投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 3月 7日(日)01時43分5秒
橋本政宣氏の「即位灌頂と二条家」(『近世公家社会の研究』所収、吉川弘文館、2002)からも少し長めに引用しておきます。(p666以下)
『二条殿秘説』は実に巧妙に自家の歴史を粉飾していて面白いですね。
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一 二条家伝来の即位灌頂文書
1 即位灌頂文書の伝来と概要
二条家は、五摂家の一つで九条道家の次男良実を家祖とする。江戸時代の家領は千七百石余を領した。摂家のうちでは武家との関りが最も深く、鎌倉、室町期のみならず、江戸期においても将軍家と密接な間柄にあり、江戸期初代の康道が徳川家康の偏諱をうけ康道と称したのを始め、嫡子は将軍の猶子となり偏諱をうけ名乗るのを例としたことは、南北朝期以来即位灌頂を家例の如く勤め来ったことと共に、他の堂上家とは大いに異なるところである。文書・記録も江戸期の初頭までは厖大な量を有し、多くの秘書を有していたことは、この一部を披見した幕府儒官林鵞峯が『二条殿秘説』の中で記している。これは寛永二十年(一六四三)に披見し書留めたもので、その巻初に、二条家が多くの文書記録を有し、秘書の類も多いこと、九条家の別れであるが九条・二条両家不和のこと、武家と関わりの深い家であること、二条良基が後光厳天皇の即位のとき大きな役割を果たしたこと、義満が良基とよく政務の審問に与り、諸家の記録もみな二条家に集まったことなどが書かれている。
五摂家ノ内二条殿殊ニ記録多シ、秘伝ノ儀多シ、其故イカントナレハ、二条
ノ開基良実ハ、九条道家ノ次男ナリ、道家其長男教実ニ摂政ヲ譲リ、程ナク
教実早世、其子忠家九条ノ家ヲ相続スルトイヘトモ、猶幼少ナルニヨリテ、
良実摂関トナル、二条ノ家コレヨリ始ル、然ルトコロニ、道家良実父子不和
ナルニヨリテ、道家其三男実経ヲ摂関トス、一条ノ家コレヨリ始ル、道家良実
不和ノユヘカントナレハ、(中略)道家大ニ怒テ、三浦等ノ武士ヲ語ヒ北条ヲ
滅サントノ密謀アリ、良実時勢ノ至ラサルコトヲサトリテ、此事思召止リタマヘ
ト諌メ申サル、道家ノ心ニカナワスツイニ父子ノ義ヲ絶ツ、良実甚憂テ春日ノ
社ヘ願文ヲ納ラル、(中略)
寛永癸未(二十年)ノ歳、御即位ノ事アリテ、在洛ノ間、二条康道公ノ家司
北大路宮内道芳ト夜話ノ時、二条殿ノ秘記若干巻ヲ携ヘ来テ、此秘記ハ
他見ヲ禁スル物ナレトモ、一見ヲユルストテ披見ノ内ニ、宝治年中良実ノ
願文一通アリ、実事ヲバアラハサネトモ、父ノ心和ギ家門繁昌ヲ祈ルノ趣
ナリ、道芳ニ懇望シテ写サント請ケレドモ、遂ニ他見ノ事ナシ写シ取ル
コトハカナフマジトテ、箱ヘ取リ納ム、又(九条)忠家ヲ始メ道家ノ一門衆
流罪セラルヘシトテ、配処ノ国々ヲ記シケル一通モアリ、此事ハ何ノ記録
草子ニモ載サレハ、外人ノ知ラサル事勿論ナリ、
鎌倉ヘ良実ノ父ノ密謀ヲ諌メトドメラルル事聞ヘケルニヨリテ、北条ヨリ二条
殿ヲ崇敬セリトナシ、(中略)良実ヨリ五代良基公ハ、尊氏将軍同時ナリ、
後光厳院即位ノ時、三種ノ神器吉野ノ南朝ニ渡テ都ヘ帰ラス、三器ナクシテ
新帝ノ即位先例ナケレハ如何、ト各申ニヨリテ、尊氏モ案シ煩レケルトキ、
良基ノ曰ク、天照大神ヲ以テ鏡トシ奉リ、尊氏ヲ以テ宝剣トシテ、即位マシ
マサバ、何ソ先例ナキコトヲ憚ラン、神璽ニ用ル人ナクハ、不肖ナリトモ
良基ヲ用ヒラルヘシトテ、即位ノ議定テ、後円融・後小松ノ伝位モ此例ヲ
用ヒラル、尊氏コレヨリ良基ト入魂、義満ニ至テ良基ト睦ク、公家武家ノ政務
相談アルニヨリテ、諸家ノ記録皆二条家ニアツマル、
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