投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月17日(日)11時41分47秒
『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)は僅か334ページでありながら「元弘三年(一三三三)六月の後醍醐天皇による建武政権樹立から、応仁元年(一四六七)五月の応仁の乱勃発にいたる、一三五年間を対象」(p8)としており、488ページを使って建武政権樹立から応永十五年(1408)の足利義満の死までを描く佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)と比べると、全体的に記述があっさり薄目の書物です。
しかし、中先代の乱に関しては、些かバランスを失しているのではないかと思われるほどの分量で、しかも何だか妙に力の入った熱い叙述が続きますね。
私にとって一番興味深いのは征夷大将軍をめぐる尊氏・後醍醐の攻防の扱い方ですが、その前の部分も少し丁寧に見ておくことにします。(p42)
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中先代の乱
建武二年(一三三五)六月、建武政権の転覆を企てた西園寺公宗らの陰謀が発覚して、公宗はじめ日野氏光以下謀議に加わった人びとがいっせいに逮捕された。公宗に縁あった人の密告によるもので、事件は大事に至る前に阻止されたかに見えた。
だが、陰謀の全貌が判明するにつれて事態は容易でないことがはっきりとした。前権大納言西園寺公宗は、鎌倉末期、北条ともっとも緊密な関係にあったため、後醍醐が入京直後、一時その官を解かれた。西園寺家は承久以後、親幕府派の公家として代々「関東申次」の役をつとめ、大きく力をのばしてきた家筋であった。公宗の計画は周到かつ大規模で、持明院統の上皇後伏見を奉じて後醍醐を暗殺、各地に潜伏する北条の残党と呼応し、実力で一挙に政権を樹立しようというものであった。
この公宗の計画は、けっして敗者の見果てぬ夢とばかりはいえないものである。げんに北条の残党は、新政権発足後も、陸奥・関東・九州・紀伊・長門などをはじめとする各地で蠢動、蜂起することが少なくなかった。北条一族は高時以下すべて鎌倉で滅び去ったというわけでなく、少なからざる人びとが各地に潜伏し、機会をねらっていたのである。西園寺公宗は、これらの生き残りの北条一族とおどろくほど緊密な連絡をとり、一斉蜂起を期したのである。
京都には高時の弟泰家が逃亡先の陸奥から潜入して公宗のもとにかくまわれていた。信濃には高時の遺児時行が諏訪氏の保護を受けてひそんでいた。北条一門の名越時兼も北国方面でひそかに蜂起の時期を待っていた。
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「公宗に縁あった人の密告によるもので」などと妙に曖昧な表現になっていますが、密告したのは公宗の異母弟の公重ですね。
公重は密告の恩賞として西園寺家の家督相続を許され、鎌倉時代にはずっと西園寺家の知行国であった伊予国の還付まで受けています。
西園寺公重(1317-67)
この表現を含め、何となく冒険活劇風の文体で描かれた文章なので、永原慶二氏の厳格な学風を知る者にとっては少し意外な感じもしますね。
ただ、この内容は、ある意味『太平記』の丸写しです。
「建武政権の転覆を企てた西園寺公宗らの陰謀」ですから、公宗が「生き残りの北条一族とおどろくほど緊密な連絡をとり、一斉蜂起を期した」ことを証拠づける一次史料が残っているはずもなく、ほぼ全てが『太平記』の記述に依拠したものです。
参考までに西源院本で『太平記』の内容を確認しておくと、第十三巻第三節「北山殿御陰謀の事」は次のように始まります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p304以下)
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故相模入道の舎弟、四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉の合戦の時、自害したる学〔まね〕をして、ひそかに鎌倉を落ちて、暫くは奥州にありけるが、人に見知られじため還俗して、京都に上り、西園寺殿を憑〔たの〕み奉つて、田舎侍の初めて召し仕はるる体〔てい〕にてぞ居りたりける。
これも承久の合戦の時、西園寺太政大臣公経、関東へ内通の子細ありしによつて、義時、その日の合戦に利を得し間、「子孫七代まで、西園寺殿を憑み申すべし」と申し置きたりしかば、今に至るまで、武家、他に異なる思ひをなせり。これによつて、代々の立后も、多くはこの家より出でて、国々の拝任も、半ばその族にあり。しかれば、官太政大臣に至り、位一品〔いっぽん〕の極位を窮めずと云ふ事なし。ひとへにこれ、関東贔屓の厚恩なりと思はれけるにや、いかんともして故相模入道の一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、わが身公家の執政として、四海を掌〔たなごころ〕に把〔にぎ〕らばやと思はれければ、この四郎左近大夫入道を還俗せさせ、刑部少輔時興〔ときおき〕と名を替へて、明け暮れはただ謀叛の計略をぞ廻らされける。
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永原氏は「京都には高時の弟泰家が逃亡先の陸奥から潜入して公宗のもとにかくまわれていた」と書かれていますが、泰家が崩壊寸前の鎌倉を脱出して陸奥に逃れた際の冒険活劇は第十巻第八節「鎌倉中合戦の事」の最後の方に詳細に描かれています。
そして公宗のもとに匿われていたことはこの場面に出ている訳ですが、逆にいうと、いずれも『太平記』でしか得られない情報ですね。
さて、『太平記』の引用をもう少し続けます。
西園寺家の家司、三善文衡(政所入道)が公宗(大納言殿)に次のような提案をしたのだそうです。(p306以下)
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或る夜、政所入道〔せいしょのにゅうどう〕、大納言殿の前に来たつて申しけるは、「国の興亡を見るには、政〔まつりごと〕の善悪を見るに如かず。政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに如かず。されば、微子〔びし〕去つて殷の代傾き、范増〔はんぞう〕罪せられて楚王滅びたり。今、朝家〔ちょうか〕にはただ藤房一人のみにて候ひつるが、未然に凶を鑑みて、隠遁の身となつて候ふ事、朝廷の大凶、当家の御運とこそ覚えて候へ。急ぎ思し召し立たせ給はば、先代の余類十方より馳せ参り、天下を覆さん事、一日を出づべからず」とぞ勧め申しければ、公宗卿、げにもと思はれければ、時興をば京都の大将として、畿内近国の勢を催され、甥の相模次郎時行をば、関東の大将として、甲斐、信濃、武蔵、相模の勢を付け、名越太郎時兼をば、北国の大将として、越中、能登、加賀の勢をぞ集められける。
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ということで、永原氏の記述と『太平記』を比較すると、永原氏が出来の悪い学生のレポートのように、殆ど『太平記』を丸写しにしていることが明らかです。
ただ、このように『太平記』を全面的に信頼する永原氏が利用しない場面が次に出てきます。
それは、未遂に終わったとはいえ、ヘンテコな殺害方法である点では直義毒殺と同じレベルの、例の一件です。
>筆綾丸さん
>諱の一字(直)は同じなのに
高師直の「直」はどこから来たのですかね。
さすがに直義からもらったとは考えにくいところですが。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
Das Unheimliche(フロイト) 2021/01/16(土) 14:34:47
小太郎さん
『足利直義』(森茂暁)と『高師直』(亀田俊和)を眺めてみました。二人の祥月命日は史実のようですね。
泣いて馬謖を斬る、ではありませんが、尊氏の断腸の思いを汲んで直義が自死したとして、なぜ二月二十六日なのか、といえば、内部抗争を解消するための象徴的な手打ち式だったからだ、というようなことになりますか。日本のヤクザやイタリアのマフィアが考えそうなことですが。
諱の一字(直)は同じなのに訓が違い、しかも、祥月命日は一年ずれて同じ、というのは、なんとも気持ち悪い。まるでフロイトのいう「不気味なるもの」(unheimlich ≒ heimlich)のように。
https://conception-of-concepts.com/philosophy/heidegger/text4-freut-and-heidegger/
小太郎さん
『足利直義』(森茂暁)と『高師直』(亀田俊和)を眺めてみました。二人の祥月命日は史実のようですね。
泣いて馬謖を斬る、ではありませんが、尊氏の断腸の思いを汲んで直義が自死したとして、なぜ二月二十六日なのか、といえば、内部抗争を解消するための象徴的な手打ち式だったからだ、というようなことになりますか。日本のヤクザやイタリアのマフィアが考えそうなことですが。
諱の一字(直)は同じなのに訓が違い、しかも、祥月命日は一年ずれて同じ、というのは、なんとも気持ち悪い。まるでフロイトのいう「不気味なるもの」(unheimlich ≒ heimlich)のように。
https://conception-of-concepts.com/philosophy/heidegger/text4-freut-and-heidegger/