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「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その16)

2021-01-09 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 9日(土)18時28分59秒

吉原論文の検討も、いよいよこれで最後です。(p52)

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   おわりに

 建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた。しかし、建武政権下での後醍醐の軍事関係文書は、元弘の乱と建武二年(一三三五)の尊氏離反以後のものを除けば数通しか現存しない。この中において足利尊氏は、元弘三年(一三三三)に元弘の乱の戦後処理を担当し、建武元年(一三三四)九月には鎮西警固の綸旨を施行している。さらに、元弘の乱において尊氏は、地方の守護層を取り込むことにより倒幕勢力を掌握し、恩賞仲介を通して地方の守護層とより強固な関係を構築していた。この尊氏と地方の守護層との関係は、鎮西の実例からして建武政権下を通して継続していたと考えられる。
 この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった。この時点で尊氏は、軍事部門の責任者として政権内に位置づけられたのである。さらに後醍醐は、元弘三年八月五日に尊氏を従三位、建武元年正月五日に正三位へ叙し、同九月十四日に参議に任じている。この尊氏の公卿化からは、尊氏を朝廷機構内に規定しようとする後醍醐の意図を読み取ることができる。決して尊氏は、政権内から排除されてはいなかったのである。それどころか「神皇正統記」に「カクテ高氏ガ一族ナラヌ輩モアマタ昇進シ、昇殿ヲユルサルゝモアリキ、サレバ或人ノ申サレシハ、公家ノ御世ニカヘリヌルカトオモヒシニ中々猶武士ノ世ニ成ヌル、トゾ有シ」とあるように、後醍醐は公家達が不満を抱くほど尊氏を筆頭とした武士達を昇進・昇殿させ朝廷内に取り込んでいたのである。「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」というのも、尊氏の異例の昇進に対する公家達の不満の現れと捉えるべきであり、尊氏が政権から排除されていたことを意味するものではないと考える。
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いったん、ここで切ります。
「この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった」とありますが、若干唐突な感じもしますね。
私もこの結論は妥当と考えますが、もう少し説明があればより適切だったのでは、と思います。
なお、「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず」に付された注(105)には、

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(105) 建武政権下では、軍事機関として窪所・武者所が存在する。しかし、森氏は、尊氏離反以前の窪所・武者所を天皇の親衛隊的なものとされる(森前掲「建武政権の構成と機能」、一二九~一二四頁)。
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とあります。
「建武政権の構成と機能」は森氏の『南北朝期公武関係史の研究』(文献出版、1984)所収の論文ですね。
また、「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」云々は、対象を特定はしていませんが、実際は佐藤進一説批判ですね。
佐藤氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)で、「はじめに」の次の章「公武水火の世」に「高氏なし」という項目を立て、そこで、

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 新政初期の政治情勢を考えるうえに、もう一つ参考になるのは政府機関の人的構成である。
 新政が始まるとまもなく(時日は明らかでない)、記録所・恩賞方という二つの機関が設けられた。【中略】
 一方、実力者である足利高氏は、位階の特別昇進、鎮守府将軍で大いに優遇されたように見えて、二つの機関の職員には加えられない。むしろ実力者であり、新政への抵抗勢力となる危険があるからこそ敬遠されるのである。貴族の間に「高氏なし」という暗号めいた諷刺がささやかれたのは、多分このころであろう。高氏が護良との対立を深める一方、新政への抵抗の姿勢をかためるのは自然の勢いである。
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と述べていますが(p25)、現在では『梅松論』の「高氏なし」を格別に重視する佐藤氏に賛同する研究者は少なくなったように感じます。
『南北朝の動乱』には『太平記』べったりの記述に加え、『梅松論』べったりの記述も多く、佐藤氏はずいぶん大胆に軍記物を活用されていますね。

現代語訳『梅松論』(芝蘭堂サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html

さて、吉原論文に戻って続きです。

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 建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。
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「おわりに」の冒頭には「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた」とありましたが、最後まで読むと、「鎮守府将軍」の尊氏をトップとする「鎮守府」という機関が「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関」だったのではなかろうか、という感じもしてきますね。
まあ、そういう機関があったことを示す史料はないのでしょうが、足利家は鎌倉時代から充実した行政・軍事機構を整備していたので、そうした機構が「鎮守府」にそっくりそのまま移行すればそれなりに機能しそうです。
また、吉原氏は奥州府・鎌倉府は尊氏の管轄外とされますが、そもそも奥州府・鎌倉府という「広域行政府」の発想はどこから出てきたのか。
この点については、かつては佐藤氏の「逆手取り」論が定説でしたが、史料的根拠もない、殆どアクロバティックな奇妙な議論でしたね。
現在では北畠顕家を実質的なトップとする奥州府の方が、足利直義を実質的なトップとする鎌倉府よりもむしろ旧来の鎌倉幕府的な仕組みを整備していたことが明らかになっていますが、顕家を奥州に派遣した直後に直義を関東に送り込んだ後醍醐にとっては、そうした地域的差異を設けることがそれなりに合理的な根拠に基づく判断だったと思われます。
ただ、そう考えると、何故に後醍醐が統治の対象としての関東と奥州の違いを知ることができたのかも問題となります。
この点、仮に尊氏の役割が、吉原氏が想定しているよりも更に高度な、全国レベルの軍事・行政の諮問機関、という表現が大袈裟だとすれば、まあ後醍醐の相談役のような存在だったとすれば、鎌倉時代から東北にも領地を有していた足利家のトップである尊氏は、奥州府・鎌倉府の問題についても後醍醐に適切なアドバイスをすることができたように思われます。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)

2021-01-09 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 9日(土)13時11分29秒

続きです。(p51)

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 そもそも征夷大将軍の称号は、後醍醐にとって容認し難いものだった。史料Xに「其後上野太守成良親王令兼之給、建武三年二月被止其号畢」とあるように後醍醐は、一旦尊氏追討に成功すると成良を征夷大将軍から解任し、以後征夷大将軍の称号を停止して任命を行っていない。従来、護良の征夷大将軍職解任は、後醍醐の志向した専制政治との対立、尊氏との個人的な抗争による敗北などと評されてきた。勿論、護良と尊氏との間に対立関係が存在し、護良失脚の一因となったであろうことは否定しない。しかし、護良失脚の直接的な原因は、「征夷大将軍」の役割をめぐる後醍醐と護良の認識のずれにあったと考えられる。これに対して尊氏は、鎮守府将軍に任じられ後醍醐自身が行うべき軍事的な実務を代行していたのである。史料Uにおける尊氏の権限発動も、「鎮西軍事指揮権」という鎮西に限定された権限として捉えるべきではなく、鎮守府将軍としての全国規模での軍事的権限に由来すると考えるべきである。
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「後醍醐は、一旦尊氏追討に成功すると成良を征夷大将軍から解任し、以後征夷大将軍の称号を停止して任命を行っていない」に付された注(103)と「従来、護良の征夷大将軍職解任は、後醍醐の志向した専制政治との対立、尊氏との個人的な抗争による敗北などと評されてきた」に付された注(104)は、いずれも森茂暁『皇子たちの南北朝─後醍醐天皇の分身─』、中公新書、1988)の関係ページを示していて、この吉原氏のこの時期に関する基本認識は森茂暁氏の影響を強く受けていますね。
さて、吉原氏は成良親王が征夷大将軍に任官した時期は建武二年八月一日としていて(注98)、これは『相顕抄』に基づいています。
もともと私は桃崎有一郎氏の『室町の覇者足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたのか』(ちくま新書、2020)に、

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成良親王は後に征夷大将軍になるが、それは約二年後に、京都に送り返された後である。(p26)
直義を救うため、尊氏は出陣の許可と征夷大将軍への任命を後醍醐に要請した。しかし後醍醐は却下し、京都に戻った成良親王を征夷大将軍にした。一〇歳の彼に将軍など務まらないが、「尊氏だけには与えない」というあてつけだ。(同)
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という記述があったので、この出典は何かなと思って成良親王について調べ始めたのが征夷大将軍の問題に入り込んだきっかけでした。
定石通り『大日本史料』を見ようかなと思ったものの、コロナのためにいつも利用している大学図書館に行きづらく、代替として『続史愚抄』を見て、建武元年(1334)十一月十四日条に「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」とあったので、一時はこれこそ真実と信じ込んでしまうような紆余曲折もありました。
ただ、最初に『大日本史料』を見て碩学・田中義成が成良親王が征夷大将軍となったのは建武二年八月一日と断じており、その根拠が『相顕抄』という何だか権威がありそうな史料だと知ったら私もそれで納得してしまったでしょうから、ある意味コロナ様々だな、とも思っています。
時節柄、若干不謹慎な言い方ではありますが。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その3)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a3d642e86c00b75693207c4ccd6d3a8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd19236999a4fdb51b60719f34dea0ca
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714
『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bad1ac040c2c8369349a1ddaaeb597d

そして亀田俊和氏や森茂暁・桃崎有一郎氏等の見解を参照しつつ、あれこれ考えてみた結果、私の一応の結論は、成良の征夷大将軍任官は建武元年(1334)二月五日ではなかろうか、というものです。

「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fd0e1db7797023f427b1678eefaa60e
「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e
「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3beb01268e2e2003427f19077e25c35a
護良親王の征夷大将軍解任時期との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe78f236a9c90bb5ae313028bd0e3fed
成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e260a5e387875c10aefd0577bab9121
「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d81f559d0c26eb98ee65324512ff7c0c
「大御厩事、被仰付状如件、 元弘四年二月五日 直義(花押)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9359c9afe80e23d85454c1e42ee4cf30
人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b

結局のところ、私は建武新政期においては征夷大将軍というものは極めて軽い存在だったと考えているので、冒頭で引用した吉原氏の見解とは基本的前提が異なり、吉原説に賛成できる点はあまりない、ということになります。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22bc2fda80bb8070e6da5425f64f3316
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37968ec2d22b9aaae94c672afd446770
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
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