学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その14)

2023-01-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本では政子の演説が先にあって、それを聞いていた「殿原」たちが「軍ノ僉議」のために「権太夫ガ侍」(義時邸の侍所)に移動した後、北条義時と三浦義村の対面の場面が出てきます。(岩波新日本古典文学大系、p326以下)

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 去程〔さるほど〕ニ、平判官〔へいはうぐわん〕ノ下人〔げにん〕モ、同〔おなじき〕十九日酉ノ時計〔ばかり〕ニ、駿河守ノ許ヘゾ付ニケル。弟ノ使見付〔みつけ〕テ、「何事ゾ」と問ハレケレバ、「御文候」トテ奉ル。開見〔ひらきみ〕テ云〔いは〕レケルハ、「恐シノ平九郎ガ、今年三年都ニヰテ、云ヲコセタル事ヨ。一年〔ひととせ〕、和田左衛門ガ起シタリシ謀反ニハ、遥ニ勝〔ま〕サリタリ。加様ノ事ハ二目〔ふため〕共見ジ」トテ、文カキ巻、平九郎ガ使ニ、「己計〔おのればかり〕カ」ト問レケレバ、使申ケルハ、「院ノ御下部〔おんしもべ〕押松、権大夫殿打ンズル宣旨持テ下リ候ツルガ、鎌倉ヘ入候トテ、放〔はなれ〕テ候」トゾ申ケル。駿河守、重テ云ハレケルハ、「関々ノキビシケレバ、返事ハセヌゾ。平九郎ニハ、サ聞ツト計〔ばかり〕云ヘヨ」トテ、弟ノ使ヲ上〔のぼせ〕ラル。
 駿河守ハ文巻持〔まきもち〕テ、大夫殿ヘ参リ、申サレケルハ、「平判官胤義ガ、今年三年京住〔きやうずみ〕シテ下〔くだし〕タル状、御覧ゼヨ。一年〔ひととせ〕、和田左衛門ガ謀反ノ時、和殿ニ義村ガ中媒〔ちうばい〕シタリトテ、余所〔よそ〕ノ誹謗ハ有シカドモ、若〔わかく〕ヨリ「互ニ変改〔へんがい〕アラジ」ト約束申テ候ヘバ、角〔かく〕モ申候ナリ。院下部押松、和殿討ンズル宣旨ヲ持テ下リケルガ、鎌倉入ニ放〔はなれ〕テ候ト申ツルゾ、此〔ここ〕ヨリ奥ノ大名・高家ハ、披露有ツル者ナラバ、和殿ト義村トヲ敵ト思ハヌ者ハヨモアラジ。奥ノ人共〔ひとども〕ニ披露セヌ先ニ、鎌倉中ニテ押松尋テ御覧ゼヨ、大夫殿」トゾ申サレケル。「可然〔しかるべし〕」トテ、鬼王〔きわう〕ノ如ナル使六人ヲ、六手ニ分テ尋ラル。壱岐ノ入道ノ宿所ヨリ、押松尋出シテ、天ニモ付ズ地ニモ付ズ、閻魔王ノ使ノ如シテ参リタリ。
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いったん、ここで切ります。
流布本では三浦義村は北条義時に対して非常に弱腰で、義時の「さては御辺の手に社〔こそ〕懸り進〔まゐ〕らせ候はんずらめ」という際どい冗談に怯えて、自分は今まで「一度も不忠の儀候はず」、今後も義時殿を絶対に裏切りません、という起請文を読み上げるような体たらくでしたが、慈光寺本での義村は堂々としていて、殆ど義時と対等のような振る舞いですね。
果たして、ここは慈光寺本の立派過ぎる義村を流布本(の原型)の作者が卑屈な人間に引きずり降ろして「造型」したのか、それとも流布本(の原型)の卑屈な義村を許せないと感じた慈光寺本の作者が、義村は義時と同格の存在だったのだぞ、と思って正しい義村像を「造型」したのか。
近時の三浦氏研究によれば、承久の乱当時の三浦義村の存在感は相当に大きいもので、北条義時と殆ど同格と考えられているようです。
高橋秀樹氏の『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)を見ると、三浦氏研究の第一人者である高橋氏は慈光寺本を全く疑っておられないようですが、それは慈光寺本の義村像が史実と一致するように見えるからかもしれません。
しかし、義村像が比較的正確であることは慈光寺本が「古態」であるかどうかとは別問題です。
また、仮に慈光寺本が「古態」であったとしても、「古態」だから史実を正確に反映している訳でもありません。
そこは、一般的にはより古い史料の方が信頼性が高い古文書・古記録の世界と、創作的要素が強い歴史物語の世界の大きな違いですね。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

ま、それはともかく、慈光寺本の続きをもう少し見て行きます。(p327以下)

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 大夫殿ハ、押松ガ持タル宣名奪取〔うばひとり〕テ披見〔ひけん〕シ玉フ。此等ノ次第伝聞〔つたへきき〕テ、馬ニ鞍ヲキ、キセナガ持〔もた〕セテ、権大夫殿ヘ馳参〔はせまゐ〕ル人々ハ数ヲ不知〔しらず〕。権大夫殿申サレケルハ、「義時ガ頸ヲバ、殿原ノ斬〔きる〕ベキナラバ、只今打〔うつ〕テ都ヘ上セテ、十善〔じふぜん〕ノ君ノ御見参〔げんざん〕ニ入サセ玉ヘ」。七条次郎兵衛、取〔とり〕アヘズ申ケルハ、「大夫殿、聞食〔きこしめ〕セ。昔ヨリシテ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデハ守ラント約束申シテ候ヘバ、大夫殿コソ大臣殿ヨ。大臣殿コソ大夫殿ヨ」。「ソレハ、今日ヨリ後ハ、四十八人ノ大名・高家、皆其儀ナラバ、宣旨ノ御請〔おんうけ〕イカゞ可有〔あるべき〕。各計〔おのおのはかり〕給ヘ」ト申サレケリ。面々並居〔ならびゐ〕テ、計出〔はかりいだ〕シタル事ゾナキ。
 時ニ駿河国淡河中務〔なかつかさ〕兼定申ケルハ、「勅答コソ、大概〔おほむね〕案出〔あんじいだ〕シテ候ヘ」。「如何ニ」ト人々問ハルレバ、「「十善ノ君、是ヤ此数〔このかず〕賦物〔くばりもの〕、一年ニ二度三度、献上面目〔めんぼく〕候覧〔らん〕。此上〔このうへ〕何ノ御不足アリテカ、加様ノ宣旨ハ下サレ候覧〔らん〕。二位ノ尼、遁世深山〔しんざんにとんせい〕ニテ流涙〔ながすなみだ〕不便〔ふびん〕ニ候間、依武士召候〔ぶしのめしさうらふによりて〕、山道〔さんだう〕・海道〔かいだう〕・北陸道〔ほくろくだう〕、自三ノ路大勢差進上〔さしまゐらせのぼせ〕候也。被召合西国武士〔さいこくぶしらをめしあはせられ〕、合戦ノ様、自御簾ノ隙〔みすのひまより〕可有叡覧〔えいらんあるべし〕」トカゝンハ如何ニ、殿原」トゾ申タル。武田六郎申ケルハ、「神妙〔しんべう〕也トヨ、中務殿。誰モ、カフコソ案ジツレ。御返事ノ書ニ、名ハ誰〔た〕ゾ」。進上判官代ト定メ、宣旨ノ勅答委〔くはし〕ク書テ、押松ニコソタビタリケレ。大夫殿申サレケルハ、「押松ヲ暫〔しばし〕上〔のぼ〕セズシテ、勢ノ程ヲ見セテ上セバヤ。当時〔たうじ〕上セツル物ナラバ、宇津ノ山ヨリアナタノ勢ハ、都ノ方人〔かたうど〕ニ成ナンズ。押松ヲ、ニゲヌ程死ナヌ程ニシタゝメヨ」トゾ申サレケル。武田六郎、「サルベキ事」トテ、押松ヲバ右馬入道ンゾ預ラレケル。籠〔ろう〕ニ々〔こめ〕テ、ホダシヲ打〔うちて〕ゾ誡〔いまし〕メ置ク。
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「押松ガ持タル宣名」とは、長村祥知氏が本物と断ずる「武田・小笠原・小山左衛門・宇津宮入道・中間五郎・武蔵前司義氏・相模守時房・駿河守義村」の八人宛ての「院宣」のことですが、慈光寺本自体に「院宣」「宣名(宣命)」「宣旨」とあって、公式文書の分類については、作者は割と雑な人のような感じがしますね。

「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

そして、「軍ノ僉議」に義時邸に集まった人々は、今後の作戦を論ずる前に延々と、「宣旨ノ勅答」の文面を議論する訳ですが、私にはとてもこれが史実とは思えず、慈光寺本作者の「手紙マニア」的性格の現れではなかろうかと考えます。

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