学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

松尾著(その10)「一翳眼に在れば、空花乱墜す」

2021-05-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月27日(木)22時01分36秒

続きです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p87以下)

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 この有様ただ盛長が幻〔まぼろし〕にのみ見て、他人の目には見へざりければ、盛長、左右を顧みて、「あれをば見るか」と云はんとすれば、忽ち消え去つて、正成が物謂〔い〕ふ声ばかりぞ残りける。盛長、これ程の不思議を見つれども、その心なほも動ぜず、「「一翳〔いちえい〕眼〔まなこ〕に在れば、空花乱墜〔くうげらんつい〕す」と云へり。千変百怪〔せんぺんひゃっかい〕、何ぞ驚くに足らん。たとひいかなる第六天の魔王どもが来たつて云ふとも、この刀をば進〔まいら〕せ候ふまじいぞ。さらんに於ては、例の手の裏を返すが如きの綸旨給ひても詮なし。早や、面々に御帰り候へ。この刀をば将軍へ進〔まいら〕せ候はんずるぞ」と云ひ捨てて、内へ入れば、正成、大きにあざ笑ひて、「この国たとひ陸地〔くがち〕に続きたりとも、道をばたやすく通すまじ。まして海上〔かいしょう〕を通らんに、やる事ゆめゆめあるまじ」と、同音〔どうおん〕にどつと笑うて、西を指してぞ飛び去りける。
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兵藤裕己氏の脚注によれば、「一翳眼に在れば、空花乱墜す」は『景徳伝燈禄』(北宋の道原撰の禅宗の僧伝)巻十に見える言葉で、「眼に一つでも曇りがあると、実在しない花のようなものが見える。煩悩があると種々の妄想が起こる意」だそうです。
「これ程の不思議を見つれども」全く動じない大森彦七は相当の人物ですが、その勇敢な行動を支える論理は、

「一翳眼に在れば、空花乱墜す」という真理に照らせば、自分が見た数万人の大軍団も煩悩から生じた単なる妄想であり、「千変百怪、何ぞ驚くに足」りないのである。
  ↓
従って、自分は「たとひいかなる第六天の魔王どもが来たつて云ふとも、この刀をば」絶対に渡さない。
  ↓
そうである以上、「例の手の裏を返すが如きの綸旨」など貰っても意味がない。
  ↓
であるから、正成その他の連中は「早や、面々に御帰り」下さい。自分は「この刀をば将軍へ」進呈することにします。

ということで、大森彦七は決して無教養な乱暴者ではなく、禅宗をその思想的基盤とするなかなかの理論家として造型されていることが分かります。
また、大森彦七の発言の中で、「例の手の裏を返すが如きの綸旨給ひても詮なし」という表現は格別に面白いですね。
ここは禅宗とは関係なくて、むしろかつて後醍醐が綸旨を濫発して大混乱を起こした結果、多くの武家が味わった苦い経験を踏まえての「綸旨」に対する警戒的・軽蔑的姿勢の現れと考えることができそうです。
第二幕では手ぶらだった正成は、第三幕では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」と称して仰々しく登場した訳ですが、「例の手の裏を返すが如きの綸旨」などよりは将軍から戴く文書の方がよっぽど有難いぞ、という手厳しい反撃を受けたことになります。
さて、数万人の壮麗な大軍団であることを誇示したにもかかわらず、第二幕と同様、正成に率いられた怨霊(または天狗)の一行は、意外にあっさりと引き返して行きますが、話はまだまだ続きます。
第四幕に入ると、怪異に沈着冷静に対応していた大森彦七は「物狂ひ」になってしまい、一族は彦七を座敷牢に閉じ込め、周囲を警固するという展開となります。(p88以下)

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 その後〔のち〕より、盛長、物狂〔ものぐる〕ひになつて、山を走り、水を潜る事止む時なく、太刀を抜き、矢を放つ事隙〔ひま〕なかりける間、一族以下〔いげ〕数百人相集つて、盛長を一間〔ひとま〕なる処に押し籠めて置き、おのおの弓箭兵杖を帯して、警固の体〔てい〕にてぞ居たりける。
 或る夜、また雨風一〔ひと〕しきり過ぎて、電光〔いなびかり〕繁〔しげ〕かりければ、「すはや、例の楠〔くすのき〕来たりぬ」と怪しむ処に、案の如く、盛長が寝たる枕の障子をがはと踏み破つて、数十人打ち入る音しけり。警固の者ども起き騒ぎて、太刀、長刀の鞘をはづし、夜討〔ようち〕入りたりと心得て、敵はいづくにかあると見れども、更になし。こはいかにと思ふ処に、天井より、猿の手の如くに毛生〔お〕ひて長き腕〔かいな〕を差し下ろし、盛長が髻〔もとどり〕を取つて中〔ちゅう〕に引つさげて、八風〔はふ〕の口より出でんとす。盛長、中にさげられながら、件の刀を抜いて、怪物〔ばけもの〕の臂〔ひじ〕のかかりの辺を三刀〔みかたな〕差す。差されて少し弱りたる体〔てい〕に見えければ、むずと引つ組んで、八風より広廂〔ひろびさし〕の軒〔のき〕の上にころび落ちて、また七刀〔ななかたな〕までぞ差したりける。怪物急所をや差されたりけん、脇の下より鞠の如くなる物、つつと抜け出でて、虚空を指して去りにけり。
 警固の者ども、梯〔はし〕をさして屋〔や〕の上に昇り、その跡を見るに、一つの牛の頭〔かしら〕あり。「これはいかさま楠が乗つたる牛か。しからずは、その魂魄の宿れる物か」とて、この頭を中門の柱に吊り付けて置いたれば、家終宵〔よもすがら〕鳴りはためきて揺るぎける間、微塵に打ち砕いて、則ち水の底にぞ沈めける。
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ということで、第四幕では彦七が問題の剣を振るって怪物の体の一部を切り落とす、というダイナミックな要素が加わっている点に若干の新味はありますが、怪物が大森彦七を空中にさらって行こうとするも失敗する、という展開は第一幕と同じですね。
ついで第五幕に入りますが、第四幕の攻撃方法が若干単調だったためか、第五幕ではより巧妙な手法が考案されています。
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松尾著(その9)「元来摩醯首羅の所変にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」

2021-05-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月27日(木)14時39分36秒

第二幕では手ぶらで登場した楠木正成の怨霊(または天狗)は、第三幕では後醍醐の「綸旨」を持参し、「勅使」と称して登場します。
大森彦七も、「初めは何ともなき天狗、怪物なんどの化けて云ふ事ぞ」と思って「委細の問答にも及」ばなかったが、今回「慥かに綸旨を帯したるぞと承」ったので、本当に「楠殿にておはしけり」と信用し、「不審の事どもを尋ね申して候ふ」という展開となります。
「綸旨」の存在、より正確には「綸旨」が存在するとの正成の言明が身分証明として機能している訳ですね。
そして、大森彦七は「先づ、相伴ふ人あまたありげに見え候ふは、誰々にて候ふぞ。御辺は今、六道四生の間、いづれの所に生じておはするぞ。委しく御物語り候へ」と質問します。
これに対して正成は次のように答えます。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p85以下)

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 その時、正成近々と降り下がつて、「正成が相伴ひ奉る人には、先づ先帝後醍醐天皇、兵部卿親王、新田左中将義貞、平馬助忠正、九郎大夫判官義経、能登守教経、正成加へて七人なり。その外〔ほか〕、数万人〔すまんにん〕ありと云へども、泛々〔はんばん〕の輩〔ともがら〕は未だ数ふるに足りず」とぞ語りける。盛長、「そもそも先帝は、いづくに御座候ふぞ」と問へば、正成、「元来〔もとより〕摩醯首羅〔まけいしゅら〕の所変〔しょへん〕にておはせしかば、今帰つて欲界の六天に御座あり」と云ふ。「さて、相順〔あいしたが〕ひ奉る人々はいづくにぞ」と云へば、「悉〔ことごと〕く脩羅の眷属となりて、(或時は天帝と戦ひ、)或る時は人間に下つて、瞋恚強盛〔しんいごうじょう〕の人に入り替はる」と答ふ。「さて、御辺はいかなる姿にておはするぞ」と問へば、「正成も最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼〔せんずおうき〕と云ふ鬼になつて、七頭〔しちず〕の牛に乗れり。不審あらば、いでその有様を見せん」とて、炷松〔たいまつ〕を十四、五、同時にさつと振り挙げたれば、闇の夜忽ちに昼の如くになりたり。
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ということで、正成に同行して来た怨霊(または天狗)六人とその現状は次の通りです。

「先帝後醍醐天皇」……「欲界の六天に御座」
「兵部卿」護良親王……「脩羅の眷属」
「新田左中将義貞」……同上
「平馬助〔へいうまのすけ〕忠正」……同上
「九郎大夫判官義経」……同上
「能登守教経」……同上

平忠正は平忠盛の弟で、保元の乱で崇徳院方に付いて敗れ、甥の清盛に斬られた人であり、平教経は平教盛の子、清盛の甥で、『平家物語』では勇猛な武人として活躍後、檀の浦に入水した人ですね。
この二人もそれなりの人物ではありますが、他の著名人と比べると、怨霊(または天狗)としてもちょっと格落ちのような感じがしないでもありません。

平忠正(?-1156)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E6%AD%A3
平教経(1160-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%95%99%E7%B5%8C

正成自身はというと、「最期の悪念に引かれて、罪障深かりしかば、今千頭王鬼と云ふ鬼になつて、七頭の牛に乗れり」とのことで、自分が「罪障深」い存在だったから、「千頭王鬼と云ふ鬼」になってしまったと認めており、ある意味、謙虚な自己認識ですね。
そして、正成は、別に大森彦七が「不審」を表明している訳でもないのに、「不審あらば、いでその有様を見せん」と先回りして盛大に松明を灯します。
あたかも舞台の照明が一斉に点じられた如く、「闇の夜忽ちに昼の如くに」なって明らかになった光景は次の通りです。(p86以下)

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 その光に付いて虚空を遥かに見たれば、一村〔ひとむら〕立つたる雲の中に、十二人の鬼ども、玉の御輿を舁〔か〕いて捧げたり。その次に、兵部卿親王、八龍に車を懸けて扈従〔こしょう〕し給ふ。新田左中将義貞、三千余騎にて前陣に進み、九郎大夫判官義経、混甲〔こたかぶと〕五百余騎にて後陣に支〔ささ〕ふ。また四、五町引き下がりて、能登守教経、三百余艘の兵船〔ひょうせん〕を漕ぎ並べて、雲霞〔うんか〕の浪に打ち浮かべば、平馬助忠正、赤旗一流〔ひとなが〕れ差させて懸け出でたり。また虚空遥かに落ち下がりて、楠判官は、平生〔へいぜい〕見し時の貌〔かたち〕に変はらず、紺地の鎧直垂〔よろいひたたれ〕に黒糸の鎧着て、頭〔かしら〕の七つある牛にぞ乗つたりける。この外〔ほか〕、保元平治に討たれし者ども、近比〔ちかごろ〕元弘建武に亡びし兵ども、雲霞の如く充ち満ちて、虚空十里ばかりが間には、隙〔ひま〕透き間ありとも見えざりけり。
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ここで始めて、第二幕で「玉の輿」に乗っていた人物が後醍醐であったことが明確にされます。
さて、この光あふれる数万人の壮麗な大軍団を見せつけられた大森彦七の心境やいかに。
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松尾著(その8)「今夜、いかさま楠出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」

2021-05-27 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月27日(木)11時58分13秒

大森彦七のエピソードは本当に長くて、兵藤裕己校注『太平記(四)』では第二十四巻第二節「正成天狗と為り剣を乞ふ事」は76~95ページまでの実に二十ページの分量があり、更に少し離れて第七節「篠塚落つる事」に関連記事が一ページ分あります。
前二回の投稿で紹介したのは、その中の最初の六ページ分だけで、全体の三分の一にも足りません。
そして、松尾氏が「彦七は将軍足利尊氏に二心〔ふたごころ〕ない忠臣として、刀を渡すことを拒み、以後、正成らの怨霊らに苦しめられる。結局は、彦七の縁者の禅僧に大般若経を読んでもらうと、正成の亡霊も鎮まった」とされる部分、実際に読んでみると従前よりも更に奇妙な記述が多いですね。
そこで、松尾氏のようなタイプの研究者が綺麗に整理した要約と、『太平記』を実際に読んだときに多くの人が感じるであろう印象の違いを確認するため、煩を厭わず、『太平記』の大森彦七エピソードの全文を紹介して行きます。
また、松尾氏は「以上が、伊予国からの注進の概要であるが、彦七は、その剣を幕府へ献じる。足利直義は、それが事実なら末法の世の不思議としてこれほどのことがあろうかといって、鞘を作り直し、名刀として大切にしたという」とされており、これは流布本の記述としては正解ですが、西源院本では全く異なっています。
この点も後で検討します。
ということで、西源院本の続きです。(兵藤裕己校注『太平記(四)』、p83以下)
博識でフレンドリーで「正直者」の正成の怨霊(または天狗)から、自分の持つ剣が檀の浦で悪七兵衛景清が海に落とした剣であることを教えてもらった大森彦七はどのように対応したのか。

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 盛長、これにもかつて臆せず、刀の柄を砕けよと拳〔にぎ〕つて申しけるは、「さては、先に女に化けて、我を誑かさんとせしも、御辺達の所行なりけり。御辺未だ存生〔ぞんしょう〕の時、盛長常に申し承りし事なれば、いかなる重宝なりとも、御用と承らん(に)惜しみ奉るべき事は一塵もなし。但し、この刀をくれよ、将軍を亡ぼし奉らんと承らんに於ては、えこそ進〔まいら〕すまじけれ。身、不肖なりと云へども、盛長、将軍の御方〔みかた〕に於ては、二心〔ふたごころ〕なき者と知られまゐらせて候ひし間、恩賞あまた所給はつて、その悦びにこの猿楽を仕つて遊ぶにて候ふ。勇士の本意〔ほい〕、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々〔つだつだ〕に裂かれ、骨を一々に砕かるとも、進すべからざる上は、早や御帰り候へ」とて、虚空を睨〔にら〕みて立ち向かへば、正成、以ての外〔ほか〕に怒れる言〔ことば〕にて、「何とも云へ、つひには取らんずるものを」と罵りて、また元の如く光り渡り、海上遥かに飛び去りにけり。見物の貴賤、これを見て、ただ今天へ引つさげられて上がりぬと、肝心〔きもこころ〕身に添はねば、親は子を呼び、子は親の手を引いて、四方四角へ逃げける間、また今夜〔こよい〕の猿楽も、式三番にて止みにける。
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正成の怨霊(または天狗)は、長々と口上を述べた割には、拍子抜けするくらいあっさりと帰ってしまいますね。
他方、正成の脅しに全く屈することなく、「この刀をくれよ、将軍を亡ぼし奉らんと」聞いたからには、「将軍の御方に於ては、二心なき者と」評判の自分は「勇士の本意、ただ心を変ぜざるを以て義とせり。たとひ身は分々に裂かれ、骨を一々に砕かるとも」、この剣を渡す訳にはいかないと「虚空を睨みて立ち向か」う大森彦七はなかなか格好良く、この言葉に喝采を送る聴衆・読者も多かったでしょうね。
さて、続きです。(p84以下)
美しい女房が大森彦七の背中に乗るや怪物に変貌した第一幕、日を改めて猿楽を催したら、楠木正成が登場して自己紹介をした後、悪七兵衛景清からイルカ経由で大森彦七に渡った剣の由来を教えてくれた第二幕に続いて、正成の同行者が誰であったかが明らかになる第三幕の幕開きです。

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 また三、四日あつて、夜半ばかりに、雨一通り(降り)、風冷やかに吹いて、電光〔いなびかり〕時々しければ、盛長、「今夜、いかさま楠〔くすのき〕出で来ぬと覚ゆるぞ。遮つて待たばやと思ふなり」とて、中門に敷皮〔しきがわ〕しかせ、鎧一縮〔いっしゅく〕して、二所藤〔ふたところどう〕の大弓に、中指〔なかざし〕二、三抜き散らし、鼻油〔はなあぶら〕引いて、怪物〔ばけもの〕遅しとぞ待ち懸けたる。
 案の如く、夜半過ぐる程に、さしも隈なかりつる中空の月、俄にに掻き曇り、黒雲一村〔ひとむら〕立ち覆へり。雲の中に声あつて、「いかに、大森彦七殿はこれにおはするか。先度〔せんど〕仰せられし剣〔つるぎ〕の事、新田刑部卿義助たまたま当国に下りてあり。かの人に威を加へて、早速の功を致さしめんためなり。剣を急ぎ進〔まいら〕せられ候へとて、綸旨をなされて候ふ間、勅使にて正成また罷り向かつて候ふぞ」とぞ申しける。彦七、聞きもあへず庭へ出で向つて、「今夜は定めて来たり給はんずらんと存じて、宵よりこれに待ち奉りてこそ候へ。初めは何ともなき天狗、怪物なんどの化けて云ふ事ぞと存ぜし間、委細の問答にも及び候はざりき。今慥〔たし〕かに綸旨を帯したるぞと承り候へば、さては楠殿にておはしけりと、信を取る間、事永々〔ながなが〕しきやうに候へども、不審の事どもを尋ね申して候ふ。先づ、相伴ふ人あまたありげに見え候ふは、誰々にて候ふぞ。御辺〔ごへん〕は今、六道四生〔ろくどうししょう〕の間、いづれの所に生〔しょう〕じておはするぞ。委〔くわ〕しく御物語り候へ」と問うたりける。
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第二十四巻第一節「義助朝臣予州下向の事、付〔つけたり〕道の間高野参詣の事」は、「暦応三年四月三日、脇屋刑部卿義助朝臣、吉野殿の勅命を含んで、西国征伐のために、先づ伊予国へ下向せらる」で始まっていますが(p73)、正成はこうした状況を踏まえ、「新田刑部卿義助たまたま当国に下りてあり。かの人に威を加へて、早速の功を致さしめんためなり」という具合いに、大森彦七に剣を求める理由を、前回より更に詳しく具体的に説明してくれます。
なお、史実では脇屋義助の伊予下向は暦応三年ではなく暦応五年(1342)の出来事です。

脇屋義助
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B1%8B%E7%BE%A9%E5%8A%A9

また、話の流れとは全然関係ありませんが、「遮つて待たばやと思ふなり」の「遮って」の用法は、元弘三年四月二十九日付の大友貞宗あて尊氏書状の解釈の関係で、森茂暁氏の見解を紹介したことがあります。

「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192

さて、大森彦七の問いかけに対する楠木正成の回答やいかに。
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