学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

松尾著(その7)「貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣」

2021-05-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月26日(水)21時45分1秒

松尾著の続きです。(p38以下)

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 しかし、せっかく準備してきたのだからというので、再び吉日を定めて舞台を造って準備したところ、また見物人が集まってきた。猿楽も半ばほどに進んだころ、後醍醐天皇、大塔宮護良親王や楠木正成らの怨霊の一群が舞台の上を覆う森の梢にやってきた。見物人が恐れおののいていると、雲の中から、大森彦七殿に申しあげるべきことがあって楠木正成が参上した、と呼びかけた。彦七は、人は死して再び生き返るということはない。おそらく魂が怨霊となったのであろう。楠木殿はいったい何の用があってここに現れ、この私を呼ばれたのか、と問い返した。それに対して、正成は、私が生きている間は、種々の謀〔はかりごと〕をめぐらして北条高時の一族を滅ぼし、天皇を御安心させ、天下を朝廷のもとに統一させた。しかし、尊氏と直義兄弟が虎狼のごとき邪心を抱き、ついには帝の位を傾けてしまった。このため、死骸を戦場に曝した忠義の臣はことごとく阿修羅の手下となって怒りの心の安まる時がない。正成は彼らとともに、天下を覆そうと思ったが、それには貪欲・憤怒・愚痴の三毒を表す三つの剣を必要とする。我ら多勢が三千世界を見渡すと、いずれも我が国にある。それらのうち、すでに二つは手にいれたが、最後の一つが貴殿の腰に帯する剣である。それは、元暦の昔に藤原景清が海中に落としたものである、という。彦七は将軍足利尊氏に二心〔ふたごころ〕ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった。
 以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという。
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前回投稿で引用した部分、松尾氏は概ね原文に沿って丁寧に要約していますが、大森彦七の物語は本当に長大で、ここからは松尾氏の要約もかなり端折った形になっています。
ここでは煩を厭わず、原文を少しずつ正確に引用してみます。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p80以下)

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 さればとて、この程馴らしたる猿楽を、さてあるべきにあらずとて、四月十五日の夜に及んで、件〔くだん〕の堂の前に舞台をしき、桟敷を打ち並べたれば、見物の輩〔ともがら〕群をなせり。猿楽すでに半ばなりける時、遥かなる海上〔かいしょう〕に、装束の唐笠ばかりなる光物〔ひかりもの〕二、三百出で来たり。海士〔あま〕の縄たく漁り火かと見れば、それにはあらで、一村〔ひとむら〕立つたる黒雲の中に、玉の輿を舁〔か〕いて、恐ろしげなる鬼形〔きぎょう〕の物ども、前後左右に連なる。その跡に、色々に鎧〔よろ〕うたる兵百騎ばかり、細馬〔さいば〕に轡〔くつがみ〕を噛ませて供奉〔ぐぶ〕したり。近くなるより、その貌〔かたち〕見えず、黒雲の中に電光〔いなびかり〕時々して、ただ今猿楽する舞台の上に差し覆ひたる森の梢にぞ止まりたる。
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松尾氏は「後醍醐天皇、大塔宮護良親王や楠木正成らの怨霊の一群が舞台の上を覆う森の梢にやってきた」とされていますが、この段階では「玉の輿」に誰がいるかは不明で、この場面の後、三、四日経過して、再び怪しい一団が登場したときに、正成と一緒に来たのは後醍醐・護良親王・新田義貞・平忠正・源義経・平教経の合計七人だ、という正成の口上が出てきます。
ま、細かいことですが。

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 見聞〔けんもん〕皆肝を冷やす処に、雲の中より高声〔こうしょう〕に、「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」とぞ申しける。彦七は、かやうの事にかつて驚かぬ者なりければ、少しも臆せず、「人死して再び帰る事なし。定めてその魂魄〔こんぱく〕の霊となり、鬼となりたるにてぞあるらん。それはよし、何にてもあれ、楠殿は何事の用あつて、今この場に現れて、盛長をば呼び給ふぞ」と問へば、楠、重ねて申しけるは、「正成存日〔ぞんじつ〕の間、様々の謀〔はかりごと〕を廻らして、相摸入道の一家を傾けて、先帝の宸襟を休めまゐらせ、天下一統に帰して、聖主の万歳〔ばんぜい〕を仰ぐ処に、尊氏卿、直義朝臣、忽ちに虎狼〔ころう〕の心を挿〔さしはさ〕みて、つひに君を傾け奉る。これによつて、忠臣義士尸〔かばね〕を戦場に曝す輩、悉く脩羅の眷属となりて、瞋恚〔しんい〕を含む心止む時なし。正成、かれとともに天下を覆さんと謀るに、(貪瞋痴の三毒を表して、必ず三つの剣〔つるぎ〕を用うべし。)われら大勢〔たいせい〕忿怒の悪眼〔あくがん〕を開き、剰〔あまつさ〕へ大三千界を見るに、願ふ処の剣、たまたまわが朝の内に三つあり。その一つは、日吉の大宮にありしを、法味〔ほうみ〕に替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、尊氏卿のもとにありしを、寵愛の童〔わらわ〕に入り替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、御辺〔ごへん〕のただ今腰に差したる刀なり。知らずや、この刀は元暦の古〔いにし〕へ、平家壇浦にて亡びし時、悪七兵衛景清が海に落としたりしを、江豚〔いるか〕と云ふ魚が呑んで、讃岐の宇多津の澳〔おき〕にて死す。海底に沈んで百余年を経て後、漁父の網に引かれて、御辺がもとへ伝はりたる刀なり。詮ずる所、この刀だにも、われらが物と持つ程ならば、尊氏卿の天下を奪はん事は、掌〔たなごころ〕の内にあるべければ、急ぎ進〔まいら〕せよと、先帝の勅定にて、正成参り向つて候ふぞ」と云ひもはてず、雷〔いかずち〕東西に鳴りはためいて、ただ今落ちかかるかとぞ聞こえたる。
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大森彦七盛長は、『太平記』ではこの第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」(流布本では第二十三巻「大森彦七事」)だけに登場する人物で、そもそも『太平記』の湊川合戦の場面では、「この大森の一族等、宗と手痛き合戦をして、楠判官正成に腹を切らせし者なり」などという記述は欠片もありません。
仮に同合戦で多少活躍したとしても、所詮、大森彦七は細川定禅の下で戦った大勢の武士たちの中の一人で(流布本による。西源院本には細川定禅の名前は出ておらず)、およそ楠木正成と対等に話し合えるような存在では全くありません。
しかし、この場面では、怨霊(または天狗)になった楠木正成は「大森彦七殿に申すべき事あつて、楠判官正成と云ふ者、参つて候ふなり」という具合いに、ずいぶんと大森彦七に対して丁重です。
そして正成は、自分が大森彦七の前に登場したのは「貪瞋痴の三毒」を象徴する「三つの剣」のひとつを大森彦七が持っているので、それをもらいに来たのだと丁寧に事情を説明します。
ちなみに、残りの二つの剣は、「日吉の大宮にありしを、法味に替はりてこれを乞ひ取りぬ。今一つは、尊氏卿のもとにありしを、寵愛の童に入り替はりてこれを乞ひ取りぬ」と、別に聞かれもしないのに取得の事情を説明し、更に大森彦七が持っている剣は、

平家が壇の浦にて滅亡した時、悪七兵衛景清が海に落とす。
  ↓
イルカが飲んで、讃岐の宇多津の沖で死ぬ。
  ↓
海底に沈んで百余年を経て後、漁父の網に引かれて浮上。
  ↓
(漁夫から何らかの経緯で)大森彦七が取得。

という由来があることを、これまた聞かれもしないのに丁寧に解説してくれます。
そして最後の駄目押しとして、三剣を揃える目的は「尊氏卿の天下を奪はん」ためだと、ずいぶん馬鹿正直に告白してくれています。
実に怨霊(または天狗)の正成は博識で、フレンドリーで、「正直者」です。
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松尾著(その6)「歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)」

2021-05-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月26日(水)13時58分27秒

「第二章 登場人物から読む『太平記』」に入ります。
この章は、冒頭に、

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 これまで後醍醐の物語としての『太平記』、とくに怨霊となった後醍醐天皇に注目してみた。そこで、つぎに『太平記』を「怨霊の物語」という観点から見直してみたい。そのために、後醍醐以外の主要な登場人物に光を当ててみよう。
 なお、怨霊とは、恨みを含んだ死者の霊(死霊)または生霊のことで、この世に祟りをなすと信じられた。とくに、菅原道真のように非業の死を遂げた人が怨霊になると考えられた。仏教側は、怨霊となった人のために、お経を読んだり、寺院を建てるなどして供養すれば、怨霊は鎮魂される(鎮められ祟らなくなる)と説いたのである。
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とあって(p32)、その後、

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楠木正成
新田義貞
怨霊となった新田義貞父子
怨霊となった護良親王
足利尊氏と直義
足利直冬
怨霊を恐れる尊氏・直義
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という小見出しに従って、怨霊に満ち溢れた怪奇ワールドが紹介されます。
「楠木正成」については、最初の一般的な説明は省略し、怨霊に関係する部分から引用します。(p37以下)

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 ところで従来は、『太平記』において正成が怨霊となったとされることは、英雄・知将・忠臣としての正成像に比較して、ほとんど注目されていない。その像は、戦前においては、帝国臣民の模範としての正成像にふさわしくないと考えられて無視されたのであろうし、戦後は、怨霊は非科学的で、文学的想像上の産物とされて軽視されたのであろう。
 しかし、先述のように、『太平記』において、正成は怨霊となったと記されている。生まれ変わっても朝敵を滅ぼしたいとした(巻十六「正成兄弟討死の事」)死に際の妄念によって、巻二十三「大森彦七の事」のように正成は怨霊となったのである。
 暦応五(一三四二)年の春のころ、伊予国(愛媛県)から幕府に急使が到来してつぎのような不思議なことを注進した。伊予国に大森彦七盛長という武士がいた。全くの怖いもの知らずで、力は世の一般の人よりも優れていた。彦七は、建武三年五月、足利尊氏が九州より攻め上ったさいには、湊川の戦いに足利方の細川定禅に従って奮戦し、楠木正成に自害させた者である。その勲功により数ヵ所の領地を恩賞として賜り、それに奢って、ぜいたくな生活を営んでいた。
 そして、猿楽は寿命を延ばすものだからとして、お堂の庭に座敷を造り、舞台を構え、種々の華美を尽くした歌舞をなそうとした。近隣の人々はそれを聞きつけて集まってきた。彦七自身は、出演者の一人として、装束を下人に持たせて楽屋へ向かった。その途中、歳の程、十七、八とおぼしき美女(実は正成の怨霊)と出会う。その女に猿楽の場所を聞かれたが、彦七は、あまりの美しさに桟敷への道案内をかってでた。さらに、女が歩みかねている様子を見て、女を背負って桟敷へ行こうとした。半町ほど背負って行ったところ、女はとたんに身の丈八尺(二メートル四〇センチ)の鬼となり、両目は朱色で、上下の歯はくい違って口の端は耳の付け根ほどまで広く割れ、眉は黒く額を隠し、振り分け髪の中からは五寸(一五センチ)ほどの子牛のような角が鱗をかぶって生いだしていた。鬼は、彦七の髪を掴んで空中に引き上げようとした。彦七も剛勇の者なので、鬼を掴んで深田の中へ転げ落ち、助けを求めた。加勢の者が近づいた時には、鬼はさっと消えていた。彦七は呆然自失の状態であり、その日の猿楽は中止になった。
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いったん、ここで切ります。
まだ、大森彦七の話の半分ほどですが、ここも念のため、原文を西源院本で見ておきます。
松尾氏は流布本を用いておられるので巻二十三としていますが、西源院本では第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」になります。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p76以下)
流布本と西源院本では細かい表現にけっこうな異同がありますが、ストーリーの骨格は同じです。

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 その比、伊予国に希代〔きたい〕の不思議あり。当国の住人、大森彦七盛長と云ふ者あり。心飽くまで不敵にして、力尋常〔よのつね〕の人に超えたり。去んぬる建武三年五月に、将軍は筑紫より攻め上り、新田左中将は播磨より引き退いて、兵庫の湊川にて合戦ありし時、この大森の一族等、宗〔むね〕と手痛き合戦をして、楠判官正成に腹を切らせし者なり。されば、その勲功他に異なる間、数ヶ所の恩賞を給はりてけり。この悦び、一族ども寄り合うて、猿楽をして遊ぶべしとて、あたり近き堂の庭に桟敷を打ち、舞台を構へて、様々の風流〔ふりゅう〕を尽くさんとす。これを聞いて、近隣傍庄の貴賤男女、群れをなす事雲霞の如し。
 彦七もこの猿楽の衆なりければ、様々の装束ども下人に持たせて、楽屋へ行きける道に、年の程十七、八ばかりなる女の、赤き袴に柳裏の五絹〔いつつぎぬ〕着て、鬢〔びん〕深くそぎたるが、差し出でたる山の端の月に映じて、ただ独りたたずみたり。彦七、これを見て、覚えず、かかる田舎なんどに、かやうの女房いづくより来たりぬらんと、目もあてやかにて、誰が桟敷へか入ると見居たれば、この女房、彦七に立ち向ひて、「道芝の露打ち払ふべき人もなし。行くべき方をも誰に問はまし」と、打ちしほれたる気色〔けしき〕なり。彦七、あやしや、いかなる宿の妻〔さい〕にてかあるらんに、あやめも知らぬわざは、いかでかあるべきと思ひながら、いはん方なくわりなき姿に引かれて、「こなたこそ道にて候へ。御桟敷なんど候はずは、たまたまあきたる一間の候ふに、御入り候へかし」と云へば、女少し打ち笑ひて、「あなうれし、さらば、御桟敷へ参り候はん」と云ひて、跡に付いてぞ歩みける。
 羅綺〔らき〕にだも堪へざるかたち、誠にたをやかに物痛はしげにて、未だ一足も土をば踏まざりける人よと覚えて、行きなやみたるを見て、彦七、「余りに道も露深くして、御痛はしく候ふ。恐れながら、あれまで負ひまゐらせ候はん」とて、前に跪〔ひざまず〕きたれば、女房、「便〔びん〕なう、いかが」と云ひながら、やがて後ろに負はれぬ。白玉か何ぞと問ひし古〔いにし〕へも、げにかくやと知らるるばかりなり。
 彦七、踏む足もたどたどしく、心も空に空に浮かれて、半町ばかり行きたるに、さしもうつくしかりつる女房、俄かに長〔たけ〕八尺ばかりなる鬼になり、二つの眼〔まなこ〕は血をといて鏡の面〔おもて〕にそそきたるが如し。上下の歯食ひ違うて、口脇〔くちわき〕耳の根まで広く裂け、眉は漆にて百刷毛〔ももはけ〕塗りたるが如くして、額を隠したる振り分け髪の中より、五寸ばかりなる犢〔こうし〕の角、鱗〔いろこ〕をかづき生ひ出でたり。彦七、きつと驚きて、打ち捨てんとする処に、この怪物〔ばけもの〕、熊の如くなる手にて、彦七が髻〔もとどり〕を掴み、虚空に上がらんとす。彦七、元来〔もとより〕したたかなる者なりければ、これと引つ組んで、深田〔ふけだ〕の中へ込〔ころ〕び落ち、「盛長怪物と組んだり。寄れや者ども」とぞ呼ばはりたる声に付いて、次に下がりたる下人ども、太刀、長刀の鞘をはづし、走り寄つてこれを見れば、怪物は掻き消すやうに失せて、彦七は深田の中に臥したりけり。暫く心を静めさせて、引き起こしたれど、なお惘然として人心地もなければ、これただ事にあらずとて、その夜の猿楽をば止〔とど〕めてけり。
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松尾著(その5)「後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援」

2021-05-26 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月26日(水)10時47分42秒

紹介が遅れましたが、山形大学名誉教授・松尾剛次氏は仏教関係、特に真言律宗を中心に膨大な著作を発表されている方ですね。

松尾剛次(1954年生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%89%9B%E6%AC%A1

ただ、松尾氏の夢分析の具体例を見ると、率直に言って松尾氏は精神分析の初歩的な知識も持たれていないように思われます。
もちろん私自身にもさほどの知識はありませんが、ただ私は一時期、河合隼雄氏(1928-2007)の著作にけっこう嵌ったことがあります。

Only Yesterday─「立憲主義」騒動とは何だったのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/51ead3ba5a2bdf00bf4e0e3ae943fe83
もう一つの「宗教と科学の接点」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5017f18626ffc831c4472179c01722fa

そこからさらにユングやフロイトに遡ってバリバリ勉強した訳ではありませんが、ユングやフロイトが日本人の夢を分析してくれている訳でもないので、日本人の夢の分析は、まあ、河合氏あたりの本を読めば素人としては充分だろうと思います。
そして、中世人の夢については、河合氏に『明恵 夢を生きる』(京都松柏社、1987)という著書があります。
少し検索してみたところ、大阪・中之島香雪美術館で明恵が見た夢をテーマにした特別展「明恵の夢と高山寺」を担当された学芸員の大島幸代氏が、河合氏の『明恵 夢を生きる』について、次のように書かれています。

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 「明恵の『夢記』は、今でいう夢日記。何月何日の夜にどんな夢をみたか、という形で記録されています。ただし、鎌倉時代の文体で書かれているうえに、ただでさえ夢というものはとりとめのない内容が多いので、全体像をつかむのはなかなか難しいと思います。夢分析で知られる心理学者の河合隼雄さんは、明恵がみた夢の世界とその意味を、分かりやすく解説しています。西洋の夢と比較しながら、仏教者であり日本人である明恵がみた夢を解釈していきます。現代から眺めると明恵の夢にはこんな意味づけができるのかと面白く読めます」

https://book.asahi.com/article/12222023

四十年間にわたって自分が見た夢を記録し続けた明恵はずいぶん変わった人ですが、この種のきちんとした夢の記録と比較すると、『太平記』の第三十四巻「吉野の御廟神霊の事」において、「二条禅定殿下」(二条師基)の家来である上北面が見たという夢は、あまりに整然としすぎていて、曖昧な部分が一つもないという特徴があります。
まあ、この点だけでも、上北面が見た夢は中世人の実際の夢の記録ではなく、『太平記』の作者の創作であることが明らかですね。
松尾氏は「古代・中世の人々にとって夢は、神・仏と交渉する回路と考えられ、夢で見たものは神・仏のメッセージと考えられた」という一般論から、いきなり、

この夢の記事を夢物語として葬り去るわけにはゆかない。
  ↓
実際、この夢のあとで足利方が兵を引いたことから、その夢は正夢として信じられたのである。
  ↓
後醍醐が、怨霊となり、宮方の怨霊たちを指揮し、宮方を冥界から後援していると考えられていたことは明らかであろう。
  ↓
換言すれば、後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていたのである。

という論理(?)を展開されますが、この論理(?)に賛成できる人はあまりいないのではないかと私は思います。
『太平記』の作者(私見では複数)は本当に癖のある人(たち)であって、私自身は「後醍醐の死後も南北朝の動乱が継続したのは、怨霊となった後醍醐を中心とする宮方の怨霊たちの後援があったから、と『太平記』の作者は考えていた」などとは想像もできません。
ここまで素直に『太平記』を読むことができる松尾氏は、私には本当に不思議な人に見えますが、それは松尾氏が「笑い」を全く理解しない人であることに関係しているように感じます。
「長崎の鐘」から始まった『太平記 鎮魂と救済の史書』は、『太平記』を素材としていながら最初から最後まで「笑い」が全く登場せず、相当に不気味な本でもあります。
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