学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「神璽は山中に迷ひし時、木の枝に懸置きしかば」(by 後醍醐天皇)(その2)

2021-05-17 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月17日(月)11時16分59秒

後醍醐が本当に、神鏡は笠置の本堂に捨て置いた、神璽は山中に迷っているときに、そこらの木の枝に適当に懸けておいた、と放言したのかは分かりませんが、まあ、後醍醐ならこの程度のことは言っても不思議ではありません。
ただ、よく分からないのは『太平記』の叙述で、三種の神器を個々に分別した後醍醐の発言を紹介したのだから、その後に何かの説明があるのかと思いきや、それは全然なくて、少し後に唐突に「同じき九日、三種の神器を持明院の新帝の方へ渡さる」(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p165)とあるだけです。
九日という日付の間違いは『太平記』にはよくあることですが、少し前に三種の神器をせっかく分別したのに、いきなり一纏めにしていて、何がどうなっているのか全然分かりません。
ま、それはともかく、史実の面で重要なのは、後醍醐が光厳天皇側に引渡した剣璽が「本物」であることを光厳天皇周辺の公卿・女官たちがきちんと確認していることです。
飯倉著でその間の事情を見て行きます。(p58以下)

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 十月六日、六波羅より土御門皇居へ剣璽を移す儀式が行われた。剣璽渡御という。まず大納言堀川具親・参議葉室光顕ら公卿廷臣が六波羅探題南方の北条時益邸へ赴き、前に剣璽役を勤めたことのある四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の三人が検知を行った。剣璽はおのおの新しい櫃に納めて封をされて、御冠筥〔おんかんむりばこ〕の台の上に置かれていた。隆蔭らは櫃の封を切って中を改めたところ、宝剣の石突〔いしづき〕が落ち、神璽の筥〔はこ〕の縅緒〔おどしいと〕(紐)が少々切れている程度で、「其の躰〔てい〕相違なし」といっている。ただちに大蔵省に用意させた唐櫃に入れ替え、公家・武家が供奉・警護する行列をつくって皇居に運んだ。皇居に着いてからの扱い方について、花園上皇と関白鷹司冬教らの間で論議があった。それは剣璽が血なまぐさい戦場から、後醍醐が首に懸けるなど身につけて山中に入ったので、触穢〔しょくえ〕の疑いがあるから御所のどの部屋に入れるかという問題だった。賢所〔かしこどころ〕に入れ奉ることは憚りがあるので、関白と話し合って直盧〔じきろ〕にまず迎えるということで決められた。ところが実際には剣璽が皇居に着くと二人の内侍が御帳間左右において請取り、典侍〔ないしのすけ〕(日野名子)がそれを夜御殿〔よるのおとど〕に置いた。まさに譲位のときの次第のようであったという。日野名子は『竹向きが記』という日記体の著書を残しているが、このときのことを「剣璽いかがと、世の大事なりつるに、相違なき由奏聞あれば、上達部以下、六波羅に向ひつゝ、入らせ給ひしは、めでたしとも言へばおろかなる事にぞ侍し、内侍二人(勾当・兵衛)、我身受け取り聞ゆ」と記している。
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ということで、三種の神器のうち、後醍醐が持ち出した剣璽の行方は「世の大事」であって、後醍醐がこれを引き渡したときに「前に剣璽役を勤めたことのある四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の三人」が、単に容器(筥)だけでなく中身まで見て、「本物」であることを確認している訳ですね。
ここまでしっかりやっているのだから、この後、後醍醐が神璽の「本物」を隠岐に持って行けるはずがありません。
飯倉氏は、続けて、

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 この剣璽渡御のとき、後醍醐天皇は偽物を渡したという説がある。すくなくとも神璽だけは偽物であったというが、この状況のもとで、また時間的にも偽物を用意できたであろうか。数年後吉野潜行のさいには、このときのことがあってあらかじめダミーを準備していたのであろうか。歴史の永遠の謎といってよいものであろう。
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と言われていますが、「すくなくとも神璽だけは偽物であったという」説は、『増鏡』の「璽の箱を御身にそへられたれば」という記述との関係を考慮している訳ですね。
ただ、神璽を含め、「この状況のもとで、また時間的にも偽物を用意できた」はずはありません。
「数年後吉野潜行のさいには、このときのことがあってあらかじめダミーを準備していた」のか、それが「永遠の謎」なのかについては、飯倉説を踏まえ、次の投稿でもう少し検討してみます。
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「神璽は山中に迷ひし時、木の枝に懸置きしかば」(by 後醍醐天皇)(その1)

2021-05-17 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月17日(月)09時47分50秒

飯倉晴武氏の『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)、一部に論理の不明確なところがあるのが気になって敬遠していましたが、久しぶりに眺めて見たら、三種の神器に関する事実関係は本当に綺麗に整理されていて参考になりますね。

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ec36c7d3bfda33efdc10b81911eb255
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61c79f96b44457894268ac8aab823d10

後醍醐が隠岐に神璽の「本物」を持参したはずがないことは、元弘元年(1331)八月二十四日の笠置落ち以降の具体的経緯を見れば明らかなのですが、今までの議論の流れから、少し説明しておこうと思っていたところ、飯倉著にきちんと解説されているので、こちらを紹介したいと思います。
飯倉氏は『太平記』の記事を引用後、次のように書かれています。(p55以下)

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 この記述はいかにも『太平記』らしい哀れ・悲壮という描写のようであるが、同時代の花園上皇は日記に「髪は乱れ、着ているものは小袖と帷〔かたびら〕だけ」という意味のことを記している。王朝時代に烏帽子・冠をつけず、乱髪で人前に出ることは最大に恥ずかしいこととされ、上皇は「王家の恥辱何事これにしかずや」と後醍醐を非難している。
 結局、後醍醐天皇の挙兵は幕府側の圧倒的な軍事力の前にあえなく崩れ、九月二十九日つきしたがった公卿たちと「生捕」られ、天皇は十月四日朝まだきに六波羅南方に入った。【中略】
 問題は皇位継承のあかしである三種の神器であった。量仁親王いまや光厳天皇であるが、天皇はじめ北朝は最後までこの神器に悩まされることになる。新天皇践祚にあたって、三種の神器のうち、神璽と宝剣は後醍醐天皇が所持して京都に出たのでここにはなく、日の御座〔おまし〕(天皇の日中の御座所)の御剣〔みつるぎ〕を代わりとして儀式を挙げた。神器の譲渡は持明院統としても強く要求されたのであろう。十月四日花園上皇は六波羅探題の使者を召して重ねて剣璽を渡し奉るべきの由を、日野資名をもって伝えた。「重ねて」とあるように、これがはじめてではない。後醍醐天皇が武家に捕らえられると、さっそく神器の引渡しを要求した。『太平記』では十月二日六波羅勢に警固されて宇治平等院につくと、そこへ鎌倉から派遣された大仏貞直と金沢貞冬が駆けつけ、光厳天皇へ進らすので神器を渡すように奏聞したところ、後醍醐はつぎのようにいったという。
  三種神器は古〔いにしえ〕より継体の君、位を天に受させ給ふ時、自ら是を授け奉るもの也。四
  海に威を振ふ逆臣有て、暫く天下を掌に握る者ありといへ共、未だ此の三種の重器を、
  自らほしいままにして、新帝に渡し奉る例を聞かず、其の上内侍所〔ないしどころ〕をば、笠置の本堂
  に捨置き奉りしかば、定めて戦場の灰燼にこそ、落させ給ひぬらめ、神璽は山中に迷
  ひし時、木の枝に懸置きしかば、遂にはよも吾が国の守りと成せ給はぬ事あらじ、宝
  剣は武家の輩、若し天罰を顧みずして、玉体に近付き奉る事あらば、自ら其の刃の
  上に伏せさせ給はんずる為に、暫くも御身を放たる事、あるまじき也。
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途中ですが、いったんここで切ります。
『太平記』の引用部分の直前には「主上藤房を以て被仰出けるは」とあって、後醍醐が万里小路藤房を介してけっこうな暴論を語っていますが、この内容は西源院本でも同じです。(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p162)
即ち、後醍醐によれば、
(1)内侍所(神鏡)……笠置の本堂に捨て置いたので、灰燼に帰しているはず。
(2)神璽……山中に迷っているときに木の枝に懸けた。
(3)宝剣……武家の輩が自分に近付いたら、その刃の上に伏して自害するので絶対に手放さない。
とのことで、ここまで独善的・無責任な放言も珍しい感じがしますが、ただ、(1)(2)は事実ではありません。
その事情を知るために飯倉著に戻ると、

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 ここでは三種神器は先帝から新帝に直接授け渡すものであるといっている。内侍所=神鏡は笠置寺の本堂に置いてきたから、戦火で焼失してしまったかもしれないとあるが、これは真実でなく、神鏡は皇居内侍所に祭られてあったことは、後に記すように剣・璽の二つについて受渡しが問題となっていることから明らかである。後醍醐天皇は神璽については敗戦後山中をさまよい歩いているとき、木の枝に懸けてきたといっている。しかし別の史料では剣璽が無事かとの質問に、間違いなしとの答えがあったとある(『竹向きが記』)。実際には神璽は笠置山をさまよう間、首に懸けられていたのである。そして十月四日、幕府は後醍醐が六波羅に入るとただちに剣璽の引渡しを求めたが、後醍醐はなお「御悋惜〔ごりんせき〕(ものおしみ)」しているので難治しているという(『花園院宸記』)。後醍醐天皇はあくまでも退位する気はなく、神器を手放すのに抵抗していることが知られる。先にかかげた『太平記』での天皇の言葉というのは、真実ではないが引渡しにずいぶん抵抗したありさまを示すものである。この後醍醐も翌五日になって、やっと光厳天皇に剣璽を譲渡することに承諾した。持明院統側・幕府からの相当強い圧力があったことであろう。
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といった具合です。
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