学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その4)

2021-05-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月13日(木)12時46分41秒

第二十節「義鑑房義治を隠す事」に「三種の神器」についての興味深い記述がありますが、その前提として第十九節「瓜生判官心替はりの事」を見ておきます。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p191以下)

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 同じき十四日、義助、義顕三千余騎にて、敦賀の津を立つて、先づ杣山〔そまやま〕へ打ち越え給ふ。瓜生判官保〔たもつ〕、舎弟兵庫助重〔しげし〕、弾正左衛門照〔てらす〕兄弟三人、種々の酒肴を舁〔か〕かせて、鯖並〔さばなみ〕の宿へ参向す。この外〔ほか〕、人夫五、六百人に兵粮を持たせて、諸軍勢に下行〔げぎょう〕し、これを一大事と取り沙汰したる様〔さま〕、誠に他事〔たじ〕もなげに見えければ、大将も士卒も、皆憑〔たの〕もしき思ひをなし給ふ。
【中略】
 かかる処に、足利尾張守の方より、ひそかに使ひを遣はし、先帝よりなされたりとて、義貞が一類追罰すべき由の綸旨をぞ送られける。瓜生判官、これを見て、元来〔もとより〕遠慮なかりし者なれば、将軍より欺〔たばか〕つて申し成されたる綸旨とは、思ひも寄らず、さては、勅勘武敵の人々を許容して、大軍を動かさん事、天の恐れあるべしと、忽ちに心を変じて、杣山の城へ取り上がり、木戸を閉ぢてぞ居たりける。
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ということで、脇屋義助・新田義顕一行は杣山城主・瓜生保にいったんは歓迎されたものの、「足利尾張守」(斯波高経)が「先帝」(後醍醐)から「義貞が一類追罰すべき由の綸旨」が送られてきたと言ってきたので、瓜生保は「将軍(尊氏)より欺つて申し成されたる綸旨とは、思ひも寄らず」、義助・義顕一行に敵対する姿勢を示します。
ここで面白いのは後醍醐が「先帝」と表記されている点と、尊氏が綸旨の偽造を平気でやる人間として描かれている点ですね。
これは『太平記』第十四巻第八節「箱根軍の事」で、尊氏を戦場に引っ張り出すために上杉重能が主導して綸旨を偽造したエピソードを連想させますが、『太平記』では尊氏・直義兄弟は二人とも、綸旨の偽造などへっちゃらだ、という人間として描かれている訳ですね。
また、『太平記』第九巻第一節「足利殿上洛の事」は直義が『太平記』に最初に登場する場面ですが、ここで直義は、独自の屁理屈を展開して、起請文など偽りの内容であろうと適当に書けば良いのだ、と主張するドライな感覚の持ち主として描かれており、尊氏もそれに「至極の道理」だとすぐに納得してしまう人物として描かれています。
『太平記』が足利家の「正史」だとする兵藤裕己氏あたりは、こうした叙述をどのように考えておられるのか、あるいは何も考えておられないのか、少し気になります。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1

ま、それはともかく、第Ⅱ十節「義鑑坊義治を隠す事」に入ると、

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 ここに、判官が弟に義鑑房と云ふ禅僧のありけるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候ふ保、愚痴なる者にて候ふ間、将軍より押さへて申し成されて候ふ綸旨を、誠〔まこと〕と存じて、忽ちに違反〔いへん〕の志を挟み候ふ。義鑑、弓矢を取る身にて候はば、差し違へてともに死すべく候へども、僧体に恥ぢ、仏見〔ぶっけん〕に憚つて、黙〔もだ〕し候ふ事こそ口惜しく覚へ候へ。
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ということで、瓜生保の弟の「義鑑房」が「愚痴」の兄を非難し、新田方の味方をしたいと言ってきます。
ここでも「将軍より押さへて申し成されて候ふ綸旨」ということで、綸旨偽造ではないものの、尊氏は後醍醐に無理強いして綸旨を書かせる人物として描かれています。
さて、「涙をはらはらとこぼし」つつ語る「義鑑坊」に対し、「両大将、これが気色〔けしき〕を見給ひて、偽りてはよも申さじと、疑ひの心をなし給はず」、次のように述べます。(p194以下)

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 則ち席を近づけて、ひそかに仰せられけるは、「主上、坂本を御出ありし時、「尊氏もし誤〔あやま〕ちて申す事あらば、休む事を得ずして、義貞追罰の綸旨を成すぞと覚ゆるぞ。汝〔なんじ〕、仮にも朝敵の名を取りぬる事、しかるべからず。されば、東宮に位〔くらい〕譲り奉つて、万乗の政〔まつりごと〕を任せまゐらすべし。義貞、股肱の臣として、王業再び本〔もと〕に帰する大功を致せ」と仰せ下されて、三種の神器を東宮に渡しまゐらせし上は、たとひ先帝の綸旨とて、尊氏申しなされたりとも、委細の旨を存知せずとも思慮ある人は、用ゐるに足らぬ所なりと思ふべし。しかるに、判官この是非に迷へる上は、重ねて子細を尽くすに及ばず。急ぎ兵を引いて、また金崎へ打ち帰るべし。事すでに難儀に及ぶ時分、一人〔いちにん〕兄弟の儀を変じ、忠義を顕さるる条、あり難くこそ覚えて候へ。心中尤〔もっと〕も憑〔たの〕もしく覚ゆれば、幼稚の息男〔そくなん〕義治をば、僧に預け申し候ふべし。かれが生涯の様〔よう〕、ともかくも御計らひ候へ」と宣〔のたま〕て、脇屋右衛門佐殿の子息式部大夫義治とて、今年十三になり給ひけるを、義鑑坊にぞ預けられける。
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少し長くなったので、解説は次の投稿で行います。
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「本物」の「三種の神器」はどこへ行ったのか。(その3)

2021-05-13 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月13日(木)10時59分31秒

後醍醐の比叡山からの還幸について、『太平記』第十七巻第十七節「還幸供奉の人々禁獄せらるる事」には、最初から後醍醐を騙すつもりだった尊氏が後醍醐を花山院に監禁し、後醍醐に供奉した人々を厳しく処分したと書いていますが、史実はかなり異なるようです。
「三種の神器」が光明天皇側に渡った時期も、『太平記』では建武三年(1336)十月十日の還幸直後ですが、実際には十一月二日に渡御の儀式が行われ、同日、後醍醐には「太上天皇」の尊号が贈られていますね。
そして、何より十一月十四日には後醍醐皇子の成良親王が光明天皇の皇太子とされ、尊氏は鎌倉時代の慣習通り両統迭立の方針を採ることを明らかにしています。
これは次の「治天の君」を後醍醐にすると表明した訳でもあり、軍事的敗北の結果、京都に戻ることになった後醍醐にはこれ以上考えられない優遇策ですね。

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d9df0c885a87bff89426d3b64d452ef
帰京後の成良親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9263c48e615c99949952173370ff559

この経緯を見ると、尊氏は後醍醐還幸の条件として成良親王立太子を提案し、後醍醐もそれに納得して京都に戻ったのではないか、と考えてもよさそうです。
しかし、後醍醐は翌十二月二十一日、京都を脱出して吉野に行ってしまいます。
尊氏から見れば、自分は講和条件を誠実に遵守したのに、やっぱりイヤだ、と京都を飛び出した後醍醐は本当に我儘な人だなあ、という感じではなかろうかと思います。
ま、いずれにせよ、『太平記』の記述は例によって史実とは大幅に異なっていますが、一つ一つその違いを確認して行くと話が複雑になるので、まずは『太平記』に描かれた恒良親王の動向、そして「三種の神器」の行方を追って行くこととし、史実との乖離は後で纏めて整理することにします。
さて、後醍醐の譲位を受けて今上天皇となったはずの恒良親王は新田義貞とともに越前に向かいますが、その道中は過酷です。
第十八節「北国下向勢凍死〔こごえじに〕の事」の冒頭を引用します。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p188以下)

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 同じき十一日は、義貞朝臣、七千余騎にて、塩津、海津に着き給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経、大勢にて差し塞〔ふさ〕ぎたりと聞こえしかば、これより路を替へて、木目巓〔きのめとうげ〕をぞ越え給ひける。
 北国〔ほっこく〕の習ひ、十月の初めより、高き峰々に雪降りて、麓の時雨〔しぐれ〕止む時なし。今年は例よりも陰寒〔いんかん〕烈しくして、風交〔かぜまじ〕りに降る山路の雪、甲冑に洒〔そそ〕ぎ、鎧の袖を翻して、面〔おもて〕を打つこと烈〔はげ〕しかりければ、士卒、寒谷〔かんこく〕に道を失ひ、暮山〔ぼさん〕に宿なくして、木の下、岩の陰に縮〔しじ〕まり臥す。
 たまたま火を求めたる人は、弓矢を折つて薪〔たきぎ〕とし、未だ友を離れざる者は、互ひに抱き付いて身を暖む。元来〔もとより〕、薄衣〔はくえ〕なる人、飼ふことなき馬ども、ここかしこに凍え死んで、行人〔こうにん〕道を去りあへず。かの叫喚、大叫喚の声耳に満ち、紅蓮、大紅蓮の苦み眼〔まなこ〕に遮る。今だにかくある、後の世を思ひ遣るこそ悲しけれ。知らぬ前の世までも、思ひ残す事はなし。【後略】
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ということで、一行からはぐれて殺されたり、千葉貞胤のように斯波高経に降伏する者も出てきます。
そして一行は十三日に「敦賀の津」に到着し、「東宮、一宮、惣大将父子兄弟を、先づ金崎の城へ入れ奉り、自余の軍勢をば、津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く」(p190)ことになります。
「東宮」は恒良親王、「一宮」は尊良親王ですね。
ついで、

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ここに一日逗留あつて後、この勢、一処につまり居ては叶ふまじとて、大将を国々の城へぞ分かたれつる。大将義貞は、東宮、一宮に付きまゐらせて、金崎の城に留まり、子息越後守義顕は、北国勢三千余騎を添へて、越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助は、千余騎を添経て、瓜生が杣山の城へ遣はさる。皆これは、国々の勢を相付けて、金崎の後攻めをせよとのためなり。
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という展開となりますが、ここまで「三種の神器」は一切登場しません。
なお、新田義貞の越前落ちのルートはリンク先サイトの説明が分かりやすいですね。

「幻の北陸朝廷 南北朝争乱 新田義貞の野望」
http://historia.justhpbs.jp/hokuriku1.html
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