投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月26日(火)21時31分22秒
続きです。(p368以下)
-------
新設の武者所には武家歌人が多かった。建武年間記の「武者所結番事」は延元元年四月のものではあるが、ここにみえる武士にも、長沼秀行(続千載以下)、小串秀信(風雅)・長井広秀(風雅以下)・二階堂成藤(同)及び知行らがいる。東氏村はこの武者所結番事に名はみえないが、やはり武者所に参候しており、天皇下賜の題で詠を進めた事があった(新千載二九八)。
原中最秘抄の奥書によっても、この頃多くの家で会が行われていたらしいが、草庵集<巻十>にも「建武のころ等持院左大臣〔尊氏〕家に寄花神祇といふ事をよまれしに」とある。尊氏と頓阿とは後に深い関係を持つようになるが、これがその結びつきを示す最も古い資料である。
右によって尊氏が建武の頃、家で会を催している事が知られ、かつ元弘立后の屏風にも歌を詠じており、彼が歌を好む事は人々によく知られていたと思われる。
尊氏の祖義氏は続拾遺の作者であったが、その後足利氏から勅撰歌人を出していない。しかし尊氏・直義兄弟の母清子の実家上杉氏は、元来勧修寺支流の下級貴族といわれ、関東に下って武士になるが、やはりその文化性は失わなかったようで、清子の兄重顕(伏見院蔵人)は玉葉・続千載作者、同じく兄弟の頼成(永嘉門院蔵人)も風雅作者。清子も歌をたしなんで、風雅作者である。かつ尊氏室登子も赤橋家の出であった。
-------
いったん、ここで切ります。
『原中最秘抄』は「デジタル大辞泉」によれば、
-------
源氏物語の注釈書。2巻。源光行・親行の共著「水原抄」に、親行の子の義行、孫の行阿が代々加筆し、貞治3年(1364)に成立。題は「水原抄」の中の最も秘たる部分の抄録に解説を加えた秘伝の書の意。光行に始まる河内方(かわちがた)の学説を知る上で貴重な資料。
という書物ですね。
また、『草庵集』は為世門下の「和歌四天王」の筆頭、頓阿(二階堂貞宗、1289-1372)の私歌集です。
頓阿は尊氏より十六歳の年長ですね。
頓阿(コトバンク)
上杉氏については、四条家との関係を中心に、昨年四月から五月にかけて少し検討してみました。
私は決して山田敏恭氏の「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できる」という結論に否定的ではないのですが、ただ、鎌倉期の四条家は相当に巨大な存在であって、複数の家に分かれていたこと、山田氏が言及される四条隆蔭は四条隆親の系統ではなく、母が家女房であるために隆親に嫡子の地位を奪われた兄・隆綱の系統であって、油小路家という分家の人である点が気になります。
また、上杉重房が本当に宗尊親王の東下に同行していたのかについては、史料面で若干の問題はありますが、仮に同行していなくても、例えば人材の補強として少し後に呼ばれたような可能性だってありますから、宗尊親王期に重房が鎌倉に移ったことまで疑う必要もないと思います。
上杉一族は四条家の家司なのか?
「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できるのではないだろうか」(by 山田敏恭氏)
「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」のか?
久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その1)~(その3)
さて、この後、井上氏は赤橋登子の兄、守時の生年が不明であることを前提に、登子の父について縷々検討されるのですが、現在では守時の生年は永仁三年(1295)であることが明確になっています。
ただ、それほどの分量でもないので、そのまま紹介しておきます。
-------
登子は公卿補任<観応元年義詮の尻付・尊卑分脈等系図類>によると赤橋久時女とあるが、師守記貞治四年五月四日の条には(登子)「入夜子剋入滅<年六十云々、名字平登子、相模守守時朝臣女>自去年虚労云々」とあり、同記には頻りに「大方殿」(登子)の親父守時の如くに記している。守時は久時の男である。登子は貞治四年六十歳で没したのだから、徳治元年の生まれとなる。而して久時は徳治二年に三十六歳で没している(北条九代記)。即ち久時の子ならその三十五歳の時の子である。守時の生年は不明であるが、仮に久時が十六、七歳で守時をもうけたとしたら、守時は徳治元年には既に十八、九歳になっており、登子をもうける年齢に達していた事になる。即ち登子は守時女であるかもしれず、また久時女であったとしても生まれた翌年久時が没しているので、恐らく守時に養育され、その養女となり、形式的には守時女となっていたのかもしれぬ。なお守時の弟は記述の鎮西探題英時で、その妹も歌人であった。
かくして尊氏も直義も、関東で育ったとは言い条、頗る文化的な雰囲気に包まれていたと思われる。既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事は前章に述べた。続後拾遺に尊氏は一首入集、臨永の作者にもなった。建武新政下に公卿となり、京に滞在して多忙ではあったが、暇をぬすんで歌会を行なったのも当然である。武士の中で最も実力・声望ある尊氏の会に、歌道家の人々や法体歌人を含めた文化人が参集したであろう事は想像に難くない。
-------
「既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事」と臨永集については次の投稿で説明します。