投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月20日(水)11時55分1秒
続きです。(p43以下)
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政権崩壊への道
「中先代の乱」とよぶこの事件の勃発にたいし、後醍醐は直属の軍事力をもっているわけではなかったから、結局、尊氏に頼るほかない。尊氏は、直義救援・鎌倉奪還を目指し、出陣に際し、後醍醐に征夷大将軍への補任を求めた。尊氏としてはかねての願望実現の好機であったが、後醍醐はがんとして許さなかった。政権の命運がかかった危機のなかでも後醍醐は頑固であったが、認めればそのまま足利の幕府再建に連なっていくことも目に見えていた。
尊氏は結局、「官軍」としての名を得ることもなく出陣したが、在京の武士はほとんどこれに従った。後醍醐はそのあとやむなく尊氏を「征東将軍」に任じたが、手際としてははなはだ拙劣だった。尊氏は途中直義軍と合流し、たちまち鎌倉を奪還した。北条時行の鎌倉掌握はわずか二〇日余りで終わった。
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尊氏が「出陣に際し、後醍醐に征夷大将軍への補任を求めた」か、尊氏が「かねての願望」として征夷大将軍を狙っていたか、について私は極めて懐疑的です。
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
ただ、尊氏が「出陣に際し、後醍醐に征夷大将軍への補任を求めた」話は、軍事情勢については信頼性が高い『梅松論』に登場しないものの、『神皇正統記』には、
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高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の総追捕使を望けれど、征東将軍になされて、尽〔ことごと〕くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀叛をおこすよし聞えしが、十一月十日あまりにや、義貞を追罰すべきよし奏したてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。【後略】
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とあって(岩佐正校注『神皇正統記』、岩波文庫、p184)、これをどう考えるかという問題が生じます。
尊氏が東下した時点では北畠親房は遠く陸奥にいたので、私は親房は京都情勢をリアルタイムで詳しく知っていた訳ではなく、後から得た不正確な情報を『神皇正統記』に記したものと考えていますが、この点は改めて検討するつもりです。
西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
『梅松論』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)
さて、永原著の続きです。
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勝利をにぎった尊氏は、鎌倉で勲功を立てた武士たちの行賞を開始した。近代の統一軍隊とちがって、武士たちは自分の判断・意志に従い、恩賞を求めて味方してくるのだから、大将軍としては早くそれにこたえないわけにはゆかない。だが後醍醐は、行賞権をみずから一手ににぎって専断するという原則に立っていたから、この尊氏の行賞を認めようとせず、尊氏を従二位にのぼらせるとだけ伝えるとともに、すぐ京都に帰るように厳命した。
ここが歴史の岐路であった。後醍醐は主従制にもとづく武士の行動原理をまったく理解しておらず、相変わらず行賞の専断を主張して、尊氏を決定的に追いつめることとなった。それでも尊氏は後醍醐の命令に応じて帰京しようとしたが、弟の直義は強く反対した。直義は京都に帰ることが、敵の包囲に取りこめられるのと同然であることを知っていた。結局尊氏はこれに従い、鎌倉に腰をすえた。
そして一一月に入ると、直義は「軍勢催促」状を発して新田義貞を討つための兵を諸国に徴募し、尊氏も義貞誅罰を上奏、事実上の反乱姿勢を明らかにした。後醍醐はこれに対し義貞の軍を東下させ、同時に尊氏・直義の官を剥奪、建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた後醍醐と尊氏の対立は、ここでついに公然たる敵対関係に入った。
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『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』という僅か334ページの一般書で、永原氏がいささかバランスを失しているのではないかと思われほど詳しく中先代の乱を描くのは、まさに「ここが歴史の岐路」だと認識されているからですね。
永原氏が説くところの「後醍醐は主従制にもとづく武士の行動原理をまったく理解しておらず」という認識は、かつては不動の定説でしたが、最近の研究ではずいぶん様相が変わってきているようです。
さて、私が長々と永原氏の見解を引用してきたのは、最後の一文の「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた後醍醐と尊氏の対立」という表現に注目したからです。
私は『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードをいずれも創作と考えますが、では、『太平記』が、建武の新政の入口と出口という重要なポイントに、こうした創作エピソードを置いた目的は何か。
私はそれを、建武の新政において、後醍醐と尊氏は最初から最期まで対立していた、「公家一統」などというのは出発点から極めて無理の多い体制であって、所詮は短期間で崩壊する運命だったのだ、という歴史観を広めるためだったと考えます。
永原氏は、このような「『太平記』史観」のプロパガンダを最も素直に受け入れた研究者の一人と思われますが、では、このようなプロパガンダにより、どのような歴史の実像が消されてしまったのか。
私が考える建武新政期の実像は永原氏と正反対で、後醍醐と尊氏は最初から全く対立しておらず、後醍醐の独裁どころか実際には後醍醐と尊氏の共同統治といってもよい公武協調体制だった、しかし尊氏は権勢を誇らず、極めて控えめな立場で後醍醐の理想の実現に実務的に尽力していた、というものです。
「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた」のは、むしろ足利家内部の尊氏派(公武協調派)と直義派(武家独立派)の対立であって、中先代の乱をきっかけに尊氏派が直義派の説得に負けて、足利家が武家独立派で一本化された、と私は考えます。
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードは、建武新政期におけるこうした足利家内部の対立を覆い隠すために置かれたものではないですかね。
このように考えると、従来、極めて難解で謎めいているように思われてきた足利尊氏の人物像、すなわち佐藤進一氏によって精神的な疾患を抱えているのではないか、などとさえ言われてきた足利尊氏の人物像が整合的に把握できるように思われます。
>筆綾丸さん
>鴨鍋に 入れるなボクは カモノハシ
覚えていてくださって光栄です。
ブログの方で検索しても出て来ないので、ずいぶん前の投稿になりますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「大鍋の罅もとどろに寄する湯の 割れて砕けて裂けて散る鴨」 2021/01/19(火) 14:43:25
小太郎さん
「良いカモだったカモ」
太平記の中の farce (茶番狂言)を史実と受け取ってしまう愚直な実証主義的歴史研究者の言説をみると、ゆくりなくも、
鴨鍋に 入れるなボクは カモノハシ
という名句を思い出しますね。
小太郎さん
「良いカモだったカモ」
太平記の中の farce (茶番狂言)を史実と受け取ってしまう愚直な実証主義的歴史研究者の言説をみると、ゆくりなくも、
鴨鍋に 入れるなボクは カモノハシ
という名句を思い出しますね。