私は「通行の承久記は、慈光寺本承久記と吾妻鏡を主材料としてつき合わせ、六代勝事記や平家物語その他を援用して出来たものと考えている」(p63)という杉山次子説に賛成できる点はひとつもありませんが、まずは杉山氏の発想の仕方を具体例に即して確認しておきたいと思います。
一覧表の続きからです。(p65以下)
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承久記には単独の記事は少く、吾妻鏡か慈光寺本と一致するものが非常に多い。同じ兵乱の記述であるから、同じ事件や人物が描かれるのは当然で、このような大まかな事項が一致したとしても引用関係は証明されないので、いくつかの事例に当って調べたい。表中の番号を参照していただきたい。
(一)慈光寺本と承久記のつながり
(1)─(5)は慈光寺本と承久記のつながりのはっきりしている事例である。慈光寺本は一般の承久記とは別系の異本という見方もあるが、私は承久記は、慈光寺本を祖として生れたものと思う。
(1)義時登場
慈光寺本は実朝の拝賀と刺殺のことは、ごく簡単にふれるだけで、義時の名はそれ迄の文中に現れていない。そこで実朝が失われると「爰ニ右京権太夫義時ノ朝臣思様、朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ一下天ヲ取ラン事誰カハ諍フベキ」と登場するのは意味がある。一方承久記は慈光寺本の序を捨てて、代りに実朝の拝賀に力を入れた為、実朝の側近にある義時は既に何回も登場している。ここで改めて「其比鎌倉に右京権太夫兼陸奥守平義時と言ふ人あり、上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が二男なり、権威重くして国中に仰がれ、政道正しうして王位を軽しめ奉らず」と紹介する。比較すると承久記の方は、北条政権の評価が定った後の作品であることは、北条氏に対する一般の好意的な見方が現われている点で明かである。義時紹介のあと慈光寺本が、義時の態度から院の不快が積り、院自身の行為も加わり、兵乱の原因となったと記すから、承久記もこのように正しい人物だったのに「然りと雖も計らざるに勅命に背き朝敵となる、其起を尋ぬれば」とやはり兵乱の原因を続ける。原因の前に義時の紹介をおいた慈光寺本は、序の次に主人公の紹介をする軍記物語の手法に従っているが、主人公として最初に後鳥羽院を紹介した承久記が、既に何度も登場している義時を、改めてここに紹介するのは、慈光寺本の書き様をそのままとり入れたためである。主人公の性格は変えながら、構成はそのままうけついだ例と見られよう。
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いったん、ここで切ります。
「慈光寺本の序」というのは、冒頭に「娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ、仏ハ世ニ出給フ事」云々と仏教関係の話が少しあって、その後、「人王ノ始ヲバ、神武天皇トゾ申シケル。葺不合尊ノ四郎ノ王子ニテゾマシマシケル。其ヨリシテ去ヌル承久三年マデハ、八十五代ノ御門ト承ル。其間ニ国王兵乱、今度マデ具シテ、已ニ十二ヶ度ニ成」以下、その十二回の兵乱を略述したもので、岩波新日本古典文学大系では合計5ページほどの分量です。
この部分は慈光寺本だけに存在し、他本には見られませんが、果たして「承久記は慈光寺本の序を捨て」たのか、それとも慈光寺本が他本にない部分を追加したのかは不明であり、杉山氏の書き方は論証不在のまま結論が先に出てしまっていますね。
また、「実朝の側近にある義時は既に何回も登場している」、「既に何度も登場している義時」とありますが、数えてみたところ、流布本では二回だけです。
それも、最初は実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での拝賀の場面で、「前駆廿人」の一人として十九番目に「右京権大夫義時」と名前が載っているだけで、こんなところで義時の紹介をする訳には行かないでしょう。
二番目は阿野時元の事件について、
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其比、駿河国に、河野次郎冠者と云ふ人有けり。故右大将の舎弟、阿野の禅師の次男也。手次能〔よき〕源氏なれば、是こそ鎌倉殿にも成給はんずらめと咍〔ののし〕りあへり。権大夫、此事伝聞て、「何条去〔さる〕事の可有」とて討手を遣はし、伊豆・駿河の勢を以て被攻けり。身に誤る事なけれ共、陳ずるに及ばねば、散々に戦ひて自害して失ぬ。
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とある場面で(松林靖明校注『新訂承久記』、現代思潮社、1982、p53)、まあ、確かに「権大夫」は多少唐突な感じはしますが、「其比鎌倉に右京権太夫兼陸奥守平義時と言ふ人あり」云々は直ぐ後に出て来るので(p54)、詳しい説明はそちらに譲っただけのようであり、「既に何度も登場している義時を、改めてここに紹介するのは、慈光寺本の書き様をそのままとり入れたためである」は余りに大袈裟過ぎる感じがします。
さて、続きです。(p66)
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(2)秀康胤義を誘う
乱張本の一人秀康が、院の命をうけて在京中の平判官胤義を謀反に誘う話で、吾妻鏡にはなく、慈光寺本も承久記も、胤義が妻の事で義時を恨んでいたことを述べる。そして院の召なら喜んで参ること、鎌倉の兄義村に手紙を出すことなど積極的に参加を表明し、院も胤義の話に喜ぶことなど、筋立てが全く同じである。慈光寺本の、三浦に胤義の九七五の三人の子があるが、兄義村に対して「権大夫の前でその子らの首を切って忠誠を示し、東軍の出陣の後に鎌倉で謀反をおっこせ」と文を書くという部分を承久記は欠いている。しかし胤義の子のことについては、承久記では乱後三浦で上の子を残し幼い子たちが切られた話を書き、十一九七五三の五人の子があったということになっている。慈光寺本の「胤義モ三人ノ子供ニヲクレテ候ハン、其替ニ、殿ト二人シテ、日本国ヲ知行セン」という言葉には、三浦で子たちの世話をしている老尼が、十一才の子を惜んで残し、幼い者を切らせたという話より、はるかに迫真性がある。
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うーむ。
杉山氏は「慈光寺本の「胤義モ三人ノ子供ニヲクレテ候ハン、其替ニ、殿ト二人シテ、日本国ヲ知行セン」という言葉」に「迫真性」を感じるそうですが、私は全く感じません。
「はるかに迫真性がある」は学問ではなく、読書感想文の世界で適切な表現ですね。
「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
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