学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その11)

2023-01-11 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

杉山第三論文の続きです。(p66)

-------
(3)寿王の自害と火
 承久記の光季追討は前半の山場の一つでくわしい合戦記であるが、吾妻鏡は「大夫尉惟信・山城守廣綱・廷尉胤義、高重等、奉勅定、引率八百余騎官軍、襲光季高辻京極家合戦、縡火急而、光季并息男寿王冠者光綱自害、放火宿廬、余烟延至数十町、申尅、行幸于高陽院殿、同時、火起六角西洞院、欲及閑院皇居之間、所令避御也。」とだけ記す。光季の行動と冠者のけなげさが印象的に描かれて、承久記も亦物語の一つだと思わす場面で、承久記慈光寺本とも話は同様である。慈光寺本が歴史でなく軍記物語であったことは、光季と寿王の自害した火が数十町の火災となり、同時に起った火事で、皇居まで危うかったことを書かなかったことだろう。光季と寿王が炎の底に沈むことで火は充分効果的に用いられており、これから追討の宣旨を出そうとする院方に傷を与えてはならなかった。承久記もこれをそのままに京都の火事の描写はしなかった。
-------

うーむ。
「慈光寺本が歴史でなく軍記物語であったことは、光季と寿王の自害した火が数十町の火災となり、同時に起った火事で、皇居まで危うかったことを書かなかったことだろう」と「こと」が三回続く文章は日本語としても変ですし、私には何を言っているのかさっぱり分かりません。
『吾妻鏡』の引用の仕方も変で、出典は明記されていませんが、これは承久三年(1221)五月二十一日条ですね。
一条頼氏が京都から下ってきて、京都で何が起きたかを北条政子に報告した場面です。

-------
頼氏述委曲。自去月洛中不靜。人成恐怖之處。十四日晩景。召親廣入道。又被召籠右幕下父子。十五日朝。官軍競起。警衛高陽院殿門々。凡一千七百餘騎云々。内藏頭淸範着到之。次範茂卿爲御使。被奉迎新院。則御幸〔御布衣〕。與彼卿同車也。次土御門院。〔御烏帽子直垂。與彼卿二品御同車〕六條。冷泉等宮。各密々入御高陽院殿。同日。大夫尉惟信。山城守廣綱。廷尉胤義。高重等。奉 勅定。引率八百餘騎官軍。襲光季高辻京極家合戰。縡火急而。光季并息男壽王冠者光綱自害。放火宿廬。南風烈吹。餘烟延至數十町〔姉小路東洞院〕。申尅。行幸于高陽院殿。歩儀。攝政供奉。近衛將一兩人。公卿少々參。賢所同奉渡。同時。火起六角西洞院。欲及閑院皇居之間。所令避御也〔御讓位以後初度〕。又於高陽院殿。被行御修法。仁和寺宮道助并良快僧正以下奉仕之。以寢殿御所爲壇所云々。」今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

杉山氏の引用と比較すると、

-------
大夫尉惟信。山城守廣綱。廷尉胤義。高重等。奉 勅定。引率八百餘騎官軍。襲光季高辻京極家合戰。縡火急而。光季并息男壽王冠者光綱自害。放火宿廬。【南風烈吹。】餘烟延至數十町【〔姉小路東洞院〕】。申尅。行幸于高陽院殿。【歩儀。攝政供奉。近衛將一兩人。公卿少々參。賢所同奉渡。】同時。火起六角西洞院。欲及閑院皇居之間。所令避御也
-------

の【】の部分が省略されていますが、あまりに雑な引用であり、せめて「…」がほしいですね。
ま、それはともかく、伊賀光季襲撃に関する『吾妻鏡』のあっさりした記述と比較すると、慈光寺本と流布本における記述の分量は極めて多いですね。
慈光寺本の場合、岩波新日本古典文学大系では承久記上下全体が72ページ分(298-369p)なのに、伊賀光季関係の場面だけで12ページ分(312-323p)あり、全体の約17%です。
流布本でも、松林靖明校注の『新訂承久記』では、上下全体が102ページ分(46-147p)なのに、伊賀光季関係は11ページ分(59-69p)あり、その割合は慈光寺本ほどではありませんが、全体の約11%です。
まあ、承久の乱の一番最初の戦闘なのでそれなりに重要な事件でしょうが、承久の乱の全体像を知りたくて承久記を読み始めた読者にとっては、いつまでこの話が続くのかとうんざりする程の異常な分量で、特に慈光寺本のバランスの悪さが目立ちますね。
さて、杉山氏は「慈光寺本が歴史でなく軍記物語であったこと」が「光季と寿王の自害した火が数十町の火災となり、同時に起った火事で、皇居まで危うかったことを書かなかったこと」から分かるとし、その理由を「光季と寿王が炎の底に沈むことで火は充分効果的に用いられており、これから追討の宣旨を出そうとする院方に傷を与えてはならなかった」とされますが、この文章を理解できる人はいるのでしょうか。
追討の宣旨は、そうした公式文書に関与する人たちがいればいくらでも作成できるのであって、そもそも「皇居」(里内裏)という建物の存否とは関係ありませんから、「皇居」が焼けようがどうでもいいことです。
私には杉山氏が何を言いたいのか、さっぱり分かりません。
また、杉山氏は伊賀光季関係記事で「慈光寺本が歴史でなく軍記物語であった」という自明な事実に気づかれたようですが、では、杉山氏は「歴史」と「軍記物語」の区別をどのように判定されているのでしょうか。
藤原秀康と三浦胤義の密談のケースと同様、それは「迫真性」の有無なのでしょうか。
杉山氏が「迫真性」を感じたら、それは「歴史物語」ではなく、史実を記録した「歴史」となるのでしょうか。
そして、これは慈光寺本にしか登場しない北条義時が長江荘の地頭だったという話を信じたり、慈光寺本にしか存在しない「院宣」が本物だとする主張する全ての歴史研究者に問い質したい疑問です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする