投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月24日(月)13時51分46秒
果たして「長崎の鐘」と『太平記』はどのように結びつくのか。
続きです。(pⅲ以下)
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昭和二十四(一九四九)年七月、サトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲した、この「長崎の鐘」は藤山一郎の歌声とともに大ヒットした。この歌は、その年の一月に出版された永井隆(一九〇八~五一)の小説『長崎の鐘』に触発されたものである。
永井は長崎医大助教授のとき被爆し妻を失った。『長崎の鐘』は、爆心地から七〇〇メートルの大学で被爆した瞬間と、それに続く長い救出・治療の模様の記録である。敬虔なクリスチャンだった永井は、重症を負いながら、医局の部下たちを励まし血まみれで被災者の治療に当たった。自宅にいた妻は即死、その骨を拾ったのは被爆三日目のことという。
この歌の内容を説明する必要はない。だが、この歌が人々の心をとらえ、国民の愛唱歌になった理由は何だったのだろうか。第二次世界大戦の敗戦から四年、当時の日本人の多くが、空襲そのほか、多かれ少なかれ、永井と似たような体験、いや、思いをしていたはずだ。廃墟の中で、残された者同士はなぐさめあい、励ましあい、死せる者へは鎮魂(弔い)をしながら、前むきに生きていこうとしていた。人々は、自己の体験を永井のそれと重ね合わせて理解したのだろう。いわば、この歌は、約三百十万の死者を出した未曽有の敗戦の後で、生き残った者にとっては人生の応援歌、死者へは鎮魂の歌として受け入れられた。
『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ。本書の主要なねらいこそ、それを明らかにすることにある。もっとも、『太平記』が扱う南北朝の動乱は、戦争の主体が武士であり、かつ、たとえば足利尊氏(一三〇五-五八)と直義(一三〇六-五二)兄弟、尊氏と直冬(生没年不詳)親子が敵味方となって戦ったように、一族が北朝方・南朝方に分かれ骨肉相争う国内戦であったのに対して、他方の第二次世界大戦は総力戦で、名も無き庶民も駆りだされた外国との戦いであった。そのように、戦争といっても、その規模や条件などには大きな相違がある。また、「長崎の鐘」にはキリスト教的救済が背景にあるのに対し、『太平記』は仏教による救済がある。さらに、「長崎の鐘」は歌手によって歌われるのに、『太平記』は太平記読という講釈師によって語られた、といった相違があることは承知のうえだ。
『太平記』といえば、南朝方の人が南北朝動乱を描いた戦記物語というのが、教科書的な常識であるが、私は、十四世紀前半から末までの、世に南北朝の動乱と呼ばれる、うち続く戦争によって死んだ後醍醐天皇(一二八八-一三三九)をはじめとする人々への鎮魂と、その廃墟の中から立ち上がろうとし、室町幕府に結集した人々(とその子孫)の「応援歌」であったと考えている。いうなれば、室町幕府(北朝方)の正史に準ずる歴史書であり、南北朝動乱で死んだ人々への鎮魂の書であったと主張したい。
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「『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ」という主張は一応理解できましたが、果たして松尾氏は「それを明らかにすること」に成功したのか。
まあ、正直言って私は全く納得していませんが、私は自分の意見を人に押し付けようという志向はあまりないので、あくまで松尾氏の説明内容と『太平記』の原文を比較し、松尾氏の見解にどれだけの説得力があるのかを見て行きたいと思います。
さて、「はじめに」はこの後、「『太平記』は史学に益なし?」との小見出しの下、若干の説明がありますが、久米邦武等に関する一般的な説明なので省略します。
次いで「第一章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』」に入ると、
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三部構成のあらまし
物語を貫く主人公とは
後醍醐天皇とはどんな人か
仏となった後醍醐
黒衣僧文観
第一部の後醍醐観
第二部の後醍醐観
第三部での後醍醐
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という順番で説明が続きます。
「後醍醐天皇はどんな人か」までは一般的な説明、「仏となった後醍醐」は神奈川県藤沢市の清浄光寺に伝わる後醍醐の有名な肖像画の話で、黒田日出男説が紹介されています。
「黒衣僧文観」は「官僧(白衣僧)」「遁世僧(黒衣僧)」といった松尾氏特有の用語はありますが、文観についての、今では若干古くなった感じがしなくもない説明です。
「第一部の後醍醐観」「第二部の後醍醐観」も一般的な説明ですが、「第三部での後醍醐」に入ると「怨霊となった後醍醐」についての若干詳しい説明があります。
「怨霊となった後醍醐」については、一般的な通史等ではあまり触れられないので、次の投稿で松尾氏の見解と『太平記』の原文を紹介します。
果たして「長崎の鐘」と『太平記』はどのように結びつくのか。
続きです。(pⅲ以下)
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昭和二十四(一九四九)年七月、サトウハチローが作詞し、古関裕而が作曲した、この「長崎の鐘」は藤山一郎の歌声とともに大ヒットした。この歌は、その年の一月に出版された永井隆(一九〇八~五一)の小説『長崎の鐘』に触発されたものである。
永井は長崎医大助教授のとき被爆し妻を失った。『長崎の鐘』は、爆心地から七〇〇メートルの大学で被爆した瞬間と、それに続く長い救出・治療の模様の記録である。敬虔なクリスチャンだった永井は、重症を負いながら、医局の部下たちを励まし血まみれで被災者の治療に当たった。自宅にいた妻は即死、その骨を拾ったのは被爆三日目のことという。
この歌の内容を説明する必要はない。だが、この歌が人々の心をとらえ、国民の愛唱歌になった理由は何だったのだろうか。第二次世界大戦の敗戦から四年、当時の日本人の多くが、空襲そのほか、多かれ少なかれ、永井と似たような体験、いや、思いをしていたはずだ。廃墟の中で、残された者同士はなぐさめあい、励ましあい、死せる者へは鎮魂(弔い)をしながら、前むきに生きていこうとしていた。人々は、自己の体験を永井のそれと重ね合わせて理解したのだろう。いわば、この歌は、約三百十万の死者を出した未曽有の敗戦の後で、生き残った者にとっては人生の応援歌、死者へは鎮魂の歌として受け入れられた。
『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ。本書の主要なねらいこそ、それを明らかにすることにある。もっとも、『太平記』が扱う南北朝の動乱は、戦争の主体が武士であり、かつ、たとえば足利尊氏(一三〇五-五八)と直義(一三〇六-五二)兄弟、尊氏と直冬(生没年不詳)親子が敵味方となって戦ったように、一族が北朝方・南朝方に分かれ骨肉相争う国内戦であったのに対して、他方の第二次世界大戦は総力戦で、名も無き庶民も駆りだされた外国との戦いであった。そのように、戦争といっても、その規模や条件などには大きな相違がある。また、「長崎の鐘」にはキリスト教的救済が背景にあるのに対し、『太平記』は仏教による救済がある。さらに、「長崎の鐘」は歌手によって歌われるのに、『太平記』は太平記読という講釈師によって語られた、といった相違があることは承知のうえだ。
『太平記』といえば、南朝方の人が南北朝動乱を描いた戦記物語というのが、教科書的な常識であるが、私は、十四世紀前半から末までの、世に南北朝の動乱と呼ばれる、うち続く戦争によって死んだ後醍醐天皇(一二八八-一三三九)をはじめとする人々への鎮魂と、その廃墟の中から立ち上がろうとし、室町幕府に結集した人々(とその子孫)の「応援歌」であったと考えている。いうなれば、室町幕府(北朝方)の正史に準ずる歴史書であり、南北朝動乱で死んだ人々への鎮魂の書であったと主張したい。
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「『太平記』という本書を、「長崎の鐘」の話から始めたのは、ほかでもない。私は、『太平記』を、いうならば「長崎の鐘」のような性格の書だったと考えているのだ」という主張は一応理解できましたが、果たして松尾氏は「それを明らかにすること」に成功したのか。
まあ、正直言って私は全く納得していませんが、私は自分の意見を人に押し付けようという志向はあまりないので、あくまで松尾氏の説明内容と『太平記』の原文を比較し、松尾氏の見解にどれだけの説得力があるのかを見て行きたいと思います。
さて、「はじめに」はこの後、「『太平記』は史学に益なし?」との小見出しの下、若干の説明がありますが、久米邦武等に関する一般的な説明なので省略します。
次いで「第一章 後醍醐天皇の物語としての『太平記』」に入ると、
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三部構成のあらまし
物語を貫く主人公とは
後醍醐天皇とはどんな人か
仏となった後醍醐
黒衣僧文観
第一部の後醍醐観
第二部の後醍醐観
第三部での後醍醐
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という順番で説明が続きます。
「後醍醐天皇はどんな人か」までは一般的な説明、「仏となった後醍醐」は神奈川県藤沢市の清浄光寺に伝わる後醍醐の有名な肖像画の話で、黒田日出男説が紹介されています。
「黒衣僧文観」は「官僧(白衣僧)」「遁世僧(黒衣僧)」といった松尾氏特有の用語はありますが、文観についての、今では若干古くなった感じがしなくもない説明です。
「第一部の後醍醐観」「第二部の後醍醐観」も一般的な説明ですが、「第三部での後醍醐」に入ると「怨霊となった後醍醐」についての若干詳しい説明があります。
「怨霊となった後醍醐」については、一般的な通史等ではあまり触れられないので、次の投稿で松尾氏の見解と『太平記』の原文を紹介します。