学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「異様な果実」

2010-03-19 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月19日(金)07時48分37秒

小川剛生氏の「即位灌頂と摂関家」は、

----------
 第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂
一 はじめに
ニ ニ神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに

 第二節 室町期の即位灌頂
一 はじめに
ニ 二条良基の後継者たち
三 東山御文庫蔵「後福照院関白消息 即位秘密事」について
四 二条家の印明説
五 一条家の印明説
六 王家の対応
七 おわりに
-------

と構成されていますが、一番最後の部分を紹介してみます。(『二条良基研究』p193以下)

---------
七 おわりに

(前略)
 五摂家分立(建長四・一二五二年)以後、摂政・関白には五家の当主が順番に就くことが流例となった。在職年数は当然短くなり、中世における平均値は四年に満たない(一七一頁参照)。院・天皇にとり執柄の存在感は軽くなっていかざるを得ないが、それでも即位式や大嘗会の申沙汰をした執柄は、自らに王としての聖性を付与する存在にさえ擬されて、精神的には終生頭の上がらない存在であり続けたと思われる。即位灌頂とは特に関係なく執柄を指して「天下御師範」とする表現が見受けられるが(一六六頁参照)、それはこのような関係を踏まえているものであろう。そして良基以下二条家の執柄の権勢もここに根ざしていた。
 摂関家の印明説は寺家即位法から派生したものであるが、複雑な体系を有する寺家即位法に較べれば、その内容は誠に簡略で、衰弱した一末流にしか過ぎないであろう。秘事・秘訣として相伝されるものが存外に常識的な事柄に属することは、例えば古今伝授や源氏物語の難義などを追尋した結果、よく経験させられる。二条良基は、そのような「秘説」が備える力をよく知っていた人物であった。応永度の即位式に於ける、良基の子孫間の総論と、王家の冷静な対応は、逆に生前の良基が北朝の王権をいかに呪縛していたかを窺わせる。
 即位儀礼としての即位灌頂は、摂関家が独立した権門たり得る政治力を喪失し、王権に寄生していくことを選択した後に生じたものであった。思想史的に見れば、兼実・慈円・道家ら九条家の初期の人々には、自己の存在と責務について、深く観念する傾向が強かったように思われる。そのテキストとして玉葉以下の家記が相伝され、愚管抄も九条流の執柄たちに享受されたが、彼らの思想は二条家の人々によって異様な果実を結んだのであった。一条家に続いて、戦国期になると、近衛家や九条家にも即位灌頂への関心が生じてくる。このような思考が、中世を通じて摂関家の存在意義を絶えず見出し、主張する原動力となったのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010-03-19 | 新潟生活
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月19日(金)00時16分30秒

に喩えられたら二条良基も気分が良くなかろうと思いますが、小川氏はなかなか適切な比喩と思われたようです。

---------------
──『二条良基研究』の魅力は、南北朝時代の忘れられた巨人を掘り起こした研究だったと思うし、それをわが敬愛する先輩の小川さんがやってくださったのは、私にとっても嬉しいことです(笑)。

小川 いま牛にたとえられたけど、確かに良基には得体の知れない部分が多すぎて、切り開いたら何が出てくるかわからない。不愉快ではないけど、決して評判がいい人物でもありません。

──権力欲は強いし、一応忠義を尽くしているような感じはあるけど、自分の生まれた二条家をいかに拡大、定着させていくかに巧みな人でもある。

小川 そうです。三種の神器が南朝に奪われたとき、北朝側から「三種の神器のかわりに自分と将軍がいるから恐れることはない」と言って新たな天皇を即位させるなんて、ちょっと尋常な人間のできることではない。一見これはただの陰謀にしか見えないかもしれないけれど、それをやりきった自信は、一国の執政としてすごいことだと思うのです。

──自分が即位させた北朝の天皇に対し、「三種の神器をもってない天皇じゃないか」と言われると、「いや、足利が剣になる、俺が璽(じ)になる」と言う。

小川 さらに彼は「神器なんてものは関係ない。正しい政道をやっているところが正統と言っていいのだ」だとか「こんな乱世に神器なんて意味がない」と言い放っているわけです。

──となるともう明らかに「権力の由来というのは、神代から伝えられてきた伝統に基づくものにあらず」と、人間宣言じゃないけど、もう超人ですよね(笑)。
(後略)
---------------

小川氏は『増鏡』の作者を「尋常な精神の持ち主じゃない」とし、二条良基の行為を「尋常な人間のできることではない」と言われているので、両者に「尋常」じゃないという共通点を見ているようですが、私の印象はちょっと違います。
『増鏡』の作者と二条良基はいずれも強靭な精神の持ち主と言ってよいでしょうが、『増鏡』の作者には精神の荒廃の要素が全くないの対し、二条良基にはどこか荒んだ、病的なところがあるように私は思います。
その点は後で具体的に見て行くつもりです。

>筆綾丸さん
>忠守
小川氏は忠守のことをやたら詳しく書いてますけど、『増鏡』の作者としては忠守クラスでは身分が低すぎて全然駄目ですね。
2005年に『二条良基研究』が出たころ、私は書店でこの本を手に取り、一番最初に筆綾丸さんが指摘された部分を読んで、論理が支離滅裂だなとあきれてしまい、購入はしませんでした。
その後、確かこの掲示板で筆綾丸さんが『二条良基研究』を話題にされた後、私はやっと購入したのですが、パラパラと眺めた程度でした。
今回、即位灌頂は良いきっかけになりましたので、全体を丁寧に読んでみたいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする