醐天皇の時に突然成立したものではなく、その前の後宇多上皇の時から遡って考えられる。おそらく文観と観心寺との関わりは、醍醐寺報恩院流道順の存在が関係してこよう。というのも文観の法流の師である道順は後宇多上皇の護持僧であったからである。
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とのことですが、仮にこの推論が正しければ、文観との関係も後宇多院が後醍醐天皇に譲った資産の一つと言えそうですね。

>筆綾丸さん
>等伯
日蓮宗の人なんですね。
等伯とは直接の関係はありませんが、京都の町衆の都会的な感覚が、なぜ東国的な日蓮宗を受容できたのか、ちょっと不思議に思っています。

http://www.tohaku400th.jp/tohaku.html
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