包丁変ね 羅山ガオー!
(林羅山・編年体)(本朝通鑑(ほんちょうつがん))(鵞峰)
[句意]原さんが変ね!包丁をつかんでガオー!と叫ぶんだもの、というナンセンスの句。
[ポイント]
1.林羅山・鵞峰父子は、編年体の歴史書『本朝通鑑』を共著した。
[解説]
1.林羅山(道春)(1583~1657)は、朱子学者で、藤原惺窩の門人。家康に用いられ、羅山の子孫(林家)は代々儒者として幕府に仕えて、学問と教育をになった。
2.その子林鵞峰(1618~80)は、林家を継ぎ、幕政に参与した。日本史に通じ、父羅山の後を受けて『本朝通鑑』を編纂、共著。幕命によるもので、神武天皇から後陽成天皇までの漢文編年体の歴史書、全310巻、1670(寛文10)年成立。
〈2016早大・文化構想
近世にはいって儒学が興隆すると、その合理的思想にもとづいて歴史書の編集がすすめられた。宋の歴史書にならった『[ A ]』が幕府の命令で編纂され、水戸藩では歴史書の編簒事業から独自の学風がおこった。また、新井白石は歴史研究にも重要な業績をのこした。他方、万人がみずから耕作して生活する世を理想とする『[ B ]』もあらわれ、支配者が民衆を搾取する社会を否定する歴史観を示した。
問2 空欄Aに該当する著作は何か。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。
問5 空欄Bに該当する著作は何か。記述解答用紙の解答欄に漢字で記入しなさい。」
(答:A本朝通鑑、B自然真営道)〉
〈2016立教大・済コミュ福観光〉
問11.これに関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.新井白石は『読史余論』を著して、武家政治の歴史的正統性を主張した
b.稲生若水は『庶物類纂』を著して、『日本書紀』の合理的な解釈を試みた
c.林羅山・林鵞峰父子が、編年体の史書『本朝通鑑』を編集した
d.水戸藩主徳川光圀が、紀伝体の史書『大日本史』の編纂に着手した」
(答:b×『庶物類纂』は本草学(動植物)の書)〉
〈2015京都大・前期
江戸時代には、歴史は為政者を戒める手本であるとする儒教的な考え方に基づき、いくつかの大きな歴史書が編まれた。
江戸初期、将軍(f)徳川家光の命で編纂されたのが、全310巻から成る『[ カ ]』である。(g)林羅山の後を息子の鷲峰が引き継ぎ編集を担当した史書で、神代から(h)後陽成天皇までの時代を対象とする。
問6 下線部(f)の「徳川家光」は、敬慕する祖父を祀る神社への参詣を何度も繰り返した。その神社の名称を記せ。
問7 下線部(g)の「林羅山」が専門としたのは朱子学であるが、(ア)朱子学が、幕府や藩に受け入れられた理由を、思想的特徴から述べよ。また(イ)1724年に、大坂町人が出資して設立し、朱子学を基本に庶民教育を行った学問所をを何というか。
問8 下線部(h)の「後陽成天皇」は、学問を好み、和漢の書を刊行させた。木製の活字を用いて刊行されたそれらの書物を総称して何というか。」
(答:カ本朝通鑑、問6日光東照宮、問7(ア)君臣・父子の別や上下の秩序を重視するから、(イ)懐徳堂、問8慶長勅版(慶長版本))
〈2014明大・全学部前期
「東アジアの17世紀から19世紀において、武家政権をトップにもち、世襲の身分制度に依拠した江戸時代の日本社会では、儒教はその本質から離れ幕藩体制の都合にあわせ、ゆがんだ形で解釈された。たとえば、歴史書『本朝通鑑』を編纂した[ 1 ]は、幕府内では僧侶として位置づけられていたし、会津藩主保科正之の信任を得た[ 2 ]は、吉川惟足から神道を学び、朱子学と融合させた垂加神道を説き、江戸時代を通じて影響力をもった。しかし、中国や朝鮮ではこのようなことはおよそ考えられないのである。
問1 空欄1に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。
A藤原惺窩 B木下順庵
C林羅山 D中江藤樹
問2 空欄2に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。
A貝原益軒 B山崎闇斎
C山鹿素行 D室鳩巣」
(答:問1C、問2B)〉