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農書

2017-02-21 | 『新世界史頻出年代暗記』



最後田舎の清良記。


最古書)(清良記(せいりょうき))


[句意]これは最古の清涼水だ、という句。


[ポイント]

1.最古の農書に『清良記』がある。

[解説]

1.『清良記』は、17世紀中ごろ(寛永年間)にが著された、伊予宇和郡の豪族土居清良の一代記(軍記物)。その一部に第7巻に農業に詳しい家臣との間での農事に関する問答が収められており、最古の農書と言われる。

〈2015立命館大・全学部

 これらの農具や肥料の普及の背景には、農業技術の解説書である農書の広まりがあった。すでに17世紀なかごろには、伊予国の戦国武将の軍(いくさ)物語である『[ H ]』の一部に、農書に相当する記述が見られたが、6)1697年、宮崎安貞によって初めての体系的農書といえる『農業全書』が刊行された。また19世紀には、[ I ]も『農具便利論』や『広益国産考』などの農書を著し、農具の用法や商品作物の栽培法などの普及につとめた。

問m  [ H ]にあてはまる、もっとも適当な書物の名を答えよ。


問n 下線部6に関連して、同じころの学問・文化の勤向を説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。


 あ 井原西鶴の『世間胸算用』が刊行された。

 い 林信篤が大学頭となった。
 う 西川如見が『華夷通商考』を刊行した。
 え 塙保己一が和学講談所を設立した。

問o 空欄[ I ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。」


(答:m清良記、nえ、o大蔵永常)〉



[ポイント]

1.江戸時代の3大農学者は、宮崎安貞・大蔵永常佐藤信淵

[解説]

1.宮崎安貞(1623~97)・大蔵永常(1768~1860?)・佐藤信淵(1769~1850)の3人は明治以前の「三大農学者」と言われる。宮崎安貞は17世紀、その他の二人は18~19世紀の農学者。2人は、ほぼ同時代人であることに注意してください。

〈2016立教大・文:「

問3.これに関連して、江戸時代には数々の農書がしるされた。大蔵永常の書いた農書はどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.清良記 b.農業全書
 c.農具便利論 d.老農夜話」

(答:c)〉


〈2013関西学院大学・済総合国際〉

問7.下線部gについて、農書とその著者の組み合わせのうち、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は、「エ」をマークしなさい.

 ア.『農業全書』-宮崎安貞

 イ.『広益国産考』-大蔵永常
 ウ.『農具便利論』-田中丘隅」

(答:ウ×田中丘隅→大蔵永常)

 

 

 

江戸時代元禄10

 

 

 

 

江戸時代元禄10

 

 1697〈宮崎安貞、『農業全書』〉★★

 

Miyazaki Yasusada wrote “'Nogyo zensho (Compendia of agricultural knowledge),”.

 

疲労苦難は 農民や。

1697年   『農業全書』   宮崎安貞 

 

広島藩士の子に生まれ、福岡藩に仕えた後帰農し、諸国を回り農業を研究した宮崎安貞は明の徐光啓が著した『農政全書』を学び、1697年、自らの体験・見聞を基にわが国最初の体系的農学書『農業全書』を著した。 

 

▼「農事図」。農政全書, 第一巻より

 

 

 

 

 

 

 

[ポイント]
1.宮崎安貞は、1697年に、『農業全書』を出した。

[解説]
1.農学では、江戸時代初めに一部農書としての記述を含む『清良記』が出た。

 

 

 

2.本格的農書としては宮崎安貞(1623~97)の『農業全書』が1697年に出版され、農業技術の普及に大きな役割を果たした。同書は明の徐光啓(じょこうけい)『農政全書』を下敷きに、日本の実情に合わせ五穀中心集約的農業の技術を説いている。

 

 

 

3.宮崎安貞は元福岡藩士だったが、禄を辞し近隣各国の農業を視察し農民たちから取材する生活に入る。その成果を『農業全書』として刊行。日本最初の体系的農業技術書である。同書の序文は同じ福岡藩の儒者貝原益軒(かいばらえきけん)が書いている。安貞は出版直後に亡くなり、その評判を聞くことができなかった。

〈2015関西大・法:「
 その後、17世紀に成立した、2[ア宮崎安貞 イ大蔵永常 ウ貝原益軒]の『農業全書』では、田畑を年々、換えて耕作し、作物も変えることとともに、農具を、それぞれの土地に従って選んで使うことを勧めている。こうした農業技術は、農業の心得とともに農書として刊行され、全国に普及した。」

(答:ア)〉

〈2013立大・全学部2/6実施:「
 農業技術の改良には( ニ )の著した『農業全書』など……」

(答:宮崎安貞)〉

〈2013愛知教育大・前期:「
 また農村では、農業生産の技術革新が行われ、特産物の開発など、商品経済が活況を呈してくると、商品作物の出荷や契約に読み・書き・算用が求められるとともに、宮崎安貞の『( c )』のような農書も広く読まれるようになった。都市でも、京都の商家に勤めていた( d )が、正直や倹約などの通俗道徳を平易に説いて、商人の社会的役割を高く評価し、庶民教育につとめた。」

(答:c農業全書、d石田梅岩)〉

 

 

 

〈2012早大・文学部:「
問7 下線d農業技術的側面を記述した著作物が著されたについて。宮崎安貞が著した著作物として正しいもめを1つ選べ。

 ア「耕稼春秋」 イ『百姓伝記』
 ウ『農業全書』 エ『老農夜話』
 オ『会津農書』」

(答:ウ)〉

〈2012立大・全学部2/6実施:「
  食生活の変化を見るならば、江戸時代を通じて、1日3度の食事をとることが広まり、一般化していったと考えられる。江戸時代、米は主食であるとともに、徳川幕府や諸藩の財政の中心として位置づけられた。江戸初期の約100年間で米の生産高は大きく上昇したが、これは、灌漑用水の整備、( ハ )児島湾や下総椿海の干拓などによる新田開発、農業技術の改良によってもたらされたものであった。農業技術の改良には、( ニ )の著した『農業全書』などをはじめとする農書の普及も関わっており、米以外の野菜の生産もさかんになって、商品作物が作られるようになっていった。

 ハ.a.紀伊 b.長門
   c.備前 d.豊後

 ニ.a.大蔵永常 b.田中丘隅
   c.二宮尊徳 d.宮崎安貞」

(答:ハ備前、ニ宮崎安貞)〉

 

 

 

 

経済よろしくサッと乗せ。


経済要録)(佐藤信淵(のぶひろ)・農政本論)

 

[ポイント]
1.佐藤信淵は、『農政本論』・『経済要録』を著した。

[解説]

1.佐藤信淵(1769~1850)は、出羽の人。3大農学者の一人とされる。江戸に出て蘭学を宇田川玄随に、国学を平田篤胤に学ぶ。

2.『農政本論』で救民、富国の策など農政の心得を説いた。また強大な中央集権政府主導の絶対主義的な産業国営化・貿易振興を主張し、『経済要録』を著す。「大東亜共栄圏」の先駆ともされる、皇国日本による世界征服論を主張した『宇内混同秘策(うだいこんどうひさく)』(1823年)といった奇書も書いている。自ら述べる経歴には不明な点も多く、主張には虚偽があるという批判もある。


〈2014立大・現心コミュ福観光営:「

問9.この人物(佐藤信淵)の著作でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.宇内混同秘策 b.経済要録

 c.西域物語 d.農政本論」

(答:c×『西域物語』は本多利明)〉


〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン

問 下線部a~cのなかから正しくないものをそれぞれ一つ選べ。なお、下線部a~cがすべて正しい場合には、dを選べ。

5 日本沿岸の防備の必要性については、aロシアの使節が来航するようになる以前から、すでに林子平が『海国兵談』において説いていた。そうした対外警戒論の一方で、b本多利明は『西城物語』『経世秘策』を著して貿易振興の必要を説き、c佐藤信淵も『経済録』において貿易の拡大を主張した。」


(答:a〇、b〇、c×『経済録』は太宰春台)〉


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心学の系譜

2017-02-21 | 『新世界史頻出年代暗記』



[ゴロ]医師大進学には遠い答案どうにかでは


石田梅岩(いしだばいがん)・心学都鄙問答(とひもんどう))(手島堵庵(てしまとあん)・中沢道二(なかざわどうに))


[句意]医師大進学には遠いよ、答案がどうにか赤点スレスレでは、という句。


[ポイント]

1.石田梅岩心学を創始し『都鄙問答』を著し、手島堵庵、その弟子中沢道二によって発展した。

[解説]

1.18世紀の初め、京都の町人石田梅岩は心学をおこし、儒教道徳に仏教神道の教えを加味して、町人を中心とする庶民の生活倫理をやさしく説いた。社会の中での町人や百姓の役割を強調し、その人間としての価値を説く心学は、弟子の手島堵庵中沢道二らによって全国に広められた。

2.石田梅岩(1685~1744)は、百姓の次男として生まれ、11歳で呉服屋に丁稚(でっち)奉公に出て、寝る間も惜しんで独学し、45歳の時京都の自宅で心学(石門心学)をおこす。儒教道徳に仏教・神道を取り入れ、日常生活に即した道徳の実践を説く。主著は講義問答集の『都鄙問答』。商業や商人を蔑視する当時の風潮に対して、梅岩は同書で、商人の利潤追求を社会におけるその職分であり正当とし、商人の存在意義を強調し、倹約・堪忍・正直などの徳目を説いたため、心学は町人とくに商人の道徳として広まった。


3.手島堵庵(1718~86)は、京都の商人の出。心学教育にふさわしい教材や教科書を工夫し、講話の場と修行道場を兼ねた心学講舎(心学舎)を各地に設け教化に努めた。子供への訓話教育を創始。女子にも聴聞を許す。


4.中沢道二(1725~1803)は、京都の機織り職人の出。40歳にして堵庵の弟子となり頭角を現す。堵庵の要請により関東に進出し、各地に道二とその弟子による心学講舎を設立、聴講者には一般庶民はもとより大名までおり、松平定信の設けた佃島の人足寄場の講師(教諭方)も務めた。


〈2016関西大・全学部2/8:「

C さらに、庶民の道徳教養を高める動きもみられた。4[ア石田梅岩 イ熊沢蕃山 ウ谷時中]が唱えた心学は弟子たちによって広められ、全国に講舎が建てられた。 18世紀後半には、京都の手島堵庵の弟子である5[ア中沢道二 イ山鹿素行 ウ野中兼山]が江戸に下り、関東・東北地方への普及につとめた。」

(答:4ア、5ア)〉


〈2013愛知教育大学・前期:「

 都市でも、京都の商家に勤めていた[ d ]が、正直や倹約などの通俗道徳を平易に説いて、商人の社会的役割を高く評価し、庶民教育につとめた。」

(答:石田梅岩)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ:「

問 通常、田沼時代とは田沼意次が幕政の実権を握っていた1760~1786年の期間をいうが、次の1~4の中でこの時期に当てはまらないものを1つ選べ。

 1.平賀源内が火浣布・エレキテル・寒暖計などの製作を試みた。

 2.本居宣長が賀茂真淵と松坂ではじめて会った。
 3.恋川春町の『金々先生栄花夢』がはじめて刊行された。
 4.石田梅岩が心学を広めた。」

(答:4 ※梅岩は吉宗時代とほぼ重なる)〉

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