学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

新年のご挨拶(補遺)

2021-01-05 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 5日(火)19時39分50秒

「新年のご挨拶」は実質的に(その1)だけで、後は三回にわたって佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)について少し書いてみましたが、これも別に同論文への本格的な批評という訳ではなく、あくまで私の個人的関心から気になった点について若干検討してみただけです。
私が引用した部分も私の個人的関心に基づく抜粋であって、必ずしも佐藤氏の議論の文脈を素直に反映したものではなく、その前後を含めて読めば私とは別の感想を抱く人も多いと思います。
ま、それでも鎌倉時代の最新の研究動向を知ることができて、私としては非常に有益でした。
最初は『太平記』を終えたら、そのまま鎌倉時代まで遡ってガンガンやるか、とも思いましたが、佐藤論文の参考文献で未読のものだけでも相当大量にありますから、いったん『太平記』関係をまとめて、少し時間を置いてから改めて鎌倉時代の検討に入ろうと思います。
ということで、明日からはまた吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場」に戻って残された部分を少し検討し、清水克行氏の『足利尊氏と関東』なども随時参照しつつ、建武政権期の尊氏について、自分なりの見解をまとめてみるつもりです。
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新年のご挨拶(その4)

2021-01-05 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 5日(火)12時42分26秒

北条泰時の崇徳院「後身」すなわち再誕説、私は初めて聞いたのですが、ちょっと紹介しておくと、

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 「関東御式目」の奥書によると、文永の頃、「碩儒大才人」であった藤原俊国の邸宅において『文選』の読み合わせがあった際、式目を読んだところ律令よりも簡潔で感心したという俊国の感想を聞いた唯浄は、「武州禅門ハ崇徳院ノ後身ト申説候、権化人也、仍神妙候歟」、すなわち北条泰時は崇徳院の「後身」といわれており、「権化の人」であるので、泰時のつくった式目は「神妙」なのだと返答している。
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とのことで(p21)、六波羅奉行人の斎藤唯浄が公家の藤原俊国から聞いた話ですから、これもやはり「おべんちゃら神話」の一種のような感じがします。
さて、第三章では次の箇所にも興味を惹かれました。(p23)

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 鎌倉後期の北条氏については、「伊豆国在庁時政子孫高時法師」という護良親王令旨の一節がしばしば引き合いに出され、身分的に卑しかったので将軍にはなることができず、「種姓」秩序の壁の前に支配の正統性を得られないままに権力集中を目指さざるをえず、その矛盾を抱えながら滅亡したという評価がなされてきた。だが、令旨の一節は討幕側のプロパガンダの一節として差し引く必要があろう。【中略】第一章で触れたように、治承・寿永の内乱期から後鳥羽院政期にかけて、(特に東国の)武士の身分上昇があったことや、さらに本章でみてきたように得宗と天皇像を重ね合わせて、これを呼び込もうとする言説が京都の側から生まれていたことを考えると、北条氏の身分的限界を強調することには疑問がある。
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佐藤氏はプロパガンダという表現を否定的に用いておられ、それは普通の歴史研究者と共通する態度です。
確かにプロパガンダには否定的なイメージがつきまといますが、肯定的に用いられるのが通常の「(正統性)神話」と「プロパガンダ」は、実際にはヤヌスの二つの顔ですね。
南北朝期は奇妙に「民主主義」的、「平等主義」的な時代であって、もちろん近代の民主主義社会と異なり、その軍事ゲーム・政治ゲームに参加する資格があるのは馬と武器を所有する武士だけですが、「御所巻」のように、それら有資格者の多数決によって政治の方向が決まるようなことさえ起こります。
こうした疑似「民主主義」・「平等主義」社会において、プロパガンダは極めて重要であり、鎌倉末期から南北朝時代はプロパガンダの時代と言っても過言ではない、と言ったら少し過言かもしれない時代のように思えます。
そんな訳で、実は私は『増鏡』(の原型)すらプロパガンダの材料だったのではないかと思っています。
『増鏡』のプロパガンダ性が最も顕著に現れているのは、「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」の問題ですね。
佐藤氏は、「後嵯峨院が文永九年(一二七二)に死去すると、治天の地位を継承した亀山天皇が親政を始め、文永十一年には後宇多天皇に譲位して院政を開始する。だが、兄後深草院が反発して幕府に訴えると、幕府の調停によって建治元年(一二七五)、後深草の皇子(のちの伏見天皇)が皇太子となる」(p17)に付した注(103) において、

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(103) 一般的な通史叙述として、(1)後嵯峨院が、子の後深草院か亀山天皇の兄弟いずれとも治天の地位の継承者を決めず、その決定を幕府に委ねた、(2)執権北条時宗が後嵯峨院の内意を尋ね返したところ、「先院ノ御素意」は亀山天皇にあったという大宮院の証言に基づき、亀山天皇親政が始まった、というストーリーが語られている。だが、(1)は『五代帝王物語』(前掲注(64)参照)や伏見院自筆事書(「東山御文庫」、前掲注(62)『六代勝事記・五代帝王物語』二八七頁)、(2)は『神皇正統記』にみえる記述である。一方、『増鏡』や『梅松論』は、亀山の皇統継承を命じる遺詔(勅)があったとする。戦前以来の研究史のある問題であり、本稿で本格的に再検討することはできないが、何れも両統迭立が本格化した後の時期の叙述に依拠する点に注意を促しておきたい。
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と述べられていますが(p17)、これは史料批判の観点からすると相当に問題のある記述です。
まず、『梅松論』は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めたときに死去した、などと壮絶な勘違いをしていて、公家社会には全く無知な人が書いていますから、少なくとも「後嵯峨院の御遺勅」に関しては全く価値のない史料ですね。
しかも、『梅松論』の作者は公家社会に無知蒙昧でありながら「後嵯峨院の御遺勅」に異常なこだわりを持っていて、知識のバランスが極めて悪い人です。
『梅松論』の作者は南北朝期において自身が「足利直義史観」のプロパガンダ担当者と思われますが、それと同時に、鎌倉末期においては「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」あたりの巧みな弁舌に丸め込まれた、いわば後醍醐側のプロパガンダの犠牲者ですね。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

さて、『増鏡』は一貫して後嵯峨院の「御素意」は亀山の子孫が皇統を継ぐべきだという内容だったとしていて、その見解をくどいほど繰り返します。
また、その主張に沿ったエピソードも多いですね。
そして、ここまで念入りに「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」に論じるということは、これらがプロパガンダの一環ではないか、という疑いを生じさせるのに充分な材料ではないかと思います。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7129bc8db49e22d28cb2702ca8eb2d8
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9987f4c5e8c030e45a36f6e5321ba012
第三回中間整理(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a39944cc6d8bdde55e88ad93fb5e2e6f

佐藤氏は「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」問題に関し、相対立する史料が拮抗しているような書き方をされていますが、『梅松論』はこの問題に関しては史料的価値がなく、『増鏡』はプロパガンダ的性格が窺われるので、結局のところ従来の通説で全く問題がないように思います。
特に佐藤氏が一次史料の「伏見院自筆事書」を疑うのであれば、その理由を明確にすべきではないかと思います。

帝国学士院編纂『宸翰英華』-伏見天皇-
http://web.archive.org/web/20111022235719/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
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