●宋の文化
史実が変ね シバこうね。
『資治通鑑』 編年体 司馬光
北宋の政治家・儒学者で、新法党の王安石と論争した旧法党の司馬光は、戦国より五代末までの歴史を編年体で記述。
この『資治通鑑』は宋が北方民族に圧迫される中で、民族意識を高揚させた。
●宋の文化
史実が変ね シバこうね。
『資治通鑑』 編年体 司馬光
北宋の政治家・儒学者で、新法党の王安石と論争した旧法党の司馬光は、戦国より五代末までの歴史を編年体で記述。
この『資治通鑑』は宋が北方民族に圧迫される中で、民族意識を高揚させた。
エーゲ海を取り巻く地域である、バルカン半島・小アジアの古代から20世紀はじめにかけての歴史をごく簡単に通観してみ よう。
エーゲ海を中心とする地域には、紀元前20世紀ころから( ア )島を中心としてエーゲ文明が栄えた。
この文明の一 つである(1)ミケーネ文明は、ギリシア人の一派により生み出されたが、遅れてこの地域に南下した別のギリシア人の一派で、鉄器をもたらした( イ )人の攻撃を受け、滅亡した。
ミケーネ文明の滅亡後、前8世紀ころになると、ギリシア人は各地にポリスを形成した。
ボリスの政治ははじめ貴族が支配していたが、次第に(2)貴族と平民の間に争いが生じるようになった。
このような中、非合法に政権を握る僭主が多くのポリスで現れたが、代表的なポリスの一つであるアテネでは、前6世紀末に( ウ )が陶片追放の制度を定めるなど、改革が行なわれ、民主政治の基礎が築かれた。
もう一つの有力ポリスであったスパルタでは、先住民を( エ )とよばれる奴隷として支配していたので、厳しい軍国主義がとられていた。
前500年にはじまった(3)ペルシア戦争でギリシア側が勝利を収めた後、アテネでは青年男子市民による民会を最高機関とする民主政治が完成し、他のポリスでもこれが行なわれた。
しかし、前431年にぺロポネソス戦争がはじまってからほどなくしてアテネは衆愚政治に陥り、多くのポリスも互いに争うようになり、前4世紀後半、ギリシアは北方に興ったマケドニアに支配されるに至った。
マケドニアのアレクサンドロス大王は、ペルシア帝国を滅ぼし、(4)ギリシアから西アジアに至る大帝国を建設したが、その死後はいくつかに分裂し、ギリシアの地は( オ )朝マケドニアが支配することとなった。
その後、エーゲ海を取り巻く地域の大部分は( カ )世紀後半にローマの支配下に入り、その属州となった。
ローマは東方のメソポタミアまで勢力を伸ばしたが、皇帝ヴァレリアヌスは( キ )と戦い敗死している。
その後、ローマ帝国の都はギリシア世界とアジアの接点に当たるコンスタンティノープルに移された。
395年にローマ帝国が東西に分割された後は、バルカン半島から小アジアにかけての一帯はビザンツ(東ローマ)帝国の領土となった。
ビサンツ帝国は6世紀の(5)ユスティニアヌス帝の時に領土を拡大したが、その後、小アジアでは11世紀になるとトルコ人のイスラーム王朝である( ク )朝の侵入を受けるようになり、また、バルカン半島では1187年に( ケ )人による王国が再建されるなどして、その領土を次第に失っていった。
13世紀には(6)第4回十字軍が樹立したラテン帝国により、エーゲ海を取り巻く地域の支配を一時奪われている。こうしてついに(7)1453年、ビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされることとなった。
オスマン帝国は16世紀に最盛期を迎え、バルカン半島の領土を拡大し、スレイマン1世はウィーンを包囲し、キリスト教世界に大きな脅威となった。しかし、17世紀末から衰退に向かい、1699年の( コ )条約でハンガリーなどを失いバルカン半島の領土を次々と失っていった。
ウィーン体制の時代にはギリシアが独立戦争をおこし、やがてイギリス・フランス・ロシアの援助をえて独立を達成した。
このころからいわゆる東方問題がヨーロッパ列強の大きな外交上の問題となり、1853年にはクリミア戦争が起こった。また、1878年、オスマン帝国が(8)露土戦争に敗れた結果、バルカン半島では新たに3つの国が独立した。
オスマン帝国は1908年における革命の際にもバルカン半島の領土を一部失っており、1912年の(9)第1次バルカン戦争の後には、バルカン半島の領土を更に失い、その後、クレク島もギリシアに奪われた。バルカン半島北西にあって、2度のバルカン戦争を通じて勢力を伸張したセルビアは、ロシアの支援のもとパン=スラグ主義を掲げて、パン=ゲルマン主義を掲げる(10)オ-ストリアとの関係を悪化させていくこととなった。
ヨーロッパ列強の利害が絡む中、このようなバルカン半島における民族的対立が、第一次世界大戦へとつながることになったのである。
[解答]
260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。
踏む俺シャープ エデッサで。
260年 シャープール1世 エデッサの戦い ササン朝日本アルプスと呼ばれる山脈は、飛騨山脈、木曽山脈ともう一つは何か。
( )
答え. 赤石山脈
日本アルプス ヒノキ赤。
日本アルプス 飛騨山脈
木曽山脈
赤石山脈
中部地方にあり、その高さから日本アルプスと呼ばれる三つの山脈は、北から順に飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈である。