学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その18)

2022-02-16 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月16日(水)12時26分5秒

前回紹介した部分に「負くるならひ」という表現がありましたが、これは『伊勢物語』第六十五段「在原なりける男」の「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」という歌を踏まえた表現です。

https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html

前斎宮の場面の設定自体、『伊勢物語』第六十九段「狩の使」を踏まえていることも明らかで、『増鏡』作者は『伊勢物語』を素材とする二次創作を楽しんでいるとも言えますね。

https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html

ま、それはともかく、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

-------
 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
 残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
 さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac8642bb8d6f5b41db85c5fc6abcb3ad

以上で前斎宮エピソードは終了し、この後、亀山院に若宮が誕生したという短い記事があって、巻九「草枕」も終わりとなります。
さて、『とはずがたり』には存在しない、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係のエピソードはいったい何なのか。
前斎宮は帰京後、仁和寺の近くの衣笠殿というところに住んでいたのだそうですが、冷酷な後深草院にあっさり捨てられた前斎宮の新しい愛人となった西園寺実兼が、前駆などを大勢整えた華やかな様子で前斎宮邸に向かっていたところ、たまたま左大臣・二条師忠がお忍びで近くを通りかかっていて、師忠は実兼への対応を面倒に感じ、暫く隠れて実兼をやり過ごそうと思って、前斎宮邸の門から入ったのだそうです。
すると、前斎宮に仕える者たちは、実兼が来たのだと誤解して師忠を迎え入れたので、師忠も面白いと思ってずんずん入って行ったところ、前斎宮と対面することになり、師忠はこれはどうしたことだと思ったものの、「日ごろからお慕い申しておりました」みたいなことを適当に言ってみたのだそうで、これでやっと前斎宮も人違いに気づきます。
他方、実兼は不審な男が前斎宮邸に入るのを見て、随身一人に様子を探らせることにし、自身は引き返してしまいます。
師忠は「いと思ひの外に心おこらぬ御旅寝」だなあ、などと言い訳をしつつ、それなりのことをした後で、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」などと言ってあっさり帰ってしまいます。
その様子を窺っていた随身が実兼に報告すると、実兼は情けなく思って、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。師忠は私のことをどう思っていたのだろう」と心は千々に思い乱れ、その後は長い間訪問しなかったのだそうです。
しかし、前斎宮の方では、一部始終を全て見られてしまったとも気づかず、不思議に思っているうちに妊娠が判明します。
実兼としては、相手が自分一人とも思われないので、極めて不快に思いつつも、やはり自分の子と思い当たることがあったのか、お産のときは誠実に世話をし、更に「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」(別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた)ばかりか、財産の分配もしたのだそうです。
そして、前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(1284)二月十五日に亡くなってしまい、実兼は大変嘆きましたとさ、ということで終わりです。
まあ、何というか、話の展開がシュール過ぎて奇妙な味わいが残りますが、これはいったい何なのか。
それと、「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」については、『とはずがたり』で、後深草院が女性を遠ざけていた間に「雪の曙」の子を妊娠した二条が、女児が生まれたにもかかわらず後深草院には早産と偽って報告し、女児は「雪の曙」がどこかへ連れていってしまった、というエピソードを思い出させます。
『とはずがたり』も『増鏡』も真実を描いているのだとしたら、「雪の曙」西園寺実兼は二条が産んだ「こと御腹の姫宮」を前斎宮の子として、財産分与もしてあげた、という可能性もありますね。
ま、それはあくまで『とはずがたり』と『増鏡』が事実の記録だ、という前提の下での可能性ですが。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その17)

2022-02-15 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月15日(火)11時46分18秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p223以下)

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 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
 何や彼やとなつかしう語らひ聞こえ給ふに、なびくとはなけれど、ただいみじうおほどかなるに、やはらかなる御様して、思しほれたる御けしきを、よそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b66ecfbbbb8585e29499abc8f9d4725

『とはずがたり』では後深草院は前斎宮と一度関係を持った後で、簡単に靡くつまらない女だったと感想を述べ、三日目の夜、二条の予想に反し、「酒を過して気分が悪い。腰をたたいてくれ」などと言って寝てしまいます。
しかし、『増鏡』では後深草院は「今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて」、再び行動を起こします。
そして、『とはずがたり』では(文永十一年)十一月十日頃の亀山殿の場面の後、年末にもう一度、二条の仲介で後深草院が前斎宮と関係を持ちますが、こちらは『増鏡』では省略されています。
その代わり、『増鏡』では西園寺実兼と二条師忠が前斎宮と関係を持つという全く独自の展開となります。

-------
 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a4a9cc3e7d2b0873f824e27bff3f0000

「負くるならひ」は『伊勢物語』(六十五段)の歌、「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」を踏まえた表現ですね。
さて、前斎宮の新しい愛人として登場した「西園寺大納言」実兼は、「けしからぬ御本性」の後深草院と異なり、「人がらもきはめてまめしく」、前斎宮を大切に世話してくれたので、前斎宮の母代わりの立場の人も信頼していたそうですが、ここに更に「二条の師忠の大臣」が登場します。
西園寺実兼は建長元年(1249)生まれで、建治元年(1275)には二十七歳、権大納言で、幕府の斡旋により皇太子となった熈仁親王(伏見天皇)の春宮大夫です。
他方、二条師忠は建長六年(1254)生まれで西園寺実兼より五歳下ですが、摂関家の人なので昇進は極めて順調で、文永六年(1269)に十六歳で内大臣、文永八年(1271)に右大臣、建治元年(1275)には左大臣ですから、官職では西園寺実兼を圧倒しています。
しかし、『増鏡』が独自に追加した前斎宮の場面では、二条師忠の役回りはいささか滑稽なものですね。

西園寺実兼(1249-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%85%BC
二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その16)

2022-02-15 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月15日(火)10時51分41秒

続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p209以下)

-------
 日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
  夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。


『とはずがたり』では寝坊した後深草院が手紙を贈ったとはありますが、その具体的内容についての説明はなく、「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌も存在しません。
ここは『増鏡』の独自情報ですね。
また、『とはずがたり』では、「御返事にはただ、『夢の面影はさむる方なく』などばかりにてありけるとかや」ということで、前斎宮が一応は返事を出したことになっていますが、『増鏡』ではそうした記述はありません。

------
 さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。


『とはずがたり』では後深草院は「日高くなるまで御殿ごもりて、昼といふばかりになりて、おどろかせおはしまして」という具合いに完全に寝過してしまい、四条隆顕に準備させた宴会は「夕がたになりて」やっと始まるのですが、『増鏡』では「昼つかた」から始まります。
その他、細かな相違がありますね。

-------
 そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
 「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
-------

ここも『とはずがたり』では大宮院が「あまりに念なく侍るに」と酒を勧めるのに対し、『増鏡』では後深草院が「あまりあいなう侍れば」と酒を要望する形になっているなど、細かな相違があります。

-------
 こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
 宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
 かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。


『とはずがたり』では大宮院の嫌味っぽい発言に、後深草院が「生を受けてよりこの方、天子の位を踏み、太上天皇の尊号をかうぶるに至るまで、君の御恩ならずといふことなし。いかでか御命をかろくせん」と答えてから長寿の祝意を込めた今様を歌っていますが、『増鏡』では同席の人々が「人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応を示したことになっていて、これは『増鏡』が追加した独自情報です。
なお、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)などの戦前の『増鏡』注釈書では「院」は全て亀山院と解釈されていましたが、そう考えると、亀山院を支援していたはずの大宮院が「院」に嫌味を言う理由が分からず、宴席の参加者の反応も不可解なものとなります。
この点、『とはずがたり』の出現で「院」が後深草院であることが明確になったため、この場面も非常にすっきりと理解できるようになった訳ですね。
なお、井上宗雄氏は「語釈」で、

-------
○一言報い給ふべうや もう一つお歌いなさい。戦前の注釈は、下の歌謡を斎宮が歌ったものとして、この言葉を大宮院の斎宮への注文としてみていたが、『とはずがたり』の出現により、下の歌は院が歌ったことがわかったので、これも院への注文と解されるようになった。
-------

と書かれていますが(p222)、「院」が亀山院という基本構図の影響で、戦前はずいぶん不自然な解釈が強いられていた訳ですね。

>ザゲィムプレィアさん
>筆綾丸さん
私は細川氏の研究者としての業績は参考にさせてもらっていますが、それ以外の活動には興味がないので、レスは控えます。

※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

五輪塔を叩く音 2022/02/14(月) 20:08:05(ザゲィムプレィアさん)
昨日『鎌倉殿の13人』の第6回が放送されましたが、それについて細川重男氏が「んで、今週の感想。」の題で面白い文章をブログに上げています。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
----------
 伊豆山神社(走湯権現)にあるらしい千鶴くんのお墓ということになっている五輪塔(ごりんとう)は、その形状について、石造物(せきぞうぶつ)研究者の人々には、いろいろ意見があることだと思うが、確実に言えることは、八重さんが叩いた時の「ポコ」という音からして、石ではないというコトである。

 おそらくは、発泡スチロールと推定される。
 よって、そもそも石造物ではない。

 したがって、平安時代末期のモノとしては、火輪(かりん)の反りが強過ぎるとか、水輪(すいりん)の形状が球形過ぎるとか言うのは、すべてムダである。
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私は放送をそれほど集中して見て(聞いて)いなかったので、音には気付きませんでした。改めて録画をチェックすると確かに音がしています。
これは八重役のガッキーを追ったマイクが発泡スチロール(?)を叩いた音を拾ったのか、それとも効果音を後から加えたのか。人の手のような柔らかい物で石を叩いても、あまり音は出ないのですが。
画像なら蛇足という言葉がありますが、音声についてこれを表現する言葉はないと思います。これをきっかけに「墓音」という言葉が日本語に加わるでしょうか。

豆腐と墓石の角 2022/02/14(月) 23:38:05(筆綾丸さん)
録画で見ると、八重(新垣結衣)が左手を伸ばして墓石に触れた瞬間、確かにポンと鳴っているので、もしかすると、いちばんタマゲたのはガッキーだったかもしれません。え、これ、発泡スチロールなの、イヤねえ、予算が余ってるくせに、NHKって、案外、ケチなのね、と。ビールのCMではないけれど、日本の皆さん、お疲れ生です、フフフ。
八重は伊豆山権現に避難している政子たちに面会したあと、裏山の一角らしいところにポツンと建っている五輪塔を訪うていますが、千鶴くんは伊東か北条の川で善児によって殺されているので(第1話)、熱海の伊豆山権現まで遺体をわざわざ運ぶのは、かりに荼毘の後の遺骨だとしても、地理的に非常に不自然です。川辺に穴を掘って埋めるか、あるいは、近在の寺の墓地に埋めれば済む話です。伊東氏が伊豆山権現と深い深い関係にあれば、話は別ですが。
余談ながら、善児は端役として三谷の映画に欠かせない梶原善の名を踏まえていますが、善なる児が「必殺仕事人」(飾り職人の秀のように、敵の延髄を刺して殺す)だというのも、三谷らしいアソビで、和歌でいうところの本歌取りですね。
墓石の音は、豆腐の角に頭をぶつて死ぬではないけれど、墓も叩けば時にはポンと音がする(恋しい母への返事かもしれない)、というような、実は、入念に仕組んだシャレかもしれません。あの音がミスなら、カット、カット、とかなんとか言って、撮り直せば済むことですからね。

付記
ドラマの五輪塔は発泡スチロール製で石造物ではないから形状を云々するのはすべてムダだ、という細川重男氏の話は、言語論として、論点がまったくずれています。映像なのだから、発泡スチロール製であろうが、石製であろうが、豆腐製であろうが、そんなことは問題ではない。石らしく見えればいいだけのことで、それが映画というものです。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)

2022-02-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月14日(月)13時23分26秒

それでは『増鏡』が描く前斎宮の場面を紹介して行きます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)

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 まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
 十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。


『とはずがたり』と比較すると、『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という背景が描かれていましたが、『増鏡』ではきれいさっぱり消えています。
また、『とはずがたり』では、この場面は文永十一年(1274)の「十一月の十日あまりにや」の出来事ですが、『増鏡』では翌建治元年の「十月ばかり」とされていて、『とはずがたり』と『増鏡』では年が一年、月も一ヵ月ずれていますね。
さて、第二日目です。

-------
又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
 女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
 上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。


『とはずがたり』では二条が「御太刀もて例の御供に参る」とありますが、『増鏡』では二条の名前はなく、単に「女房」とあるだけです。
その他、細かい比較はリンク先を見ていただくとして、『増鏡』は全面的に『とはずがたり』に依拠しているのではなく、若干の追加情報も含んでいますね。
果たしてそれは『増鏡』作者が別の史料に拠ったのか、それとも勝手に創作したのか。
さて、この次から、共通テストの【文章Ⅰ】に相当する部分となります。

------
 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。


『とはずがたり』の「いかがすべき、いかがすべき」が「いかがはせん」になるなど、『とはずがたり』の露骨な描写が『増鏡』では若干優雅な表現に変わっています。
「御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん」は『とはずがたり』にはない『増鏡』の独自情報ですね。
また、「けしからぬ御本性なりや」は『増鏡』の語り手である老尼の感想です。

-------
 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
-------

共通テストの【文章Ⅰ】では、「らうたくなよなよとして」以下は省略されていました。
「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるる」はもちろん二条のことですね。
後深草院が前斎宮に贈った「知られじな今しも見つる面影のやがて心にかかりけりとは」という歌は『増鏡』では存在していません。

※この投稿を受けて筆綾丸さんが次のように書かれています。

凱歌 2022/02/14(月) 17:33:05
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%93%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AD%8C
「いかがすべき、いかがすべき」から「いかがはせん」
への改変が、かりに項羽の「虞兮虞兮奈若何」を踏ま
えたものだとすれば、『とはずがたり』よりも『増鏡』
のほうが、はるかに強烈なイロニーだ、ということに
なりますね。沈痛な垓下の歌ならぬ、能天気な漁色家の
凱歌だ、と。
もっとも、あの時代、「奈若何」をどのように訓み
下していたのか、わからないのですが。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その14)

2022-02-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月14日(月)12時16分58秒

以上で巻九「草枕」の前半を終えて、いよいよ前斎宮の場面に入ります。
「草枕」というタイトルそのものが、後深草院が詠んだという(『とはずがたり』には存在しない)「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌に由来する上に、分量的にも、ここまでが四割、前斎宮の場面が六割ですから、『増鏡』作者が前斎宮の場面に注いだ熱意はすごいですね。
しかし、前半が皇統の行方を左右する重大な政治的局面を描いていたのに対し、後半は要するに単なるエロ話です。
この落差はいったい何なのか。
『増鏡』作者は何のために、後深草院の出家騒動の後、前斎宮の場面をここまでの分量を割いて描いたのか。
この問題を考える上で、私は『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であったことが重要だと思っていますが、その点は後でまとめるとして、とりあえず原文を見て行くことにします。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
第三回中間整理(その8)
新年のご挨拶(その4)

といっても、当掲示板で私が『増鏡』の前斎宮の場面を検討するのは、これが実に三回目になります。
最初は2017年に、小川剛生氏の『増鏡』作者が丹波忠守、監修者が二条良基だという説(『二条良基研究』、笠間書院、2005)を批判するために若干の検討を行いました。

「そこで考察しておきたいのは、やはり増鏡のことである。」(by 小川剛生氏)
「二条良基が遅くとも二十五歳より以前に、このような大作を書いたことへの疑問」(by 小川剛生氏)
「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)
「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)~(その8)

ただ、この第一回目の検討の際には小川説批判が主目的になってしまって、前斎宮の場面自体の細かい検討はしておらず、現代語訳も井上宗雄氏の訳を借用していました。
そこで、2018年に改めて細かい検討を行い、拙いながら私訳も試みました。

「巻九 草枕」の後半について

今回は、細かい部分は第二回の検討に譲ることとして、『増鏡』の前斎宮の場面の大きな流れを眺めた上で、それが『増鏡』作者の作品全体の構想の上で、どのように位置付けられるのかを見て行くことにしたいと思います。

>筆綾丸さん
「マリトッツォ鈴木」、自分でも何のために名乗ったのか忘れていました。
覚えていて下さって、ありがとうございます。
なお、最近私はツイッター上の洗礼名を「ズッキーニ」にしました。

「水林彪氏に捧げる歌」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

朝廷のドルチェ・ヴィータ(甘い生活) 2022/02/13(日) 15:31:15
小太郎さん
https://roma.repubblica.it/cronaca/2022/02/12/news/san_valentino_il_maritozzo_vero_dolce_romano_degli_innnamorati-337482817
マリトッツォ鈴木氏へ、イタリアからバレンタインデー
の様々なマリトッツォが届きました。
写真(上)は、ローマの有名なレストラン・ロショーリ
のものだそうで、
Panna(poco dolce e non troppo ariosa)
生クリームは少し甘く、しかし、アリオーソすぎず
とのことです。dolce も arioso も音楽用語でもあり
ますが、後者は所謂アリアになる前の唱法で、
non troppo ariosa は歌いすぎず抑制して(甘さ控え目)、
くらいの感じでしょうか。
そして、タイトルにある、
il vero dolce degli innamorati
は、恋人たちの真のケーキ、というような意味なので、
まさに、バレンタインデーのプレゼントとして、
二条が後深草院に贈るのにふさわしいドルチェと
いう感じがしますね(ちょうどいい塩梅の毒も染み
込ませてある)。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)

2022-02-13 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月13日(日)11時37分39秒

『増鏡』では後深草院が太上天皇の尊号と身辺警護の随身を辞退しようとした時期は明記されていませんが、史実では、これは文永十二年(1275)四月九日(二十五日に建治と改元)です。
『続史愚抄』の同日条によれば、

-------
本院被献尊号兵仗等御報書。<被辞申由也。>御報書前菅宰相<長成。>草。<清書右衛門権佐為方。>中使徳大寺中納言。<公孝。>公卿兵部卿<隆親。>已下四人参仕。奉行院司吉田中納言。<経俊。>及為方。抑依皇統御鬱懐可有御落飾故云。異日有不被聞食之勅答。御落飾事。自関東奉停之云。<○増鏡、次第記、皇年私記、歴代最要>
-------

とのことで、尊号・兵仗は天皇(後宇多)が上皇(後深草)に与えたという建前ですから、辞退の旨を正式の文書に記し、徳大寺公孝を使者として、四条隆親(二条の母方の祖父)以下の四人の公卿が随行するという厳格な形式で天皇に通知した訳ですね。
これに対し、後宇多天皇は辞退を認めない旨を返答し、幕府のとりなしもあって、落飾の一件は中止となったという流れです。
では、幕府の対応は『増鏡』にどのように描かれているかというと、次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p200以下)

-------
 この頃はありし時頼の朝臣の子時宗といふぞ相模守、世の中はからふぬしなりける。故時頼朝臣は康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行しありきけり。それも国々の有様、人のうれへなど、くはしくあなぐり見聞かんのはかりごとにてありける。
 あやしの宿に立ち寄りては、その家主が有様を問ひ聞き、ことわりあるうれへなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我はあやしき身なれど、昔よろしき主を持ち奉りし、未だ世にやおはする、と消息奉らん。もてまうでて聞え給へ」などいへば、「なでう事なき修行者の、なにばかりかは」とは思ひながら、いひ合はせて、その文を持ちて東へ行きて、しかじか、と教へしままにいひて見れば、入道殿の御消息なり。「あなかま、あなかま」とて長くうれへなきやうにはからひつ。仏神のあらはれ給へるか、とて、みな額〔ぬか〕をつきて悦びけり。かやうのこと、すべて数しらずありし程に、国々にも心づかひをのみしけり。最明寺の入道とぞいひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0757ae1274476d114ed9eda611229a9d

ということで、いささか唐突に北条時頼廻国譚が出てきます。
時頼廻国については、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』)において、かなり詳しく検討したことがあります。
現代の歴史研究者の中にも、佐々木馨氏のように時頼の廻国が基本的には事実であったと考える人もいますが、私は賛同できません。

佐々木馨『執権時頼と廻国伝説』(吉川弘文館、1997)
http://web.archive.org/web/20061006194255/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/sasaki-kaoru-tokiyori-01.htm

さて、続きです。

-------
 それが子なればにや、今の時宗の朝臣も、いとめでたき者にて、「本院の、かく世を思し捨てんずる、いとかたじけなく、あはれなる御ことなり。故院の御おきては、やうこそあらめなれど、そこらの御このかみにて、させる御あやまりもおはしまさざらんに、いかでか忽ちに名残なくはものし給ふべき。いと怠々しき業なり」とて、新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ。
 十月五日節会〔せちゑ〕行はれて、いとめでたし。かかれば少し御心慰めて、この際は強ひて背かせ給ふべき御道心にもあらねば、思しとどまりぬ。これぞあるべきこと、と、あいなく世人も思ひいふべし。帝よりは今二つばかりの御このかみなり。
 まうけの君、御年まされるためし、遠き昔はさておきぬ。近頃は三条院・小一条院・高倉の院などやおはしましけん。高倉の院の御末ぞ今もかく栄えさせおはしませば、かしこきためしなめり。いにしへ天智天皇と天武天皇とは同じ御腹の御はらからなり。その御末、しばしはうちかはりうちかはり世をしろしめししためしなどをも、思ひや出でけん、御二流れにて、位にもおはしまさなんと思ひ申しけり。
 新院は御心ゆくとしもなくやありけめど、大方の人目には御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、かなたこなた参り仕まつれば、大宮院も目安く思さるべし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a215e2fdd16eebd3030158d91937ae8

「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(故・後嵯峨院のお決めになったことには、それなりの深い理由があるのだろうが)とさりげなく書かれていますが、ここはかなり重要です。
『増鏡』は一貫して、後嵯峨院の遺詔に亀山院とその子孫が皇統を継ぐべきだと明記されていた、という立場であり、ここでも、それを前提とした上で、幕府の斡旋により、幕府主導の妥協案として煕仁親王(伏見天皇)の立太子がなされた、という書き方ですね。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)

2022-02-12 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月12日(土)21時35分44秒

元寇にほんの少し触れた後、話題は後深草院の出家騒動に移ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p197以下)

-------
 新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに、日ごろゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いとあらまほしげなり。
 本院はなほいとあやしかりける御身の宿世〔すくせ〕を、人の思ふらんこともすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんのまうけにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をもとどめんとて、御随身ども召して、禄かづけ、いとまたまはする程、いと心細しと思ひあへり。
 大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍びがたきこと多くて、内外〔うちと〕、人々袖どもうるひわたる。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞおはします。故院の四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰々も惜しみ聞えしか。東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ。


「今年三十三にぞおはします」とありますが、後深草院は寛元元年(1243)生まれなので、数えで三十三歳ということは建治元年(1275)ですね。
ここで注意する必要があるのは、『とはずがたり』では後深草院の出家騒動とそれに続く前斎宮エピソードは前年、文永十一年(1274)の出来事とされている点です。
『とはずがたり』では巻一の最後に前斎宮エピソードが出てきて、巻二に入ると、その冒頭に、

-------
 ひまゆく駒のはやせ川、越えてかへらぬ年なみの、わが身につもるをかぞふれば、今年は十八になり侍るにこそ。百千鳥〔ももちどり〕さへづる春の日影、のどかなるを見るにも、何となき心のなかの物思はしさ、忘るるときもなければ、花やかなるもうれしからぬ心地ぞし侍る。


とあり、二条は正嘉二年(1258)生まれですから、数えで十八歳だと建治元年(1275)です。
従って、後深草院の出家騒動と前斎宮エピソードは前年の文永十一年の出来事となり、『とはずがたり』と『増鏡』で一年のずれがあります。
ま、それはともかく、『増鏡』の続きです。

-------
 さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意すめれば、ほどほどにつけて、私〔わたくし〕も物心細う思ひ嘆く家々あるべし。かかることども東〔あづま〕にも驚き聞えて、例の陣の定めなどやうに、これかれ東武士ども、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。
-------

先に「東の御方も、後れ聞えじと御心づかひし給ふ」とありましたが、「東の御方」は洞院実雄女・愔子(1246-1329)で、熈仁親王(伏見天皇)の母ですね。
『増鏡』では「東の御方」に加えて、「さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕まつる人、三、四人ばかり」出家予定だとありますが、『とはずがたり』では、出家する女房は「東の御方」と二条となっています。
即ち、

-------
 この秋ごろにや、御所さまにも世の中すさまじく、後院の別当などおかるるも御面目なしとて、太政天皇の宣旨を天下へ返し参らせて、御随身ども召しあつめて、みな禄ども賜はせていとま賜びて、久則一人、後に侍るべしとありしかば、めんめんに袂をしぼりてまかり出で、御出家あるべしとて人数定められしにも、女房には東の御方・二条とあそばれしかば、憂きはうれしきたよりにもやと思ひしに、鎌倉よりなだめ申して、


とあって、「女房には東の御方・二条」ですから「東の御方」と二条は「女房」として同格扱いですが、『増鏡』では「東の御方」だけが明示され、二条の名前は消えていますね。

>筆綾丸さん
>冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、

史実としては朝廷も元寇対策に相当尽力していますね。
文永十一年十月五日に蒙古・高麗の大軍が対馬を攻めたとの情報は十月十八日に京都に届き、九州が占領されたらしいなどという誤報もあって、大騒動になったようです。
もちろん、朝廷には武力がないので、対応といっても山陵使や伊勢以下十六社への奉幣使の発遣程度ですが、これを無意味と考えるのは現代人の感覚で、当時としては朝廷もそれなりに頑張った、というべきでしょうね。

龍粛「八 文永の役における公武の対策」
『北条時宗』 参考文献

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

省筆 2022/02/12(土) 15:09:49
小太郎さん
二条が定家の『明月記』を読んだはずはありませんが、まるで「紅旗征戎非吾事」のパロディのように見えますね。
冗談めかして言えば、承久の乱以後、「紅旗征戎非吾事」が朝廷の基本方針で、二条の省筆は、そんな政治状況への諷刺をも暗示しているのだ、と。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その11)

2022-02-12 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月12日(土)12時59分42秒

『増鏡』巻九「草枕」の続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p192以下)

-------
 本院は、故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめ、といよいよ御心を致してねんごろに孝じ申させ給ふさま、いと哀れなり。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9efdd135944be1585591ae9c0b27084c

後深草院が「御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ」などと、現代人には些か不気味な感じもする血写経の話が出てきますが、これは『とはずがたり』に基づいています。
『とはずがたり』では参加した僧侶の人数が「経衆十二人」、期間が「正月より二月十七日まで」、「御手の裏をひるがへして」(故院の御手蹟の裏に)と『増鏡』より具体的ですが、反面、血写経の目的は記されていません。
この点、『増鏡』は故院の三回忌としていて、二月十七日は後嵯峨院の命日ですから、『増鏡』の記述から『とはずがたり』の記述が合理的に説明できるという関係になっています。
ところで、六条殿・長講堂は『増鏡』に後深草院が血写経を行なったと記されている文永十一年(1274)正月の三ヵ月前、文永十年(1273)十月十二日に火事で焼失しており、再建されたのが文永十二年(建治元年、1275)四月なので、文永十一年正月には物理的に存在していません。
これをどのように考えたらよいのか。
実は、後深草院の血写経は『とはずがたり』の中ではけっこう重要な出来事です。
というのは、この重要な仏事に際して、後深草院は女性関係を一切断っており、従って、この間に「雪の曙」の子を妊娠した二条の相手が後深草院のはずはなく、二条は九月に女児を出産したものの、後深草院には早産だと偽った、という展開になります。
後深草院の血写経を起点とする『とはずがたり』の妊娠・出産騒動はハラハラ・ドキドキの連続で、些かコミカルなところもあり、ドラマとしては非常に面白いものです。
しかし、「雪の曙」こと西園寺実兼が、元寇(文永の役)の直前の時期、関東申次の重職にあるにもかかわらず、春日大社に籠もると称して一切の職務を放擲し、愛人の出産にかかりきりになっていたなどという場面もあって、これら全てを史実と考えるのは無理が多い話です。
私としては、この話は全体として虚構であり、存在しない六条殿・長講堂で行われた後深草院の血写経も、この話をリアルに見せるための「小道具」のひとつだろうと考えます。

『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e583bdc4c266e2837533878b21347e89
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5cb8c13e3b3fb094370454107892e1b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/02fbb58a7d13441c9d8e2525d0322323
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8008f774ba426dff2ee007bf04da725
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7630942f4d47a35fc023c3ce48457dfc

さて、『増鏡』に戻って続きです。

-------
 三月廿六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月廿二日御禊〔ごけい〕なり。十九日より官庁へ行幸あり。女御代、花山より出ださる。糸毛の車、寝殿の階〔はし〕の間に、左大臣殿、大納言長雅寄せらる。みな紅の十五の衣、同じ単、車の尻より出さる。十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古〔むくり〕起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿〔くわいりふでん〕の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂〔せいしよだう〕の御神楽もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94f3d9b355824ec3f1380faeac8dddb7

ということで、文永十一年(1274)の記述はずいぶんあっさりしています。
この年の最大の出来事は言うまでもなく元寇ですが、『増鏡』における元寇の記述は即位関係の諸行事が「蒙古起るとてとまりぬ」だけです。
六年前の文永五年(1268)、蒙古襲来の可能性が生じた時ですら、

-------
 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b5e845e6c301a87dc455fe53dd5a8ee

という程度の分量を割いていたのに、実際の襲来時の記事は更に短くなっています。
『増鏡』の超然たる態度は清々しいほどですね。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その10)

2022-02-11 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月11日(金)12時32分33秒

共通テストでは、前斎宮に関連する場面の中でも、入試問題用に特別に限られた区分で『増鏡』(【文章Ⅰ】)と『とはずがたり』(【文章Ⅱ】)を比較していました。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/57e58b7370dd7fe00d9ab34771bb673c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1a43f3431b2e673810afef0dbbe331a

しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を読み比べてみると、『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として活用しただけとは考えにくい記述があります。
『とはずがたり』では二条と東二条院の対立という大きな流れの中で前斎宮の場面を位置づけていましたが、『増鏡』も巻九「草枕」全体の中での前斎宮の場面の位置づけを見て行きたいと思います。
ところで、『増鏡』は戦前はなかなか人気のある作品でしたが、戦後は『増鏡』の注釈書は僅少、全部を通しての現代語訳も講談社学術文庫の井上宗雄氏によるものくらいで、『とはずがたり』研究の隆盛に比べると寂しい限りです。
それでも私は、既に消滅してしまった旧サイトで、2005年くらいまでの『増鏡』の研究状況を網羅的に概観できるようにしており、それらは現在では「インターネットアーカイブ」で読むことができますので、『増鏡』の基礎知識と(少し前までの)研究状況はそちらで確認していただければと思います。

『後深草院二条 中世の最も知的で魅力的な悪女について』
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
『増鏡』-従来の学説とその批判-
http://web.archive.org/web/20150831083929/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm

さて、巻九「草枕」は、井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』(講談社学術文庫、1983)に従って全体の構成を見ると、

-------
後宇多天皇践祚
亀山院御幸始、後嵯峨院三回忌
後深草院出家の内意
最明寺時頼のこと
煕仁親王立太子
前斎宮と後深草院(一)
前斎宮と後深草院(二)
前斎宮と後深草院(三)
前斎宮と西園寺実兼
亀山院の若宮誕生

http://web.archive.org/web/20150831071841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu-index.htm

となっています。
扱っている時代は文永十一年(1274)から建治二年(1276)までですね。
私は四年前に私訳を試みているので、詳しくはそちらを参照してもらうとして、まずは冒頭から原文を眺めることにします。

-------
 文永十一年正月廿六日春宮に位ゆずり申させ給ふ。廿五日夜まづ内侍所・剣璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政<忠家>殿参り給ひて、蔵人召して禁色〔きんじき〕仰せらる。
 上は八つにならせ給へば、いとちひさくうつくしげにて、びづらゆひて御引直衣〔ひきなほし〕・打御衣〔うちおんぞ〕・はり袴奉れる御気色〔けしき〕、おとなおとなしうめでたくおはするを、花山院の内大臣扶持し申さるるを、故皇后の御せうと公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などのおはせましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御膳参る。そののち上達部の拝あり。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女をはじめにて、三十余人並みゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ内侍所の御拝はじめられける。
 かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ。大宮院のおはします中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残りなく、上の衣にて仕うまつる。同じ十日やがて菊の網代庇の御車奉り始む。この度は、御烏帽子・直衣同じ、院へ参り給ふ。同廿日布衣〔ほうい〕の御幸はじめ、北白河殿へいらせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣、山吹の二つ御衣、紅の御単、薄色の織物の御指貫奉り給ふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0077bcaf1ddf7b2505b3516aa69571ca

文永九年(1272)の後嵯峨院崩御後、皇統を後深草院側が継ぐか亀山天皇側が継ぐかで争いがありましたが、二年後、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が八歳で践祚し、亀山側の勝利が確定したような状況となります。
巻九「草枕」の後半はエロ小説的な趣がありますが、前半は複雑な政治情勢を要領良く説明しており、文章の格調も高いですね。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その9)

2022-02-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月10日(木)11時55分44秒

二条が他人の口を借りて自分の家柄と人柄、そして美貌を誉めまくるのは『とはずがたり』における常套手段で、既に大宮院がかなり誉めていますが、ここで後深草院が絶賛し、更に巻二で「近衛大殿」(鷹司兼平?)が、赤の他人なのにいくら何でもそこまで誉めないだろう、というくらい二条を褒めちぎります。
私は素直に、この種の誉め言葉は二条の創作だろうと思いますが、例えば久保田淳氏は、

-------
 東二条院の抗議に対する院の返事は、このころの院の作者への愛情が並々ならぬものがあったことを物語る。記憶による叙述とは考えにくいが、草稿などを見せられて、写しておいたものを、ここで院の愛情の証として引くか。
-------

などと言われています。(小学館新編日本古典文学全集、p277)
また、次田香澄氏は、

-------
 院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか、委曲を尽くしている。これを通して、久我家の出自・家柄、母と院との関係、宮廷における作者の地位や境遇、二条と命名された事情、亡父と院との約束など、女房としての作者に関することがすべて出てくる。
 作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる。
 女院の短い詞には含まれていない作者の行跡について、院がそれを忖度して述べているのが興味あることである。最後に女院の出家云々に対し、冷たく突っぱねたのを見て、作者も自信を持ったであろう。【後略】
-------

と言われていますが(p243以下)、「作者は院の言葉を利用して、自分からは直接書けない自賛にかかわる事柄を、ここにまとめて書いたことになる」と核心を突く指摘をされていながら、なぜそれが「院の返事は、作者が読まされたのを控えておいたものか」と結びつくのか、非常に不思議です。
さて、十一月十日頃に亀山殿で後深草院と一夜限りの関係を持った前斎宮は、十七歳でありながら殆ど遣り手婆のように老練な二条の仲介で、十二月にもう一度後深草院と関係を持ちます。

-------
 まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢ののちは御訪れもなければ、御心のうちも御心ぐるしく、わが道芝もかれがれならずなど思ふにと、わびしくて、「さても年をさへ隔て給ふべきか」と申したれば、げにとて文あり。
 「いかなるひまにても思し召し立て」など申されたりしを、御養母と聞えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いつしか、かこちがほなる袖のしがらみせきあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしなき夢の迷ひより、御物思ひの」いしいしと、くどきかけらるるもわづらはしけれども、「ひましあらばの御使にて参りたる」と答ふれば、「これの御ひまは、いつも何の葦分けかあらん」など聞ゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けんなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる心地して」と仰せありて、公卿の車を召されて、十二月の月の頃にや、忍びつつ参らせらる。
 道も程遠ければ、ふけ過ぐるほどに御わたり、京極表の御忍び所も、このころは春宮の御方になりぬれば、大柳殿の渡殿へ、御車を寄せて、昼の御座のそばの四間へ入れ参らせ、例の御屏風へだてて御とぎに侍れば、見し世の夢ののち、かき絶えたる御日数の御うらみなども、ことわりに聞えしほどに、明けゆく鐘にねを添へて、まかり出で給ひし後朝の御袖は、よそも露けくぞ見え給ひし。


これで後深草院と前斎宮に関するエピソードは終わりで、以後、前斎宮は『とはずがたり』に登場しません。
改めてこの長大なエピソードを振り返ると、直前に二条が東二条院に嫌われて東二条院の御殿への出入りを差し止められ、更に二条が後深草院と同車して亀山殿に向かったことで東二条院の怒りが爆発して出家騒動になっているので、巻三で東二条院と決定的に対立した二条が後深草院にも見放されて御所を追放される、いわば『とはずがたり』宮中篇のクライマックス場面への伏線的な位置づけになっていますね。
とにかく史実では前斎宮・愷子内親王は父・後嵯峨院崩御のその年に帰京しているので、『とはずがたり』の前斎宮の場面は全部創作というのが私の考え方ですが、それでも『とはずがたり』では二条追放の伏線という、それなりに重要な意味があります。
しかし、この特に政治的重要性を持たないエピソードは、鎌倉時代を公家の立場から通観した歴史物語の『増鏡』にも大幅な増補・改変を経て膨大な分量で引用され、巻九「草枕」の後半を埋め尽くしており、その巻名の「草枕」も、後深草院が前斎宮に贈ったという「夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる」という歌にちなんでいます。
そして、この歌は『とはずがたり』には存在せず、『増鏡』のみに記された歌です。
このように『とはずがたり』は単純に『増鏡』の「資料」だったとは言い難いのですが、では『とはずがたり』と『増鏡』はどのような関係にあったのか。

>筆綾丸さん
>モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて

『とはずがたり』の巻一は文永八年(1271)正月、二条が十四歳で後深草院の愛妾の一人となり、文永九年二月の後嵯峨院崩御に続いて八月に父・雅忠が死去、十月に「雪の曙」と契り、文永十年二月、後深草院の皇子を産むという具合いに、ここまではそれなりに現実的な時間の流れです。
しかし、文永十一年(1274)に入ると、二月、後深草院が如法経書写のために女性関係を断っている間に「雪の曙」の子を懐妊し、九月に出産するも流産だと偽装、十月八日に昨年生まれた皇子が死去し、出家したいと願います。
ところが十一月十日頃には嬉々として後深草院と前斎宮の関係を斡旋し、十二月にも再度斡旋、という具合いに、本当に目まぐるしい展開になりますね。
更に、この忙しさは更に翌建治元年(1275)正月に持ち越され、『とはずがたり』屈指のコメディ「粥杖事件」となります。
このあたり、Allegro assai(極めて速く)そのものですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Scherzando, ma ・・・ 2022/02/09(水) 14:30:10
モーツァルトの交響曲第40番の最終楽章には、Allegro assai(極めて速く)という演奏記号が付いていて、これが「疾走」に相当しますが、『とはずがたり』執筆の基本方針は、Scherzando ma non troppo(スケルツァンド・マ・ノン・トロッポ/戯れるように、しかし、戯れすぎずに)、というのがいちばんいいような気がします。
付記
scherzando は、諧謔的に、戯画的に、とも訳せます。

https://kotobank.jp/word/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86-95305
イタリア語に関連して言えば、『La Divina Commedia』(神曲=神聖喜劇)を書いたダンテ・アリギエーリ(1265-1321)は、二条と同時代の人なんですね。二条はベアトリーチェとは似ても似つかぬ女ですが。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)

2022-02-09 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 9日(水)13時05分8秒

早稲田大学教授・田渕句美子氏が『歴史評論』850号(2021年2月)で「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」という論文を書かれていて、最近の『とはずがたり』研究の状況を概観するには便利ですが、田渕氏も後深草院二条の「非実在説」については言及されていません。
まあ、「非実在説」は最近の有力説という訳でもなさそうですね。
それにしても、歴史学界で一貫して「科学運動」の中核を担ってきた歴史科学協議会の機関誌『歴史評論』にしては、「特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”」はなかなか新鮮な感じがしますね。

http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html

さて、『とはずがたり』の時間の流れの中では、文永十一年(1274)正月以降、後深草院が如法経書写のため精進し、女性を近づけないでいた期間に「雪の曙」(西園寺実兼)の子を宿した二条は、その処置に悩み、九月、重病と称して「雪の曙」の女子を出産するも、月日が合わないので後深草院には流産と偽ります。
その子は「雪の曙」がどこかに連れて行ってしまうのですが、翌十月には昨年出生の皇子も死んでしまい、「前後相違の別れ、愛別離苦の悲しみ、ただ身一つにとどまる」などと悲観した二条は出家したいと思ったりします。
そして、(史実としては翌建治元年の出来事であるものの、『とはずがたり』の時間の流れでは)、ちょうど同じ頃に後深草院が皇位継承の不満から出家を決意するも、幕府の斡旋で熈仁親王(伏見天皇)の立太子が決まり、出家を中止します。
そして十一月十日頃、前斎宮の場面となり、母の大宮院と異母妹である前斎宮の対面の場に呼ばれた後深草院は、二条の案内で異母妹と関係を持ちますが、一夜限りであっさり終わってしまいます。
ちなみに『増鏡』では二夜です。
その後、二条の助言により、年末に再び後深草院と前斎宮が逢うことになりますが、その場面に至る前に、二条の行動に激怒した東二条院が出家騒動を起こします。
なかなか忙しい展開ですが、後深草院が出家を中止し、二条もどさくさに紛れて何となく出家を止めやめたとたん、今度は東二条院が出家するという出家騒動の三段重ね的な状況になります。

------
 還御の夕方、女院の御方より御使に中納言殿参らる。何事ぞと聞けば、「二条殿が振舞のやう、心得ぬ事のみ侯ふときに、この御方の御伺侯をとどめて侯へば、殊更もてなされて、三つ衣を着て御車に参り候へば、人のみな女院の御同車と申し候ふなり。これせんなく覚え候。よろづ面目なき事のみ候へば、いとまを賜はりて、伏見などにひきこもりて、出家して候はんと思ひ候」といふ御使なり。
 御返事には、
「承り候ひぬ。二条がこと、いまさら承るべきやうも候はず。故大納言典侍、あかこのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれてふびんに覚え候ひしかば、いかほどもと思ひしに、あへなくうせ候ひし形見には、いかにもと申しおき候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最後に申す子細候ひき。君の君たるは臣下の志により、臣下の臣たることは、君の恩によることに候ふ。最後終焉に申しおき候ひしを、快く領掌し候ひき。したがひて、後の世のさはりなく思ひおくよしを申して、まかり候ひぬ。再びかへらざるは言の葉に候。さだめて草のかげにても見候ふらん。何ごとの身の咎も候はで、いかが御所をも出だし、行方も知らずも候ふべき。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0217b4a1ee800d0589c8a81ce8312f8c

そして、後深草院の二条弁護は止まるところを知りません。

-------
 また三つ衣を着候ふこと、いま始めたることならず候。四歳の年、初参のをり、『わが身位あさく候。祖父、久我の太政大臣が子にて参らせ候はん』と申して、五つ緒の車数、衵〔あこめ〕・二重織物許〔ゆ〕り候ひぬ。そのほかまた、大納言の典侍は、北山の入道太政大臣の猶子とて候ひしかば、ついでこれも、准后御猶子の儀にて、袴を着そめ候ひしをり、腰を結はせられ候ひしとき、いづ方につけても、薄衣白き袴などは許すべしといふこと、ふり候ひぬ。車寄などまで許り候ひて、年月になり候ふが、今更かやうに承り侯ふ、心得ず候。
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。
 大納言、二条といふ名をつきて候ひしを、返し参らせ候ひしことは、世隠れなく候ふ。されば、呼ぶ人々さは呼ばせ候はず。『われ位あさく候ふゆゑに、祖父が子にて参り候ひぬるうへは、小路名を付くべきにあらず候ふ』『詮じ候ふところ、ただしばしは、あかこにて候へかし。何さまにも大臣は定まれる位に候へば、そのをり一度に付侯はん』と申し侯ひき。
 太政大臣の女〔むすめ〕にて、薄衣は定まれることに候ふうへ、家々めんめんに、我も我もと申し候へども、花山・閑院ともに淡海公の末より、次々また申すに及ばず候。久我は村上の前帝の御子、冷泉・円融の御弟、第七皇子具平親王より以来、 家久しからず。されば今までも、かの家女子〔をんなご〕は宮仕ひなどは望まぬ事にて候ふを、母奉公のものなりとて、その形見になどねんごろに申して、幼少の昔より召しおきて侍るなり。さだめてそのやうは御心得候ふらんとこそ覚え候ふに、今更なる仰せ言、存の外に候。御出家の事は、宿善内にもよほし、時至ることに候へば、何とよそよりはからひ申すによるまじきことに候」
とばかり、御返事に申さる。そののちは、いとどこと悪しきやうなるもむつかしながら、ただ御一ところの御志、なほざりならずさに慰めてぞ侍る。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4257b903593a74e6a65e4e6b7a759ec6

ここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出したら、東二条院は売り言葉に買い言葉で出家し、後深草院と西園寺家の関係が悪化して、非常に難しい事態になったでしょうね。
果たしてこれが事実の記録なのか。
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後深草院二条の「非実在説」は実在するのか?

2022-02-08 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 8日(火)21時42分44秒

佐々木和歌子氏は「解説」で、

-------
 ここまで書くと、私たちはずいぶん彼女のことを理解したような気になる。けれども実は、後深草院二条の非実在説なるものが存在する。というのも、作中に多くの歌を残しているのに、勅撰集にその名もなく、家集も存在しない。さらに雅忠の娘であることは確かなのに、系譜や官位を明らかにする『尊卑分脈』の雅忠の項に「女」の記載がない。もし後深草院との間に生まれた皇子が成人していれば母として彼女の名前がどこかに刻まれたかもしれないが、皇子が早逝したせいか、どこにもその記録がない。つまり彼女の存在を示すものは、『とはずがたり』だけなのである。
-------

と書かれていますが(p465)、「非実在説」が具体的に誰の学説かが分かりません。
ウィキペディアにも「作者の実在性や、その内容にどこまで真偽を認めるかについては諸説ある」などとありますが、「虚構説」の代表として引用されている田中貴子氏の見解も二条の実在まで疑っているようには見えません。
国会図書館サイトで検索しても、「非実在説」らしい論文は見あたらず、「非実在説」が本当に実在するのかが目下の私の疑問なのですが、何か御存知の方は御教示願いたく。


『日本古典への招待』(ちくま新書)

それと、前回投稿では金沢貞顕に深入りしてしまいましたが、共通テストをきっかけに当掲示板・ブログに来られる人が増えた機会に、改めて基礎から『とはずがたり』と『増鏡』の関係を検討しようとしていたにもかかわらず、ちょっと先走ってしまいました。
次の投稿からは前斎宮の場面に戻って、『とはずがたり』と『増鏡』の原文を丁寧に見て行くことにしたいと思います。
なお、二条と金沢貞顕の関係について興味を持たれた方は、以下の記事などを参照してください。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
第三回中間整理(その6)
『とはずがたり』の妄想誘発力

>筆綾丸さん
>佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」

佐々木氏の「葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう」という文章は妙に面白いですね。
私自身は別に「中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだ」とは思いませんが、「あたかも映画を見るような鮮やかな展開」であることは確かで、だったらこの場面は「映画」なんじゃないの、と考えるのが素直なはずです。
舗装道路ではないデコボコ道を裸足で走るのは大変だから、美しい場面だけど、まあ、フィクションだよね、という方向に進みそうなものなのに、佐々木氏は何故にこれが事実の記録だと考えるのか。
「訳者あとがき」を見ると、佐々木氏は自身の出産後の経験と『とはずがたり』の出産記事の比較から、

-------
 作品のすべてに共鳴するのは難しい。だけど、一つだけでも自分とシンクロする部分があれば、作中の人物は立体感を持って目の前に立ちあがってくる。異なる時代の人と一瞬目を交わし合ったような、この感覚。だから私は古典文学が好きだ。
-------

という具合いに「自分とシンクロする部分」を発見され(p487)、『とはずがたり』の「リアリズム」に魂を撃ち抜かれてしまったようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

嫌々ながら雑巾掛けする女 2022/02/08(火) 17:39:54
小太郎さん
佐々木和歌子氏の「『とはずがたり』は疾走している」の「疾走」は、おそらく、小林秀雄『モーツァルト』の「モーツァルトのかなしみは疾走する。涙は追いつけない」という有名な表現を意識したものだと思います。つまり、後深草院の葬列を裸足で追いかける二条、という場面のBGMには、モーツァルトのシンフォニー第40番がよく似合う、と佐々木氏は考えているような気がします。違う、と私は思いますが。

前回の『鎌倉殿の13人』に、牧の方(宮沢りえ)が伊豆山権現社の欄干で嫌々ながら雑巾掛けするユーモラスなシーンがありましたが、二条って、たぶん、あんな感じの女性だったんじゃないかな、と思いました。
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『とはずがたり』の政治的意味(その1)

2022-02-07 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 7日(月)12時56分15秒

>筆綾丸さん
>金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、

昨日は四分前の御投稿だったので暫く気づかず、失礼しました。
金沢貞顕は弘安元年(1278)生まれなので二条より二十歳下ですね。
永井晋氏の『人物叢書 金沢貞顕』(吉川弘文館、2003)によれば、

-------
 貞顕の名は、得宗北条貞時の「貞」と父顕時の「顕」を組み合わせたものであろう。「顕」の字は、北条顕時が仕えた宗尊親王の後見大納言土御門顕方からきたものと思われる。
-------

とのことなので(p3)、もともと通親流の村上源氏と縁のある人です。
そして、母が摂津国御家人遠藤為俊の娘(入殿)で(p4)、

-------
母方の遠藤氏は、摂津国と河内国にまたがる大江御厨を本領とした一族である。大江御厨には良港として知られた渡辺津(大阪府大阪市東区)があった。渡辺氏は、この港を管理する渡辺惣官を務めていた。また、摂関家とのつながりも深く、為俊は摂家将軍九条頼経の時代に鎌倉に下り、幕府の奉行人を勤めた。
-------

とのことで(同)、貞顕は、いわば生まれた時から東西の政治と文化の接点に立つことを求められていた存在ですね。
ただ、父・顕時の正室が安達泰盛の娘であったため、顕時は弘安八年(1285)の霜月騒動に連座し、出家して下総国埴生荘に隠棲し、貞顕も出世の出鼻を挫かれた形になりますが、八年後の永仁元年(1293)四月、顕時は平禅門の乱の僅か五日後に鎌倉に復帰し、十月、北条貞時が引付を廃して新設した執奏の一人に選任されます。(p12)
そして、

-------
 翌永仁二年十月、顕時は引付四番頭人に移った。顕時が赤橋邸を使い始めたのは、この頃からと思われる。赤橋邸は鶴岡八幡宮赤橋の右斜前、得宗家の赤橋邸とは若宮小路を挟んで正対した位置にあり、鎌倉の一等地である。顕時がこの館を与えられたことは、得宗北条貞時の厚い信頼を得ていたことを示している。
 十二月二十六日、貞顕が左衛門尉に補任され、同日付で東二条院蔵人に補任された。貞顕十七歳である。貞顕が初任とした左衛門尉は、微妙な立場の官職である。
-------

ということで(p13)、この後、武家の官職に関する永井氏の怒涛の蘊蓄が披露されますが、あまりに詳しすぎるので全て省略して、貞顕に関する結論だけ引用すると、

-------
 貞顕の場合、初出仕が遅いのは霜月騒動の影響であろう。また、左衛門尉という初任の官職は父顕時の左近将監よりも低い。これは、庶子の扱いである。低い官職からスタートしたため、右近衛将監転任によってようやく他家の嫡子並の地位に就いている。また、貞顕は東二条院(後深草天皇の中宮西園寺公子)の蔵人を兼務した。女院蔵人は六位蔵人に転任する慣例を持つ役職であるが、この兼務は形式的なものと考えてよい。
-------

とのことです。(p15)
「形式的」とはいえ、貞顕にとって東二条院との関係は名誉であり、嬉しいものではあったでしょうね。
ところで、『とはずがたり』によれば、前斎宮エピソードの直前くらいから東二条院と壮絶なバトルを繰り広げていた二条は、結局、東二条院に完全敗北して弘安六年(1283)頃、宮中を追放されてしまいます。
『とはずがたり』では、巻三の最後、弘安八年(1285)の北山准后九十賀に参加した後の二条の動静は暫らく不明となりますが、『増鏡』「巻十一 さしぐし」には、正応元年(1288)六月二日、三月に践祚したばかりの伏見天皇の許に西園寺実兼の娘(後の永福門院)が入内した際に、

-------
 出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。


という具合いに、「久我大納言雅忠の女」が「二条」ではなく「三条」という名前で登場します。
そして、『とはずがたり』巻四では、正応二年(1289)、既に出家して尼になっている二条が東海道を旅して三月に鎌倉に入り、八月、将軍惟康親王が廃されて京都に送還される場面に「たまたま」立ち合います。


ついで十月、後深草院皇子の久明親王が新将軍として迎えられるに際し、東二条院から贈られた「五つ衣」の裁断の仕方について悩んでいた平頼綱の「御方とかや」の依頼により、二条は嫌々ながら平頼綱邸に出向いて、平頼綱室に適切な指導を行います。
また、将軍御所の内装についても監修を依頼されたので、これも嫌々ながら指導します。
更に二条は久明親王到着後の儀式にも招かれたようで、「御所には、当国司・足利より、みなさるべき人々は布衣なり」(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p238)などと、幕府要人を眺めていますね。


ここで「当国司」は北条貞時、「足利」は尊氏・直義兄弟の父、貞氏(1273-1331)と思われますが、この時期の貞氏は十七歳という若年であり、幕府の要職に就いていた訳でもないので、北条貞時との並置は些か奇妙な感じがします。
ただ、二条の母方の叔父・四条隆顕(1243-?)の母親は、鎌倉時代に足利家の全盛期を築いた義氏(1189-1255)の娘なので、足利貞氏は四条家を介して二条の縁者でもあり、そのためにここで特別扱いされているようです。
なお、足利貞氏の正室・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれた女性なので、貞顕の異母姉(or妹)であり、足利家と金沢北条氏は緊密に結びついていますね。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)~(その3)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

言葉というもの 2022/02/06(日) 13:53:08
小太郎さん
二条の「聞く力」ならぬ「騙す力」は、マルガリータ白聴の影響がまだあるのかもしれませんが、大したものだと感心します。物語作者としては至上の快楽で、本懐と言うべきですね。
ではあるけれども、金沢貞顕くらい知的であれば、あの方の話はどこまでホントなのか、よくわからなくてねえ、と苦笑していたような気もしますが、言葉は魔物だな、とあらためて感じます。
もし二条が『吾妻鏡』を読んでいたら、野暮ねえ、ダラダラ無骨な話ばかりで、sophistication というものがまるでないのね、なんで司馬遷の『史記』のようにキビキビ書けないのかしら、とかなんとか、言ったかもしれないですね。
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佐々木和歌子氏の基本認識(その2)

2022-02-06 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 6日(日)13時57分22秒

共通テストをきっかけに私の掲示板・ブログに来られた『とはずがたり』初心者の方には、佐々木氏の「訳者まえがき」は丁度良い道案内なので、もう少し引用させてもらいます。(p7以下)

-------
 巻一から三までは、若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められ、時には自ら求め、妊娠と出産をくりかえし、最後に御所から放逐されるまでを描く。時代は鎌倉末期、政権はすでに鎌倉にあり、儀式や文芸だけをよりどころに生きていた宮廷の退廃を、二条は叙情に流されず、宮廷文学としては異例のリアリズムで淡々と描写する。華やかなはずの宮仕えは、女たちの嫉妬と男たちの漁色にさらされるところ。作品前半は宮廷に仕える「女房」の実態に迫るルポルタージュであり、読者に鮮烈なイメージを残すだろう。
-------

「儀式や文芸だけをよりどころに生きていた宮廷の退廃」は、かつては歴史研究者の認識でもあったのですが、歴史学では中世公家社会の研究が相当に進展しており、こうした認識は今ではかなり古臭い感じが否めないですね。
ま、国文学の方では、未だにこのように考えている人が多いのでしょうが。
また、「異例のリアリズム」はその通りだとしても、描写の生々しさは決して事実を反映していることと直結する訳ではありません。
そのあたり、佐々木氏を含め、多くの国文学者は未だに頑固な思い込みにとらわれているように感じます。

-------
 巻四、五では、尼となった二条が深い喪失感を満たすように旅を続ける。彼女の美しさと宮廷で培われた知性は行く先々で人々を魅了し、その温かな交流に筆が費やされる。歌枕などをたどる数奇の旅に出ることは、幼い頃からの二条の夢だった。それが叶ったとなれば、旅の記を記すことは彼女の精神的浄化であったように思う。けれど旅そのものは決して彼女を癒やしたりしなかった。むしろ旅の孤独が彼女に心の闇を自覚させる。彼女が本当に欲したものは何であるか、旅の果てに彼女は気づき始めるのだ。読者は前半の宮廷スキャンダルに目を奪われるかもしれないが、後半の旅の記こそ二条の語り手としての手腕が光るため、ぜひ最後まで読んでいただきたい。クライマックスは、巻五の後深草院崩御の場面。葬送の車を裸足で追いかける二条は、もうやめようもうやめようと思っても、その足を止めることができない。このくだりはあたかも映画を見るような鮮やかな展開を見せ、中世文学がこの記事で確実にひとつ先に進んだことを読者は知るだろう。
-------

葬送の場面は私の旧サイト(『後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-』)で紹介しておきましたが、今は「インターネットアーカイブ」で読めます。

「葬列を跣で追う、火葬の煙を望み空しく帰る」
http://web.archive.org/web/20150909222836/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-10-hadashideou.htm

さて、続きです。(p9)

-------
 この走る場面がすべてを物語るように、『とはずがたり』は疾走している。王朝文学に見られるような、うねうねと綴られる内省の文章はほとんどなく、語るを急ぐ。頬にかかる尼そぎの髪を耳ばさみして、紙に食らいつくようにして書き続けた─この記憶がなくならないうちに、私のことを、みんなが忘れ去らないうちに。そのスピード感を損なわないように、地の部分の敬語表現は省略し、文意を損なわない程度に一文を適宜切りながら歯切れよく訳したつもりである。また、意味が通りやすいように言葉を足している部分もある。そこに私の読み方が反映されているのはお許しいただきたい。
 生き難い人生を生き抜いた一人の女性の問わず語りに、ぜひお付き合いいただければと思う。
-------

ということで、これで「訳者まえがき」の全文を紹介しました。
「王朝文学に見られるような、うねうねと綴られる内省の文章はほとんどなく」には私も賛成ですが、「頬にかかる尼そぎの髪を耳ばさみして、紙に食らいつくようにして書き続けた」は「老いた彼女」云々の箇所と同様、私は疑問を感じます。
文体が通常の王朝文学と異なる理由については、私はもともと『とはずがたり』が語りの文学であったこと、そして当初の聞き手が東国社会の人びとであったことに求められるのではないかと考えています。
異文化コミュニケーションの手段であり、結果でもある『とはずがたり』は、文化を共通にする人に対してであれば説明不要な背景事情も丁寧に解説しているので分かりやすい反面、普通の王朝文学に比べて洗練度が低い、ちょっと下品な印象を与える作品でもありますね。
『とはずがたり』の文体の「スピード感」も、やはり異文化コミュニケーションの必要から生み出された面があるように思います。
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佐々木和歌子氏の基本認識(その1)

2022-02-06 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月 6日(日)11時36分44秒

光文社古典新訳文庫で『とはずがたり』を担当されている佐々木和歌子氏は、

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1972年、青森県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。専門分野は日本語日本文学。(株)ジェイアール東海エージェンシーで歴史文化講座の企画運営に携わりながら、古典文学の世界をやさしく解き明かす著作を重ねる。著書に『やさしい古典案内』(角川学芸出版)『やさしい信仰史──神と仏の古典文学』(山川出版社)『日本史10人の女たち』(ウェッジ)など。『古典名作 本の雑誌』(本の雑誌社)では中古文学・中世文学を担当。

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

という経歴の方だそうで、きちんとした学問的基礎の上に工夫された新鮮な現代語訳は私も絶賛したいのですが、ただ、佐々木氏の『とはずがたり』に対する基本認識はかなり古めかしい感じを受けます。
「訳者まえがき」を見ると、

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 約七百五十年前、一人の少女がとっておきのおしゃれをして正月を迎えていた。彼女は自分が格別に美しいことを知っていたし、後深草院に仕える女房たちのなかで、自分だけは特別だと信じていた。というのも、彼女はこの二条富小路の院御所に君臨する後深草院に四歳のころから仕え、その膝の上に抱かれて大切に育てられてきた。だから、自分は御所さまの女房ではあるけれど、御所さまの姫君のようなもの。そんな気位をひそかに育てていた。けれど、二条─彼女がちょっと不服を抱く小路名の女房名─はこの正月で十四歳になった。それは大人の仲間入りを意味する。だから後深草院は自ら育てた娘を、この年の初めにさっそく自分の愛人の一人にした。ここから彼女の数奇な人生がスタートする。
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ということで、佐々木氏は『とはずがたり』が事実の記録であることを疑わない立場です。
そして、

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 彼女は後深草院の愛人でありながら女房でもあるため、時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった。また後深草院より「賞品」として別の男にあてがわれることもあった。それは懐妊中でも、どんなんときでも。そして彼女は何度も妊娠、出産するが、一人として自分の手で育てあげることはなく、顔もろくに見せてもらえずによそに引き取られていくことのあった。
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とありますが、「時には院を別の女性に手引きすることのあったし、その房事を一部始終聞かされることもあった」の一例が前斎宮の場面ですね。
ただ、この時点(文永十一年、1274)で僅か十七歳の二条は、別に後深草院から強制されていやいや手引きをしていた訳ではなく、むしろ喜んで後深草院の(現代であれば)犯罪行為を手助けし、「もっと抵抗すれば面白かったのに」などと感想を述べており、後深草院の横暴の「被害者」ではなく、むしろ「加害者」「共犯者」の立場ですね。
さて、佐々木氏は続けて、

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 読者はきっと、彼女の人生の特異性に驚くだろう。時代や立場で価値観は大きく異なるものであるし、まして天皇だった人の愛人であれば、気ままな性愛に付き合わされてもいたしかたなし、と納得しようとするかもしれない。でも、二条はいつも「死ぬばかり悲しき」と感じていたし、もし「こんなことは当然」と思っていたとしたら、この『とはずがたり』を書こうなんて思わなかったかもしれない。全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だったように思う。
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と書かれていますが、『とはずがたり』の最終記事は後深草院の三回忌(徳治元年、1306)の少し後なので、二条は数えで四十九歳です。
昔の人の平均寿命が現代人より短いのは確かですが、それは幼児・若年で病気で死んだりする人が多いからで、元気な人は本当に元気であり、二条など全国各地を周遊する大旅行家、驚くべき健脚女性ですから、五十前だったら元気いっぱいだったはずですね。
従って、「全五巻という長編を、老いた彼女は古い手紙などを取り出しながら、薄れかけた記憶を掘り起こして書き続けた。書かなければ、書き残しておかなければ私は死ねない、それほどの気迫だった」かは相当疑問で、むしろ物語作家として円熟期を迎え、溢れんばかりの創作意欲の赴くまま、自由闊達に書きまくっていたのではないかと私は想像します。
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