投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月15日(金)11時28分44秒
峰岸説について少し補足すると、峰岸氏は成良親王に言及されていますが、これは流布本では第三十巻の直義毒殺エピソードにも成良の名前が出ているからであって、第十九巻の「金崎東宮并将軍宮御隠事」(『日本古典文学大系 太平記(二)』、p280以下)を直接に参照されている訳ではないですね。
私は観応三年(1352)の出来事の検討に際して建武三年(1336)の清水寺への願文を持ち出す峰岸純夫氏の歴史研究者としての姿勢に根本的な疑問を感じますが、仮に峰岸氏の、
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その後、高師直と上杉氏、師直と直義、直冬と尊氏、直義と義詮などの観応の擾乱の錯綜する対立関係のなかで、尊氏・直義の大規模な直接対決、薩埵山合戦が行われるが、兄弟の憎悪をむき出しにしたものではなかった。その敗北後、尊氏の庇護のもと、直義は年来の宿願である政界引退を果たして心静かに鎌倉の一寺で仏道に入ったのである。
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という認識がすべて正しいとしても、即ち死の直前まで尊氏と直義の間には憎しみの感情はなかったとしても、例えば尊氏が「これ以上生きていても恥を晒すだけではないか」といった理由で、兄弟間の愛情があるからこそ直義に死を求めることだって考えられますね。
ただ、その場合は鴆毒云々の発想が出てくるはずはなく、黙って直義に脇差を渡すような展開になるはずです。
結局、鴆毒云々は武家社会の中からは出て来ない発想じゃないですかね。
『太平記』の作者にとって、尊氏・直義兄弟が恒良・成良親王を殺害するという場面を創作しようと思ったとき、恒良・成良が公家社会の、しかも非常に高貴な身分の人なので、その死の場面では刀による切腹等は想定しにくく、いくつかのアイディアの中から毒殺という珍しい手法が案出されたのではないかと思います。
そして、そのアイディアが第三十巻で、直義の死をめぐって因果応報の場面を創作するに際しても効果的に転用された、ということではないですかね。
この点、私は以前の投稿で、
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恒良・成良のエピソードを読めば、少なくとも当時の一般人の認識としては、鴆毒は一週間続けて飲んでやっと効き目が出る程度ののんびりした毒薬ですね。しかも恒良と成良の死期が全く違うように個人によって効き目の差が大きい毒と認識されていたことが明らかですから、ピンポイントで特定の日に殺せるはずがありません。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f546a759f45cce549535e24969435051
などと書いてしまいましたが、人を殺したければ弓矢や刀を使えばよいだけの当時の武家社会において、一般人が毒薬についての煩瑣な知識を持っていたはずもなく、むしろ『太平記』で鴆毒について解説があったから、世の中には鴆毒というものがあって、それを飲むと一週間くらいで死ぬらしいぞ、という認識が一般人の間に広まって行ったと考えるべきでしょうね。
『太平記』にはそうした百科事典的な側面、雑学の宝庫としての側面があったはずです。
ついでに言うと、例えばいったん起請文を書いた人が、その後の事情の変化で起請文破りをする必要に迫られた場合、そういえば『太平記』で北条高時が尊氏に起請文の提出を迫った時、尊氏から相談された直義が「天に代はつて無道を誅して、君の御ために不義を退けんため」にする偽りの誓言ならば神も受けないと申し習わされているし、「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」、仏も神も、強い忠義の心をお守りくださらないことがありましょうか、という御都合主義の理論を展開していたことを思い出して、そうだそうだ、起請文破りなんて別にたいしたことじゃないんだ、と安心するようなこともあったはずです。
『太平記』にはそうした「武家生活の知恵」を提供する実用本としての側面もあったはずですね。
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1
峰岸説について少し補足すると、峰岸氏は成良親王に言及されていますが、これは流布本では第三十巻の直義毒殺エピソードにも成良の名前が出ているからであって、第十九巻の「金崎東宮并将軍宮御隠事」(『日本古典文学大系 太平記(二)』、p280以下)を直接に参照されている訳ではないですね。
私は観応三年(1352)の出来事の検討に際して建武三年(1336)の清水寺への願文を持ち出す峰岸純夫氏の歴史研究者としての姿勢に根本的な疑問を感じますが、仮に峰岸氏の、
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その後、高師直と上杉氏、師直と直義、直冬と尊氏、直義と義詮などの観応の擾乱の錯綜する対立関係のなかで、尊氏・直義の大規模な直接対決、薩埵山合戦が行われるが、兄弟の憎悪をむき出しにしたものではなかった。その敗北後、尊氏の庇護のもと、直義は年来の宿願である政界引退を果たして心静かに鎌倉の一寺で仏道に入ったのである。
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という認識がすべて正しいとしても、即ち死の直前まで尊氏と直義の間には憎しみの感情はなかったとしても、例えば尊氏が「これ以上生きていても恥を晒すだけではないか」といった理由で、兄弟間の愛情があるからこそ直義に死を求めることだって考えられますね。
ただ、その場合は鴆毒云々の発想が出てくるはずはなく、黙って直義に脇差を渡すような展開になるはずです。
結局、鴆毒云々は武家社会の中からは出て来ない発想じゃないですかね。
『太平記』の作者にとって、尊氏・直義兄弟が恒良・成良親王を殺害するという場面を創作しようと思ったとき、恒良・成良が公家社会の、しかも非常に高貴な身分の人なので、その死の場面では刀による切腹等は想定しにくく、いくつかのアイディアの中から毒殺という珍しい手法が案出されたのではないかと思います。
そして、そのアイディアが第三十巻で、直義の死をめぐって因果応報の場面を創作するに際しても効果的に転用された、ということではないですかね。
この点、私は以前の投稿で、
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恒良・成良のエピソードを読めば、少なくとも当時の一般人の認識としては、鴆毒は一週間続けて飲んでやっと効き目が出る程度ののんびりした毒薬ですね。しかも恒良と成良の死期が全く違うように個人によって効き目の差が大きい毒と認識されていたことが明らかですから、ピンポイントで特定の日に殺せるはずがありません。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f546a759f45cce549535e24969435051
などと書いてしまいましたが、人を殺したければ弓矢や刀を使えばよいだけの当時の武家社会において、一般人が毒薬についての煩瑣な知識を持っていたはずもなく、むしろ『太平記』で鴆毒について解説があったから、世の中には鴆毒というものがあって、それを飲むと一週間くらいで死ぬらしいぞ、という認識が一般人の間に広まって行ったと考えるべきでしょうね。
『太平記』にはそうした百科事典的な側面、雑学の宝庫としての側面があったはずです。
ついでに言うと、例えばいったん起請文を書いた人が、その後の事情の変化で起請文破りをする必要に迫られた場合、そういえば『太平記』で北条高時が尊氏に起請文の提出を迫った時、尊氏から相談された直義が「天に代はつて無道を誅して、君の御ために不義を退けんため」にする偽りの誓言ならば神も受けないと申し習わされているし、「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」、仏も神も、強い忠義の心をお守りくださらないことがありましょうか、という御都合主義の理論を展開していたことを思い出して、そうだそうだ、起請文破りなんて別にたいしたことじゃないんだ、と安心するようなこともあったはずです。
『太平記』にはそうした「武家生活の知恵」を提供する実用本としての側面もあったはずですね。
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1