投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月28日(木)12時28分26秒
続きです。(p202)
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さて、問題としてきたのは、『増鏡』などが護良の将軍宣下を元弘三年六月一三日としていることと、その令旨に即してみればすでに同年五月一〇日付のものに「依 将軍宮仰」と見えている事実との関係をどう理解するかである。
筆者は以下のように考える。まず前提となるのは、護良自身が強く征夷大将軍のポストを望んだであろうこと、そしてそれは第二の武家政権樹立をもくろむ足利高氏(尊氏)の動向を制御する意味を持ったと考えられること、である。武門の統括をめざしていた護良は六波羅探題の陥落を契機に、その後まもないころから将軍を自任した。しかもそれは父帝の暗黙の了解を得たうえでのことと考えて少しもおかしくない。父帝の隠岐配流中、京都の周辺で討幕勢力の最高指導者として獅子奮迅の活躍を遂げ、討幕に大功のあった護良にしてみれば、それは至極当然のはからいとみなされたであろう。六月十三日の将軍宣下は、いわば形式的なセレモニーであったと思われる。
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「『増鏡』などが護良の将軍宣下を元弘三年六月一三日としていること」とありますが、『増鏡』には六月十三日の入京後、「すみやかに将軍の宣旨をかうぶり給ぬ」とあるだけで、十三日当日とは言っておらず、これはあくまで田中義成などの学者の推測ですね。
それはともかく、森氏が「まず前提となるのは」とされる二つのうち、「護良自身が強く征夷大将軍のポストを望んだであろうこと」は、護良が望みもしない地位を後醍醐が一方的に押し付ける理由も考えにくいので、「強く」かどうかは別として、まあ、そうなのだろうなと思います。
しかし、「それは第二の武家政権樹立をもくろむ足利高氏(尊氏)の動向を制御する意味を持ったと考えられること」の方は、いくら何でもあまりに早すぎる話ではないかと思います。
五月七日に六波羅が陥落したといえ、五月十日の時点では鎌倉幕府は健在であり、後醍醐側も、まさか鎌倉幕府が五月二十二日に滅亡するなどとは全然予想していなかったはずです。
『太平記』第十一巻第四節「新田殿の注進到来の事」にも、
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二十八日、法花山へ行幸なつて、御巡礼あり。【中略】
ここに一日御逗留あつて、供奉の行列、還幸の儀式を調へらるる処に、その日の午刻に、過書を頸に懸けたる早馬二騎、門前まで乗り打ちして、庭上に羽書を捧げたり。諸卿驚いて、急ぎ披きこれを見給ふに、新田小太郎義貞がもとより、相模入道以下一族従類等、不日に追討して、東国すでに静謐の由を注進せり。「西国、洛中の戦ひに、官軍聊か勝に乗つて、両六波羅を攻め落とすと云へども、関東を攻められん事は、ゆゆしき大事なるべし」と、叡慮を廻らされける処に、この注進到来してければ、主上を始め奉つて、諸卿一同に、猶預〔ゆうよ〕の宸襟を休め、欣悦〔きんえつ〕の称歎を尽くさる。即ち、「恩賞は宜しく請ふに依るべし」と宣下せられて、先づ使者二人に、おのおの勲功の賞をぞ行はれける。
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とあって(兵藤校注『太平記(二)』、p177)、この部分は特に誇張もないと思われます。
このように、「西国、洛中の戦ひに、官軍聊か勝に乗つて、両六波羅を攻め落とすと云へども」、まだ「第一の武家政権」である鎌倉幕府が厳然と存在していて、倒幕にはなお数ヵ月、あるいは数年の戦いを覚悟するのが当たり前の状況で、「第二の武家政権樹立をもくろむ足利高氏(尊氏)の動向を制御する」といった発想が出てくるはずもありません。
これが鎌倉幕府があまりにもあっけなく倒壊した五月二十二日以降ならば、そのような懸念も一応は理解できますが、五月十日の時点ではいくら何でも早すぎますね。
さて、森氏は護良帰京をめぐる『太平記』の「二者択一パターン」エピソードに縛られているので、「武門の統括をめざしていた護良は六波羅探題の陥落を契機に、その後まもないころから将軍を自任した。しかもそれは父帝の暗黙の了解を得たうえでのことと考えて少しもおかしくない」といった、妙に力の入った推論をされています。
しかし、私はこんなものは『太平記』の創作だと考える立場です。
そして、『太平記』を全く無視して、森氏が綺麗に整理された護良親王令旨の一覧表をごく素直に眺めれば、護良は「父帝の暗黙の了解」ではなく、正式の了解を得て征夷大将軍に任官したと考える方が自然ではないか、と思われます。
後に征夷大将軍を解任された護良は、スパッと「将軍家」・「将軍宮」の使用を止めているので、少なくともこの種の肩書に関してはけっこう律儀な性格です。
使用を止めろと言われれば素直に使用を止めた護良は、任官に際しても勝手に「自任」したのではなく、正式な承認を得たと考えるのが自然です。
もともと後醍醐と護良の間では直接、あるいは後醍醐が畿内に派遣した千種忠顕あたりを通じて相当の情報交換が行われていたはずですし、四月二十七日の名越高家戦死・尊氏離反以降は両者の情報交換を妨げる障害も殆どなくなりますから、護良が「征夷大将軍になりたい」と後醍醐に手紙を書いて、後醍醐から「いいよ」という返事をもらうのにもたいした時間はかかりません。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その8)
そして、名越高家戦死・尊氏離反により鎌倉幕府が大きく動揺したものの、未だその滅亡までには相当の時間があるであろうと予想されていたこの時期、征夷大将軍の称号はそれなりに重要な政治的・軍事的意味を持ったのではないかと思われます。
後に尊氏が後醍醐の一存で全ての地位、位階と鎮守府将軍を含む官職を奪われたように、後醍醐が鎌倉幕府第九代将軍守邦親王の地位を剥奪し、別の誰かに与えようと思えば、少なくとも観念的にはいつでも可能だったはずです。
しかし、鎌倉幕府が厳然として存在している段階でそんなことをしても、隠岐に流された「廃帝」が訳の分からないことをしている、という笑い話で終わってしまいます。
ところが、幕府が相当危なくなっているぞ、と多くの人が不安に思っている時期に、後醍醐が守邦親王から征夷大将軍の地位を奪って護良親王に与えたとなると、鎌倉幕府はもはや支配の正統性を失った存在なのだ、というけっこう強力な政治的・軍事的なアピールになって、親幕府側の武士に一層の心理的圧力を加えることが可能になりますね。
逆に言うと、征夷大将軍という存在は、六波羅滅亡から幕府倒壊までの極めて微妙な期間には絶大な政治的・軍事的意味を持ったものの、実際に幕府があっけなく倒壊してしまうと、それほどのアピール力もなくなってしまったのではないかと思います。
時代が安定してくれば、征夷大将軍など、鎌倉時代後半と同様に、再び小学生くらいの親王が名目的にやっておれば良い程度の地位になってしまったのかもしれません。
私は護良親王が僅か数か月間で征夷大将軍を解任された後も後醍醐との関係が決裂しなかった理由について、二人にとって征夷大将軍など名誉職的な地位であったからと考えていました。
しかし、より正確には、征夷大将軍は一時的には極めて重要な政治的・軍事的な意味を持ったけれども、「公武一統」の世となって天下「静謐」が達成された以上、既に重要性が低下しており、むしろ波瀾の時代の名残のようにも感じられるので、もうやめようではないか、と二人が合意した可能性もあるのでは、と考えています。
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)