学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

ブログ用の補足

2010-03-18 | 新潟生活
上の投稿は筆綾丸さんのJapanese Medieval History and Literature掲示板における次の投稿を受けたものです。
ブログだけでは意味不明な部分があるので、筆綾丸さんの投稿も関係部分を引用しておきます。

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なしくずし 投稿者:筆綾丸 投稿日:2010年 3月18日(木)20時47分15秒

小太郎さん
「良基への関心は、古来低からざるものがあった。摂政太政大臣・従一位・准三后と位人臣を極め、博覧強記であらゆる学藝に通じた、中世を代表する貴紳の一人として仰がれている。近代に入っても、そうした良基像は揺るがず、例えば早くから歴史物語増鏡の作者に擬されている。確証はないとはいえ、良基は作者に最もふさわしい人物であり、そのことが改めて良基の文才や思想に関心が寄せられる契機となったことは確かであろう」
(『二条良基研究』序章3頁)
「このような状況を受け、忠守のような後醍醐朝の遺臣の手によって、増鏡は生み出されていったと見られる。それに最も相応しい場所は二条摂関家である。良基の若年期は極めて断片的な証言しか得られないのであるが、良基が廷臣のうちの才器として注目され、期待を集めていたことも、ここで補強の材料としてよいであろう。
そうすれば増鏡は良基の監修を受けたというような結論にもあるいは到達できるかも知れない。そのことは改めて別稿で考察することとしたいが、こうして良基のもとに遺された増鏡は、生涯に繰り返し紐解かれて、その公家としての営みの上で、直接には朝儀の復興や宮廷行事の開催のための参考とされ、いつしか良基の作として伝えられるという道筋を辿ることになったのであろう。もし良基によって、その価値を認められて世に出る、享受のありようを重視すれば、増鏡を良基の〈著作〉みなすことも、当然成立し得る考え方であろう」(同書終章588頁)

小川剛生氏は、増鏡の作者はあくまで二条良基だとされたいようですが、終章の論法は、庇を貸したら母屋をぶんどられるような、我田引水の、本末転倒の、針小棒大の、ペラボーななしくずし戦術であって、この伝でいけば、『源氏物語』は藤原定家の〈著作〉だ、云えぬこともないですね。将棋の世界なら、読み筋が悪いというか、悪手というか・・・駄目のような気がします。
大きなお世話になりますが、「もし良基によって、その価値を認められて世に出る、享受のありようを重視すれば・・・」は、「もし良基によって、その価値を認められて世に出る、という享受のありようを重視すれば・・・」が、正しい日本語ですね。
コメント
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