慈光寺本との比較のため、流布本における「推松」帰洛の様子も見ておくことにします。
流布本での「推松」関東下向と捕縛の場面は既に紹介済です。
慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58
この場面の後、政子の演説、義時邸における「軍の僉議評定」、ついで出陣の場面となりますが、出陣の場面の最後に、
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鎌倉に留まる人々には、大膳大夫入道・宇都宮入道・葛西壱岐入道・隼人入道・信濃民部大輔入道・隠岐次郎左衛門尉、是等也。親上れば子は留まり、子上れば親留まる。父子兄弟引分上せ留らるゝ謀〔はかりごと〕こそ怖しけれ。
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という、ちょっと気になる一文があります。
流布本(の原型)が慈光寺本に先行するのでは、と仮定している私は、この文章が慈光寺本作者にとって、三浦胤義の兄・義村宛の手紙、即ち自分の九・七・五歳の子供三人の首切れば義時が義村を信頼し、義村は鎌倉に残ることになるはずだ、そこで油断している義時を襲え、という手紙を創作するヒントになったのでは、と考えています。
「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dddf5d1ff155e2007a1f34eb2458d38f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3524c6fda5cab1bff97581a0c9edfee4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cfc6621dd621c55e9cac74188151569
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5
なお、私は今まで何度か「流布本(の原型)」という表現を使っていますが、別に内容上の大きな改変を想定している訳ではありません。
流布本と慈光寺本を通読すると、何となく流布本より慈光寺本の方が古いような印象を受ける人が多いと思いますが、それは慈光寺本が後鳥羽・土御門・順徳の諡号を用いていないことが一番の原因と思われます。
「慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その2)」で紹介したように、松林靖明氏は『新訂承久記』(現代思潮社、1982)の「承久記解説」で、
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最後に、流布本の成立年次については、あまり研究が進んでおらず、後藤丹治氏が後鳥羽院、土御門院の諡号から仁治三年(一二四二)七月以降、また『神明鏡』に『承久記』が引用されているところから鎌倉時代後期の作品としたのがはじめで、それを冨倉徳次郎氏が、当然使用すべきところで順徳院という諡号を用いていないので、順徳と諡〔おくりな〕された建長元年(一二四九)七月二十日以前の成立であろうと、その幅を狭めたのが、現在通説となっている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd96ac0339701f5295e0eea83ac73b0e
と言われていますが、この「通説」も、流布本は後鳥羽・土御門の諡号を使用し、順徳の諡号は使用しないから1240年代だ、という発想です。
しかし、諡号の点を除き、流布本の内容自体を見ると、慈光寺本と同じく1230年代と考えても説明できない部分はありません。
仮に「原流布本」が1230年代に成立していて、それを1240年代に書写した人が、特に改変の意図もなく、単純に諡号を用いた方が分かりやすいと思って後鳥羽・土御門だけ諡号に変えれば、「通説」の立場からは、これだけで流布本は1240年代成立となってしまいます。
成立年代を確定するための単純な「内部徴証」手法には、こうした限界がありますね。
ま、それはともかく、「父子兄弟引分上せ留らるゝ謀こそ怖しけれ」に続く「推松」帰洛の場面は次の通りです。(『新訂承久記』、p76以下)
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討手の輩、五月廿ニ日方々へ向ふ。同廿七日、院宣御使推松を辛ふ被戒〔いましめ〕て、人に被預しを、権大夫の前に召出して、「汝〔なんぢ〕帰参して申さんずる様は、『義時昔より君の御為に忠義有て無不義。然るを讒奏する者候て、勅勘の身と罷〔まかり〕成候上は、兎角〔とかく〕申に不及。軍御好なれば、舎弟時房、子にて候泰時・朝時、是等を始めて、東海道十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎、十九万騎を進〔まゐ〕らせ候。是等に軍能〔よく〕させて御見物可有候。猶〔なほ〕不飽足思食〔おぼしめし〕候ば、三郎重時・四郎政村、是等を先として、廿万騎を相具して、義時も急〔いそぎ〕参らんとするにて候』と申せ」とて、被追出ぬ。
推松、院宣の御使とて関東へ下りなば、大名共に被賞翫て、馬鞍被引、徳付て上らんとこそ思ひしに、徳迄は無く、係る辛き目に逢つる事の悲しさよ、去共〔されども〕命の生たるぞ不思議なると思て、泣々上りけるが、抑〔そもそも〕、我が首は本の如く付たるやらん、現〔げに〕我は元の身にて行くやらん、現〔うつ〕つ共不覚して、常は首を探り足を探り、夢路を行心地をしけれ共、一両日過て社〔こそ〕、夜の明る心地して、真〔まこと〕に首も手足も無恙〔つつがなかり〕けり(と)不思議に覚へて、うかりし鎌倉怖敷〔おそろしく〕、いとゞ後ろに遠ざからんと、夜を日に継で急上りける程に、五月廿七日の午刻に鎌倉を出て、六月一日の午刻に都、賀陽院殿へぞ走り著。
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慈光寺本との比較は次の投稿で行いますが、全体的に慈光寺本よりはあっさりした記述ですね。