『吾妻鏡』によれば、承久三年(1221)七月十日に菊河宿(現在の島田市〔旧榛原郡金谷町〕菊川)で漢詩を作り、十三日に黄瀬川宿(現在の沼津市大岡)で和歌を詠んだ藤原(中御門)宗行は、十四日に「藍沢原」で処刑されます。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』の今野慶信氏の訳を引用すると、
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十四日、丙申。藍沢原で、黄門(藤原)宗行はとうとう白刃を逃れることが出来なかったという。年は四十七歳。最後まで(法華経の)読誦を決して怠らなかったという。
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ということで(p143)、宗行は菊川宿で漢詩を作ってから四日目に「藍沢原」で処刑されています。
さて、私は『海道記』にしつこくこだわっていますが、これは慈光寺本の藤原(中御門)宗行と藤原(葉室)光親の記述に非常に奇妙な点があるので、それがいかに奇妙かを明確にするためです。
即ち、慈光寺本では、
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中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル
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という具合いに、宗行と光親の処刑についての記事の分量は極めて僅かです。
そして、実際には「藍沢原」で処刑された宗行が菊川宿で処刑されたことになっており、「加古坂」(籠坂峠)で処刑された(『吾妻鏡』承久三年七月十二日条)光親は「駿河国浮島原」で処刑されたことになっています。
更に、光親が詠んだとされる歌は、承久の乱の僅か二年後に成立した『海道記』によれば宗行の歌です。
慈光寺本のこれらの度重なる誤謬はいったい何を意味しているのか。
まあ、これらの誤謬が意図的なものかどうかはともかくとして、慈光寺本の作者が宗行や光親の運命には何の興味もなく、適当に聞きかじったことを適当に纏めただけであることは明らかだと思います。
ところで、『海道記』における宗行・光親への言及の分量は大変なもので、(その5)で引用した菊河宿の場面は新日本古典文学大系本で24行、黄瀬川宿の場面は同じく18行、合計45行となりますが、黄瀬川宿の場面に連続して、宗行が処刑された「藍沢原」での感懐を述べる叙述が34行もあります。
少しずつ紹介してみると、まず、『海道記』作者は黄瀬川宿から北上し、足柄峠に向かいますが、このルートに広がっているのが「藍沢原」です。
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十五日、木瀬川ヲ立ツ。遇沢〔あひざは〕ト云〔いふ〕野原ヲ過〔すぐ〕。此野何里トモ知ズ遥々ト行バ、納言〔なうごん〕ハ、コゝニテハヤ暇〔いとま〕ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作〔しよさ〕アリ今シバシト乞請〔こひうけ〕ラレケレバ、猶遥ニ過行〔すぎゆき〕ケン、実〔まこと〕ニ羊〔ひつじ〕ノ歩〔あゆみ〕ニ異ラナズ。心ユキタルアリキナンリトモ、波ノ音松ノ風、カゝル旅ノ空ハイカゞ物哀〔ものあはれ〕ナルベキニ、况〔いはむ〕ヤ馬嵬〔ばくわい〕ノ路ニ出テ、牛頭〔ごづ〕ノ境〔さかひ〕ニ帰ラントスル涙ノ底ニモ、都ニ思ヲク人々ヤ心ニカゝリテ、有〔あり〕ヤナシヤノコトノハダニモ、今一タビキカマホシカリケン。サレドモ澄田川ニモアラネバ、事トフ鳥ノ便〔たより〕ダニナクテ、此原ニテ永ク日ノ光ニ別〔わかれ〕、冥〔くら〕キ道ニ立カクレニケリ。
都ヲバイカニ花人〔はなびと〕春タエテ東〔あづま〕ノ秋ノ木葉〔このは〕トハチル
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宗行が処刑された具体的な場所は『海道記』でも特定はされていませんが、東名高速御殿場ICの近くには「藍澤五卿神社」があり、ここが宗行の処刑地との伝承があるようですね。
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「まちなかパワースポット八箇所めぐり」(御殿場市公式サイト内)
藍澤五卿神社(あいざわごきょうじんじゃ)
鎌倉幕府の北条氏により執権政治が行われていた承久3年(1221)、後鳥羽上皇は政権を朝廷に取り戻そうと倒幕計画を進めた。これを知った幕府が直ちに兵を挙げ京を攻め落としたのが「承久の乱」である。首謀者である上皇は隠岐島へ流され、主だった上皇方の公卿や御家人を含む武士達が粛清された。藤原宗行は捕えられた5人の公家の内の1人で、京より鎌倉に送られる途中、鮎沢で最期を遂げたと「吾妻鏡」に記されている。
宗行は上皇の信任厚く、上皇に中国の帝王学の書「貞観政要」を進講するなど、学識深く文学に秀で多くの詩歌を残しており、地元の人々は藍澤神社を創建し祭ることとした。現在では、他の4人の公家、藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能を合わせて藍澤五卿神社として祭っている。
宗行卿の墓、五卿慰霊塔のほか、浩宮殿下がお立ち寄りになられたことを記念する記念樹が植栽されている。