学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「袞冕十二章図」

2010-03-12 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月12日(金)08時08分16秒

>筆綾丸さん
『中世王権と即位灌頂』はカバーも美しいですが、これは「袞冕十二章図」というものだそうですね。
恥ずかしながら、袞冕(こんべん)は読めませんでした。

http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/0402nisijin007.htm

即位灌頂については阿部泰郎氏の熱い語り口と対照的な小川剛生氏の冷ややかな見方を後で紹介してみます。
また、一般書で即位灌頂がどのように言及されているかの一例として、末木文美士氏の『日本宗教史』(岩波新書)も紹介予定です。
末木氏の見解は相当問題がありますね。
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「人の精魂を喰う恐るべき女鬼神」

2010-03-11 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月11日(木)07時59分2秒

松本郁代氏『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』の書評がないかと思って検索してみたら、田中貴子氏が阿部泰郎氏の同書に対する書評を厳しく批判されていました。

http://summerland.blog48.fc2.com/blog-entry-19.html

早速、私も国会図書館の郵送複写で「松本郁代著『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』を評す」(『日本文学』2007年1月号)を注文し、昨日入手したのですが、田中氏が特に厳しく批判しているのは次の部分でしょうね。

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 評者からみた、本書がついに取り落としている異質なものとは、真言系即位法の殆どすべてがその印明においてダキニ天の尊格を示すことだ。王は、ダキニの名を唱え帰依し、合体を観念する。大日も天照も日本国も全てそこに収斂し、統合される。人の精魂を喰う恐るべき女鬼神であるダキニこそ即位灌頂の真の尊格であり、東密諸法流の寺家が規定する王権の根源的存在なのである。即位法には、それが灌頂の尊格となる因縁を説く口決も含まれ、その本縁が「摂※(ろく)縁起」として藤原氏摂関家の始祖鎌足の物語として舞曲『入鹿』の本説ともなった。中世東寺においては、鎮守である稲荷社が辰狐としてダキニを祀り、その縁起が『稲荷記』に説かれている。さまざまな位相で即位法の「中世神話」は、灌頂印明の伝授と分かちがたく伝承されていた。それを本書は、はじめから棚上げしてしまい、印明の分析において結びつけたり、何であるかを問うことがなかった。それが最後のところで、丸山氏の王権をめぐって思考する一節の引用そのものにおいて示唆されていたのである。引用した著者がそれに気づいていたかどうかとは別に、起きた事態とはそういうことなのだ。かくして、本書が強く希求し志向していた黒田史論のパラダイムとの対峙の回避と、文学研究が提起した「中世日本紀」や「中世神話」の世界との対話が未発に終わったことが、同時に第一部の最後に到って示されることになった。
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『文観房弘真と美術』

2010-03-11 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月11日(木)07時19分51秒

下の投稿のリンク先に置かれている阿部泰郎氏の「文観著作聖教の再発見-三尊合行法のテクスト布置とその位相」(名古屋大学大学院・比較人文学研究室『比較人文学年報』第6号、2009年3月)から、『文観房弘真と美術』に直接関連する部分を抜き出しておきます。

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 文観自身の著作や思想に関する研究が停滞した状態は長く続いた。真言密教の歴史や思想の上で「立川流」を再認識しようとする試みは、たとえば真鍋俊照の『邪教・立川流』(1999)によってなされ、そこでは文観と立川流の結びつきを否定している。だが、最も大きな影響を与えたのは網野善彦の『異形の王権』(1986)であろう。そこでは、文観とその周辺の後醍醐天皇による倒幕運動に関わる史料を取り上げて、従来の文観を巡る言説と重ね、文観を介して「立川流」の如き密教の“性の力”を王権に導き入れようとした帝王の姿を描き出し、網野氏の歴史観の許で中世後期の日本社会の根底的な変化を象る存在となった。その議論のなかで、文観と「立川流」とは安易に結びつけられてはいないが、結果的に両者を重ね合わせる認識は再生産され、文観自身の思想と、基本的な前提となるべき著作そのものの研究は置き去りにされた。
 こうした状況が大きく変化したのは、1990年代以降の、中世寺院史料、とくに律衆と真言密教関係の文献の発掘と紹介がなされ、一方で美術史学とくに密教図像の側から、図像作者としての文観の事蹟と作例の紹介研究が積み重ねられたことによる。それらの成果が、内田啓一の『文観房弘真と美術』(2006)である。内田氏の研究は、文観の遺した仏画とその活動を、叡尊にはじまる西大寺流律僧の関与した中世密教美術の系譜と展開のなかに位置付け、その上で文観の生涯の多元的な年譜を関係史料の集成を含めて提示した労作である。その基本となったのが、文観の弟子宝蓮の編になる『瑜伽伝燈鈔』(1365成立)である。その真言法流の系譜に含まれた文観伝が、断片的に残された文観関係の史料と符号することから信憑性は高く、更にその付法交名に挙げられた二百余名の僧のうち、醍醐寺僧や西大寺流律僧が多数確認された。これも内田氏の考証によるものである。また、叡尊の周辺に形成され、とくに醍醐寺と深く結びついた密教美術の流れの中に、文観の活動とその所産も連なるものであったことが明らかにされた。
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文観房弘真と荼枳尼天法

2010-03-09 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 9日(火)21時04分7秒

下の投稿の引用部分、「その統率者が文観房弘真であるかのように述べられている」に付された注も載せておきます。(『文観房弘真と美術』p17)

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注(17) 文観房弘真は後醍醐天皇を語る時に折に触れて言及されている。其のなかでもまとまったものとして、岡見正雄校注『太平記』(ニ)巻十二補注(角川書店、一九八二年四月)と網野善彦「異形の王権」(『異形の王権』所収、平凡社、一九八六年八月)がある。岡見氏は文観房弘真の西大寺蔵木造文殊菩薩騎獅像の納入品について言及され、さらに杉山二郎氏が論じられた「般若寺蔵文殊菩薩像」(『ミュージアム』一三三号、一九六二年四月)の中で示された八字文殊菩薩法のひとつにある調伏法を重視し、正中の変との関わりあいを示唆した。さらにそれを受けて網野氏が、建武二年に奏された高野山衆徒の文観房弘真非難の文言や『太平記』にみられる「文観上人の手の者」との表現から、文観房弘真の姿を描きあらわした。文観房弘真と荼枳尼天法との関りも網野氏の指摘にはじまるようである。立川流との関係も否定しながらも、『太平記』にみられる無礼講の姿なども強調しており、それ以降文観房弘真のイメージが固定化された感がある。
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『文観房弘真と美術』の書評がないかなと思って検索したところ、書評ではありませんが、阿部泰郎氏がかなり詳しく紹介されてますね。

http://homepage.mac.com/nobumi_iyanaga/kudenML/filestore/abe_paper/abe_paper.doc
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「普通の王権」

2010-03-09 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 9日(火)01時34分56秒

いつになったら妙音天に戻るのだ、と思っていらっしゃる方も多いかもしれませんが、暫く鎌倉時代後期から離れていたので、読む必要のある本がかなりたまっています。
いつかは妙音天に戻りますので、暫くはカンを取り戻すための読書日記にお付き合いください。
さて、今日は内田啓一氏の『文観房弘真と美術』(法蔵館、2006)を少し読んでみました。

http://books.rakuten.co.jp/rb/item/4002327/

網野善彦氏の『異形の王権』は、歴史研究者の間では実力者として注目されていた網野善彦氏の名前を広く社会一般に周知せしめた点で、『無縁・公界・楽』と並ぶ画期的な本ですが、密教の歴史をある程度きちんと勉強している人の多くは、同書はかなり変てこな本であると思っているのではないですかね。
後醍醐天皇に比べれば密教への心酔は後宇多院の方が遥かに深いですから、後醍醐が異形なら後宇多院の方がもっと異形と言うべきですね。
私は、少なくとも宗教的な観点からは、後醍醐天皇の王権は中世において「普通の王権」だったと思っているのですが、そう判断する上で喉に刺さった魚の小骨のように引っかかる存在が、真言立川流の問題です。
まだ全部読んではいませんが、内田啓一氏の文観房弘真の研究は、網野善彦氏の『異形の王権』が砂上の楼閣であることを示しているように思えます。
内田氏の見解を少し紹介してみます。(p10以下)

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 また、文観房弘真は中世の邪教とされる立川流の僧ともされてきた。
 文観房弘真については、守山聖真氏が『立川邪教とその社会的背景』のなかでその大半を費やして論じている。守山氏は立川流の邪僧ではないことをしばしば強調され、文観房弘真の出自から没年までその足跡をたどった。しかし、その当時には文観房弘真が「立川流の僧である」という既定観念が強大でありすぎたのか、また、やや異質な真言僧という固定観念があったのか、数奇なる運命という印象で語る箇所も多い。それは真言僧伝である『伝灯広録』をどこまで否定するのか迷いがあるようにもみうけられ、また『太平記』のイメージなどを常に念頭に置き、論ぜざるをえなかったからと思われる。また、「後醍醐天皇」「南朝」という強烈な存在が、脚色を払った文観房弘真の姿について考える時に障害になってくることも事実である。
 近年では守山氏の著作による功績なのか、立川流とは切り離されて論じられることが多くなっているが、それでも『太平記』などの記述から荼枳尼法を修した怪僧というイメージはついて回っているようであり、南朝の成立に「文観上人の手の者と称し」た者がいるとの記述からその統率者が文観房弘真であるかのように述べられている。また後醍醐天皇という強烈な個性をもった天皇の傍らにいた僧という点から不可解な理解がされている。どうもひとつの固定されたイメージから次のイメージへ発展させられて述べられているように思えてならない。
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九条道家

2010-03-08 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 8日(月)01時12分20秒

九条道家がいかなる政治家であったかを明らかにしたのは本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』の功績ですが、本郷さんは『天皇の思想 闘う貴族北畠親房の思惑』において、次のように書かれていますね。(p117以下)

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 頼経を将軍職から退けたものの、九条道家と正面切って対決するには早い、と考えたのだろう。一二四四(寛元二)年十月、幕府は朝廷に「入道(道家)殿、天下お計らいあるべし」と申し入れた。朝廷における道家の優越は、一応は幕府の公認を得た。けれども、このようなことを改めて伝達しなくてはならぬほど、道家と幕府との亀裂はすでに明らかだったのである。
 翌年正月には大雪が降った。平経高は記す。将軍に大事があるときは必ず前々に大雪が降る。二代頼家卿の時はニ尺積もった。三代実朝公の時は三尺だった。今度は四尺だ。災いはきっと前代を超えるだろう。四月に名越朝時が没した。朝時の果たしてきた役割は、子息の光時に継承された。五月に京都に到着した関東の密使は六・七月に何かが起こると予言した。六月には果たして「事すでに発覚」と書かれている。何があったか定かではないが、事態は確実に動いていた。十月、経高は奇妙な夢を見たとわざわざ日記に記す。故名越朝時が彼の夢に現れ、六条宮忠成王に新たな御所を造進したいと申し出た、というのだ。その意味するところが、忠成王の即位である事は明らかである。
 数年の後、宝治合戦が起こり三浦一族が滅ぼされたとき、三浦光村は総領で兄の泰村を、かつて九条道家様がともに北条本家を討とうと言われたとき、同意していれば良かったものを、と責めたという。これまでこのエピソードはそう重視されてこなかった。だが彼らの姉妹は藤原親季に嫁いでおり、この親季は代々九条家に仕える腹心であった。親季の父、定季の従姉妹にあたる人は九条兼実の妻で、良通・良経(道家の父)を生んでおり、親季の姉妹は九条教実の妻で忠家を生んでいる。また、親季の二人の従姉妹はともに藤原頼経の妻となっている。親季の家と九条家、鎌倉将軍家は血縁で密接に結びついており、ここに三浦家も関与している。
 道家が幕府屈指の重臣、三浦家と連絡を取り、北条本家を討とうと企んでいたのは事実だったと私は考える。北条本家を滅ぼし、将軍頼経ー頼嗣の権力を確立する。執権には名越家の光時を任じる。彼らの後援を得て、朝廷では後嵯峨上皇を退位させ、忠成王を即位させる。関白には二条良実に代え、愛息の一条実経を就ける。むろん実権は大殿の自らが掌握する。これが道家のプランではなかったか。
------------

藤原親季を間に入れると九条家と三浦が結びつくということは初めて知りましたが、なかなか面白いですね。
「三浦光村は総領で兄の泰村を、かつて九条道家様がともに北条本家を討とうと言われたとき、同意していれば良かったものを、と責めた」というのは『吾妻鏡』宝治元年6月8日条によるものですね。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/124706.html

九条道家については、松本郁代氏も「九条道家と真言密教─慧日山における摂関家の宗教構想」という論文を書かれていますが(『中世王権と即位灌頂』p261以下)、これも充実していますね。
私は九条道家の息子、法助が仁和寺御室になったことについて、どうにも落ち着かない感じを受けていたのですが、九条道家の総合的かつ緻密な宗教構想を前提とすると、摂関家出身の初めての御室という存在も、それなりに受け入れられたのだろうなと思います。
ただ、法助が御室になったのは建長元年(1249)であり、ずいぶん微妙な時期ですね。
ちなみに法助は多くの国文学者によって『とはずがたり』に登場する愛欲と妄執の高僧、「有明の月」に比定されている人物です。
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桜町天皇宸翰

2010-03-07 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 7日(日)10時49分53秒

橋本政宣氏の「即位灌頂と二条家」は79ページに亘り、その構成は、

---------
はじめに
一 二条家伝来の即位灌頂文書
 1 即位灌頂文書の伝来と概要
 2 即位灌頂文書の目録と主要文書
ニ 即位灌頂儀礼の実態
 1 印明伝授と二条家
 2 即位灌頂の実修
三 近世の即位灌頂に於ける摂家相論
 1 貞享四年の東山天皇即位灌頂
 2 宝暦七年の中御門天皇即位灌頂
 3 享保二十年の桜町天皇即位灌頂
四 即位灌頂の家の固定化
 1 即位灌頂の摂家家説と相伝
 2 桜町天皇の即位灌頂伝授
おわりに
---------

となっています。
前回投稿の引用に「文書・記録も江戸期の初頭までは厖大な量を有し」とありますが、17世紀後半に火事が連続して、結局二条家伝来の文書の殆どは焼失してしまうんですね。
火災後、二条家が新たに集積した即位灌頂関係の文書が60点残されていて、それを分析したのが橋本氏の論文です。
江戸時代に入ってからも、即位灌頂を誰が勤めるかをめぐって摂関家内部で厳しい相論が続きますが、結局のところ、元文三年(1738)、桜町天皇から即位灌頂は二条家が専ら伝授すべし、との宸翰が出されて、「ここに即位灌頂の家二条家が名実ともに成立する」(p736)ことになります。
その桜町天皇の宸翰の内容は次の通りです。(p676)

---------
即位灌頂の事ハ、朝廷の重事なり、後三条院即位の時、成尊法印さつ
けたてまつる、これ始なり、そのゝち代々帝王即位ありといへとも、
此義なかりしに、伏見院即位の時、執柄ニ條師忠さつけ候而、これよ
り代々二条家のミ授申さる、近衛・九条・たか司ミな家に伝来あり、
ことに近衛家伝来の義ハくはしく朕かしることなり、しかれとも即位
節、執柄といへとも二条家のほかさつけらるゝ例ハなし、まことに二
条家理うむの事なり、後小松院御記に云、甚深口伝二条家外更に
あるましきよし、二条家規模たるへし、
二条家ハ他にことなる義、執柄・大臣・前官・当官・納言みな例あり、
雲客例はなけれとも、二条家かく別の事なれは、雲客とても主上にさ
つけられ子細あるましき事、
二条家伝受なき時ハ、主上つたへらるへし、主上伝受以前はれハ、上
皇よりつたへらるへき事、
一条は中絶のゝち伝受なきよし、後小松院宸記に見へたり、
 元文三年十二月十六日
           人皇百十六代天皇昭仁(桜町天皇)
---------

ここにも二条師忠の名前が出てきますね。

桜町天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
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『二条殿秘説』

2010-03-07 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 7日(日)01時43分5秒

橋本政宣氏の「即位灌頂と二条家」(『近世公家社会の研究』所収、吉川弘文館、2002)からも少し長めに引用しておきます。(p666以下)
『二条殿秘説』は実に巧妙に自家の歴史を粉飾していて面白いですね。

------------
一 二条家伝来の即位灌頂文書
1 即位灌頂文書の伝来と概要

 二条家は、五摂家の一つで九条道家の次男良実を家祖とする。江戸時代の家領は千七百石余を領した。摂家のうちでは武家との関りが最も深く、鎌倉、室町期のみならず、江戸期においても将軍家と密接な間柄にあり、江戸期初代の康道が徳川家康の偏諱をうけ康道と称したのを始め、嫡子は将軍の猶子となり偏諱をうけ名乗るのを例としたことは、南北朝期以来即位灌頂を家例の如く勤め来ったことと共に、他の堂上家とは大いに異なるところである。文書・記録も江戸期の初頭までは厖大な量を有し、多くの秘書を有していたことは、この一部を披見した幕府儒官林鵞峯が『二条殿秘説』の中で記している。これは寛永二十年(一六四三)に披見し書留めたもので、その巻初に、二条家が多くの文書記録を有し、秘書の類も多いこと、九条家の別れであるが九条・二条両家不和のこと、武家と関わりの深い家であること、二条良基が後光厳天皇の即位のとき大きな役割を果たしたこと、義満が良基とよく政務の審問に与り、諸家の記録もみな二条家に集まったことなどが書かれている。

  五摂家ノ内二条殿殊ニ記録多シ、秘伝ノ儀多シ、其故イカントナレハ、二条
  ノ開基良実ハ、九条道家ノ次男ナリ、道家其長男教実ニ摂政ヲ譲リ、程ナク
  教実早世、其子忠家九条ノ家ヲ相続スルトイヘトモ、猶幼少ナルニヨリテ、
  良実摂関トナル、二条ノ家コレヨリ始ル、然ルトコロニ、道家良実父子不和
  ナルニヨリテ、道家其三男実経ヲ摂関トス、一条ノ家コレヨリ始ル、道家良実
  不和ノユヘカントナレハ、(中略)道家大ニ怒テ、三浦等ノ武士ヲ語ヒ北条ヲ
  滅サントノ密謀アリ、良実時勢ノ至ラサルコトヲサトリテ、此事思召止リタマヘ
  ト諌メ申サル、道家ノ心ニカナワスツイニ父子ノ義ヲ絶ツ、良実甚憂テ春日ノ
  社ヘ願文ヲ納ラル、(中略)

   寛永癸未(二十年)ノ歳、御即位ノ事アリテ、在洛ノ間、二条康道公ノ家司
   北大路宮内道芳ト夜話ノ時、二条殿ノ秘記若干巻ヲ携ヘ来テ、此秘記ハ
   他見ヲ禁スル物ナレトモ、一見ヲユルストテ披見ノ内ニ、宝治年中良実ノ
   願文一通アリ、実事ヲバアラハサネトモ、父ノ心和ギ家門繁昌ヲ祈ルノ趣
   ナリ、道芳ニ懇望シテ写サント請ケレドモ、遂ニ他見ノ事ナシ写シ取ル
   コトハカナフマジトテ、箱ヘ取リ納ム、又(九条)忠家ヲ始メ道家ノ一門衆
   流罪セラルヘシトテ、配処ノ国々ヲ記シケル一通モアリ、此事ハ何ノ記録
   草子ニモ載サレハ、外人ノ知ラサル事勿論ナリ、

  鎌倉ヘ良実ノ父ノ密謀ヲ諌メトドメラルル事聞ヘケルニヨリテ、北条ヨリ二条
  殿ヲ崇敬セリトナシ、(中略)良実ヨリ五代良基公ハ、尊氏将軍同時ナリ、
  後光厳院即位ノ時、三種ノ神器吉野ノ南朝ニ渡テ都ヘ帰ラス、三器ナクシテ
  新帝ノ即位先例ナケレハ如何、ト各申ニヨリテ、尊氏モ案シ煩レケルトキ、
  良基ノ曰ク、天照大神ヲ以テ鏡トシ奉リ、尊氏ヲ以テ宝剣トシテ、即位マシ
  マサバ、何ソ先例ナキコトヲ憚ラン、神璽ニ用ル人ナクハ、不肖ナリトモ
  良基ヲ用ヒラルヘシトテ、即位ノ議定テ、後円融・後小松ノ伝位モ此例ヲ
  用ヒラル、尊氏コレヨリ良基ト入魂、義満ニ至テ良基ト睦ク、公家武家ノ政務
  相談アルニヨリテ、諸家ノ記録皆二条家ニアツマル、
------------
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寺家即位法

2010-03-06 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 6日(土)10時36分9秒

先の投稿はあまりに唐突だったので、そもそも即位法とは何かについての説明を『中世王権と即位灌頂』序章から引用しておきます。(p11以下)

-----------
 本書では、天皇の即位儀礼に関する資料に登場する「天皇」の位置を、史実、叙述、構想という三つの側面から捉え、論を進めている。また、本書で論じる即位灌頂については、各章ごとにそれぞれ個別の研究史を論じているため、以下では、即位灌頂を論じるうえで、押さえておくべき点を述べておきたい。
 即位灌頂とは、摂関家から即位予定の天皇に印明が伝授され、即位儀礼の当日、天皇が高御座(たかみくら)で伝授された印を結び、明を唱える行為のことである。そして儀礼前、天皇に印と明の内容を伝授したのが、二条摂関家である。この行為を印明伝授という。
 即位灌頂をめぐる現在の研究状況は、歴史学の分野で行われているほか、説話や伝承との関わりでアプローチする日本文学や宗教思想史、インドの王が行った灌頂儀礼に日本の即位灌頂の源泉を求める比較宗教史、仏教史の展開のなかで即位灌頂を捉えた仏教史学など、複数の学問分野で行われているが、それぞれの分析の視座や文脈は異なっている。一方、即位灌頂に関する問題として、即位儀礼で天皇が印明を結ぶ、いわば国家儀礼の場で天皇が行う即位灌頂とは別に、寺院伝来の聖教に記された寺家即位法というものが存在していた。この即位法は、天皇が即位灌頂のために摂関家から伝授される印明とは異なる次元のものである。たとえば、上川通夫氏は、寺院における即位法の主張について、天皇の正統性を仏教的に強調し、集団内部の仏弟子再生産を行いながら、総体的には天皇の正統性の保証を指向した寺家側の論理であると位置づけられた。(後略)
-----------

「国家儀礼の場で天皇が行う即位灌頂」については、中世は小川剛生氏の研究、近世は橋本政宣氏の研究によって、その実態がほぼ明らかにされています。
それを私流に平たく言えば、即位儀礼は要するに「二条家の二条家による二条家のための儀礼」であって、二条家は二条師忠とその16歳上の異母兄、道玄が頑張って天皇の即位儀礼に「即位灌頂」という珍奇な儀礼をねじ込んでくれたおかげで、実に孝明天皇の時代まで、公家社会の中で自家の存在意義を確保できた訳ですね。
しかし、もちろんこの儀礼は道玄がある日突然思いついたようなものではなく、その背後には仏教と天皇の関係、寺院社会と天皇の関係について、寺院社会の中で蓄積されていた膨大な思惟が存在しており、また、伏見天皇の即位により「国家儀礼の場で天皇が行う即位灌頂」が現実化した後も、寺院社会の中で更に膨大な思惟が継続的に蓄積された訳ですね。
その膨大な思惟のごく一部である寺院即位法に限っても、その内容は非常に複雑で、様々なバリエーションが生まれてくるのですが、難解すぎて私にはなかなかついていけない世界なので、興味がある方は『中世王権と即位灌頂』を読んでみてください。
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『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』

2010-03-06 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 6日(土)00時34分23秒

今日は松本郁代氏の『中世王権と即位灌頂-聖教のなかの歴史叙述』(森話社、2005)を途中まで読んでみました。
奥付を見ると、1974年生まれの著者が31歳で出版した本となりますが、それが俄かに信じられない程充実した内容ですね。
当面の私の興味の対象である二条師忠に関しても、若干の言及がありました。(p67以下)

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第三節 三宝院流即位法の生成

 報恩院方の即位法を担った道順は、後宇多法皇の権力を背景に東寺長者となり、文保三年(一三一九)正月、三宝院流・理性院流・金剛王院流という醍醐三流の嫡僧が残らず参加しての後七日御修法を行っている。
 醍醐三流のうち、後宇多法皇を背景に持つ三宝院流は他流を凌ぎ、名実ともに真言密教界の頂点に立つ法流であった。しかし、同じ三宝院流に属す院家レベルでは、統一された即位法は伝持されなかった。この点はその後も変わらない。
 三宝院流における院家の分派は、鎌倉時代中期の憲深と親快の座主嫡流争いに端を発したが、その後、報恩院方が大覚寺統・南朝方、地蔵院流がその対抗勢力となり、王統の分立がそのまま法流の分裂にも関係する形となった。
 即位法に表れた王権の始源や口伝は、理念的に「顕密仏教」に位置づけられ、言説的には「中世神話」としての位相を獲得している。そして従来、東寺即位法の一種類が、真言系即位法であると考えられていた。
 しかし、第一節で紹介した地蔵院方の即位法と、第二節で紹介した報恩院方の即位法の存在から、三宝院流では二種類の即位印明に基づく即位法が生成されていたことが判明した。両即位法の口伝は、担い手である流派の世俗的な立場の違いが表れており、これは、王統の分裂によって、より明白化したといえる。
 この両即位法の特徴について説明しよう。
 まず、地蔵院方の即位法には、二条摂�咸家が登場していた。そもそも、平安時代中期以降の即位儀礼では、摂関が高御座に登壇し、艮の方向に座していた。そして、伏見天皇に即位印明を伝授した二条師忠から江戸時代末期の孝明天皇まで、代始めの摂関が二条家でなくても、ほとんど二条家の者が家職として印明伝授を行っていた。このように、二条家は、即位儀礼には不可欠な存在であるという実態があった。また、このような家職の二条家と関係があった僧に、地蔵院方親玄(一二四九~一三二二)の付法弟子として、二条師忠弟で、良実息である道承(乗)という僧がいた。親玄は得宗家や将軍とも関わり、その後、地蔵院方は関東における東密最大の流派となっていた。このような関係から、地蔵院方は、天皇輔弼の家であり、幕府とも良好関係を保っていた二条家を、即位法口伝のなかに伝持したといえる。(後略)
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最近、この掲示板に来られた方には訳が分からない内容だと思いますが、以前、後宇多院に関連して、かなり文献をアップしておきましたので、興味があれば読んでみてください。
最初は辻善之助「両統対立の反映として三宝院流嫡庶の争」が良いと思います。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tuji-zennosuke-sanpoinryu.htm
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

ただ、当面の話題に関しては、特に真言密教についての深い理解が必要というわけではありません。
そんなもの、私にも全くないですし。

ちなみに、ここに出てくる道順と親玄はともに久我通光の孫であり、後深草院二条の従兄弟ですね。
親玄については高橋慎一朗氏の「『親玄僧正日記』と得宗被官」が参考になります。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
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元久二年(1205)の後鳥羽院

2010-03-04 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 4日(木)01時24分32秒

豊永氏の「後鳥羽院と音楽」より少し長めに引用してみます。(『中世の芸能』p134以下)

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 後鳥羽は先例に反することなく、祖父であり治天の君であった後白河院の主導の下、代々とされてきた笛を修養し始めた。しかし後白河院亡き後、政治的に自立し、わが道を歩み出すのと時期を同じくして琵琶に転じ、秘曲のすべてを伝受するに至ったことは既述した通りである。
 では、なぜ後鳥羽は天皇の修養すべき重代の楽器として尊重されてきた笛を打ち捨てて琵琶という楽器に熱中していったのか、その理由を考察して結びとしたい。
 後鳥羽が異例にも践祚に不可欠な三種の神器を欠いての皇位継承を行わざるを得なかったことは周知の通りであるが、このことは帝徳の存立基盤の欠如に結びつく難題であった。幕府が政治権力を強化するなか、調停におけるより絶対的な権力を確保したい後鳥羽にとって、これを補うべき別の神的権威が必要と考えたとしても不思議はない。その神的権威として、後鳥羽が持ち出したのが玄象と称す琵琶の霊物であったのではないだろうか。
 玄象は特別な霊力を持った「天下之至宝」と評されたほどの名器であり、三種の神器とともに代々の天皇に伝えられる「重器」として認識されていた。同時に玄象は、後鳥羽が憧憬し、自らその再来たることを望んだ「聖代」の主醍醐天皇の御物でもあった。後鳥羽は灌頂とまで称されるようになった啄木を含めた琵琶の秘曲を伝受した上で、こうした神的権威に直結する名器を演奏した。即ち朝覲行幸の御遊という君臣和楽の場で、しかも本来その場の主人公たる天皇を差し置いて自ら奏でることで、本来の神器の欠如を補うに足りる神秘的な威光を醸し出したと言えよう。
 時期的にも正治から元久年間にかけては、源通親からの自立を図るなど政治上、重要な時期であったとされているが、特に、元久二年(一二〇五)は後鳥羽が芸能を通じて最も積極的に権威化の道を走った重要な年と言えるのではないだろうか。
 即ち、まず和歌の面では『新古今和歌集』の撰集を完成させ、これを祝して「醍醐、朱雀帝の時代以来絶えてしまった行事でしかも勅撰集で催された例はない」、しかも「極めて政教主義的色彩の強い公宴」とされる竟宴を催した年である。そして音楽においては、琵琶のすべての秘曲を伝受し、灌頂と称される伝業に至った年であり、また、朝覲行幸の御遊で初めて琵琶の宝器玄象を弾いてみせたのもこの元久二年であった。かくして後鳥羽は和歌や音楽といった芸能を権威化の手段として最大限に利用しつつ、自らの権力基盤を作り上げていったのである。
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これだけ長く引用しておきながら、まあ、とりあえず確認したいのは、天皇と琵琶の結び付きはそれほど古いものではない、ということですね。
後鳥羽院に入り込むと収拾がつかなくなりますので、この程度にとどめておきます。

>筆綾丸さん
私も『天皇の思想―闘う貴族北畠親房の思惑』は入手したばかりで、まだ半分しか読んでいません。
本郷さんは以前は「西園寺家中心史観」という表現を用いていたはずですが、「西園寺史観」に変えてしまったようですね。
岩佐美代子氏の『文机談』については、西園寺公相に関する部分を後で紹介したいと思っています。
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玄象

2010-03-03 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 3日(水)08時07分7秒

>筆綾丸さん
豊永氏は「帝徳の存立基盤の欠如」を補うべき別の「神的権威」として玄象を必要とした、と言われていますね。
後で該当部分を引用します。
なお、豊永氏が「実兼は関東申次として権勢を誇った人物として有名」と言われている部分は、本郷和人氏の所謂「西園寺家中心史観」の残響ですね。
私は、権勢を誇れない西園寺家が新しい権威を創造して権勢に結び付けたいなと希望した、というのが実際のところだと思います。
清水真澄氏の『音声表現思想史の基礎的研究』の場合、「西園寺家中心史観」を独自に編曲されていて、そこまで言うと学問と呼べるのかどうか微妙だな、と感じさせるような領域に入ってしまっていますね。
兵藤裕己氏の『 琵琶法師―〈異界〉を語る人びと』は未読なので、購入してみます。
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二条師忠と西園寺実兼

2010-03-01 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 1日(月)22時43分56秒

これも少し先走ってしまいますが、即位灌頂を考案した二条師忠と琵琶灌頂を考案した西園寺実兼はずいぶん似たところがあるのではないかと思います。
二人が別個独立に画策した、高位の聖職者が介在しない奇妙な「灌頂」に対して、冷ややかな視線を向けていた同時代人は相当いたのではないですかね。
また、二条師忠と西園寺実兼が互いをかなり意識していたであろうことは、『増鏡』の前斎宮をめぐる奇妙なエピソードから伺えます。
この『増鏡』の奇妙な話、一体何のために置かれているのか理解できなかったのですが、もしかしたら、姑息な手段で天皇家に忍び寄って権勢を拡大しようとする二条師忠と西園寺実兼に対する『増鏡』作者の揶揄・冷笑を表現しているのではないか、という感じがします。
これも後でもう少し詳しく書きます。

 『増鏡』第九 草枕 前斎宮と西園寺実兼
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu9-zensaiguto-sanekane.htm
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即位灌頂

2010-03-01 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 1日(月)21時45分18秒

ウィキペディアで「即位灌頂」を検索すると、かなり詳細な説明が出てきますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82

これは近年になって国文学者を中心に即位灌頂についての研究が急速に進展した結果を反映するものですが、ウィキペディアの特徴として雑多な意見の集約になっている面があるので、信頼性には多少の疑問があります。
ネットで入手できる文献としては、小川剛生氏の「即位灌頂と摂関家 : 二条家の「天子御灌頂」の歴史」(『三田国文』25、1997年)が一番信頼できますね。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?koara_id=AN00296083-19970300-0001

この論文の「二 二条師忠と即位灌頂」の最後で、小川剛生氏は,

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 伏見院の代に始まった即位灌頂とは、大嘗会神膳供進の儀にかわって、摂関と天皇の関係を証明しようとする全く新しい試みであった。二条師忠は「此の事他家存知せざる由」を奏上していることでも察知されるように、他家に─就中神膳供進作法の口伝を誇示する一条家に─対抗するために、道玄とはかってこれを持ち出した疑いが非常に強いのである。即位法の思想的価値を貶めるつもりはない。しかし、即位灌頂の実践に当たって、五摂家拮抗の情勢に於いての二条家の思惑が強く作用していたことは、強調しておく必要があろう。
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と言われていますね、
「即位法の思想的価値を貶めるつもりはない」という部分、即位灌頂法の思想的価値の究明に執着している著名学者への小川氏の遠慮ないし配慮が伺えますが、ま、率直に言って、即位灌頂は「二条家の二条家による二条家のための儀礼」であって、それ以上でも以下でもないと私は思いますね。
そして、それは琵琶灌頂が「西園寺家の西園寺家による西園寺家のための儀礼」であることと、時期的にも内容的にも、殆どパラレルではないかと私は考えています。
後でもう少し補足します。
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琵琶の灌頂という概念

2010-03-01 | 妙音天・弁才天
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 1日(月)01時44分28秒

豊永聡美氏「後鳥羽院と音楽」(五味文彦編『芸能の中世』、2000年、吉川弘文館)を久しぶりに読み直しましたが、良い論文ですね。
少し引用しておきます。
即位灌頂との関係についての指摘は重要だなと思います。

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 孝道によれば、「木」即ち啄木の秘曲伝授を灌頂と称するようになったのは、後白河院の沙汰によるものであり、また真言密教の伝法灌頂に擬し、「大日如来最秘密の深法なるかゆえに、殊に秘すべき道」と奥秘を追求し、ことさら厳重なものとしてとらえようとしていることがわかる。
 しかし、実際に後白河院が琵琶に積極的であったことを示す史料は見当たらず、本当に後白河院の沙汰により啄木伝授を灌頂と称するようになったかは定かではない。しかも孝道の私記では灌頂という言葉が頻繁に使われているものの、後鳥羽に啄木を伝授した御師二条定輔の日記をはじめ、後鳥羽の啄木伝受について記した『花山院右大臣(藤原忠経)記』、『長房(藤原)卿記』、『長兼(藤原)卿記』、『孝記(安倍孝重)』等の当時の記録には、いずれも「啄木を伝習す」「琵琶秘曲を伝受す」と見えて灌頂の語を用いていない。『琵琶灌頂次第』以外で後鳥羽の啄木伝業を灌頂と称しているのは、いずれも後世に書かれた記録だけである。ちなみに後鳥羽の伝業以前の例であるが、建久三年(一一九二)に西園寺家の琵琶の始祖藤原実宗が藤原師長から啄木を伝受しており、その際にも実宗は「今日於妙音院伝業<桂説啄木>」とのみ日記に記し、やはり灌頂という言葉を使っていない。
 実際に、琵琶秘曲の伝業を灌頂と称することが宮廷社会に流布するようになるのは、西園寺実兼が御師を勤めた伏見天皇の頃からである。実兼は関東申次として権勢を誇った人物として有名であるが、その権勢は政治面からのみならず、宮廷音楽の頂点に立つという文化面からも補強されていたことは、既に拙稿で述べたとおりである。実兼は専ら灌頂という言葉で琵琶の秘曲伝業を表現しており、伏見朝に灌頂という言葉が定着していった背景には、実兼の影響が大きかったと思われる。琵琶の家の当主である実兼が灌頂という語を使いつつ、秘曲伝授の儀をより厳格なものへと導いた背後には、琵琶の地位をことさら高貴なものに高めることにより、天皇の琵琶師の座にあった西園寺家の権勢を高める狙いがあったと見て間違いないであろう。
 孝道に話を戻すと、同様の意図が孝道にもあったと言えるのではないだろうか。琵琶の秘曲伝業を灌頂と称することがなかった、もしくは少なくとも一般的ではなかった時代に、これを率先して用いることにより、琵琶及びその儀式の神秘性・威厳性を深め、地下ながらも琵琶の家としての家格の上昇につなげたいと孝道が考えたとしてもおかしくはない。
 以上見てきたように、琵琶の灌頂という概念は、孝道が『琵琶灌頂次第』を著した後鳥羽朝において宮廷音楽の世界にも密教思想の影響を受けて登場したものの、実際に宮廷社会全体に浸透したのは西園寺実兼が御師となった伏見朝あたりと言えよう。このことは、天皇の即位式に見られる、天皇が大日如来と一体化するとされる密教的秘儀である即位灌頂が、後鳥羽朝にその言説は見えるものの、実際にその秘法が実修されたのは伏見天皇の時であるという指摘と重なる事実といえよう。
(後略)
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