学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その2)

2021-05-22 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月22日(土)20時56分12秒

屈強の武士に組み敷かれ、反撃しようにも武器もなく、今にも首を斬られそうになった中切弥八の運命やいかに、ということで続きです。(p79以下)

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上なる者、鬢〔びん〕の髪をつかんで頸を掻かんとしける処を、中吉、刀加〔かたなぐわ〕へに敵の小腕〔こうで〕をちやうと握りすくめて、「聞き給へ、申すべき事あり。御辺〔ごへん〕今は我をな怖れそ。刀があらばや跳〔は〕ね返して勝負をもせん。また続く御方〔みかた〕なければ、落ち重なりてわれを助くる人もあらじ。御辺の手に懸かりて死なん条疑ひなし。さりながら、われ名ある武士にてもなければ、首を取つて出だされたりとも、実検にも合ふまじ。高名〔こうみょう〕にもなるまじ。われは、六波羅殿の御雑色〔おんぞうしき〕に六郎太郎と申す者にて候へば、見知りぬ人は候ふまじ。無用の下部〔しもべ〕の頸を取つて罪を作らせ給はんよりは、わが命を扶〔たす〕けたび給へ、その悦びには、六波羅殿の銭を六千余貫、埋〔うづ〕めて隠されたる所を知りて候へば、手引〔てびき〕申して御辺に所得〔しょとく〕せさせ奉らん」と申しければ、誠〔まこと〕とや思ひけん、命を助くるのみならず、様々の引出物をし、もてなして京へ連れて上〔のぼ〕りたれば、六波羅の焼け跡へ行〔ゆ〕いて、「まさしくここに埋〔うず〕まれたりしものを、早や人が掘つて取つたりけるぞや。徳付け奉らんと思うたれば、耳のびくの薄さよ」と、欺〔あざむ〕いて、空笑〔それわら〕ひしてぞ帰りける。
 中吉が謀〔はかりごと〕に道開けて、主上、その日は江州、篠原の宿に着かせ給ふ。【後略】
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ということで、中吉弥八は自分は下っ端なので首を取っても価値はなく、それより自分は六波羅に六千貫が埋まっている場所を知っているから、命を助けてくれたらその場所を教えてやる、と言います。
その言葉を信じた敵は、弥吉の命を助けただけでなく、様々にもてなして六波羅の焼け跡まで連れて行ったところ、弥八は、「確かにここに埋めたのだが、誰かが先に掘ってしまったみたいだね。貴殿に得をさせてあげようと思ったが、貴殿は耳たぶが薄くて福相のない人ですな」と笑って逃げて行った、というストーリーですね。
飯倉氏は「中吉弥八はいったんは戦いを挑んだが、かえって組み伏せられてしまい、そのとき一策を案じ、六波羅に六〇〇〇貫の銭を埋めたところを知っているとだまして、野伏の一団を連れて行き、天皇一行を救い」と書かれているので、この弥八のエピソードを事実だと考えておられる訳ですが、どうなのか。
慌ただしく逃げ出した六波羅探題関係者が重くてかさばる銭を密かに埋めて行くことは、まあ、あっても不思議ではないですし、その話を聞いた者が情報提供者を伴って現場に向かうこともありそうです。
しかし、実際に現物を確認するまで、情報提供者を自由の身にすることがあり得るのか。
普通の武士であれば、弥八を縛って逃亡できないようにし、嘘をついたら殺すぞ、くらいの脅しをかけた上で現場に連れて行き、発見されなかったら即座に首を刎ねるはずです。
まあ、仮に発見できても、大金発見という噂が立って奪いに来るような者が出てくるのを防ぐために、弥八は口封じのためにやっぱり殺害、という展開になるかもしれません。
結局、この弥八のエピソードは、面白いので『太平記』の読者、聴衆は楽しむけれども、誰も本当には信じない笑い話ですね。
それなのに元「宮内庁書陵部首席研究官、陵墓調査官」の飯倉氏はこの話が事実だと思っておられるようで、何とも「正直者」だなあと感心します。
そこまで単純な「正直者」だったら、中世はとても生きて行けないよ、と私は考えますが、このセリフは少し前にも言ったような気がします。
ところで中吉弥八は『太平記』全巻を通してここ一ヵ所にしか登場しない人物ですが、同じ中吉姓の中吉十郎なる者が、同じ第九巻の少し前、第四節「足利殿大江山を打ち越ゆる事」に登場します。

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 ここに、備前国の住人中吉十郎〔なかぎりのじゅうろう〕と、摂津国の住人奴可四郎〔ぬかのしろう〕とは、両陣の手分けによつて搦手の勢の中にありけるが、中吉十郎、大江山の麓にて、道より上手〔うわて〕に馬を打ちのけて、奴可四郎を呼びのけて申しけるは、「そもそも心得ぬものかな。大手の合戦は火を散らして、今朝辰刻より始まりければ、搦手は芝居の長酒盛にさて休〔や〕みぬ。結句、名越殿討たれ給ひぬと聞いて、後ろ合わせに丹波路を指いて馬を早め給ふは、この人いかさま野心をさし挟み給ふと覚ゆるぞ。さらんに於ては、われらいづくまでか相順〔あいしたが〕ふべき。いざや、これより引つ返し、六波羅殿にこの由を申さん」と云ひければ、奴可四郎、「いしくも云給〔のたま〕ひたり。われも事の体〔てい〕怪しくは存じながら、これもまたいかなる配立〔はいりゅう〕かあらんと、とかく思案しつる間に、早や今日の合戦に外〔はず〕れぬる事こそ安からね。但し、この人〔ひと〕敵になり給ひぬと見えながら、ただ引つ返したらんは、余りに云ひ甲斐なく覚ゆれば、いざや、一矢〔ひとや〕射懸け奉つて帰らん」と云ふままに、中差〔なかざし〕取つて打ち番〔つが〕ひ、馬を轟懸〔とどろが〕けにかさへ打ち廻さんとしけるを、中吉〔なかぎり〕、「いかなる事ぞ、御辺〔ごへん〕は物に狂ひ給ふか。われらわづかに二、三十騎にて、あの大勢に懸け合うて、犬死〔いぬじに〕したらんは本意〔ほい〕か。鳴呼〔おこ〕の高名〔こうみょう〕はせぬに如かず。ただ事故〔ことゆえ〕なく引つ返して、後の合戦に命を軽くしたらんこそ、忠儀を存じたる者なりけりと、後までの名も留まらんずれ」と、再往〔さいおう〕制し留めければ、げにもとや思ひけん、奴可四郎も、中吉も、大江山〔おいのやま〕より引つ返して、六波羅へこそ帰りけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3d211b9ad0dff14e28d8486f5c62866

奴可四郎はいささか頭の弱い人物に設定されていて、二人のやりとりはコントのような趣があります。
「中吉(なかぎり)」という名字は、第七巻第九節「船上合戦の事」にも後醍醐の許に駆けつけた備前の武士の一群の中に見えており(兵藤裕己校注『太平記(一)』、p367)、中吉十郎・弥八とも同族と思われますが、とにかく『太平記』の他の場面では全く登場しません。
二人は比較的近い場所に登場することもあって、『太平記』の作者は「中吉」に何かの記号的意味を持たせているようにも思えます。
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「番場宿の悲劇」と中吉弥八の喜劇(その1)

2021-05-22 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 5月22日(土)15時41分59秒

四月二十四日から五月三日まで、山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義』(山川日本史リブレット、2018)を検討していて、その途中で桃崎有一郎氏の『京都を壊した天皇、護った武士』(NHK出版新書、2020)に寄り道したので、ここで再び山家著に戻るのが順当な方向なのですが、ちょっと迷っているところです。
久しぶりに眺めてみた『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)の著者・飯倉晴武氏は、同書の奥付によれば「1933年生まれ、東北大学大学院修士課程修了、宮内庁書陵部首席研究官、陵墓調査官を経て、奥羽大学文学部教授」という方です。
その経歴からは非常に真面目な、手堅い研究者であることが伺われ、実際に飯倉著を読んでも印象は同じです。
しかし、ちょっと真面目すぎて、こういうタイプの研究者が『太平記』を正確に読めているのか、という疑問を私は抱きます。
それは例えば次のような箇所です。(p95以下)

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番場宿の悲劇

逃避行と落武者狩
 五月七日の夜ふけて光厳天皇はじめ両上皇と供奉の廷臣は、六波羅探題と残存の武士に守られて六波羅を出て東へ向かい、苦集滅路〔くずめじ〕を越えて山科に入り四条河原をへて近江へ進んだ。すでに苦集滅路から落人をねらう野伏が一行を襲ってきて、早くも南方六波羅探題の北条時益が頸の骨を射られて即死した。四宮河原を通過し逢坂の関の手前でしばし馬をとめて休んでいるとき、光厳天皇の左の肱〔ひじ〕に矢が当たり、陶山〔すやま〕備中守という武士がとっさに矢を抜いて疵を吸って手当てをし、難を救った。さらに進んであたりが明るくなるころ、天皇の一行は五、六百人の野伏に道を塞がれた。警護の一人備前国住人中吉弥八という武士が、「一天の君(天皇)が関東へ臨幸されるところに、無礼をするな。弓をふせ甲を脱いで、通し奉れ」というと、野伏どもは「如何なる一天の君でも通ってみろ。御運が尽きて落ちのびて行くのを通さないことはないが、たやすく通りたかったら、供の武士たちの馬物具をみなおいてゆけ」といって、どっと鬨の声を挙げた。中吉弥八はいったんは戦いを挑んだが、かえって組み伏せられてしまい、そのとき一策を案じ、六波羅に六〇〇〇貫の銭を埋めたところを知っているとだまして、野伏の一団を連れて行き、天皇一行を救い、この日(八日)天皇・上皇方を守って六波羅勢は近江国野洲郡篠原に着いた(『太平記』巻第九)。
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『太平記』を実際に読んでみても、この要約に全く間違いはありません。
間違いはないのですが、しかし『太平記』中でも有数の悲劇である第九巻第六節「六波羅落つる事」の中に挟まれている中吉弥八〔なかぎりやはち〕のエピソードは、かなり奇妙なものです。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p77以下)

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 さる程に、東雲〔しののめ〕漸く明け初〔そ〕めて、朝霧わづかに残れるに、北なる山を見渡せば、野伏どもと覚しくて五、六百人が程、楯をつき、鏃をそろへて待ち懸けたり。備前国の住人、中吉弥八、行幸の御前に候ひけるが、敵近づけば、馬を懸け居〔す〕ゑて、「忝くも、一天の君関東へ臨幸なる処を、いかなる者なれば、かやうに狼籍をば仕〔つかまつ〕るぞ。心ある者ならば、弓を偃〔ふ〕せ、甲を脱いで、通しまゐらすべし。礼儀を知らぬ奴原〔やつばら〕ならば、一々に召し取つて切り懸けて通べし」と申しければ、野伏ども、からからと打ち笑うて、「いかなる一天の君にても渡らせ給へ、御運尽きて落ちさせ給はんずるを、通しまゐらせじとは申すまじ。たやすく通りたく思し召されば、御供仕りたる武士どもの、馬、物具を皆捨てさせて、心安く落ちさせ給へ」と申しもはてず、同音〔どうおん〕に時をどうど作る。中吉弥八、これを聞いて、「悪〔にく〕い奴原が振る舞ひかな。いで、己れらが欲しがる物具とらせん」とて、若党六騎、馬の鼻を並べてぞ懸たりける。欲心熾盛〔しじょう〕の野伏ども、六騎の兵に懸け立てられて、蜘蛛の子を散らすが如くに四角八方へ逃げたりける。六騎の兵、六方に分かれて逃ぐる者どもを追ふ。
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まあ、ここまではなかなか格調高い文章であり、軍記物として変なところは一つもありません。
問題はその次からです。

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 二十余人返し合はせて、これを真中に取り籠むる。弥八少しも疼〔ひる〕まず、その中の棟梁と見えたる敵に馳せ並べて、むずと組んで、二疋があはひへどうど落ちて、四、五丈高き片岸の上より、上になり下になりころびけるが、ともに組みも離れずして、深田の中へころび落ちにけり。中吉下になつてければ、上げ様に一刀〔ひとかたな〕差さんとて、腰刀〔こしがたな〕を探りけるに、ころぶ時抜てや失せたりけん、鞘ばかりあつて刀はなし。
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ということで、中吉弥八、絶体絶命のピンチです。
このピンチを弥八はいかにして切り抜けるのか。
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