投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 9日(土)18時28分59秒
吉原論文の検討も、いよいよこれで最後です。(p52)
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おわりに
建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた。しかし、建武政権下での後醍醐の軍事関係文書は、元弘の乱と建武二年(一三三五)の尊氏離反以後のものを除けば数通しか現存しない。この中において足利尊氏は、元弘三年(一三三三)に元弘の乱の戦後処理を担当し、建武元年(一三三四)九月には鎮西警固の綸旨を施行している。さらに、元弘の乱において尊氏は、地方の守護層を取り込むことにより倒幕勢力を掌握し、恩賞仲介を通して地方の守護層とより強固な関係を構築していた。この尊氏と地方の守護層との関係は、鎮西の実例からして建武政権下を通して継続していたと考えられる。
この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった。この時点で尊氏は、軍事部門の責任者として政権内に位置づけられたのである。さらに後醍醐は、元弘三年八月五日に尊氏を従三位、建武元年正月五日に正三位へ叙し、同九月十四日に参議に任じている。この尊氏の公卿化からは、尊氏を朝廷機構内に規定しようとする後醍醐の意図を読み取ることができる。決して尊氏は、政権内から排除されてはいなかったのである。それどころか「神皇正統記」に「カクテ高氏ガ一族ナラヌ輩モアマタ昇進シ、昇殿ヲユルサルゝモアリキ、サレバ或人ノ申サレシハ、公家ノ御世ニカヘリヌルカトオモヒシニ中々猶武士ノ世ニ成ヌル、トゾ有シ」とあるように、後醍醐は公家達が不満を抱くほど尊氏を筆頭とした武士達を昇進・昇殿させ朝廷内に取り込んでいたのである。「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」というのも、尊氏の異例の昇進に対する公家達の不満の現れと捉えるべきであり、尊氏が政権から排除されていたことを意味するものではないと考える。
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いったん、ここで切ります。
「この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった」とありますが、若干唐突な感じもしますね。
私もこの結論は妥当と考えますが、もう少し説明があればより適切だったのでは、と思います。
なお、「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず」に付された注(105)には、
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(105) 建武政権下では、軍事機関として窪所・武者所が存在する。しかし、森氏は、尊氏離反以前の窪所・武者所を天皇の親衛隊的なものとされる(森前掲「建武政権の構成と機能」、一二九~一二四頁)。
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とあります。
「建武政権の構成と機能」は森氏の『南北朝期公武関係史の研究』(文献出版、1984)所収の論文ですね。
また、「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」云々は、対象を特定はしていませんが、実際は佐藤進一説批判ですね。
佐藤氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)で、「はじめに」の次の章「公武水火の世」に「高氏なし」という項目を立て、そこで、
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新政初期の政治情勢を考えるうえに、もう一つ参考になるのは政府機関の人的構成である。
新政が始まるとまもなく(時日は明らかでない)、記録所・恩賞方という二つの機関が設けられた。【中略】
一方、実力者である足利高氏は、位階の特別昇進、鎮守府将軍で大いに優遇されたように見えて、二つの機関の職員には加えられない。むしろ実力者であり、新政への抵抗勢力となる危険があるからこそ敬遠されるのである。貴族の間に「高氏なし」という暗号めいた諷刺がささやかれたのは、多分このころであろう。高氏が護良との対立を深める一方、新政への抵抗の姿勢をかためるのは自然の勢いである。
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と述べていますが(p25)、現在では『梅松論』の「高氏なし」を格別に重視する佐藤氏に賛同する研究者は少なくなったように感じます。
『南北朝の動乱』には『太平記』べったりの記述に加え、『梅松論』べったりの記述も多く、佐藤氏はずいぶん大胆に軍記物を活用されていますね。
現代語訳『梅松論』(芝蘭堂サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html
さて、吉原論文に戻って続きです。
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建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。
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「おわりに」の冒頭には「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた」とありましたが、最後まで読むと、「鎮守府将軍」の尊氏をトップとする「鎮守府」という機関が「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関」だったのではなかろうか、という感じもしてきますね。
まあ、そういう機関があったことを示す史料はないのでしょうが、足利家は鎌倉時代から充実した行政・軍事機構を整備していたので、そうした機構が「鎮守府」にそっくりそのまま移行すればそれなりに機能しそうです。
また、吉原氏は奥州府・鎌倉府は尊氏の管轄外とされますが、そもそも奥州府・鎌倉府という「広域行政府」の発想はどこから出てきたのか。
この点については、かつては佐藤氏の「逆手取り」論が定説でしたが、史料的根拠もない、殆どアクロバティックな奇妙な議論でしたね。
現在では北畠顕家を実質的なトップとする奥州府の方が、足利直義を実質的なトップとする鎌倉府よりもむしろ旧来の鎌倉幕府的な仕組みを整備していたことが明らかになっていますが、顕家を奥州に派遣した直後に直義を関東に送り込んだ後醍醐にとっては、そうした地域的差異を設けることがそれなりに合理的な根拠に基づく判断だったと思われます。
ただ、そう考えると、何故に後醍醐が統治の対象としての関東と奥州の違いを知ることができたのかも問題となります。
この点、仮に尊氏の役割が、吉原氏が想定しているよりも更に高度な、全国レベルの軍事・行政の諮問機関、という表現が大袈裟だとすれば、まあ後醍醐の相談役のような存在だったとすれば、鎌倉時代から東北にも領地を有していた足利家のトップである尊氏は、奥州府・鎌倉府の問題についても後醍醐に適切なアドバイスをすることができたように思われます。
吉原論文の検討も、いよいよこれで最後です。(p52)
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おわりに
建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた。しかし、建武政権下での後醍醐の軍事関係文書は、元弘の乱と建武二年(一三三五)の尊氏離反以後のものを除けば数通しか現存しない。この中において足利尊氏は、元弘三年(一三三三)に元弘の乱の戦後処理を担当し、建武元年(一三三四)九月には鎮西警固の綸旨を施行している。さらに、元弘の乱において尊氏は、地方の守護層を取り込むことにより倒幕勢力を掌握し、恩賞仲介を通して地方の守護層とより強固な関係を構築していた。この尊氏と地方の守護層との関係は、鎮西の実例からして建武政権下を通して継続していたと考えられる。
この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった。この時点で尊氏は、軍事部門の責任者として政権内に位置づけられたのである。さらに後醍醐は、元弘三年八月五日に尊氏を従三位、建武元年正月五日に正三位へ叙し、同九月十四日に参議に任じている。この尊氏の公卿化からは、尊氏を朝廷機構内に規定しようとする後醍醐の意図を読み取ることができる。決して尊氏は、政権内から排除されてはいなかったのである。それどころか「神皇正統記」に「カクテ高氏ガ一族ナラヌ輩モアマタ昇進シ、昇殿ヲユルサルゝモアリキ、サレバ或人ノ申サレシハ、公家ノ御世ニカヘリヌルカトオモヒシニ中々猶武士ノ世ニ成ヌル、トゾ有シ」とあるように、後醍醐は公家達が不満を抱くほど尊氏を筆頭とした武士達を昇進・昇殿させ朝廷内に取り込んでいたのである。「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」というのも、尊氏の異例の昇進に対する公家達の不満の現れと捉えるべきであり、尊氏が政権から排除されていたことを意味するものではないと考える。
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いったん、ここで切ります。
「この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった」とありますが、若干唐突な感じもしますね。
私もこの結論は妥当と考えますが、もう少し説明があればより適切だったのでは、と思います。
なお、「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず」に付された注(105)には、
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(105) 建武政権下では、軍事機関として窪所・武者所が存在する。しかし、森氏は、尊氏離反以前の窪所・武者所を天皇の親衛隊的なものとされる(森前掲「建武政権の構成と機能」、一二九~一二四頁)。
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とあります。
「建武政権の構成と機能」は森氏の『南北朝期公武関係史の研究』(文献出版、1984)所収の論文ですね。
また、「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」云々は、対象を特定はしていませんが、実際は佐藤進一説批判ですね。
佐藤氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)で、「はじめに」の次の章「公武水火の世」に「高氏なし」という項目を立て、そこで、
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新政初期の政治情勢を考えるうえに、もう一つ参考になるのは政府機関の人的構成である。
新政が始まるとまもなく(時日は明らかでない)、記録所・恩賞方という二つの機関が設けられた。【中略】
一方、実力者である足利高氏は、位階の特別昇進、鎮守府将軍で大いに優遇されたように見えて、二つの機関の職員には加えられない。むしろ実力者であり、新政への抵抗勢力となる危険があるからこそ敬遠されるのである。貴族の間に「高氏なし」という暗号めいた諷刺がささやかれたのは、多分このころであろう。高氏が護良との対立を深める一方、新政への抵抗の姿勢をかためるのは自然の勢いである。
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と述べていますが(p25)、現在では『梅松論』の「高氏なし」を格別に重視する佐藤氏に賛同する研究者は少なくなったように感じます。
『南北朝の動乱』には『太平記』べったりの記述に加え、『梅松論』べったりの記述も多く、佐藤氏はずいぶん大胆に軍記物を活用されていますね。
現代語訳『梅松論』(芝蘭堂サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html
さて、吉原論文に戻って続きです。
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建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。
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「おわりに」の冒頭には「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた」とありましたが、最後まで読むと、「鎮守府将軍」の尊氏をトップとする「鎮守府」という機関が「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関」だったのではなかろうか、という感じもしてきますね。
まあ、そういう機関があったことを示す史料はないのでしょうが、足利家は鎌倉時代から充実した行政・軍事機構を整備していたので、そうした機構が「鎮守府」にそっくりそのまま移行すればそれなりに機能しそうです。
また、吉原氏は奥州府・鎌倉府は尊氏の管轄外とされますが、そもそも奥州府・鎌倉府という「広域行政府」の発想はどこから出てきたのか。
この点については、かつては佐藤氏の「逆手取り」論が定説でしたが、史料的根拠もない、殆どアクロバティックな奇妙な議論でしたね。
現在では北畠顕家を実質的なトップとする奥州府の方が、足利直義を実質的なトップとする鎌倉府よりもむしろ旧来の鎌倉幕府的な仕組みを整備していたことが明らかになっていますが、顕家を奥州に派遣した直後に直義を関東に送り込んだ後醍醐にとっては、そうした地域的差異を設けることがそれなりに合理的な根拠に基づく判断だったと思われます。
ただ、そう考えると、何故に後醍醐が統治の対象としての関東と奥州の違いを知ることができたのかも問題となります。
この点、仮に尊氏の役割が、吉原氏が想定しているよりも更に高度な、全国レベルの軍事・行政の諮問機関、という表現が大袈裟だとすれば、まあ後醍醐の相談役のような存在だったとすれば、鎌倉時代から東北にも領地を有していた足利家のトップである尊氏は、奥州府・鎌倉府の問題についても後醍醐に適切なアドバイスをすることができたように思われます。