学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

桃崎有一郎氏「後醍醐の内裏放火と近代史学の闇」(その12)

2021-05-08 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月 8日(土)12時18分51秒

謎に包まれた「黒の組織」によって少年化させられた大学教授探偵・桃崎有一郎氏が高千穂コナンと名乗り、組織の行方を追いながら数々の難事件を解決していく推理漫画『京都を壊した天皇、護った武士』シリーズ、ずいぶん長くなってしまいましたが、そろそろ終わりにしたいと思います。
未検討の論点はいくつかありますが、とりあえず最後に確認しておきたいのは、桃崎少年により「近代日本の言論統制のもとで、後醍醐を聖人、尊氏を悪の権化として描こうと決めた政府(系)機関」である「黒の組織」東京帝国大学史料編纂所の一員として、「問題の流布本『太平記』の危うさに気づ」きながら、「その歪曲に気づかぬふりをして、歪曲の再生産とさらなる流布に、手を貸した」と非難された田中義成(1860-1919)の極悪非道な所業が具体的にいかなるものであったか、という点ですね。
これを「明治三十四年十月四日印刷」「明治三十四年十月五日発行」の「編纂兼発行者」東京帝国大学、「印刷者」印刷局、「発売所(いろは順)」吉川半七・大日本図書株式会社・合資会社富山房の『大日本史料』第六編之二、延元元年正月十日条に即して見て行きます。
なお、後醍醐が「建武」を「延元」に改元したのは建武三年(1336)二月二十九日なので、「延元元年正月十日」は変といえば変なのですが、年度の途中で表記を変えるのは面倒、といった編集上の都合によるのだと思います。
さて、同日条を見ると、最初の「綱文」に、

十日、<丁巳>、脇屋義助等、山崎ヲ守ル、細川定禅等、攻メテ之ヲ破リ、長駆シテ入京ス、

とあって(p951)、『梅松論』・「三刀屋文書」・『太平記』が引用されています。
ついで二番目の「綱文」に、

天皇神器ヲ奉ジテ、東坂本ニ幸シ、大宮彼岸所ヲ行在ト為シ給フ、凶徒火ヲ縦チテ宮闕ヲ焚ク、

とあって(p956)、問題の「凶徒」という表現が出てきます。
そして『神皇正統記』・『梅松論』に続いて「三刀屋文書」以下の十八の史料が引用された後、『太平記』が三つの部分に分けて引用されますが、その二番目に名和長年関係の記事があります。(p964以下)
以下、カタカナは読みづらいので平仮名に替えるなど、ほんの少しだけ読みやすくして引用します。
文中、<〇……>とあるのは小さい字で二行に書かれている部分を便宜上<>で示したもので、<>は原文にはありません。
〇は原文にあって、編者による解説であることを示しています。

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〔太平記〕<十四 長年帰洛 附内裏炎上事>
名和伯耆守長年は、勢多を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上早東坂本へ、落させ給ひぬと聞へければ、是より直に、坂本へ馳参んずる事は安けれども、今一度内裏へ馳参らで、直に落行んずる事は、後難あるべしとて、其勢三百余騎にて、十日暮程に、又京都へぞ帰ける。今日は悪日とて、将軍いまだ都へは入給はざりけれども、四国西国の兵共数万騎打入て、京白河に充満たれば、帆掛舟の笠験を見て、此に横ぎり、彼に遮て、打留んとしけれども、長年懸散じては通り、打破ては囲を出、十七度迄戦ひけるに、三百余騎の勢、次第次第に討れて、百騎許に成にけり。されども長年遂に討れざれば、内裏の居石の辺にて、馬より下、兜を脱、南庭に跪く。主上東坂本へ臨幸成て、数刻の事なれば、四門悉閉て、宮殿正に寂寞たり。然ば早甲乙人共、乱入けりと覚て、百官礼儀を調へし紫宸殿の上には、賢聖の障子引破られて、雲台の画図此彼に乱たり。佳人晨装を餝りし弘徽殿の前には、翡翠御簾半より絶て、微月の銀鉤虚しく懸れり。長年つくづくと是を見て、さしも勇める夷心にも、哀の色や増りけん、涙を両眼に余して、鎧の袖をぞ濡しける。良姑く徘徊て居たりけるが、敵の鬨の声、間近く聞へければ、陽明門の前より馬に打乗て、北白川を東へ、今路越<〇愛宕郡、雲母坂より近江坂本へ出る途を云ふ、>に懸りて、東坂本へぞ参ける。其後四国西国の兵共洛中に乱入て、行幸供奉の人々の家、屋形屋形に火を懸たれば、<〇参考太平記に、西源院本云、良姑徘徊て居りたりけるが、いざさらば、東坂本へ参んとて、陽明門の前より、馬に打乗りて打けるが、敵の馬の蹄にかけさせんよりはとて、内裏に火をかけ、今路越に、東坂本へぞ参ける云々とあり、>折節辻風烈しく吹布て、竜楼竹苑、准后の御所、式部卿親王常盤井殿、聖主御遊の馬場御所、<〇参考太平記に、毛利家本、有斎宮(祥子内親王)御所、京極殿とあり、>煙同時に立登りて、炎四方に充満たれば、猛火内裏に懸りて、前殿後宮、諸司八省、三十六殿、<〇参考太平記に、六、今出川本、作三とあり、>十二門、大廈の構徒らに、一時の灰燼と成にけり。越王呉を亡して、姑蘇城一片の煙となり、項羽秦を傾けて、咸陽宮三月火を熾にせし、呉越秦楚の古も、是にはよも過じと、浅ましかりし世間なり。
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西源院本は既に(その7)で紹介済みですが、『大日本史料』で引用されている流布本と西源院本を比較してみると、両者は内容的には殆ど同一ですね。
なお、(その7)では「折節辻風烈しく吹布て」以下は省略しましたが、西源院本でも同一内容の記述が存在します。

(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/494208a5d97b1b7a5c970359e34b6db7

結局、流布本で「名和長年のエピソードはごっそり削られ」てはおらず、「其後四国西国の兵共洛中に乱入て、行幸供奉の人々の家、屋形屋形に火を懸たれば」という、桃崎氏が「放火の罪を足利軍に着せる文章が捏造された」と非難する部分も、流布本以外の多数の諸本に共通する文章のようです。
この点、まだ西源院本以外は確認していませんが、田中義成の「〇参考太平記に、西源院本云、良姑徘徊て居りたりけるが、いざさらば、東坂本へ参んとて、陽明門の前より、馬に打乗りて打けるが、敵の馬の蹄にかけさせんよりはとて、内裏に火をかけ、今路越に、東坂本へぞ参ける云々とあり」という解説を見ると、田中は西源院本だけの特殊な記述と、他の多くの諸本に共通する記述を比較して、後者を採用したというだけの話ではないかと思います。
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