学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その7)

2023-01-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』によれば、承久三年(1221)七月十日に菊河宿(現在の島田市〔旧榛原郡金谷町〕菊川)で漢詩を作り、十三日に黄瀬川宿(現在の沼津市大岡)で和歌を詠んだ藤原(中御門)宗行は、十四日に「藍沢原」で処刑されます。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』の今野慶信氏の訳を引用すると、

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十四日、丙申。藍沢原で、黄門(藤原)宗行はとうとう白刃を逃れることが出来なかったという。年は四十七歳。最後まで(法華経の)読誦を決して怠らなかったという。
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ということで(p143)、宗行は菊川宿で漢詩を作ってから四日目に「藍沢原」で処刑されています。
さて、私は『海道記』にしつこくこだわっていますが、これは慈光寺本の藤原(中御門)宗行と藤原(葉室)光親の記述に非常に奇妙な点があるので、それがいかに奇妙かを明確にするためです。
即ち、慈光寺本では、

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 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル
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という具合いに、宗行と光親の処刑についての記事の分量は極めて僅かです。
そして、実際には「藍沢原」で処刑された宗行が菊川宿で処刑されたことになっており、「加古坂」(籠坂峠)で処刑された(『吾妻鏡』承久三年七月十二日条)光親は「駿河国浮島原」で処刑されたことになっています。
更に、光親が詠んだとされる歌は、承久の乱の僅か二年後に成立した『海道記』によれば宗行の歌です。
慈光寺本のこれらの度重なる誤謬はいったい何を意味しているのか。
まあ、これらの誤謬が意図的なものかどうかはともかくとして、慈光寺本の作者が宗行や光親の運命には何の興味もなく、適当に聞きかじったことを適当に纏めただけであることは明らかだと思います。
ところで、『海道記』における宗行・光親への言及の分量は大変なもので、(その5)で引用した菊河宿の場面は新日本古典文学大系本で24行、黄瀬川宿の場面は同じく18行、合計45行となりますが、黄瀬川宿の場面に連続して、宗行が処刑された「藍沢原」での感懐を述べる叙述が34行もあります。
少しずつ紹介してみると、まず、『海道記』作者は黄瀬川宿から北上し、足柄峠に向かいますが、このルートに広がっているのが「藍沢原」です。

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十五日、木瀬川ヲ立ツ。遇沢〔あひざは〕ト云〔いふ〕野原ヲ過〔すぐ〕。此野何里トモ知ズ遥々ト行バ、納言〔なうごん〕ハ、コゝニテハヤ暇〔いとま〕ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作〔しよさ〕アリ今シバシト乞請〔こひうけ〕ラレケレバ、猶遥ニ過行〔すぎゆき〕ケン、実〔まこと〕ニ羊〔ひつじ〕ノ歩〔あゆみ〕ニ異ラナズ。心ユキタルアリキナンリトモ、波ノ音松ノ風、カゝル旅ノ空ハイカゞ物哀〔ものあはれ〕ナルベキニ、况〔いはむ〕ヤ馬嵬〔ばくわい〕ノ路ニ出テ、牛頭〔ごづ〕ノ境〔さかひ〕ニ帰ラントスル涙ノ底ニモ、都ニ思ヲク人々ヤ心ニカゝリテ、有〔あり〕ヤナシヤノコトノハダニモ、今一タビキカマホシカリケン。サレドモ澄田川ニモアラネバ、事トフ鳥ノ便〔たより〕ダニナクテ、此原ニテ永ク日ノ光ニ別〔わかれ〕、冥〔くら〕キ道ニ立カクレニケリ。

 都ヲバイカニ花人〔はなびと〕春タエテ東〔あづま〕ノ秋ノ木葉〔このは〕トハチル
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宗行が処刑された具体的な場所は『海道記』でも特定はされていませんが、東名高速御殿場ICの近くには「藍澤五卿神社」があり、ここが宗行の処刑地との伝承があるようですね。

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「まちなかパワースポット八箇所めぐり」(御殿場市公式サイト内)

藍澤五卿神社(あいざわごきょうじんじゃ)
鎌倉幕府の北条氏により執権政治が行われていた承久3年(1221)、後鳥羽上皇は政権を朝廷に取り戻そうと倒幕計画を進めた。これを知った幕府が直ちに兵を挙げ京を攻め落としたのが「承久の乱」である。首謀者である上皇は隠岐島へ流され、主だった上皇方の公卿や御家人を含む武士達が粛清された。藤原宗行は捕えられた5人の公家の内の1人で、京より鎌倉に送られる途中、鮎沢で最期を遂げたと「吾妻鏡」に記されている。
宗行は上皇の信任厚く、上皇に中国の帝王学の書「貞観政要」を進講するなど、学識深く文学に秀で多くの詩歌を残しており、地元の人々は藍澤神社を創建し祭ることとした。現在では、他の4人の公家、藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能を合わせて藍澤五卿神社として祭っている。
宗行卿の墓、五卿慰霊塔のほか、浩宮殿下がお立ち寄りになられたことを記念する記念樹が植栽されている。

https://www.city.gotemba.lg.jp/appeal/appeal-1/384.html

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一次史料の『葉黄記』が二次史料の『承久記』に「汚染」された可能性について

2023-01-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

1月25日の投稿「『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その2)」に、「愛読者」氏より、

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うーん。定嗣が所持した光親の日記に、承久の乱の時期の部分があったかどうかはわかりませんが、あった可能性は否定できませんし、後嵯峨院や定嗣、「或人」みんなが、『承久記』を読んでいたという憶測よりは、少なくとも蓋然性は高いと思われます。あと『定家本公卿補任』の存在も忘れてはいけないと思いました。
『承久記』の成立年代や著者がはっきりと確定されていない上、流布状況がどの程度だったか、説得的な解明がなされていないので、後嵯峨院や定嗣、あるいは「或人」がこれを読んだというのは、あくまでも憶測の域にとどまるでしょう。ここの仮説を補強することが望ましいですね。問題の性格を考えますと、仮説を示すのは悪くないですが、これを裏付ける確かな材料なり、説得的な説明が欲しいのです。手続き上、「小役人」的な作業を積み重ねないと。でも考えたら、研究者の書く論文じゃなくてブログなので、そんなことを求めるのが野暮かもしれませんが。
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というコメントをもらい、私の方は、

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西田友広氏の書評は読まれましたか。
西田氏は「著者も論じているように、葉室光親が、義時追討の官宣旨の発給を蔵人頭─太政官機構へと命じる後鳥羽院の院宣を作成したことは藤原定家本『公卿補任』の記述から証明されたと評者も考える。しかし、同じく光親が奉者となり東国の有力御家人に義時追討を命じたとされる、慈光寺本『承久記』が引用する院宣(以下、慈光寺本院宣とする)については、なお慎重な検討が必要と思われる」とのことで、「慎重な検討」の結果、西田氏は創作説ですね。
私は古文書学的素養がないので、最初は西田氏の見解がよく分らなかったのですが、呉座勇一氏が西田説に賛成されているので、呉座氏の見解も踏まえて再考した結果、今は西田説で良いと考えています。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb541a7acb9f83e2f97658944be699e

と回答して、対応待ちの状態です。
少し補足すると、私も別に「後嵯峨院や定嗣、あるいは「或人」」全員が『承久記』を隅から隅まで熟読していた、と言っている訳ではありません。
1月26日の投稿、「『葉黄記』寛元四年三月十五日条の「或人」のことなど。」で、

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私としては、流布本も慈光寺本も明らかに一定の読者を想定しており、その内容は間違いなく面白いですから、「或人」や後嵯峨院が直接・間接に『承久記』から光親の「院宣」発給の話を知ったと推定することは充分合理的だと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2d39376be5361026cada799b379ceb7

と書いたように、特に後嵯峨院の場合は、近臣との会話の中で間接的に聞いた程度のことだろうと思います。
天皇・上皇が近臣から情報を得ていた例はいくらでも挙げられるでしょうが、たまたま私が去年、少し検討した「善空事件」の場合、『実躬卿記』正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条によれば、五月二十九日、正親町三条実躬は「家君」(父親の公貫)と一緒に嵯峨殿に行ったところ、亀山法皇の御前に「帥」(中御門経任)・高倉茂通・藤原宗親・藤原宗氏・良珍法眼が伺候しており、公貫・実躬父子もその場に加わったところ、善空上人に関する話題となります。

善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3a378b3f45cafb7dcd0d576f747f963
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/431e63846f34b0f5d9b75cd0d27215df
坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7d295ec22dffdd32c01dbd66fc7f53e2

正応四年(1291)の時点で亀山院は「治天の君」ではありませんが、大覚寺統の指導者ですから政治・社会の動向には当然に関心があり、近臣を通じて様々な情報を得るように努めていたでしょうね。
そして、それは寛元四年(1246)の後嵯峨院も同様だったと思います。
後嵯峨院の周辺で、世間では『承久記』という本が話題になっていて、そこには葉室光親が義時追討の「院宣」を発給したと書いてある、程度の話であっても、私の仮説は成り立ちます。
それと、私としては、一次史料が二次史料に「汚染」されている可能性について、誰かから反応していただけると有難かったのですが、今のところ、そちらには関心を持ってもらえなかったようです。
長村氏は慈光寺本『承久記』と定家本『公卿補任』、そして『葉黄記』寛元四年三月十五日条が別個独立の史料だということを当然の前提とされていますが、慈光寺本『承久記』の成立時期を考えれば、一次史料として信頼性が高いと思われている『葉黄記』が二次史料の『承久記』に「汚染」されている可能性は排除できません。
そして、今まであまり議論されていないようですが、私は『吾妻鏡』も『承久記』に相当「汚染」されているのではないかと疑っていて、現在、その仮説を検証中です。

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