投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 2日(土)09時43分56秒
連日の暑さに負けて少し投稿をサボってしまいましたが、またボチボチと続けて行きたいと思います。
さて、昨日、野口実・長村祥知・坂口太郎氏の『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)を入手しました。
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武士の世のイメージが強い鎌倉時代。京都に住む天皇・貴族は日陰の存在だったのか。鎌倉の権力闘争にも影響を及ぼした都の動向をつぶさに追い、承久の乱の前夜から両統迭立を経て南北朝時代にいたる京都の歴史を描く。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b604393.html
取り急ぎ坂口太郎氏(高野山大学准教授)が担当された、
六 両統の分立とモンゴル襲来
七 両統迭立への道
八 後醍醐天皇と倒幕
の三章を読んでみたところ、直近で私があれこれ書いていた善空事件と京極為兼の配流については、特に新出の史料もなく、学説の進展もあまりなさそうなことが確認できました。
為兼の第一次配流に関連して、私は「白毫寺妙智坊」が静基上人だろうと思っていましたが、坂口氏も同じ結論だったのはちょっと嬉しかったですね。
第七章の「2 伏見親政期の政治と文化」から少し引用してみます。
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京極為兼の失脚
永仁六年(一二九八)正月七日、京都で事件が起きた。伏見天皇の股肱の臣であった京極為兼が、六波羅によって拘引されたのである(以下、小川剛生 二〇〇三、井上宗雄 二〇〇六)。このとき、石清水八幡宮寺執行の聖親法印と、白毫寺の妙智房らも召し捕られたという(『興福寺本 皇年代記(興福寺略年代記)』)。
【中略】
さて、この事件の性格を考えるうえでは、為兼と同時に召し捕られた、聖親法印と妙智坊らにも注目する必要がある。
【中略】
次に、妙智房は、法名を静基と称し、東密の小野・広沢両流のみならず、天台寺門の密教をも相承した律僧であった(福島金治 一九五五、『寺門伝法灌頂血脈譜』)。静基が属した白毫寺(院)とは、京都東山にあった速成就院(大和西大寺の末寺)という律院のことであり、「東山太子堂」という異名で知られていた。同院の歴代長老は、いずれも持明院統と密接な関係を有し、伏見天皇の皇子にあたる花園天皇などは、その葬礼まで速成就院に任せたほどである(以上、林幹彌 一九七二・一九八〇、納冨常天 一九八八、苅米一志 一九九一)。
さらに、永仁年間(一二九三-九九)の静基については、伏見天皇が祇園社に「永代勅願」の「本地・垂迹勤行料所」を寄進した際、その本地方の勤行をつとめたことが確認できる(『社家条々記録』)。おそらく、静基は持明院統に親近した律僧であろう。その関係から、先にみた聖親と同様に、為兼と結んで政道に関与した可能性がある。
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聖親法印については『続史愚抄』に「此日。依有座事。自武家執京極前中納言。<為兼。>及石清水執行聖信等幽六波羅」とあったので、これを誰も疑わなかったところ、2003年に今谷明氏が東大寺八幡宮の僧侶だとの新説を提示されました。
しかし、その直後に小川剛生氏が反論して、今谷氏の三日天下は終わった訳です。
ただ、小川氏も「白毫寺妙智坊」を奈良の僧とする今谷説に特に反駁されなかったのですが、つい最近、私があれこれ書いていたように、こちらも京都の白毫寺(院)と考える方が自然ですね。
坂口氏が参照されている文献も私が見たのと殆ど重なります。
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9406623579e59fbe16253b99325f9e
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8567dc028ce9643b30a6168c09c80cf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c37bf00324fc541756b73902ff1a0ef
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13f7dd9e37951e660e1609525bb43362
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/238410188a3e6b237f1bcaf4b4652911
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46b4536e5ec27e41b009e8446acfb40e
「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a535d54336e77f58ad97dda2da7d12b
連日の暑さに負けて少し投稿をサボってしまいましたが、またボチボチと続けて行きたいと思います。
さて、昨日、野口実・長村祥知・坂口太郎氏の『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』(吉川弘文館、2022)を入手しました。
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武士の世のイメージが強い鎌倉時代。京都に住む天皇・貴族は日陰の存在だったのか。鎌倉の権力闘争にも影響を及ぼした都の動向をつぶさに追い、承久の乱の前夜から両統迭立を経て南北朝時代にいたる京都の歴史を描く。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b604393.html
取り急ぎ坂口太郎氏(高野山大学准教授)が担当された、
六 両統の分立とモンゴル襲来
七 両統迭立への道
八 後醍醐天皇と倒幕
の三章を読んでみたところ、直近で私があれこれ書いていた善空事件と京極為兼の配流については、特に新出の史料もなく、学説の進展もあまりなさそうなことが確認できました。
為兼の第一次配流に関連して、私は「白毫寺妙智坊」が静基上人だろうと思っていましたが、坂口氏も同じ結論だったのはちょっと嬉しかったですね。
第七章の「2 伏見親政期の政治と文化」から少し引用してみます。
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京極為兼の失脚
永仁六年(一二九八)正月七日、京都で事件が起きた。伏見天皇の股肱の臣であった京極為兼が、六波羅によって拘引されたのである(以下、小川剛生 二〇〇三、井上宗雄 二〇〇六)。このとき、石清水八幡宮寺執行の聖親法印と、白毫寺の妙智房らも召し捕られたという(『興福寺本 皇年代記(興福寺略年代記)』)。
【中略】
さて、この事件の性格を考えるうえでは、為兼と同時に召し捕られた、聖親法印と妙智坊らにも注目する必要がある。
【中略】
次に、妙智房は、法名を静基と称し、東密の小野・広沢両流のみならず、天台寺門の密教をも相承した律僧であった(福島金治 一九五五、『寺門伝法灌頂血脈譜』)。静基が属した白毫寺(院)とは、京都東山にあった速成就院(大和西大寺の末寺)という律院のことであり、「東山太子堂」という異名で知られていた。同院の歴代長老は、いずれも持明院統と密接な関係を有し、伏見天皇の皇子にあたる花園天皇などは、その葬礼まで速成就院に任せたほどである(以上、林幹彌 一九七二・一九八〇、納冨常天 一九八八、苅米一志 一九九一)。
さらに、永仁年間(一二九三-九九)の静基については、伏見天皇が祇園社に「永代勅願」の「本地・垂迹勤行料所」を寄進した際、その本地方の勤行をつとめたことが確認できる(『社家条々記録』)。おそらく、静基は持明院統に親近した律僧であろう。その関係から、先にみた聖親と同様に、為兼と結んで政道に関与した可能性がある。
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聖親法印については『続史愚抄』に「此日。依有座事。自武家執京極前中納言。<為兼。>及石清水執行聖信等幽六波羅」とあったので、これを誰も疑わなかったところ、2003年に今谷明氏が東大寺八幡宮の僧侶だとの新説を提示されました。
しかし、その直後に小川剛生氏が反論して、今谷氏の三日天下は終わった訳です。
ただ、小川氏も「白毫寺妙智坊」を奈良の僧とする今谷説に特に反駁されなかったのですが、つい最近、私があれこれ書いていたように、こちらも京都の白毫寺(院)と考える方が自然ですね。
坂口氏が参照されている文献も私が見たのと殆ど重なります。
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b
「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9406623579e59fbe16253b99325f9e
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a8567dc028ce9643b30a6168c09c80cf
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c37bf00324fc541756b73902ff1a0ef
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/13f7dd9e37951e660e1609525bb43362
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/238410188a3e6b237f1bcaf4b4652911
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46b4536e5ec27e41b009e8446acfb40e
「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a535d54336e77f58ad97dda2da7d12b
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