投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月16日(水)12時26分5秒
前回紹介した部分に「負くるならひ」という表現がありましたが、これは『伊勢物語』第六十五段「在原なりける男」の「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」という歌を踏まえた表現です。
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html
前斎宮の場面の設定自体、『伊勢物語』第六十九段「狩の使」を踏まえていることも明らかで、『増鏡』作者は『伊勢物語』を素材とする二次創作を楽しんでいるとも言えますね。
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html
ま、それはともかく、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)
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大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac8642bb8d6f5b41db85c5fc6abcb3ad
以上で前斎宮エピソードは終了し、この後、亀山院に若宮が誕生したという短い記事があって、巻九「草枕」も終わりとなります。
さて、『とはずがたり』には存在しない、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係のエピソードはいったい何なのか。
前斎宮は帰京後、仁和寺の近くの衣笠殿というところに住んでいたのだそうですが、冷酷な後深草院にあっさり捨てられた前斎宮の新しい愛人となった西園寺実兼が、前駆などを大勢整えた華やかな様子で前斎宮邸に向かっていたところ、たまたま左大臣・二条師忠がお忍びで近くを通りかかっていて、師忠は実兼への対応を面倒に感じ、暫く隠れて実兼をやり過ごそうと思って、前斎宮邸の門から入ったのだそうです。
すると、前斎宮に仕える者たちは、実兼が来たのだと誤解して師忠を迎え入れたので、師忠も面白いと思ってずんずん入って行ったところ、前斎宮と対面することになり、師忠はこれはどうしたことだと思ったものの、「日ごろからお慕い申しておりました」みたいなことを適当に言ってみたのだそうで、これでやっと前斎宮も人違いに気づきます。
他方、実兼は不審な男が前斎宮邸に入るのを見て、随身一人に様子を探らせることにし、自身は引き返してしまいます。
師忠は「いと思ひの外に心おこらぬ御旅寝」だなあ、などと言い訳をしつつ、それなりのことをした後で、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」などと言ってあっさり帰ってしまいます。
その様子を窺っていた随身が実兼に報告すると、実兼は情けなく思って、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。師忠は私のことをどう思っていたのだろう」と心は千々に思い乱れ、その後は長い間訪問しなかったのだそうです。
しかし、前斎宮の方では、一部始終を全て見られてしまったとも気づかず、不思議に思っているうちに妊娠が判明します。
実兼としては、相手が自分一人とも思われないので、極めて不快に思いつつも、やはり自分の子と思い当たることがあったのか、お産のときは誠実に世話をし、更に「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」(別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた)ばかりか、財産の分配もしたのだそうです。
そして、前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(1284)二月十五日に亡くなってしまい、実兼は大変嘆きましたとさ、ということで終わりです。
まあ、何というか、話の展開がシュール過ぎて奇妙な味わいが残りますが、これはいったい何なのか。
それと、「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」については、『とはずがたり』で、後深草院が女性を遠ざけていた間に「雪の曙」の子を妊娠した二条が、女児が生まれたにもかかわらず後深草院には早産と偽って報告し、女児は「雪の曙」がどこかへ連れていってしまった、というエピソードを思い出させます。
『とはずがたり』も『増鏡』も真実を描いているのだとしたら、「雪の曙」西園寺実兼は二条が産んだ「こと御腹の姫宮」を前斎宮の子として、財産分与もしてあげた、という可能性もありますね。
ま、それはあくまで『とはずがたり』と『増鏡』が事実の記録だ、という前提の下での可能性ですが。
前回紹介した部分に「負くるならひ」という表現がありましたが、これは『伊勢物語』第六十五段「在原なりける男」の「思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ」という歌を踏まえた表現です。
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html
前斎宮の場面の設定自体、『伊勢物語』第六十九段「狩の使」を踏まえていることも明らかで、『増鏡』作者は『伊勢物語』を素材とする二次創作を楽しんでいるとも言えますね。
https://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-069.kari.html
ま、それはともかく、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)
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大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ac8642bb8d6f5b41db85c5fc6abcb3ad
以上で前斎宮エピソードは終了し、この後、亀山院に若宮が誕生したという短い記事があって、巻九「草枕」も終わりとなります。
さて、『とはずがたり』には存在しない、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係のエピソードはいったい何なのか。
前斎宮は帰京後、仁和寺の近くの衣笠殿というところに住んでいたのだそうですが、冷酷な後深草院にあっさり捨てられた前斎宮の新しい愛人となった西園寺実兼が、前駆などを大勢整えた華やかな様子で前斎宮邸に向かっていたところ、たまたま左大臣・二条師忠がお忍びで近くを通りかかっていて、師忠は実兼への対応を面倒に感じ、暫く隠れて実兼をやり過ごそうと思って、前斎宮邸の門から入ったのだそうです。
すると、前斎宮に仕える者たちは、実兼が来たのだと誤解して師忠を迎え入れたので、師忠も面白いと思ってずんずん入って行ったところ、前斎宮と対面することになり、師忠はこれはどうしたことだと思ったものの、「日ごろからお慕い申しておりました」みたいなことを適当に言ってみたのだそうで、これでやっと前斎宮も人違いに気づきます。
他方、実兼は不審な男が前斎宮邸に入るのを見て、随身一人に様子を探らせることにし、自身は引き返してしまいます。
師忠は「いと思ひの外に心おこらぬ御旅寝」だなあ、などと言い訳をしつつ、それなりのことをした後で、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」などと言ってあっさり帰ってしまいます。
その様子を窺っていた随身が実兼に報告すると、実兼は情けなく思って、「日頃もこうであったのだろう。何とも馬鹿な目にあったものだ。師忠は私のことをどう思っていたのだろう」と心は千々に思い乱れ、その後は長い間訪問しなかったのだそうです。
しかし、前斎宮の方では、一部始終を全て見られてしまったとも気づかず、不思議に思っているうちに妊娠が判明します。
実兼としては、相手が自分一人とも思われないので、極めて不快に思いつつも、やはり自分の子と思い当たることがあったのか、お産のときは誠実に世話をし、更に「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」(別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた)ばかりか、財産の分配もしたのだそうです。
そして、前斎宮はそれから幾らも経たないうちに、弘安七年(1284)二月十五日に亡くなってしまい、実兼は大変嘆きましたとさ、ということで終わりです。
まあ、何というか、話の展開がシュール過ぎて奇妙な味わいが残りますが、これはいったい何なのか。
それと、「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ」については、『とはずがたり』で、後深草院が女性を遠ざけていた間に「雪の曙」の子を妊娠した二条が、女児が生まれたにもかかわらず後深草院には早産と偽って報告し、女児は「雪の曙」がどこかへ連れていってしまった、というエピソードを思い出させます。
『とはずがたり』も『増鏡』も真実を描いているのだとしたら、「雪の曙」西園寺実兼は二条が産んだ「こと御腹の姫宮」を前斎宮の子として、財産分与もしてあげた、という可能性もありますね。
ま、それはあくまで『とはずがたり』と『増鏡』が事実の記録だ、という前提の下での可能性ですが。