伊賀光季追討に関連して、流布本と慈光寺本を比較してちょっと奇妙に感じられるのは、流布本には光季と並ぶもう一人の京都守護・大江親広への言及があるのに、慈光寺本では消えてしまっている点です。
即ち、流布本では、
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平九郎判官胤義を被召て、「親広法師・伊賀判官、是等をば如何すべき」と被仰ければ、胤義申けるは、「親広は被召ば参候はんず、光季は権大夫の縁者にて候へば、被召共参り候はじ、如何様にも、先両人を被召候て、参り候はずは、其時こそ討手をも被差遣候へ」と計らひ申せば、「尤可然」とて、少輔入道の許へ、御使を被遣。即五十騎計の勢を相具して参けるが、
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とあって(松林靖明校注『新訂承久記』、p59)、後鳥羽院が三浦胤義に相談して二人の京都守護のいずれにも使者を出すと、大江親広は直ぐに来ますが、光季は何度読んでも来ない、という展開です。
これに対し、慈光寺本では、後鳥羽が陰陽師七人を呼んで鎌倉攻撃の日取りを占わせたところ、「当時ハ不快」で、今回は中止して「年号替ラレテ、十月上旬ニ思食立ナラバ、成就仕テ平安ナルベシ」と返事があったので、後鳥羽が悩んでいたところ、
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卿二位殿、又申サレケルハ、「陰陽師、神ノ御号〔みな〕を借テコソ申候ヘ。十善ノ君ノ御果報〔くわほう〕ニ義時ガ果報ハ対揚〔たいやう〕スベキ事カハ。且〔かつう〕ハ加様〔かやう〕ノ事、独〔ひとり〕ガ耳ニ聞ヘタルダニモ、世ニハ程ナク聞ユ。増シテ一千余騎ガ耳ニ触テン事、隠ス共隠アルマジ。義時ガ聞候ナン後ハ、弥〔いよいよ〕君ノ御為、重ク成候ベシ。只疾々〔とくとく〕思食立候ベシ」トゾ申サレタル。サラバ秀康召テ、先〔まず〕義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ可討由ヲ、宣旨ゾ下ケル。
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とあって、後鳥羽は胤義に相談することなく、二人の京都守護の中、大江親広への言及も全くなくて、いきなり伊賀光季追討宣旨を下すという展開です。
そして、後鳥羽の命を受けた藤原秀康が三浦胤義と相談して十五日に討とうという話になります。
ちなみに陰陽師の卜占と卿二位の一喝は慈光寺本にしか出て来ない面白エピソードですね。
この他、いくつか気になる点がありますが、何といっても変な感じがするのは、慈光寺本では伊賀光季追討場面が作品全体の約17%、流布本でも約11%を占めるという膨大な分量になっていることで、この点は作者論との関係で再度論じたいと思います。
さて、杉山第三論文に戻って、続きです。(p66以下)
https://dl.ndl.go.jp/pid/4413408
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(4)押松帰洛
話の舞台を鎌倉から京都へ移す狂言廻しの役として押松はよく使われている。その足の早いこと、鎌倉でかくれていて捕えられること、宣旨をとりあげられること、宣旨の請文と義時の口上を与えられ干飯いをもらって京都へ帰り、東上軍の盛な有様を伝える。これらは両者全く同じである。慈光寺本の「下リニコソ急トモ、上リニハ大名高家ノ手ヨリ引出物得テ上ランズレバ、宮仕ノ冥加此ニ在」承久記「関東へ下りなば、大名共に賞翫せられて、馬鞍引かれ徳付きて上らん(流)」となり前田本ではこの部分はない。また慈光寺本の「押松粮料クレヨトテ、干飯三升賜テ」が流布本にはなく前田本では「旅粮あくまでとらせて」となる。慈光寺本の押松はいきいきと造型された人物の一人で、後の承久記では部分的にしか生かすことが出来なかった。
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うーむ。
「慈光寺本の押松はいきいきと造型された人物の一人で、後の承久記では部分的にしか生かすことが出来なかった」とありますが、これは慈光寺本が先行し、流布本・前田本は慈光寺本に『吾妻鏡』や『増鏡』の記事を追加したもの、という杉山氏の結論(ないし単なる思い込み)の反映であって、論証ではないですね。
ここも要するに慈光寺本は「迫真性」があるという話なのでしょうが、実際に流布本と慈光寺本を読み比べてみると、それほど差があるようにも思えません。
即ち、流布本では、押松(推松)登場の場面は、
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【前略】東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。
院宣の御使には、推松とて究めて足早き者有ける、是を撰てぞ被下ける。平九郎判官、私の使を相添て、承久三年五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負じと下ける程に、同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。平九郎判官の使は案内者にて、先に鎌倉へ走入て、駿河守に文を付たれば、披見して、「返事申べけれ共、道の程も如何敷〔いかがしき〕間、態〔わざ〕と申さぬ成」とて追出しぬ。
駿河守、此文をかい巻て、権大夫の許へ持向へ、「已に世中こそ乱て候へ。去十五日、光季被討ぬ。胤義が私の文、御覧候へ」とて、権大夫義時、折節諸人対面の前に、引披ひて置たり。権大夫、「さては御辺の手に社〔こそ〕懸り進〔まゐ〕らせ候はんずらめ」。三浦駿河守、打退て袖引繕ひ、「是こそ恐存候へども、平家追討より以来、度々の戦に忠節を致し、一度も不忠の儀候はず。自今以後も又、疎略を不可存、若偽申事候はゞ、遠くは熊野の嶽、近くは伊豆・筥根、別しては若宮三所・足柄・松童、殊更奉頼三浦十二天・栗濱・森山、惣じては日本国中の大小の神祇・冥道、知見し給へ。御後ろめたなき事不候」とぞ申ける。権大夫打笑て、「偖〔さて〕は心安候。今迄此事の出来候はぬ社〔こそ〕、不思議に候へ。是は兼てより存たる事也。今は推松も鎌倉へ入んずらん。尋よ」とて被尋けり。
推松、人の気色替り、何となく騒ぎければ、有者の許に隠れ居たりけれを、一々に鎌倉中を捜しければ、笠井の谷〔やつ〕より尋出し、引張先に立てぞ参ける。院宣共奪取が如して、大概計読せて、後に焼捨られぬ。
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となっており(松林、p72)、ここではまだ押松(推松)が「いきいきと造型された人物」かは分かりませんが、「権大夫」(北条義時)と「駿河守」(三浦義村)の「造型」は面白いですね。
「さては御辺の手に社〔こそ〕懸り進〔まゐ〕らせ候はんずらめ」は義時の際どい冗談ですが、それに義村が慌てふためいて、自分は「平家追討より以来、度々の戦に忠節を致し、一度も不忠の儀候はず」、これから先も「不忠の儀」は絶対行わないことを誓い、普通は起請文に出て来る神文を義時の面前で語ります。
それを聞いた義時は「打笑て」、「それは安心なことです」と返します。
この義時と義村のやり取りに相当する部分は慈光寺本にもありますが、慈光寺本では義村は一方的に義時に忠誠を誓う存在ではなく、むしろ対等であるかのように「造型」されています。