学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その10)

2023-01-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は「通行の承久記は、慈光寺本承久記と吾妻鏡を主材料としてつき合わせ、六代勝事記や平家物語その他を援用して出来たものと考えている」(p63)という杉山次子説に賛成できる点はひとつもありませんが、まずは杉山氏の発想の仕方を具体例に即して確認しておきたいと思います。
一覧表の続きからです。(p65以下)

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 承久記には単独の記事は少く、吾妻鏡か慈光寺本と一致するものが非常に多い。同じ兵乱の記述であるから、同じ事件や人物が描かれるのは当然で、このような大まかな事項が一致したとしても引用関係は証明されないので、いくつかの事例に当って調べたい。表中の番号を参照していただきたい。

(一)慈光寺本と承久記のつながり

(1)─(5)は慈光寺本と承久記のつながりのはっきりしている事例である。慈光寺本は一般の承久記とは別系の異本という見方もあるが、私は承久記は、慈光寺本を祖として生れたものと思う。

(1)義時登場
 慈光寺本は実朝の拝賀と刺殺のことは、ごく簡単にふれるだけで、義時の名はそれ迄の文中に現れていない。そこで実朝が失われると「爰ニ右京権太夫義時ノ朝臣思様、朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ一下天ヲ取ラン事誰カハ諍フベキ」と登場するのは意味がある。一方承久記は慈光寺本の序を捨てて、代りに実朝の拝賀に力を入れた為、実朝の側近にある義時は既に何回も登場している。ここで改めて「其比鎌倉に右京権太夫兼陸奥守平義時と言ふ人あり、上野介直方に五代の孫、北条遠江守時政が二男なり、権威重くして国中に仰がれ、政道正しうして王位を軽しめ奉らず」と紹介する。比較すると承久記の方は、北条政権の評価が定った後の作品であることは、北条氏に対する一般の好意的な見方が現われている点で明かである。義時紹介のあと慈光寺本が、義時の態度から院の不快が積り、院自身の行為も加わり、兵乱の原因となったと記すから、承久記もこのように正しい人物だったのに「然りと雖も計らざるに勅命に背き朝敵となる、其起を尋ぬれば」とやはり兵乱の原因を続ける。原因の前に義時の紹介をおいた慈光寺本は、序の次に主人公の紹介をする軍記物語の手法に従っているが、主人公として最初に後鳥羽院を紹介した承久記が、既に何度も登場している義時を、改めてここに紹介するのは、慈光寺本の書き様をそのままとり入れたためである。主人公の性格は変えながら、構成はそのままうけついだ例と見られよう。
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いったん、ここで切ります。
「慈光寺本の序」というのは、冒頭に「娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ、仏ハ世ニ出給フ事」云々と仏教関係の話が少しあって、その後、「人王ノ始ヲバ、神武天皇トゾ申シケル。葺不合尊ノ四郎ノ王子ニテゾマシマシケル。其ヨリシテ去ヌル承久三年マデハ、八十五代ノ御門ト承ル。其間ニ国王兵乱、今度マデ具シテ、已ニ十二ヶ度ニ成」以下、その十二回の兵乱を略述したもので、岩波新日本古典文学大系では合計5ページほどの分量です。
この部分は慈光寺本だけに存在し、他本には見られませんが、果たして「承久記は慈光寺本の序を捨て」たのか、それとも慈光寺本が他本にない部分を追加したのかは不明であり、杉山氏の書き方は論証不在のまま結論が先に出てしまっていますね。
また、「実朝の側近にある義時は既に何回も登場している」、「既に何度も登場している義時」とありますが、数えてみたところ、流布本では二回だけです。
それも、最初は実朝が暗殺された鶴岡八幡宮での拝賀の場面で、「前駆廿人」の一人として十九番目に「右京権大夫義時」と名前が載っているだけで、こんなところで義時の紹介をする訳には行かないでしょう。
二番目は阿野時元の事件について、

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 其比、駿河国に、河野次郎冠者と云ふ人有けり。故右大将の舎弟、阿野の禅師の次男也。手次能〔よき〕源氏なれば、是こそ鎌倉殿にも成給はんずらめと咍〔ののし〕りあへり。権大夫、此事伝聞て、「何条去〔さる〕事の可有」とて討手を遣はし、伊豆・駿河の勢を以て被攻けり。身に誤る事なけれ共、陳ずるに及ばねば、散々に戦ひて自害して失ぬ。
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とある場面で(松林靖明校注『新訂承久記』、現代思潮社、1982、p53)、まあ、確かに「権大夫」は多少唐突な感じはしますが、「其比鎌倉に右京権太夫兼陸奥守平義時と言ふ人あり」云々は直ぐ後に出て来るので(p54)、詳しい説明はそちらに譲っただけのようであり、「既に何度も登場している義時を、改めてここに紹介するのは、慈光寺本の書き様をそのままとり入れたためである」は余りに大袈裟過ぎる感じがします。
さて、続きです。(p66)

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(2)秀康胤義を誘う
 乱張本の一人秀康が、院の命をうけて在京中の平判官胤義を謀反に誘う話で、吾妻鏡にはなく、慈光寺本も承久記も、胤義が妻の事で義時を恨んでいたことを述べる。そして院の召なら喜んで参ること、鎌倉の兄義村に手紙を出すことなど積極的に参加を表明し、院も胤義の話に喜ぶことなど、筋立てが全く同じである。慈光寺本の、三浦に胤義の九七五の三人の子があるが、兄義村に対して「権大夫の前でその子らの首を切って忠誠を示し、東軍の出陣の後に鎌倉で謀反をおっこせ」と文を書くという部分を承久記は欠いている。しかし胤義の子のことについては、承久記では乱後三浦で上の子を残し幼い子たちが切られた話を書き、十一九七五三の五人の子があったということになっている。慈光寺本の「胤義モ三人ノ子供ニヲクレテ候ハン、其替ニ、殿ト二人シテ、日本国ヲ知行セン」という言葉には、三浦で子たちの世話をしている老尼が、十一才の子を惜んで残し、幼い者を切らせたという話より、はるかに迫真性がある。
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うーむ。
杉山氏は「慈光寺本の「胤義モ三人ノ子供ニヲクレテ候ハン、其替ニ、殿ト二人シテ、日本国ヲ知行セン」という言葉」に「迫真性」を感じるそうですが、私は全く感じません。
「はるかに迫真性がある」は学問ではなく、読書感想文の世界で適切な表現ですね。

「慈光寺本は史学に益なし」とは言わないけれど。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dddf5d1ff155e2007a1f34eb2458d38f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3524c6fda5cab1bff97581a0c9edfee4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6cfc6621dd621c55e9cac74188151569
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/746522add010962a01b23f4fd4afbfa5

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慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その9)

2023-01-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

杉山第一論文は『平家物語』や『六代勝事記』との関係について論じた部分が残っていますが、ここは学説の進展があり、杉山論文の問題意識自体が些か古くなってしまっているので、省略します。
野口実氏が、

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さらに、杉山は「「 慈光寺本承久記」をめぐって─鎌倉初期中間層の心情をみる─」(『日本仏教』第三一二号、一九七一年)において、慈光寺本に三浦氏の記述が詳しいことに着目して作者圏を源実朝室の側近だった源仲兼周辺の一団に求め、また「承久記諸本と吾妻鏡」(『軍記と語り物』第一一号、一九七四年)では、慈光寺本は『吾妻鏡』とは無関係に、藤原将軍期に成立したと述べている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ac49db44731e38d2798af164b05c3c1

と要約されている杉山第二・第三論文のうち、私は第二論文は未読です。
国会図書館にないので入手の目途も立たず、先に第三論文を検討したいと思います。
この論文も、国会図書館で登録している方はリンク先で読めます。

https://dl.ndl.go.jp/pid/4413408

さて、この論文は、

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 〔序文〕
(一)慈光寺本と承久記のつながり
  (1)義時登場
  (2)秀康胤義を誘う
  (3)寿王の自害と火
  (4)押松帰洛
  (5)大井戸の川渡し
(二)吾妻鏡との関係
  (6)仲章批判
  (7)長衡幕府へ通報
  (8)泰時由比浜へ
  (9)出陣残留の交名
  (10)敬月法師の歌
  (11)本院四辻殿へ
(三)慈光寺本と吾妻鏡の記事
  (12)三寅下降
  (13)亀菊の所領 (14)仁科二郎(乱の原因)
  (15)京の飛脚
  (16)慈光寺本の欠落
  (17)諸卿切られ
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と構成されていますが、まずは杉山氏の問題意識を確認します。(p63以下)

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 承久軍物語と承久兵記について、それぞれ現行の流布本と前田本に吾妻鏡の記事を補ったものだということが知られているが、流布本と前田本は吾妻鏡と無関係だとされている。私は通行の承久記は、慈光寺本承久記と吾妻鏡を主材料としてつき合わせ、六代勝事記や平家物語その他を援用して出来たものと考えているので、事実関係を明かにしたい。流布本と前田本の関係については、両者の共通祖本があったであろうといわれているから、吾妻鏡との関連を見る場合、なるべく両者共通の記事をとり、両者の前後関係には立入らないこととする。(以下慈光寺本承久記を慈光寺本、流布本と前田本系を承久記と呼ぶ)
 承久記の構成は、乱の発端経過乱後の処理という一般の軍記と同じもので、事件や人物は慈光寺本の選択が踏襲され、吾妻鏡から多くの事実を取入れて敷衍したものであることは次の表によく現れている。
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いったん、ここで切ります。
杉山氏作成の「表」は大変参考になりますが、そのまま転記すると〇の位置が分かりにくくなるので、「慈光寺本」を(慈)、「承久記」(流布本と前田本系)を(承)、『吾妻鏡』鏡を(吾)とした上で、単独のものは「のみ」と付記しておきます。

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〇印 事項のあるもの /欠巻 流─流布本 前─前田本

 序      (慈)のみ
源平盛衰の概略 (慈)のみ
源家三代    (慈)・(承)
実朝拝賀    (慈)・(承)・(吾)
仲章批判(6)  (承)・(吾)
実氏の歌    (承)のみ
阿野冠者誅   (承)・(吾)
大内頼茂誅   (承)・(吾)
最勝四天王院の破却 (承)・(吾)
実朝の歌    (吾)のみ
公暁の姿
 特記なし   (吾)
 女装(増鏡)  前田本(承)
 僧形(愚管抄) 流布本(承)
義村との関係  (承)・(吾)
宮将軍奏請   (承)・(吾)
三寅下向(12) (慈)・(承)・(吾)
義時登場(1)  (慈)・(承)
兵乱の原因
 義時の野心  (慈)のみ
 院の行為   (慈)・(承)
 亀菊の所領(13)(慈)・(承)・(吾)
 仁科二郎(14)(承)のみ
秀康胤義を誘う(2) (慈)・(承)
公卿僉議    (慈)のみ
政子の夢想   (吾)のみ
卜占と卿二位  (慈)のみ
基通頼実の意見 (慈)のみ
公経の反対   (承)のみ
官軍召聚    (慈)・(承)・(吾)
光季の不参   (慈)・(承)・(吾)
長衡幕府へ通報(7)(承)・(吾)
光季の準備   (慈)・(承)
軍議防戦    (慈)・(承)
寿王の自害と火(3)(慈)・(承)・(吾)
義時追討の宣旨 (慈)・(承)・(吾)
京の飛脚(15) 
 光季の下人  (慈)・(吾)
 長衡の使   (吾)のみ
 押松     (慈)・(承)・(吾)
 義村の使い  (慈)・(承)・(吾)【※正しくは胤義の使い】
政子の演説   (慈)・(承)・(吾)
義時邸の軍議  (慈)・(承)・(吾)
泰時由比浜へ(8)(承)・(吾)
出陣残留の交名(9)(承)・(吾)
秀澄京への飛脚 (吾)のみ
押松帰洛(4) (慈)・(承)・(吾)
院宣の請文   (慈)・(承)・(吾)
官軍手分け   (慈)・(承)・(吾)
打田党の働き  (慈)・(承)・(吾)
遠江井介のこと (慈)のみ
越後願文山の軍 (承)・(吾)
大井戸の川渡し(5) (慈)・(承)・(吾)
蜂屋蔵人の奮戦 (慈)・(承)
神土頼経の降参 (慈)・(吾)
水鳥の羽音   (慈)のみ
翔左衛門の奮戦 (慈)のみ
山田重忠の奮戦 (慈)・(承)・(吾)
臆病秀澄    (慈)のみ
臆病秀康    (承)・(吾)
秀康らの帰洛  (慈)・(承)・(吾)
山門御幸    (慈)・(承)・(吾)
山門の反対   (承)・(吾)
還御      (慈)・(承)・(吾)
官軍宇治勢多へ (慈)・(承)・(吾)
遠矢       /  (承)・(吾)
橋合戦(15)   /  (承)・(吾)
宇治川の先陣争い /  (承)・(吾)
河渡り      /  (承)・(吾)
北陸の合戦    /  (承)・(吾)
胤義ら御所へ  (慈)・(承)・(吾)
追討撤回の院宣 (承)・(吾)
東寺合戦    (慈)・(承)・(吾)
胤義自害    (慈)・(承)・(吾)
重忠最后    (慈)・(承)・(吾)
六波羅入り   (慈)・(吾)
泰時関東へ注進 (慈)・(承)・(吾)
敬月法師の歌(10)(承)・(吾)
本院四辻殿へ(11)(慈)・(承)・(吾)
関東の事書   (慈)・(承)・(吾)
本院鳥羽殿へ  (慈)・(承)・(吾)
御出家・配流  (慈)・(承)・(吾)
院宮の配流   (慈)・(承)・(吾)
諸卿切られ(17)(慈)・(承)・(吾)
忠信の釈放   (慈)・(承)・(吾)
武士の処刑   (慈)・(承)・(吾)
勢多伽のこと  (慈)・(承)・(吾)
侍従のこと   (慈)のみ
胤義の子のこと (承)のみ
後堀河天皇即位 (慈)のみ
後高倉院院政  (慈)のみ
安嘉門院立后  (慈)のみ
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杉山次子氏と「お産の学校」

2023-01-10 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

国会図書館サイトで「杉山次子」を検索すると妊娠・出産関係の著書・論文を書かれている杉山次子氏がいて、私は慈光寺本『承久記』に関する論文を書かれている杉山次子氏とは同姓同名の別人だろうと思っていたのですが、コメント欄で同一人物だと教えてもらいました。
そこで、近くの公共図書館で杉山氏の名前で検索してみたら一冊だけ、杉山氏と堀江優子氏の共著『自然なお産を求めて─産む側からみた日本ラマーズ法小史』(勁草書房、1996)という本が出て来たので借りてみました。

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よりよいお産の提案としてラマーズ法の普及をめざしたお産の学校を開校して17年、産みの場でのさまざまな出会いと人権回復をめざすこの実践記録は、明日への道標となろう。

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b25091.html

奥付の「著者紹介」には、

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杉山次子(すぎやま・つぎこ)
1948年東京女子高等師範(現お茶の水女子大学)文科卒業。1954年東北大学文学部卒業。1959年市川房江の婦人問題ラジオ番組制作。1969年日本婦人有権者同盟新宿支部長。1972年医療をよくする市民の会に参加。1977年医療110番を実施、(財)社会医療研究所研究員。1979年「お産の学校」運営委員会代表世話人。
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とあり、女子高等師範は何歳で卒業するのか知りませんが、仮に20歳だとすれば1928年生まれとなりますから、1930年前後の生まれか、とした私の推定は一応当たっていましたね。
私は何となく杉山氏を国文学研究者と思い込んでいましたが、第一論文の謝辞に、

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 十五年間育児にかまけて勉学を怠った私に、つたない小論ながらまとめる機会をお与え下され、種々の御教導と御便宜を賜つた方々に厚く御礼を申し上げます。
 豊田武先生 松野純孝先生 辻彦三郎先生 飯倉晴武氏 山田昭全氏 村上光徳氏始め軍記物談話の皆さま お茶水大学研究室図書館の皆様

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74731ba1e28a52da0e9b5e99a7f95137

とあるので、東北大学文学部で豊田武氏に師事された歴史学研究者なのでしょうね。
「第1章 産む側の立場でお産の学校を開く」の「一 医療運動の中でお産の問題に突き当たる」には「私の出産体験」として、1952年に長男、1954年に次男を出産したとあり、出産について研究するきっかけとなったのは次男の「妊娠七ヵ月目に受けた結核の集団検診で肺結核が発見され」(p3)たことだそうです。
「妊娠中は安定していて症状の進行はないが、出産後に急激に悪くなる可能性があると診断され、それを避けるために何とかお産を楽にすませ、体力の消耗を防ぎたいと考えていた」(同)杉山氏は、陣痛に合わせて行う呼吸法を研究・実践し、

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 こんなにいい方法があるなら利用しない手はない。みんなにこの方法を教えてあげたいと、その時は強く思ったものだった。が、その後結核の入院治療があり、退院してみると、生後八か月から離れていた次男には育児の空白が大きく影を落としており、さらに仕事もあって、次から次へと目の前の問題に手をつけているうち、お産のことは視野から外れ、再び向かい合うまでに二五年余りの歳月が流れていた。
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のだそうです。(p4)
それにしても、1954年に東北大学文学部卒業なのに、1952年に長男、54年に次男出産という日程はずいぶん慌ただしく、大変な学生時代だったようですね。
続いて、「医療に対して一般人が声を上げはじめた一九七〇年代」に入ると、

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 私の場合、医療運動の中でお産の問題に突き当たったと述べたが、医療運動の中で培った経験や人脈が、その後よりよいお産を目指してお産の学校を開設、運営していく上で基礎となっている。そこで、お産の問題に行き着くまでの主な活動について多少ふれておきたいと思う。
 まず、私が医療問題に関わるようになったきっかけは一九六九年に夫が交通事故にあった一件にある。その時に目の当たりにした病院の治療態度や看護のあり方が、人権を尊重したものにはとても思えなかったため、強い問題意識を持つようになったのだ。そこで医療問題に目を向けて見ると、医療保険制度の矛盾から医師会と行政、保険支払い団体がたえず衝突し紛糾している状況があった。
 そうした矛盾が端的な形をとって噴出したのが、一九七一年の日本医師会の保険医辞退だった。中央社会保険医療協議会に審議の叩き台として提出された審議メモ(厚生省の事務当局が診療報酬体系の適正化について各界の意見をまとめたもの)に端を発し、医師会は保険医辞退を決定。七月一日から全国で約六万四〇〇〇人の医師(ほとんどが開業医)が保険医を辞退した。この事態は厚生省の対応により一ヵ月間で収拾されたものの、医師会の強引な姿勢に対して保健団体はもちろん、関係審議会や市民団体からも批判の声が上がり、「政府は医師会に対して安易な妥協をすべきでない」という世論を巻き起こした。
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ということで、杉山氏は夫の交通事故という個人的事情に加え、社会運動家として医療問題に関わるという大変な時期に慈光寺本『承久記』に関する論文も書かれていた訳で、何ともすごい人ですね。
スーパーウーマンと呼んでもよさそうです。
なお、「お産の学校」は、社会情勢の変化もあって、本書が刊行された1996年に終了となったそうです。

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「お産の学校」講習会終了にあたって

 1980年に始まった「お産の学校」講習会は,以来17年間にわたりたくさんの方々の協力のもと100回の開講を達成した。
 折からの自然出産志向から,受講希望者は多かったが,多人数を対象にした講習会では産む人たち個々のニーズにきめ細かく対応することは,難しい状況になってきた。また,主催者側と受講者たちの年齢差が,この講習会の教育の有効性を損なう懸念も出てきた。こうした事情から「お産の学校」は,新たな出産準備教育の場ができることを期待し,100回を機に講習会を終了することにした。

https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1611901598

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