学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

山家著(その13)「直義がこの地を邸宅に定める大きな要因」

2021-05-02 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月 2日(日)11時40分14秒

山家氏は禅宗を中心として宗教関係の膨大な知識を有しておられますが、宗教に詳しい人はどうしても軍事面でのリアリズムには欠ける傾向があるようです。
その点は既に若干の批判を行なっていますが、山家氏が、

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 直義は、建武政権の時代以来、一貫して三条坊門小路の南、万里小路の西、高倉小路の東に位置する邸宅に居住した。三条殿と呼ばれることが多い。この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている。加えて、古く宮地直一氏は、この場所は鎌倉時代には源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたことを指摘している。直義は、兄弟で源氏の嫡流たらんことを強く意識していた。源氏と関わりの深い八幡宮の存在は、直義がこの地に邸宅を定める大きな要因となったであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018377d40cbe9ca9d31fee685667c2f0

とされている点について、ツイッターで亀田俊和氏から、直義が三条殿を選んだのは軍事的理由からではないか、との指摘を受けたので補足しておきます。
亀田氏の『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)には、建武三年(1336)五月二十五日の「湊川の戦い」の後の戦況に関し、次のような記述があります。(p42以下)

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第二次京都争奪戦
 翌二十六日、足利軍は兵庫を発ち、西宮まで進出した。二七日、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。正月に続いて二度目の叡山行幸である。
 五月二九日、遂に直義は入京した(『梅松論』)。だが、尊氏は石清水八幡宮に依然とどまっていた。尊氏が入京したのは半月後の六月一四日で、持明院統光厳上皇を伴っており、東寺に本陣を置いた。
【中略】
 入京した直義は、現在の京都市左京区修学院にある赤山禅院に本陣を設置した。ここから比叡山を包囲する足利軍を指揮したのである。しかし六月二十日の合戦に敗北し、搦め手の大将として西坂本方面を担当していた高師久(師直弟)が捕えられ、処刑されるなどの大損害を出した。
 ここに足利軍の叡山包囲網は一時崩壊し、直義も赤山禅院を撤退して、下京の三条坊門に本陣を移した(以上『梅松論』)。この陣は、北が三条坊門小路、西が高倉小路、南が姉小路、東が万里小路に囲まれた区画にあった。以降貞和五年(一三四九)末に至るまで、直義は基本的にここに住み、事実上の初期室町幕府政庁となった。
 この後数ヵ月間にわたって、足利軍と後醍醐軍の一進一退の激しい攻防が果てしなく続いた。六月二七日夜には三条坊門の直義本陣が後醍醐軍に攻撃され、矢倉に放火されている(建武三年七月二三日付神代兼治軍忠状写、『萩藩閥閲録』巻一一三)。しかし、戦況は徐々に足利軍に有利となっていった。
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「第一次京都争奪戦」(p31)は僅か半年前、建武三年正月の出来事ですが、そのときは義貞を破って入京した尊氏軍と後醍醐側の激戦が続いた後、後醍醐側に北畠顕家の援軍が加わったため、尊氏は丹波篠村から西に逃げています。
『梅松論』を見ると、

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 去程に六月廿日、今道越より御方の合戦打負けて、三手の御方同く坂本に追ひ下さる。爰に高豊前守以下数十人、山上にて討死す。
 此上は赤山の御陳無益なりとて急ぎ御勢洛中に引き退く。大将下御所は三条坊門の御所に御座あり。将軍は東寺を城郭にかまへ、皇居として警固申されけり。
 去春両将浮勢にて河原に御扣へ有りし故に軍勢の心そろはず。今度は縦へ合戦難儀に及といふとも、何れの輩か東寺を捨て奉るべきとぞ沙汰有りける。軍勢は洛中に充満して狼藉を禦ぐべからず。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

とあります。
「去春両将浮勢にて河原に御扣へ有りし故に」とのことなので、「去春」、即ち亀田氏の用語では「第一次京都争奪戦」では直義はまだ三条坊門を拠点としておらず、九州まで往復して六月の「第二次京都争奪戦」に入ってから、軍事的理由により最初は赤山禅院、次いで三条坊門を拠点とした、ということですね。
ちなみに「第一次京都争奪戦」も非常に厳しい戦いで、このときは「去程に官軍は山上雲母坂・中霊山より赤山社の前に陳を取る。御方は、糺河原を先陳として京白河に満ちみてり」ということで、「官軍」側が赤山禅院、尊氏側が「糺河原」を拠点としています。
では何故に「第一次京都争奪戦」で尊氏側が「糺河原」を拠点としたかというと、後醍醐が比叡山に逃げる際に、

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 所々京方皆逃げ上る間、同十日の夜山門へ臨幸ある。則ち内裏焼亡しけり。近比は閑院殿より以来は是こそ皇居の御名残なりしに、こはいかにと驚き悲しまぬ人ぞなかりけり。同時に卿相雲客以下、親光・正成・長年が宿所も片時の灰燼となりしこそ浅ましけれ。
 伝へ聞く秦の軍破れて咸陽宮・阿房宮を焼き払ひけるは、異朝のことなればおもひはかりなり。寿永三年平家の都落ちもかくやとおぼえて哀れなり。
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ということで、「官軍」側が二条富小路内裏やその周辺の主要な建物をみんな焼き払ってしまったためでしょうね。
「第二次京都争奪戦」に際しては、直義は焼け野原となっていた「源通成の邸宅」を突貫工事でそれなりの軍事施設にしたのだろうと思います。
以上の経緯を見ると、直義が「源通成の邸宅」を拠点としたのは軍事的理由が唯一最大の要因で、山家氏が言われるような「この場所を選んだ理由として、後醍醐天皇の二条富小路内裏に近いことがあげられている」云々は正しくなく、ましてや「源姓公家である源通成の邸宅であり、邸内に八幡宮をまつっていたこと」など「直義がこの地に邸宅を定める大きな要因」どころか、直義の頭の片隅にもなかっただろうと思われます。

参考:『梅松論』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)
「京都の陥落」(「第一次京都争奪戦」)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou26.html
「比叡山の攻防」(「第二次京都争奪戦」)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou45.html
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山家著(その12)「戦争での死者は区別なくとむらうべき対象」

2021-05-02 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月 2日(日)09時27分4秒

珍しく二日続けて投稿を休んでしまいましたが、再開します。
山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)の検討を始めた時点では、私にとって疑問を感じる箇所を部分的に指摘するだけの予定だったのですが、既に山家氏が立脚する認識の基盤をほぼ全面的に否定する方向に向かっています。
私は清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)にもほぼ全面的に否定的ですが、清水著に対して私が批判的な理由は単純で、それは清水氏が従来の歴史研究者が見逃していた珍しい史料に着目しつつも、それらの新知見を全て清水氏が予め想定していた尊氏像に強引に当て嵌めている姿勢に疑問を感じるからです。
しかし、史料編纂所元所長でもある山家氏は実証史学の王道を行く堅実な研究者で、少なくとも表面的には清水氏のような強引さとは無縁です。
それなのに何故私が山家著に全体的な違和感を感じるかというと、やはり南北朝期の宗教に対する基本的な認識がずれているからなのでしょうね。
例えば山家氏は「頼朝の追善」に続く「北条氏の追善」の冒頭に、

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 尊氏らがみずから倒した北条氏一門の死後をとむらうのは、一見矛盾している。しかし、戦争での死者は区別なくとむらうべき対象であり、とくに前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった。
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と書かれていて、この部分は山家氏にとって自明なためか、注記や文献の引用などは全くありません。
しかし、「戦争での死者は区別なくとむらうべき対象」という「怨親平等」観については、私はかねてから違和感を抱いており、少なくとも相当の検討を経なければ、このような断定をする勇気は持てません。
また、「前政権の中心人物となると、その死後仏事は後継政権の担うべき役割であった」も疑うべからざる不動の真理のような書き方ですが、その根拠はかなり脆弱なように思えます。
寄り道してこのあたりを掘り下げて行くと暫く戻って来れなくなる恐れがあるので、どうしようか迷っているのですが、「怨親平等」観だけはある程度しっかりやっておいた方がよさそうに思えるので、李世淵(イ・セヨン)氏の「南北朝時代における怨霊鎮魂問題と足利将軍家の位相」( 『比較文学・文化論集』27号、東京大学比較文学・文化研究会、201)などを参考に、後で少し検討したいと思います。

李世淵氏「南北朝時代における怨霊鎮魂問題と足利将軍家の位相」
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I005818245-00

この論文は上記リンク先からPDFで読めますが、李世淵氏の見解の骨子は「学位論文要旨」の「日本社会における「戦争死者供養」と怨親平等」で読むことができますね。

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本論文は、<怨親平等=「敵味方供養」>説を批判的に検討し、「戦争死者供養」をめぐる日本社会の伝統の一端を探ってみたものである。具体的には、怨親平等の文言を介して展開した「戦争死者供養」の論理を「怨親平等論」と想定し、その歴史的変容を跡づけた。また、近代にいたって怨親平等の文言が急浮上した経緯を追跡し、さらに文禄・慶長の役(壬辰倭乱)直後に高野山奥の院へ建てられた高麗陣供養碑をとりあげ、「敵味方供養」の事例研究をも試みた。

仏教典籍に頻出する怨親平等は、古来日本社会にもよく知られていた。たとえば、最澄、空海、明恵、法然など名立たる僧侶たちが様々の文脈で怨親平等を援用したのだが、怨親平等を「戦争死者供養」の場へ持ち込み、「怨親平等論」というべき言説をはじめて説いたのは、渡来僧の無学祖元だった。祖元は、蒙古襲来で犠牲となった「戦争死者」を供養する場で、仏教的原理からすれば敵味方の区別は意味を有さず、したがって「戦争死者」一般が平等に救済されると力説した。

祖元によって打ち出された「怨親平等論」は、祖元の法脈を汲んだ夢窓疎石によって大いにとりあげられた。ただ、その中身には相当の変化が認められる。疎石の「怨親平等論」は、生前の怨念を打ち払うよう「戦争死者」を説得する文脈のものであり、具体的には、後醍醐天皇怨霊を慰め諭す脈絡のものであった。疎石の真意はともあれ、彼の理屈は、当時怨霊鎮魂を導く境遇に立たされた足利将軍家にとって怨霊無害化の論理として読み取れるものであった。

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=128801
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