学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その8)

2023-01-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

長々と『文机談』に寄り道してしまいましたが、杉山第一論文に戻って、

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このような範継を知っている作者が「冥加マシマス侍従殿」と言うのは当然であった。ところが文机談は引続き
  灌頂もいまたなくて左馬頭はかくれ給にき
と語る。彼は若くして死んだのである。その時期は何時か、この本の成立の下限を決定的に示すことになるであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c12e6318b064368bc561b043a5f65685

の続きです。(p77)

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 東京大学史料編纂所の辻彦三郎氏の御教示を得て、東山御文庫の兵範記紙背文書に範継の死が語られていることを知った。関係文書は三通ある。前後不明の書状に
  典厩事無病強力之人 閻浮提之栖守と見給候し□ あやにくに短命
前を欠くものに、
  連々吉□とも候□□□人となり候らんするやらむと覚候つる□あ
  きれて覚候 天性以外信者奉信仰南山候き 最後斗数にて候ける
   宿縁あはれに候上 下向無為無事炎天下いささかも無煩候けり
   九日帰洛 其後連日参所々なとして候けるほとに 十四日より
  平臥候云々 先任左馬頭 次安嘉門院御勘当御免除 即返給御領
  不慮一階超越舎兄 遂令命終 一期之栄華不幾 返々□覚(中略)
  哀傷無極候 以此旨可令申入給候
   隆継恐惶謹言               隆継
 隆継についてはわからないが、範継の上に吉事が重なっていたのに急死してしまったことを痛み、高野山に参詣したこと、暑い季節だったことなどがわかる。左馬頭に任官したことを裏付け、安嘉門院との関係を示している。承久兵乱後、幕府は院宮の御領を一旦没収して、改めて後高倉院に献じた。院の皇女として広大な領を譲られた安嘉門院は、その中で範茂に関わる所領を、後高倉院の乳母の孫で北白川院の後援のある範継に返されたのであろう。「一期の栄華」というから、範茂生前の繫栄を思えば、相当大きな所領を返給されたと思われる。舎兄は範有で、承久に右少将で敵将の一人とみなされて追捕され、後母方の後援もないまま零落したので、範継死亡当時には兄を越えていたのであろう。次に後を欠く書状に、
  仁治のしるしに陰雲常覆候、あはれ今すこし延応をと□ 被追散
  候はてと覚候、左馬頭範継朝臣 去九日自南山還向 自十四日風
  病之由承候し程に ひし々々と増気 種々祈療候けれども
とあるので、範継の死が延応二年(七月改元で仁治元年)の夏であったことがわかる。
 以上の考証に於いて誤りがなければ、慈光寺本は仁治元年(1240)夏までには成立していなければならない。その成立の時期は寛喜二年(1230)─仁治元年(1240)の十年間と推定出来る。
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「隆継」が誰かが気になりますが、「継」は「範継」の「継」を受けていそうです。
また、「隆」は四条家の通字なので、妻の関係から範継を支援していたらしい隆親の周辺の人物の可能性もありそうですが、ちょっと分かりません。
ま、そのような多少の問題もありますが、範継の死に関係する文書が三つもあり、特に三番目の書状に「仁治のしるしに陰雲常覆候、あはれ今すこし延応をと」あるのは決定的で、「以上の考証に於いて誤り」はなく、「範継の死が延応二年(七月改元で仁治元年)の夏であったこと」は確実ですね。
このように、慈光寺本『承久記』の成立時期に関する杉山説は説得的で、私も賛同しますが、では、第三節に入って、「他書との交渉」に関する杉山説はどうか。
正直、こちらは杉山氏の問題意識自体が古くなってしまっているように思われるのですが、開拓者である杉山氏に敬意を表して、1970年当時の杉山氏の発想を少し見ておきたいと思います。(p78)

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 (三) 他書との交渉─四部合戦状本として─

 慈光寺本が世に出た頃は、初期軍記物語が続々現われ、平家物語も六巻ものは流布して増補されこの本も時流に孤立した物語ではなく、当時の文飾文躰の流行にそったものであったろう。「平範記紙背文書」によれば、範継の友人たちは治承物語、畠山物語などを互いに借覧し批評を交わしているが、今物語の四帖について「誠存外詞つかひとも相交候歟」と言って、王朝風の文脈が違和感を与えたことを述べている。慈光寺本については何らふれていないから、推定の域を出ないが、彼らが平常見且期待していた物語の様式は説話風或いは軍記風のもので、慈光寺本はそのサンプルになるのではないだろうか。「平家勘文録」に「四部の合戦状、或は義理を悟り、或は難字を知り、或は序題をききて道理をわきまへ、或は死亡を聞て無常をしる」慈光寺本はこの序題にあたる部分に杜撰な史実をもって「十二ヶ度の国王兵乱」の歴史を連ねるが、「同紙背文書」の治承物語六局の評らしい書簡に、
  六局跪返給候了  謬説□誠雖信受候、就中日本記事ハ皆以仰事候
とあって、治承物語も序題に歴史を回顧する不充分な記述を持つていたと考えられる。また物語が歴史事実の再現であることを望むから「謬説□誠雖信受」となるので、既に王朝文学の虚構の世界を経験している彼らが今の物語に求めているのは、事実を歴史的に述べながら、興味深い話題には立ち止まってゆっくり語りかけるような文芸であったのであろう。信太周氏が説かれているように、四部合戦状本平家は、歴史事実に密着し、天台浄土教の影響があることを確かめられるが、慈光寺本もその通りであって、浄土宗的な念仏は後の承久記には現れるが、この本には見られない。当時の説話の書き手たちが、聞き得たり読み覚えたりしたことを書留めて「皆是虚吹の不言にあらす」とした態度と同様に、厳密な考証をすれば事実とは違っていても、書き手自身は事実と信じ文学的構成のために日時事柄を変えるようなことは意図しなかったに相違ない。
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うーむ。
私には、例えば慈光寺本の藤原秀康と三浦胤義の密談エピソードなど、とても「書き手自身は事実と信じ文学的構成のために日時事柄を変えるようなことは意図しなかった」とは思えません。
三浦胤義が大将格で後鳥羽方に付くに際しては、後鳥羽側近の藤原秀康との交渉は当然あったでしょうし、酒を酌み交わしての密談もあったかもしれませんが、その密談の内容は、録音機でも用意しておかなければ再現できそうもないほど詳細なもので、これを誰がどのようにして知ったのか。
当事者二人を含め、密談に関与した人々の大半は「合戦張本」として承久の乱の敗北後に殺されてしまったでしょうから、1230年代に証言を得ることは不可能なはずです。
ということは、この密談の内容は、慈光寺本作者が僅かに聞きかじった噂話を素材のパン生地とし、自分の文学的才能をイースト菌として巨大に膨らませ、焼き上げたパンのようなものと考えるべきですね。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dddf5d1ff155e2007a1f34eb2458d38f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3524c6fda5cab1bff97581a0c9edfee4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cfc6621dd621c55e9cac74188151569
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

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慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その7)

2023-01-09 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『文机談』は文机房隆円が著した琵琶の歴史物語で、岩佐美代子氏はこの作品の目的について、隆円が自分の師匠の藤原孝時こそ琵琶の西流の正統であることを訴えようとしたため、とされています。
成立は文永九年(1272)頃と考えるのが一般的です。
さて、(その6)で紹介した「六条宮の姫宮で」云々は、原文では、

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六条宮のひめ宮、御母儀は御息所と申す、久我どのゝ御女也。これへもまいり給ふ。又一条大納言公持とてもおはしましき。又範茂ときこえ給ひしさい将の御子にて、左馬頭範継とてをはしき。
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となっていますが(244以下)、岩佐訳には何故か「又一条大納言公持とてもおはしましき」に対応する部分が存在せず、緻密な岩佐氏には珍しい単純ミスのようですね。
ま、それはともかく、「六条宮」は後鳥羽院皇子の雅成親王(1200-50)で、「御息所」(雅成親王妃)が「久我どのゝ御女」(久我通光の娘)であり、「六条宮のひめ宮」はその所生です。
ということは、「久我どのゝ御女」は後深草院二条の父・中院雅忠の姉妹であり、「六条宮のひめ宮」は二条の従姉となりますね。
また、「鎌倉で三浦党の頭である、駿河守義村という人の家来で」云々は、原文では、

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 かまくらに、みうらのかしらにて、するがの守よしむらと申しし人のあたりに、大学の民部と申しし物かきは、もと久我殿に候ひけるひと也。宝治のみだれより後は出家して寺に入りて、えんみやう房といはれ侍りし人のむすめ、たつみの局とてものならひ侍りき。
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となっていて(p245以下)、もともと久我家に伺候していた「大学の民部」は三浦一族の棟梁である三浦義村に右筆として仕えていたが、「宝治のみだれ」(宝治合戦、1247)の後、出家して寺に入り円明房と呼ばれていて、この人の娘の「たつみの局」が尾張内侍(蓮寿)の弟子であった、という関係ですね。
この後、「たつみの局」の名前の由来がずいぶん詳しく書かれています。
ついで「さてこの内侍の局が、父孝道から直接伝えられた琵琶があります」云々は、原文では、

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 さてこの内侍局、父のてよりつたへ給ふ比巴あり。くつ丸とぞいひける。孝道、細工せらるゝ度ごとにとりをける木のきれにてこれをつくる比巴也。この比巴をびたゞしくなりければ、尼伝えと…とられにけり。これも出家の時戒のふせにせられけるを、二尊院の上人のてより範継伝へとられにけり。雙紙譜の二帖ありしもこひとられにき。範藤ときこえ給ふはこのあとやらん。灌頂もいまだなくて、左馬頭はかくれ給ひにき。母方は山かの中納言の局とて、門わきの中納言ときこえ給ひし平氏の御むすめ也。範藤は左馬頭よりも所作などはしたなく聞え給ふ。御賀にも大鼓うたるべしときこえ給ひき。ありがたくこそ侍れ。このながれ、いまは聞へ侍らず。
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となっていて(p246以下)、尾張内侍が父・孝道から継承した琵琶「くつ丸(久津丸)」のエピソードに、先に尾張内侍の弟子の一人として名前だけ出て来た「左馬頭範継」が再び登場します。
即ち、尾張内侍が軽率に出家した際に、「くつ丸」も布施として「二尊院の上人」に献上していたが、範継が「二尊院の上人」から取り戻し、併せて「雙紙譜の二帖」も取り戻した、ということで、この範継の息子が「範藤」ですね。
「左馬頭」(範継)は琵琶の勧請も経ずに死んでしまったが、その母は「山かの中納言の局」といって、「門わきの中納言」平教盛の娘であり、息子の範藤は父・範継より琵琶演奏の所作が立派だった、とのことで、「左馬頭はかくれ給ひにき」は本当にさりげなく出てきます。
この僅かな記述を手掛かりに、杉山氏は範継の没年を探り出して行かれますが、その手腕は見事ですね。
なお、『文机談』には久我家の人がけっこう登場するので、私は以前から注目していました。

金沢貞顕は何故歌を詠まなかったのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdf44c1adad198ffbd0569c6b63beadf
外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/96f0d4af0fbdfa17bb146cd1e0b3c649
『文机談』の思い出
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1961fe11e1337ab484e3b1416b229e8c

『増鏡』との関係でも『文机談』には興味深い記述があります。

「刑部卿の君」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1142af01bd5c7e08644f57dbf5f2558

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