投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 8月22日(火)10時59分48秒
速水融氏の父親・敬二氏(1901-74)は旧姓・東畑で、東畑精一(1899-1983)の実弟ですね。
三重県一志郡豊地村(現松阪市)の地主・東畑家に生れた四人の男兄弟は秀才揃いで、長男・精一は文化勲章受章の農業経済学者、次男・敬二は哲学者で國學院大学教授、三男・謙三は関西建築界の重鎮であった建築家、四男・四郎は農地改革を主導した極めて有能な農林官僚です。
『東畑精一先生の足跡』(故東畑精一先生合同葬実行委員会編、1984)という本に精一の父母や若い頃の東畑四兄弟の写真が出ていますが、精一を含め、茫洋とした長い顔、どことなく馬っぽい顔の人が多い中で、敬二氏だけは眉目秀麗で颯爽としていますね。
東畑精一(1899-1983)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%95%91%E7%B2%BE%E4%B8%80
さて、東畑精一の『私の履歴書』(日本経済新聞社、1979)には、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の他に「師友録」として16のエッセイが載っていますが、まず「私の履歴書」本文にハルナックの名前が登場します。(p52以下)
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アメリカにいる間、わたしも若くて好奇心が強く、またエネルギーに満ちていた。小田実氏の言葉を借りるなら「なんでも見てやろう」であった。前年九月から十ヵ月足らずいたマジソンに別れて、後に同志社大学の教授になった松井七郎、ドイツ人のハルナックと三人で自動車旅行に出た。コンモンズに教わったアマナ共産団が第一の訪問地である。十九世紀のたしか四〇年代にドイツから移った宗教的色彩の強い集団である。後にアイオワ州に移った。団員は千五百人もあったろうか。共同の計画によって生産に従っており、われわれの訪れたころは毛布の生産をして外部と接触していた。消費生活も共同であった。
団の経営するホテルに泊まったが全くドイツ式で、ハルナックは非常に喜んだ。しかし事務所や若干家庭を訪れたが、なんとなく情熱に欠けているように思った。現に若者のある者は脱退していた。─後に一九三〇年の大不況期に、この共産団は解体して単なる株式会社となった。十九世紀ヨーロッパの空想的社会主義(オーウェン、フーリエ等々)に基づいてアメリカに建てられた多くの共産団の最後のものが、これで崩壊したのである。
それからシカゴに戻り、ゲーリー、アナルバー、ナイヤガラを経てニューヨークに行った。およそ二週間の旅、当時ようやく盛んとなったドライブ旅行、たいていは農家に泊った。一夜一ドルと窓に張り紙がしてあるので、田舎の宿は探しやすかった。わたしはこの旅で、いくつかの農民家族、多数の農民と会ったし、また食事を共にしたが、気がおけなく初対面のものに対しても何の疑念をいだかない人々ばかりであった。わたしはこの旅行でアメリカ、ことにその農民社会に親密感を強くいだくようになった。
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東畑精一は1926年(大正15)にウィスコンシン大学に留学しており、この自動車旅行は翌1927年の出来事ですね。
Amana Colonies
https://en.wikipedia.org/wiki/Amana_Colonies
速水融氏の父親・敬二氏(1901-74)は旧姓・東畑で、東畑精一(1899-1983)の実弟ですね。
三重県一志郡豊地村(現松阪市)の地主・東畑家に生れた四人の男兄弟は秀才揃いで、長男・精一は文化勲章受章の農業経済学者、次男・敬二は哲学者で國學院大学教授、三男・謙三は関西建築界の重鎮であった建築家、四男・四郎は農地改革を主導した極めて有能な農林官僚です。
『東畑精一先生の足跡』(故東畑精一先生合同葬実行委員会編、1984)という本に精一の父母や若い頃の東畑四兄弟の写真が出ていますが、精一を含め、茫洋とした長い顔、どことなく馬っぽい顔の人が多い中で、敬二氏だけは眉目秀麗で颯爽としていますね。
東畑精一(1899-1983)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%95%91%E7%B2%BE%E4%B8%80
さて、東畑精一の『私の履歴書』(日本経済新聞社、1979)には、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」の他に「師友録」として16のエッセイが載っていますが、まず「私の履歴書」本文にハルナックの名前が登場します。(p52以下)
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アメリカにいる間、わたしも若くて好奇心が強く、またエネルギーに満ちていた。小田実氏の言葉を借りるなら「なんでも見てやろう」であった。前年九月から十ヵ月足らずいたマジソンに別れて、後に同志社大学の教授になった松井七郎、ドイツ人のハルナックと三人で自動車旅行に出た。コンモンズに教わったアマナ共産団が第一の訪問地である。十九世紀のたしか四〇年代にドイツから移った宗教的色彩の強い集団である。後にアイオワ州に移った。団員は千五百人もあったろうか。共同の計画によって生産に従っており、われわれの訪れたころは毛布の生産をして外部と接触していた。消費生活も共同であった。
団の経営するホテルに泊まったが全くドイツ式で、ハルナックは非常に喜んだ。しかし事務所や若干家庭を訪れたが、なんとなく情熱に欠けているように思った。現に若者のある者は脱退していた。─後に一九三〇年の大不況期に、この共産団は解体して単なる株式会社となった。十九世紀ヨーロッパの空想的社会主義(オーウェン、フーリエ等々)に基づいてアメリカに建てられた多くの共産団の最後のものが、これで崩壊したのである。
それからシカゴに戻り、ゲーリー、アナルバー、ナイヤガラを経てニューヨークに行った。およそ二週間の旅、当時ようやく盛んとなったドライブ旅行、たいていは農家に泊った。一夜一ドルと窓に張り紙がしてあるので、田舎の宿は探しやすかった。わたしはこの旅で、いくつかの農民家族、多数の農民と会ったし、また食事を共にしたが、気がおけなく初対面のものに対しても何の疑念をいだかない人々ばかりであった。わたしはこの旅行でアメリカ、ことにその農民社会に親密感を強くいだくようになった。
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東畑精一は1926年(大正15)にウィスコンシン大学に留学しており、この自動車旅行は翌1927年の出来事ですね。
Amana Colonies
https://en.wikipedia.org/wiki/Amana_Colonies
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