学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その9)

2023-01-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『海道記』では、前回紹介した部分の少し後に、「高倉宰相中将」藤原範茂を悼む記述が新日本古典文学大系本で9行、「一条宰相中将」藤原信能を悼む記述が13行、更に補足的な記述が5行、合計27行ありますが、これは必要に応じて後で言及するつもりです。
さて、藤原(中御門)宗行関係の流布本『承久記』の記述は、

-------
 中御門前中納言宗行は、小山新左衛門尉具奉りて下りけるが、遠江の菊河に著給ふ。「爰をば何と云ふぞ」と問給へば、「菊河」と申。「前に流るゝ川の事か」。「さん候」と申ければ、硯乞出て、宿の柱に書付給ふ。
   昔南陽県之菊水、酌下流延齢
   今東海道之菊河、宿西岸失命
       昔、南陽県の菊水、下流を酌んで齢〔よはひ〕を延ぶ
       今、東海道の菊河、西岸に宿して命を失ふ
と書て過給へば、行合旅人、空き筆の跡を見つゝ、涙を流ぬは無けり。
次の日、浮嶋原〔うきしまがはら〕を通らせ給に、御供なる侍、「最後の御事、今日の夕部〔ゆふべ〕は過させ給はじ」と申ければ、打諾〔うなづ〕き、殊に心細計〔げ〕にて、木瀬河〔きせがわ〕の宿に御手水〔てうづ〕の為に立寄給ふ様にて、角〔かく〕ぞ書付給ける。
   今日迄は身を浮嶋が原に来て露の命の消んとぞ思ふ
其日の暮方にあふ澤にて被切給ぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/980e422d8b3b66cdab3b0f448eba8b3c

というものであって、「菊河」で漢詩を作った「次の日、浮嶋原を通」り、「木瀬川の宿」で和歌を詠んだ「其日の暮方」に「あふ澤」で処刑されています。
『吾妻鏡』では菊川が七月十日、藍沢原での処刑が十四日ですから、『吾妻鏡』で五日間の出来事が流布本では二日に圧縮されてしまっています。
菊河宿と藍沢原の距離を考えると、さすがに二日は無理な感じがしますが、その点を除けば流布本の記述は『海道記』、そして『吾妻鏡』と概ね一致していますね。
しかし、繰り返しになりますが、慈光寺本は

-------
 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639

という具合いに宗行と光親の処刑地が両方とも間違いで、かつ光親が詠んだとされる和歌は宗行の歌です。
慈光寺本の作者は、なぜこんなに誤謬を重ねたのか。
まあ、Yes/Noチャートを作れば様々な可能性は考えられますが、私としては

(1)宗行・光親にさほど興味がなく、『海道記』のような史料をきちんと調査しなかった。
(2)それなりに調査はして、『海道記』に描かれたような「感動ストーリー」も知っていたが、そういう話は好きではなかった。

のいずれかかなと思っています。
さて、宗行・光親の処刑に関しては、慈光寺本と『吾妻鏡』は無関係と考えてよさそうですが、流布本と『吾妻鏡』はどうか。
それを検討するため、流布本の光親処刑の場面を見ると、

-------
 又、按察使中納言光親卿は、武田五郎信光相具奉りて下けるが、富士のすそ加胡坂と云所に下し奉り、鎌倉よりの状に任せて、「最後の御事、只今候」と申ければ、兼てより被思儲けれ共、期に臨では、流石〔さすが〕今生の名残只今計と思ければ、何計〔いかばかり〕心細くも被思けん、「出家せばや」と有ば、「子細有間敷候」とて、僧一人尋出て、髪剃落し奉る。其後暫く暇乞、年比信じ給へる法華経一部取出し、一部迄は遅かりなんとて、一の巻を披き、真読畢て後、一向称名に住し候へば、他念も無りけり。太刀取は武田五郎郎等に内藤(と云者)也。居給所、山の岨〔そは〕にて片下りなる(に)、知識の僧の衣を脱で著せ奉る(間)、数多の僧共、後ろに立覆ひ、座敷も片下りに物打所悪く見へければ、太刀取後ろに近付て、「角ては御宮づかひ、悪く候ぬ」と申ければ、念仏を留め見返て、「汝可思し、幼少より君に仕へ、死罪・流罪をも多奉行せしぞかし。去共〔されども〕今可懸とは、争でか兼て可弁ふ、されば存知の旨に任せて申」と有ければ、太刀取も目昏〔くらみ〕て覚けれ共、「兎こそ能候へ」と申ければ、其言葉に随て、髪をも押除〔のけ〕、膝を立直し首を延、念仏の声不怠、殊勝に被切給ひにけり。見人感嘆せぬ者無けり。
-------

という具合いに非常に詳細です。(松林靖明校注『新訂承久記』、p131以下)
これと『吾妻鏡』承久三年七月十二日条を比較すると、処刑の場所は『吾妻鏡』が「加古坂」、流布本は「加胡坂」で一致していますが、

(1)『吾妻鏡』には「去月出家。法名西親」とあり、流布本では処刑当日に出家。
(2)『吾妻鏡』には鎌倉の使者が駿河国の車返の辺りで出会ったとある。
(3)『吾妻鏡』には、光親は後鳥羽に繰り返し諫言していたとある。

という具合いに『吾妻鏡』の独自情報も多く、絶対量としては流布本の情報の方が多いからといって、流布本が『吾妻鏡』に一方的に影響を与えたとは考えにくいですね。
ただ、野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」のように、流布本は『吾妻鏡』が1290年代以降に成立した後に成立しており、『吾妻鏡』から情報を得るとともに、別の独自情報を付加しているのだと考えると、光親処刑場面に関しては付加情報が膨大となるので、承久の乱が終わってから長期間が経過しているのに、そんな情報をどこから入手したのか、が問題となります。
まあ、それは永遠の謎でしょうが、私としては、流布本が『吾妻鏡』に遅れて成立したという前提が不自然なように感じられます。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その8)

2023-01-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『海道記』の続きです。(新日本古典体系本、p105以下)

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 ヤガテ按察使〔あんざつし〕 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同〔おなじ〕ク此〔この〕原ニテ末ノ露本ノ滴〔しづく〕トヲクレ先立ニケリ。其〔それ〕人常ノ生〔しやう〕ナシ、其家常ノ居〔きよ〕ナシ。此ハ世ノ習〔ならひ〕事ノ理〔ことわり〕ナリ。サレドモ期〔ご〕来テ生ヲ謝セバ、理ヲ演〔のべ〕テ忍ヌベシ。〔縁つきて家をわかれば、ならひを存〔そんし〕てなぐさみぬべし。〕別〔わかれ〕シ所ハ憂所ナリ、城〔みやこ〕ノ外ノ荒々〔くわうくわう〕タル野原ノ旅ノ道、没セシ時ハイマダシキ時ナリ、恨ヲ含シ悄々〔せうせう〕タル秋天〔しうてん〕ノ夕〔ゆふべ〕ノ雲。誠ニ時ノ災蘖〔さいげつ〕ノ遇〔たまさか〕ニ逢〔あへり〕ト云ドモ、是ハ是先世〔せんぜ〕ノ宿業〔しくごふ〕ノ酬〔むく〕ヘル酬〔むくひ〕也。抑〔そもそも〕彼人々ハ、官班〔くわんはん〕身ヲ餝〔かざ〕リ、名誉聞〔きき〕ヲアク。君恩飽〔あく〕マデウルホシテ降〔ふる〕雨ノ如シ、人望カタガタニ開ケテ盛ナル花ニ似タリキ。中に黄門都護〔くわうもんとご〕ハ、家ノ貫首〔くわんす〕トシテ一門ノ間ニ楗〔とぼそ〕ヲ排〔おしひら〕キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調〔ととのへ〕キ。誰カ思〔おもひ〕シ、天俄〔にはか〕ニ災〔わざはい〕ヲ降シテ天命ヲ滅シ、地忽〔たちまち〕ニ夭〔わざはい〕ヲアゲテ地望〔ちばう〕ヲ失ハントハ。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「中に黄門都護〔くわうもんとご〕ハ、家ノ貫首〔くわんす〕トシテ一門ノ間ニ楗〔とぼそ〕ヲ排〔おしひら〕キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調〔ととのへ〕キ」の「黄門」は中納言、「都護」は按察使の唐名ですから、これは光親のことですが、この表現は『吾妻鏡』七月十二日条の「此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也」に類似していますね。
ところで、『海道記』は藤原(中御門)宗行に加えて藤原(葉室)光親と源有雅も藍沢原で処刑されたとしていますが、これは『吾妻鏡』の記述とは異なります。
既に紹介済みの『吾妻鏡』承久三年七月十二日条には、光親は「於加古坂梟首訖」とあり、「加古坂」(籠坂峠)は静岡県駿東郡小山町と山梨県南都留郡山中湖村との県境です。
ここには光親を祭神とする加古坂神社が鎮座し、近くには光親の墓もあるそうですが、宗行の処刑地とされる御殿場市の藍澤五卿神社からは直線距離でも十数㎞離れています。

籠坂峠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E5%9D%82%E5%B3%A0

また、源有雅は、『朝日日本歴史人物事典』の本郷和人氏の解説によれば、

-------
没年:承久3.7.29(1221.8.18)
生年:安元2(1176)
鎌倉前期の公卿。父は参議雅賢。母は伊予守藤原信経の娘。文治5(1189)年に侍従,翌年右少将となる。建仁3(1203)年に権右中将,元久1(1204)年正四位下,承元2(1208)年蔵人頭。翌年参議に昇り,公卿に列する。有雅の家は代々雅楽をよくし,彼もまた神楽,和琴,催馬楽に巧みであった。後鳥羽上皇の側近くに仕え,権臣藤原範光の婿となることによって昇進の機会を得,建暦2(1212)年に検非違使別当,また権中納言となる。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇方の将として宇治に戦って敗退。出家して恭順の意を示すが六波羅に囚われ,鎌倉に送られる。途中甲斐国(山梨県)稲積庄において処刑された。

https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E6%9C%89%E9%9B%85-1112941

という人物ですが、『吾妻鏡』七月二十九日条には、

-------
入道二位兵衛督〔有雅。去月出家。年四十六〕爲小笠原次郎長淸之預。下着甲斐國。而依有聊因縁。可被救露命之由。申二品禪尼間。暫抑死罪。可相待彼左右之由。雖令懇望。長淸不及許容。於當國稻積庄小瀬村令誅畢。須臾可宥刑罰之旨。二品書状到來云々。楚忽之爲體。定有亡魂之恨者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、甲斐の「稲積庄小瀬村」で処刑されています。
北条政子と何らかの縁があったらしい有雅は、処刑は暫らく待ってほしいと懇願したにもかかわらず、小笠原長清がさっさと処刑してしまった後、政子から赦免を認める書状が届いた、とのことで、なかなかの悲劇ですね。
ま、それはともかく、「稲積庄小瀬村」は藍沢原からかけ離れていて、このあたりは『海道記』も不正確です。
ただ、十三日条の「若出於虎口。有亀毛命乎之由」云々から窺えるように、『吾妻鏡』の編者が『海道記』を参照しているのは明らかであって、他の史料も参照しながら、信頼できそうな部分を採っている、ということだろうと思います。
さて、『海道記』の続きです。

-------
哀哉〔あはれなるかな〕、入木〔じふぼく〕ノ鳥ノ跡ハ、千年ノ記念ニ残リ、帰泉〔くゐせん〕ノ霊魂ハ、九夜ノ夢ニマヨヒニキ。サレドモ善悪心ツヨクシテ、生死ハタゞ限アリト思ヘリキ。終ニ十念相続シテ他界ニウツリヌ。夏ノ終〔おはり〕秋ノ始〔はじめ〕、人酔〔ゑひ〕世濁〔にごり〕シ其間ノ妄念ハ任他〔サモアラバアレ〕、南無西方弥陀観音、其時ノ発心等閑〔なほざり〕ナラズハ来迎タノミアリ。是ヤ此人々ノ別〔わかれ〕シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起〔たち〕テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷〔さと〕トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナゝ。有為ノ堺トハ思ヘ共、憂カリシ世カナゝ。官位〔くわんゐ〕ハ春ノ夢、草ノ枕ニ永ク絶、栄楽ハ朝ノ露、苔ノ席〔むしろ〕ニ消ハテヌ。死シテ後ノ山路ハ隨ハヌ習〔ならひ〕ナレバ、後ルゝ恨モ如何セン。東路ニ独リ出テ、尤武者〔ケヤケキモノゝフ〕ニイザナハレ行ケン心ノ中コソ哀ナレ。彼冥吏〔みやうり〕呵責ノ庭ニ、独リ自業自得ノ断罪ニ舌ヲマキ、此妻息別離ノ跡ニ、各不意不慮ノ横死〔わうし〕ニ涙ヲカク。生テノ別レ死テノ悲ミ、二〔ふたつ〕ナガライカゞセン。真ヲ移シテモヨシナシ、一生幾〔いくばく〕カミン、魂ヲ訪〔とぶらひ〕テ足〔たる〕ベシ、二世〔にせ〕ノ契〔ちぎり〕ムナシカラジ。

 思ヘバナウカリシ世ニモアヒ沢ノ水ノ淡〔あわ〕トヤ人ノ消〔きえ〕ナン
-------

以上で『海道記』における宗行・光親・有雅関係記事、新日本古典文学大系本で24行(菊川宿)・18行(黄瀬川宿)・34行(藍沢原)、合計76行の全てを紹介しました。

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