投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月20日(土)09時02分45秒
>筆綾丸さん
>森鴎外『追儺』
「あとがき」ですね。
小川氏の発想の基盤が露出しているようなので、引用してみましょうか。
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(前略)
良基の源氏物語への限りない傾倒を見れば、いまに於ける源氏物語の価値というものを直感的につかんでいたらしく思える。良基の「源氏学」には、あの時代に於ける<王朝的なもの>が凝縮されている。良基の生涯からは、摂関政治の全盛期にはよく見えなかった<執政>なるものの存在意義が、鮮やかに浮かび上がる。
その背景には失われた過去への憧憬があるのはもちろんであるが、それをアナクロニズム、あるいは生活のための学問の切り売り、などという言葉で括っては、とらえられないものがある。むしろ公家政権の自律的な営みが停止しかけている南北朝期にこそ、<王朝的なもの>が最も強い形で現れたのではないか。そもそも前代のくさぐさの文化遺産のうちから、何をもって<王朝的なもの>と称するかは、案外に自明ではなかったのである。
そのようなことを考えているとき、脳裏をよぎるのは次の一節である。
Nietzsche に藝術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝
をするやうに、藝術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には
一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも
知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。
藝術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。(森鴎外『追儺』)
「最早見えなくなつた日の余光」は良基を照らし、われわれを照らしている。
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「いまに於ける源氏物語の価値」の「いま」には傍点が振ってあります。
実にしみじみとした見事な文章ですね。
青空文庫で『追儺』を見ると、
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新喜楽に往くといふのは、知らぬ処に通ずる戸を開けるやうで、何か期待する所があるやうな心持である。女の綺麗なのがゐるだらうと思ふ為めではない。今の自然派の小説を見れば、作者の空想はいつも女性に支配せられてゐるが、あれは作者の年が若いからかと思ふ。僕のやうに五十近くなると、性欲生活が生活の大部分を占めてはゐない。矯飾して言ふのではない。矯飾して、それが何の用に立つものか。只未知の世界といふことが僕を刺戟するのである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/693_18396.html
とありますが、『追儺』の初出は1909年なので、1862年生まれの鴎外が47歳の時の作品ですね。
数え年なら、確かに「五十近く」です。
ところで、小川氏が引用された部分の直後に、「暫くして M. F 君が来た。いつもの背広を著て来て、右の平手を背後に衝いて、体を斜にして雑談をする。どうしても人魚を食つた嫌疑を免れない人である」という文章が続きます。
一瞬、何のことだろうと思いましたが、八百比丘尼伝説ですね。
ネットで見つけた九頭見和夫氏「明治時代の『人魚』像─西洋文化の流入と『人魚像』への影響について」によると、「人魚の肉を食べた尼さんが八百歳まで長生きしたという『八百比丘尼伝説』に由来する表現と推測される。おそらくM. F君は、福々しくて精力が身体中にみなぎっていた人物と思われる」とあります。
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/501/1/16-32.pdf
鴎外47歳の文章を引用する小川氏は1971年生まれで、2005年の時点では34歳の若さですね。
まあ、しみじみとした良い文章ではありますが、正直、ずいぶん年寄りくさいな、という感じもします。
こういう文章は有名大学の名誉教授にでもなって、文化勲章でも取って、棺桶に片足突っ込むくらいの年になってから書いてもいいんじゃないですかね。
小川氏は『増鏡』についても「最早見えなくなつた日の余光」だと考えているでしょうが、私はそれは根本的な誤解だと思います。
私は、『増鏡』は「人魚の肉を食べた尼さん」のように、年を取っても元気一杯の女性が書いた本だと思っているので、小川氏の『増鏡』論には賛成できない点が多いですね。
少しずつ書いて行くつもりです。
>寺岡一文さん
足利氏について多少調べたことはありますが、残念ながら寺岡氏については何も知りません。
>筆綾丸さん
>森鴎外『追儺』
「あとがき」ですね。
小川氏の発想の基盤が露出しているようなので、引用してみましょうか。
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(前略)
良基の源氏物語への限りない傾倒を見れば、いまに於ける源氏物語の価値というものを直感的につかんでいたらしく思える。良基の「源氏学」には、あの時代に於ける<王朝的なもの>が凝縮されている。良基の生涯からは、摂関政治の全盛期にはよく見えなかった<執政>なるものの存在意義が、鮮やかに浮かび上がる。
その背景には失われた過去への憧憬があるのはもちろんであるが、それをアナクロニズム、あるいは生活のための学問の切り売り、などという言葉で括っては、とらえられないものがある。むしろ公家政権の自律的な営みが停止しかけている南北朝期にこそ、<王朝的なもの>が最も強い形で現れたのではないか。そもそも前代のくさぐさの文化遺産のうちから、何をもって<王朝的なもの>と称するかは、案外に自明ではなかったのである。
そのようなことを考えているとき、脳裏をよぎるのは次の一節である。
Nietzsche に藝術の夕映といふ文がある。人が老年になつてから、若かつた時の事を思つて、記念日の祝
をするやうに、藝術の最も深く感ぜられるのは、死の魔力がそれを籠絡してしまつた時にある。南伊太利には
一年に一度希臘の祭をする民がある。我等の内にある最も善なるものは、古い時代の感覚の遺伝であるかも
知れぬ。日は既に没した。我等の生活の天は、最早見えなくなつた日の余光に照らされてゐるといふのだ。
藝術ばかりではない。宗教も道徳も何もかも同じ事である。(森鴎外『追儺』)
「最早見えなくなつた日の余光」は良基を照らし、われわれを照らしている。
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「いまに於ける源氏物語の価値」の「いま」には傍点が振ってあります。
実にしみじみとした見事な文章ですね。
青空文庫で『追儺』を見ると、
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新喜楽に往くといふのは、知らぬ処に通ずる戸を開けるやうで、何か期待する所があるやうな心持である。女の綺麗なのがゐるだらうと思ふ為めではない。今の自然派の小説を見れば、作者の空想はいつも女性に支配せられてゐるが、あれは作者の年が若いからかと思ふ。僕のやうに五十近くなると、性欲生活が生活の大部分を占めてはゐない。矯飾して言ふのではない。矯飾して、それが何の用に立つものか。只未知の世界といふことが僕を刺戟するのである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/693_18396.html
とありますが、『追儺』の初出は1909年なので、1862年生まれの鴎外が47歳の時の作品ですね。
数え年なら、確かに「五十近く」です。
ところで、小川氏が引用された部分の直後に、「暫くして M. F 君が来た。いつもの背広を著て来て、右の平手を背後に衝いて、体を斜にして雑談をする。どうしても人魚を食つた嫌疑を免れない人である」という文章が続きます。
一瞬、何のことだろうと思いましたが、八百比丘尼伝説ですね。
ネットで見つけた九頭見和夫氏「明治時代の『人魚』像─西洋文化の流入と『人魚像』への影響について」によると、「人魚の肉を食べた尼さんが八百歳まで長生きしたという『八百比丘尼伝説』に由来する表現と推測される。おそらくM. F君は、福々しくて精力が身体中にみなぎっていた人物と思われる」とあります。
http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/501/1/16-32.pdf
鴎外47歳の文章を引用する小川氏は1971年生まれで、2005年の時点では34歳の若さですね。
まあ、しみじみとした良い文章ではありますが、正直、ずいぶん年寄りくさいな、という感じもします。
こういう文章は有名大学の名誉教授にでもなって、文化勲章でも取って、棺桶に片足突っ込むくらいの年になってから書いてもいいんじゃないですかね。
小川氏は『増鏡』についても「最早見えなくなつた日の余光」だと考えているでしょうが、私はそれは根本的な誤解だと思います。
私は、『増鏡』は「人魚の肉を食べた尼さん」のように、年を取っても元気一杯の女性が書いた本だと思っているので、小川氏の『増鏡』論には賛成できない点が多いですね。
少しずつ書いて行くつもりです。
>寺岡一文さん
足利氏について多少調べたことはありますが、残念ながら寺岡氏については何も知りません。