大晦日の二投稿についてコメントをもらいましたので、私の見方を補足的に説明しておきます。
慈光寺本『承久記』の成立時期について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ac49db44731e38d2798af164b05c3c1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74a4edd2816653420041992b22d72a43
杉山次子説について、(その1)の最後に「まあ、一応は合理的な推論ではありますが、逆にいえば、僅かにこの一文を付け加えただけで、慈光寺本はものすごく古い本なのだ、古態を残しているのだ、という印象を与えることができる訳です」などと思わせぶりな書き方をしてしまいましたが、私も「侍従殿」藤原範継に関する記述を特に疑わしく思っている訳ではありません。
従来の学説に対する私の疑問の中心は、仮に慈光寺本が「古態」だからといって、事実の記録として慈光寺本が格別に価値がある訳ではない、「古態」であることは記述の正確性を全く担保しない、ということです。
仮に慈光寺本だけが1230年代に成立していて、他本はそれより遥かに遅れ、承久の乱に関する諸人の記憶が薄れた頃に成立していたならば「古態」に意味があるかもしれませんが、そうした主張をしている人はいないようで、多くの国文学者は、せいぜいドングリの背比べ程度の年代差を想定しているように思われます。
また、私が『承久記』の研究史を全く知らないのに断定的な書き方をしている点について不快に思われた方もおられるかもしれませんが、私は国文学者による『とはずがたり』や『増鏡』の成立年代論・作者論は殆ど検討済みで、この種の問題についての国文学者の発想パターンは熟知しています。
軍記物語についても、『とはずがたり』や『増鏡』ほどではありませんが、『太平記』の先行研究は相当に押さえており、従来の成立年代論・作者論について批判的に検討しています。
実際、日下力氏の『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)での議論の仕方は、私が『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)を読んで予想した範囲内であり、日下氏の方法論への疑問を改めて感じさせるものでした。
もちろん、私も野口実氏が「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」(『京都女子大学宗教・文化研究所 研究紀要』18号、2005)で紹介されている程度の論文はこれから全て読んで、研究史は一応把握するつもりですが、私の基本的関心は慈光寺本『承久記』が歴史学でどこまで利用できるか、ということなので、『承久記』そのものにあまり深入りするつもりはありません。
そして、慈光寺本の歴史学での利用可能性の結論は既に出ていて、要は慈光寺本だけに出て来るエピソードは使えない、というものです。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)で古活字本と慈光寺本を比較してみると、話題が共通する部分では、必ずといっていいほど慈光寺本がより刺激的で面白い方向で叙述しています。
例えば、後鳥羽院側についた三浦胤義は兄・義村に幕府を裏切るように勧めますが、この点について、古活字本では、藤原秀康との面談において、
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【前略】中ニモ兄ニテ候三浦ノ駿河守、キハメテヲコノ者ニテ候ヘバ、「日本国ノ惣追捕使ニモナサレン」ト仰候ハゞ、ヨモ辞申候ハジ。サルベクハ胤義モ内々申遣シ候ハン」トテ帰リニケリ。
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とあって(p375)、後は「院宣ノ御使」押松と同時に「平九郎判官」胤義が「私ノ使」を派遣し、その使者が義村に「文」を渡したところ、一読した義村は返事もせずに使者を「追出」した後、北条義時の許に行ってその「文」を見せた、という展開となって、「文」の具体的内容は記されません。
ところが、慈光寺本では、胤義は藤原秀康に対し、
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【前略】胤義ガ兄駿河守義村ガ許ヘ文ヲダニ一下〔ひとつくだし〕ツル物ナラバ、義時打取ランニ易〔やすく〕候。其状ニ、「胤義ガ都ニ上リテ、院ニ召〔めさ〕レテ謀叛ヲコシ、鎌倉ニ向テ好矢〔よきや〕一〔ひとつ〕射テ、今日ヨリ長ク鎌倉ヘコソ下〔くだ〕リ候マジケレ。去〔され〕バ昔ヨリ八ケ国ノ大名・高家〔かうけ〕ハ、弓矢ニ付〔つけ〕テ親子ノ奉公ヲ忘レヌ者ナレバ、権大夫ハ大勢〔おほぜい〕ソロヘテ都ヘ上〔のぼ〕セテ、九重中〔ここのへぢう〕ヲ七重八重〔ななへやへ〕ニ打巻〔うちまき〕テ、謀反ノ輩責玉〔せめたま〕ハンズラン。駿河殿ハ、権大夫ト一〔ひとつ〕ニテ、三浦ニ九七五ナル子供三人乍〔ながら〕、権太夫ノ前ニテ頸切〔くびきり〕失〔うしなひ〕給ヘ。サヤウ成ヌル物ナラバ、殿ト権太夫殿、中ハ隔心〔きやくしん〕ナクシテ、諸国ノ武士ハ上〔のぼる〕トモ、殿ハ上〔のぼら〕ズシテ、三浦ノ人共勧仰〔すすめおほ〕せて、権太夫ヲ打玉ヘ。打〔うち〕ツル物ナラバ、胤義モ三人ノ子共ニヲクレテ候ハン其替〔そのかはり〕ニ、殿ト胤義ト二人シテ日本国ヲ知行〔ちぎやう〕セン」ト、文ダニ一下〔ひとつくだし〕ツル者ナラバ、義時討〔うた〕ンニ易〔やすく〕候。加様〔かやう〕ノ事ハ延〔のび〕ヌレバ悪〔あしく〕候。急ギ軍〔いくさ〕ノ僉議〔せんぎ〕候ベシ」トゾ申タル。
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と言ったとされています。(p309)
そして、「按察使光親」が報じた院宣を持参した「院御下部押松」と同時に鎌倉に向かった「平判官ノ下人」も、胤義の「御文」を持って義村の許に行きます。
秀康との問答で既に手紙としてはほぼ完成された文章が示されているので、改めて当該「御文」が引用されてはいませんが、この間の事情は押松持参の院宣と良く似ていますね。
さて、慈光寺本に引用される院宣が本物だと断じる長村祥知氏は、この胤義の手紙も本物と考えておられるのか。
「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1