渡邉論文は「これまでほとんど注意が払われてこなかった慈光寺本の和歌を取り上げて、物語における配置や表現上の特色を分析し、特に長歌が何を物語っているのかを考えて」(p78)みたものですが、結果的に慈光寺本の虚構性を完膚なきまでに明らかにしており、渡邉氏の意図を超えて歴史学に多大な影響を与える論考だと私は考えます。
しかし、渡邉氏もあくまで慈光寺本を「最古態本」とする立場です。
そして、渡邉氏が「一、はじめに」の「承久三年(一二二一)の乱の勃発から二〇年以内という成立時期から、三上皇配流という未曽有の結末をもたらした戦乱の記録として史料的価値を見出したり、乱直後の時代思潮を読み取ろうとする試みが近年は増えているように思われる」に付した注(1)の文献を見ると、これは長村祥知・野口実氏の論文です。
従って、渡邊氏が慈光寺本を「最古態本」と認識されるのは、国文学界の研究史を基礎としつつも、直接的には近時の中世史学界の動向を反映しているように思われます。
そこで、渡邉論文に即して細かな検討をする前に、本当に慈光寺本が「最古態本」なのかについて、改めて私の考え方を整理しておきたいと思います。
周知のように、中世史学界で慈光寺本『承久記』を重視すべきだという機運を主導したのは野口実氏ですが、野口氏編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)の巻頭を飾る野口氏の「序論 承久の乱の概要と評価」(初出は鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院の全て』所収「承久の乱」、新人物往来社、2009)には、
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承久の乱の史料
従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編集の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などの拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。
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とあります。(p8)
『吾妻鏡』のみならず、流布本『承久記』も「鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立」したものだ、というのが野口説ですが、本当にそうなのか。
私はかねてから承久の乱、特にその戦後処理の法的性格に関心があり、2021年の初秋に自分の考え方を暫定的にまとめてみたことがあります。
「朝幕関係が一変したとか、幕府が朝廷を従属下に置こうとしたというわけではない」(by 高橋典幸氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8fc879a7e15b24002c5aa3efd256d232
「乱の敗北を契機として、朝廷が「携武勇輩」を常備し得なくなったことは間違いない」(by 本郷和人氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/056502e6f1d4fb3458cd1f83c19f78c9
東京大学教授・高橋典幸氏に捧ぐ「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/715897be49d108c681eb0c462e2af4f8
承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c6e725c677b4e285b26985d706bf344c
まあ、私も若干屈折した人間なので、少し戯画的な書き方になっていますが、今でもここで書いたことは基本的に正しいと思っていて、今後、佐藤進一氏の「東国国家論」を、より論理的に、より洗練された形で再構成してみたいと思っています。
さて、私のように承久の乱の法的性格に特別な関心を抱いている人間にとって、流布本には極めて注目すべき記述があります。
それは上巻の冒頭、後鳥羽院を紹介した後に記された「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」という、承久の乱をあっさりと簡潔に総括した一文です。
これは、古代から現代に至るまで、天皇制が連綿と続いてきた日本には極めて珍しい「革命」思想なのではなかろうかと私は考えるのですが、そうした指摘をする研究者はあまりいないようです。