学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その5)

2021-01-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月26日(火)21時31分22秒

続きです。(p368以下)

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 新設の武者所には武家歌人が多かった。建武年間記の「武者所結番事」は延元元年四月のものではあるが、ここにみえる武士にも、長沼秀行(続千載以下)、小串秀信(風雅)・長井広秀(風雅以下)・二階堂成藤(同)及び知行らがいる。東氏村はこの武者所結番事に名はみえないが、やはり武者所に参候しており、天皇下賜の題で詠を進めた事があった(新千載二九八)。
 原中最秘抄の奥書によっても、この頃多くの家で会が行われていたらしいが、草庵集<巻十>にも「建武のころ等持院左大臣〔尊氏〕家に寄花神祇といふ事をよまれしに」とある。尊氏と頓阿とは後に深い関係を持つようになるが、これがその結びつきを示す最も古い資料である。
 右によって尊氏が建武の頃、家で会を催している事が知られ、かつ元弘立后の屏風にも歌を詠じており、彼が歌を好む事は人々によく知られていたと思われる。
 尊氏の祖義氏は続拾遺の作者であったが、その後足利氏から勅撰歌人を出していない。しかし尊氏・直義兄弟の母清子の実家上杉氏は、元来勧修寺支流の下級貴族といわれ、関東に下って武士になるが、やはりその文化性は失わなかったようで、清子の兄重顕(伏見院蔵人)は玉葉・続千載作者、同じく兄弟の頼成(永嘉門院蔵人)も風雅作者。清子も歌をたしなんで、風雅作者である。かつ尊氏室登子も赤橋家の出であった。
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いったん、ここで切ります。
『原中最秘抄』は「デジタル大辞泉」によれば、

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源氏物語の注釈書。2巻。源光行・親行の共著「水原抄」に、親行の子の義行、孫の行阿が代々加筆し、貞治3年(1364)に成立。題は「水原抄」の中の最も秘たる部分の抄録に解説を加えた秘伝の書の意。光行に始まる河内方(かわちがた)の学説を知る上で貴重な資料。

という書物ですね。
また、『草庵集』は為世門下の「和歌四天王」の筆頭、頓阿(二階堂貞宗、1289-1372)の私歌集です。
頓阿は尊氏より十六歳の年長ですね。

頓阿(コトバンク)

上杉氏については、四条家との関係を中心に、昨年四月から五月にかけて少し検討してみました。
私は決して山田敏恭氏の「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できる」という結論に否定的ではないのですが、ただ、鎌倉期の四条家は相当に巨大な存在であって、複数の家に分かれていたこと、山田氏が言及される四条隆蔭は四条隆親の系統ではなく、母が家女房であるために隆親に嫡子の地位を奪われた兄・隆綱の系統であって、油小路家という分家の人である点が気になります。
また、上杉重房が本当に宗尊親王の東下に同行していたのかについては、史料面で若干の問題はありますが、仮に同行していなくても、例えば人材の補強として少し後に呼ばれたような可能性だってありますから、宗尊親王期に重房が鎌倉に移ったことまで疑う必要もないと思います。

上杉一族は四条家の家司なのか?
「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できるのではないだろうか」(by 山田敏恭氏)
「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」のか?
久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その1)~(その3)

さて、この後、井上氏は赤橋登子の兄、守時の生年が不明であることを前提に、登子の父について縷々検討されるのですが、現在では守時の生年は永仁三年(1295)であることが明確になっています。
ただ、それほどの分量でもないので、そのまま紹介しておきます。

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 登子は公卿補任<観応元年義詮の尻付・尊卑分脈等系図類>によると赤橋久時女とあるが、師守記貞治四年五月四日の条には(登子)「入夜子剋入滅<年六十云々、名字平登子、相模守守時朝臣女>自去年虚労云々」とあり、同記には頻りに「大方殿」(登子)の親父守時の如くに記している。守時は久時の男である。登子は貞治四年六十歳で没したのだから、徳治元年の生まれとなる。而して久時は徳治二年に三十六歳で没している(北条九代記)。即ち久時の子ならその三十五歳の時の子である。守時の生年は不明であるが、仮に久時が十六、七歳で守時をもうけたとしたら、守時は徳治元年には既に十八、九歳になっており、登子をもうける年齢に達していた事になる。即ち登子は守時女であるかもしれず、また久時女であったとしても生まれた翌年久時が没しているので、恐らく守時に養育され、その養女となり、形式的には守時女となっていたのかもしれぬ。なお守時の弟は記述の鎮西探題英時で、その妹も歌人であった。
 かくして尊氏も直義も、関東で育ったとは言い条、頗る文化的な雰囲気に包まれていたと思われる。既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事は前章に述べた。続後拾遺に尊氏は一首入集、臨永の作者にもなった。建武新政下に公卿となり、京に滞在して多忙ではあったが、暇をぬすんで歌会を行なったのも当然である。武士の中で最も実力・声望ある尊氏の会に、歌道家の人々や法体歌人を含めた文化人が参集したであろう事は想像に難くない。
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「既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事」と臨永集については次の投稿で説明します。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)

2021-01-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月26日(火)12時01分37秒

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』の紹介を三回ほど続けてきましたが、タイトルがバラバラだと後で検索・参照するときに不便なので、今回から書名を入れることにします。
ということで、建武元年(1334)の話の続きです。(p367以下)

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 七夕内裏七首には天皇・雅朝・為定が詠じた(藤葉<七夕月>・新続古今三七七・三七八)。因みに明題和歌全集や類題和歌集に、ただ「御会」「内裏御会」とあって、七夕月・七夕霧・七夕河・七夕草・七夕鳥の題によって人々が詠じた会があった。作者は天皇・明釈・為定・実忠・季雄・公脩・惟継・為明・為忠・経有・為冬・為親・公明・隆教・隆朝・光吉・公泰・寂阿<丹波忠守>・公宗・雅朝・実教。明釈とあるので一応元徳二、三年か、建武元、二年かと思われるが、公宗(建武二誅)が作者になっており、建武二年ではないようである。年次は未詳だが一応掲げておく。十五夜会(<雅朝・行房・永能他。藤葉・新続古>)。
 以上を通じてこの頃の歌壇は二条家の人々によってリードされていたらしい事が如実に知られるし、またそれは当然なことであった。なお他に注意されるのは次の如き点である。
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言うまでもありませんが、この二条家は摂関家の二条家とは別の歌道の家で、この時期は二条為世を中心としています。
藤原定家(1162-1241)の子孫が為家(1198-1275)→為氏(1222-86)→為世(1250-1338)と続いていて、「為」が通字ですね。
ただ、二条家が「為」を独占している訳ではなく、為家の同母弟・為教の京極家、為家の異母弟・為相(母は阿仏尼)の冷泉家にも「為」が多く、非常に紛らわしいです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96

なお、三条公明(1281-1336)と寂阿(丹波忠守、?-1344)の名前が出ていますが、この二人は『徒然草』第一〇三段の、

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 大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれけるところへ、医師〔くすし〕忠守参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、なぞなぞにせられにけるを、「唐瓶子〔からへいじ〕」と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちてまかり出でにけり。
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というエピソードで有名な仲良しコンビですね。
上記引用は小川剛生訳注『新版 徒然草』(角川文庫、2015)から行いましたが(p103以下)、小川氏は『二条良基研究』(笠間書院、2005)において、自ら設定した「そもそも<作者>とは何であろうか」という「なぞなぞ」を検討し、丹波忠守が『増鏡』の著者で二条良基が監修者であった、と解かれました。
まあ、『増鏡』の著者としては忠守程度の身分の人では無理が多いことが明らかなので、私はあまり感心しなかったのですが、その後、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)では、小川氏もご自身の説を撤回されて、古くからの通説である二条良基説に戻っておられますね。
かつてのご自身の迷答(?)に「腹立ちてまかり出でにけり」という訳でもないでしょうが。

「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/16665e8f7d97eaf7bdb417181c2f1cb2
『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25e3325c1d57ad163fd6338cf9f68df4
小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25bff1410b6473592b94072dc69d40b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8dd111d27c6978b428f696122434f45c
二条良基を離れて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ecab544e96e7299adab407b4b94ca6

『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻ると、井上氏は「なお他に注意されるのは次の如き点である」として、最初に飛鳥井家の動向について語りますが、これは歴史学の観点からはあまり重要ではないので省略します。
そして「永能」についての話となりますが、こちらは細かい話ではあるものの、武家歌人に関係してくるので紹介します。(p368)

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 次に、十五夜の会に出ている永能は、星野三河守保能(続千載作者)の子。従五位左近将監と尊卑分脈にみえる者らしい。この星野氏は熱田大宮司族で、代々昇殿を聴されていたから、宮廷の会にも出席できたのであろうが、建武新政期には地下の武士までも武者所において天皇から題を賜わって詠歌する事があった。新千載七八〇に「後醍醐院の御時、武者所にさぶらひけるに、原霞といへる題を賜はりてつかうまつりける」と詞書して河内(源)知行(親行孫、法名行阿)の詠がみえる。行阿は後年「原中最秘抄」の奥書に

  (後醍醐)              (恒良)
  吉野先皇御治天之時、摂度々公宴畢、加之、龍楼・竹園・執柄・大家等、所々会席之候末座者也

とみえ、この頃さかんに行われた各所の会に知行は出席した。天皇に河内本源氏物語を書写進上した事もある(同奥書)。(知行については山脇毅『源氏物語の文献学的研究』に記述がある)
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ということで、「建武新政期には地下の武士までも武者所において天皇から題を賜わって詠歌する事があった」という点は興味深いですね。
さて、この後、尊氏の名前が出てきます。
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