学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)

2021-01-14 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月14日(木)22時09分20秒

私としては村井章介氏が毒殺肯定派というのが少し意外だったので、『日本の時代史10 南北朝の動乱』(吉川弘文館、2003)を確認してみましたが、峰岸氏が紹介された通りで、特に理由などは付されていません。
新田一郎氏の『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)も確認してみましたが、確かに直義毒殺には懐疑的であっても短い結論だけですね。
また、最近の書籍では桃崎有一郎氏の『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書、2020)に「高師直が殺された日のちょうど一年後で、毒殺されたという説を『太平記』は伝えているが、私は疑っている」(p34)とありますが、これも結論だけです。
ということで、数十万に及ぶ毒殺肯定派の歴史研究者軍団(『太平記』的誇張を含む)に敢然と対峙する毒殺否定派の猛将は、上州伊勢崎に盤踞する峰岸純夫氏と南方の島におられる亀田俊和氏の僅か二人だけ、ということになりそうですが、しかし、お二人のこの問題に対する姿勢は対照的ですね。
亀田氏の見解は既に紹介しましたが、歴史研究者の日常業務として冷静に史料批判を行い、その結論を淡々と記した、といった趣きです。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その3)

念のため、上記投稿で【中略】とした部分も紹介すると、

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 直義の暗殺に用いられたとされる「鴆毒」なる毒物についても、謎が多い。これは鴆という南方に生息する鳥の羽の毒だとも言われている。しかし、鴆の実在は確認されず、存在自体が疑問視されてきた。
 ところが一九九二年、ニューギニアできわめて強い毒性を持つ鳥が発見された。有毒な鳥が実在する以上、同じく毒鳥である鴆が存在した可能性も出てくるが、だとすれば尊氏がいかなる経路で鴆毒を入手したのかなど新たな疑問も出てくる。日本に本格的な毒殺文化が入ってきたのは織豊期以降であるとする見解もある。
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ということで(p174)、極めて科学的・合理的な推論ですね。
他方、峰岸氏はどうかというと、何でこんな問題にそこまで熱くなれるのだろうと不思議に思えるほどの分量で熱心に毒殺否定説を語り、毒殺肯定説を厳しく攻撃されます。
ただまあ、観応三年(1352)の出来事の検討に際して遥か十六年前、建武三年(1336)の古証文を持ち出すなど、歴史研究者の姿勢としてはいかがなものだろうか、という感想を禁じ得ません。
この峰岸氏の少々空回り気味な情熱の元を辿ると、『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』の巻頭に置かれた「歴史における兄弟の相克─プロローグ」にその秘密がありそうですね。(p1以下)

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 同じ父母、ないしは父か母のどちらかから生まれた兄弟姉妹が、助け合って困難を乗り切った、ないしは終生協力関係を維持したうるわしい話はよく聞くことである。しかし、夫婦であっても親子であっても、いがみあったり憎しみあったりして関係が悪化する場合があるのと同様に、兄弟姉妹でも憎悪にさいなまれる関係にある場合をしばしば見聞きするところである。とくに、現代において多額の遺産相続に直面した場合、兄弟姉妹はともかくとしても、その背後にある配偶者の力が働いて関係がこじれ、抜き差しならない相続争いに逢着してしまい、裁判で決着をつけたが遺恨が長く尾を引く場合がしばしば出現する。それを避けるために、遺産を公的機関や福祉関係に寄付するというケースの出てきているという。「児孫のために美田を残さず」という西郷隆盛の言葉も一つの見識であろう。
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ここまで読むと、峰岸氏も兄弟間の相続争いで大変だったのかな、などと想像してしまいますが、事情はもう少し複雑なようです。

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 私が少年時代に読んだ吉川英治『三国志』の一挿話、豆と豆ガラの話は今も印象深く心に残っている。中国古代の三国時代に、魏の曹操が没して、その王位は嫡子の曹丕〔そうひ〕に継承されたが、詩文の才能があり父から愛されていた弟の曹植は、兄に疎まれ叛乱の嫌疑で死罪に処せられようとする。そのとき兄は、弟に対して七歩を歩く間に詩を作れば命を助けるとの無理難題を申しつける。曹植は、「豆を煮るのに豆ガラを焚く 豆は釜中にあって泣く 元は同根より生ずるを 相い煮ることなんぞはなはだ急なる」と。並み居る人々を感動させて、弟は罪一等減ぜられて追放の身となり寂しくその場を去っていく。当時私は、煮られる立場も哀れだが、煮るほうも自身が火だるまになってしまうのだから両方とも可哀そうだと、子供心に思った。この挿話がながく印象に残った理由は、私の置かれた境遇にもよる。私は異母兄弟の弟で、義兄との関係はすこぶる良かったのだが、義兄をめぐる祖母と母の確執につねに心を痛めていたからである。やがて義兄は、年若くして自立して東京に勤めに出て行ったのである。
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ということで、これが峰岸氏にとって、歴史上の兄弟対立に格別の関心を向ける原点になったようですね。

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 歴史上でみてみると、鎌倉幕府成立期の源頼朝・義経の対立は有名であるが、それに次ぐものとして、足利尊氏・直義の深刻な対立が目につく。本書においては、南北朝内乱期の一過程に発生した観応の擾乱という尊氏・直義兄弟の争闘、その対立を継承した尊氏子息の義詮と直冬(直義の養子になる)異母兄弟の確執に着目し、それらの要因を探り室町幕府と鎌倉府という二元的な国家支配体制確立の政治過程のなかに位置づけてみようと思う。
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まあ、峰岸氏は歴史学研究会の委員長を務めるなど「科学運動」にも熱心なタイプの研究者なので、本書全体が甘い感傷に包まれているようなことは全くありませんが、直義の最期に関してだけは、峰岸氏の人生観・人間観・世界観に照らして、尊氏による毒殺などあり得ないのだと確信されておられていて、殆ど定説化していた毒殺説を抹殺することを生きがいのひとつにされているような感じがします。

峰岸純夫(1932生)

>筆綾丸さん
>直義の祥月命日が2月26日であることを証する確実な同時代史料

直義が没した年月日については誰も疑っていないようですね。
供養仏事が二月二十六日に行われていることも、その証左と思います。
入手しやすいところでは、森茂暁氏『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)の「第四章 鎮魂と供養」に等持院で営まれた直義の十三回忌・三十三回忌に関する史料が出ていますね。
直義の供養仏事は何と九十年以上も続いたそうです。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「2・26事件」 2021/01/14(木) 16:19:01
小太郎さん
初歩的な疑問で恥ずかしいのですが、直義の祥月命日が2月26日であることを証する確実な同時代史料はあるのですか。
実は祥月命日も捏造で、師直に合わせたほうがドラマチックで面白くなると作者は考えた、というようなことは考えられませんか。因縁の二人の祥月命日が同じなのは、偶然というにはあまりに不自然な感じがします。祥月命日が捏造ならば、毒殺など論ずるに及ばず、ということになりそうです。
もっとも、祥月命日が捏造だとすれば、すぐウソだとばれるような、こんな下手な作為をするものだろうか、という疑問も湧いてくるのですが。
コメント
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峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その2)

2021-01-14 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月14日(木)11時27分39秒

続きです。(p146以下)

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研究者の多くは、この記述を信用し、田中義成『南北朝時代史』は、「太平記によれば、尊氏、之(直義)を誅するに忍びず、窃〔ひそ〕かに毒を進めしなりと云へり」と記し、尊氏・直義について高い人物評価を与えている高柳光寿『足利尊氏』は、「二月二十六日は師直没と同日の一周忌、尊氏か師直一類が殺した可能性があり、殺害後の処分も不明、『諸家系図纂』は「尊氏殺害」と記す。『臥雲日件録』は、「直義の死後、神霊の出現があり、これを大倉明神として円福寺(直義の没した寺)に祀る、というのはこのような事情によるか」と、殺害説に傾いている。これらを受けた形で、佐藤進一『南北朝の動乱』は自己の判断を示さず、「多くの学者はこのうわさは真実だろうと見ている」と記している。それ以後の通史叙述において、佐藤和彦『南北朝の内乱』は、「幽閉された直義は、鴆毒によって殺された」と記し、伊藤喜良『南北朝の動乱』は、「太平記によれば、鴆毒を盛られた」、村井章介『南北朝の動乱』(『日本の時代史』一〇)は、「正月尊氏は鎌倉に入って、二月には直義を毒殺した」とする。これに対して、新田一郎『太平記の時代』は「毒殺との噂が流れたようだが、尊氏の関与の有無は明らかでない」として懐疑的である。私が編集に参加した『日本史年表』(岩波書店)には、「尊氏、直義(四七)を毒殺」と断定している。おおむね、毒殺を前提にして、尊氏の関与の有無に意見が分かれている。しかし、私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている。
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いったん、ここで切ります。
「これらを受けた形で、佐藤進一『南北朝の動乱』は自己の判断を示さず、「多くの学者はこのうわさは真実だろうと見ている」と記している」という指摘は峰岸氏の佐藤氏の対する静かな怒りを感じさせますね。
私もこの表現は、何だか陰湿な書き方だなあ、と思ったことがあります。
また、歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1995)を見ると、確かに「尊氏、直義(47)を毒殺」と断定しています。
実は私、成良親王のプチ年表を作るに際して同書を利用したばかりなのですが、確かに「毒殺」と断定していて、ちょっとびっくりしました。
峰岸氏はご自身が反対したであろう当該記述を誰が入れたのかを明確にはされていませんが、同書の「序文」には、

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 こうした方針のもとに作業は進められたが,60名に及ぶ人々が5年にわたって歩調を合せ協力することは決して容易なことではなかった.【中略】これはひとえに編集委員である吉田孝・峰岸純夫・高木昭作・宇野俊一・神田文人・加藤幸三郎・板垣雄三・西川正雄氏および執筆者諸氏の御努力と,私をたすけてまとめ役として万端の世話を引き受けて下さった吉村武彦・加藤友康氏の貢献によるものである.また岩波書店の松島秀三氏およびめんどうな編集実務の一切を引き受けて下さった井上一夫・竹内義春氏に対し,この機会にあつく御礼申し上げる.

1984年3月  歴史学研究会日本史年表編集委員会
                委員長 永原慶二
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とあるので、まあ、ここに挙げられている人の中で峰岸氏が賛成しない記述を載せることができる研究者というと、加藤友康氏では失礼ながら少し軽いので、「委員長 永原慶二」氏でしょうね。
世間的には加藤友康氏(1948年生、東京大学史料編纂所元所長、名誉教授)もけっこう偉い人でしょうが、歴史学研究会にはそれとは別の序列があり、年齢も永原氏(1922生)は峰岸氏(1932年生)より十歳上ですからね。
ということで、永原慶二氏も毒殺肯定説であると「断定」したいと思います。
さて、この後、峰岸氏は直義死去の十六年も前の史料、例の清水寺への尊氏の願文を出して来られて、それはちょっと関係ないのでは、と私などは思うのですが、一応引用しておきます。(p147以下)

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 尊氏の宗教心や尊氏と直義の兄弟愛を考える上で、建武三年(一三三六)の清水寺への願文が注目される。

  この世は、夢のごとくに候、尊氏にたう心(道心)たばせ給候て、後生たすけさせを
  はしまし候べく候、猶々とくとんせい(遁世)したく候、
  たう心(道心)たばせ給候べく候、今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさ
  せ給候べく候、今生のくわほう(果報)をば、直義にたばせ給候て、直義あんをん
  (安穏)にまもらせ給候べく候、
    建武三年八月十七日       尊氏(花押)
   清水寺

 この時点は、兵庫で新田義貞・楠木正成を撃破して京都の後醍醐天皇を追い、光明天皇を擁立した翌日のものである。本来ならばこの晴れがましい時点で、尊氏は鬱状態に陥り、道心(仏道への帰依)と隠遁を希求し、今生の果報に変えて後生の安穏を求め、今生の果報は直義に譲り、直義の安穏をも祈願するという内容になっている。一つ違いの弟直義の政治能力への信頼がつよく、直義に後事を託して引退したいという心情がにじみ出ている。その後、高師直と上杉氏、師直と直義、直冬と尊氏、直義と義詮などの観応の擾乱の錯綜する対立関係のなかで、尊氏・直義の大規模な直接対決、薩埵山合戦が行われるが、兄弟の憎悪をむき出しにしたものではなかった。その敗北後、尊氏の庇護のもと、直義は年来の宿願である政界引退を果たして心静かに鎌倉の一寺で仏道に入ったのである。しかし、長年の戦陣での無理が祟って身体がぼろぼろになっており、急性肝炎を発症して皮膚が黄色になる黄疸症状を呈し急逝したのである。その突然の死に疑惑が生じ、これを利用して『太平記』の物語が構築されたと考える。直義の毒殺説ないし尊氏加害説は是正されなければいけないと思う。
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うーむ。
峰岸説にも若干の疑問を感じますが、次の投稿で書きます。
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