□近現599.(明治文化・写実主義小説家①)◇C
1885年 坪内逍遥 『小説神髄』
いやや心じゃ小説は。
1885年『小説神髄』坪内逍遥
。
[point]
1.坪内逍遙は、文学では小説神髄で、演劇でも文芸協会の設立で知られる。
[解説]
1.坪内逍遙(1859~1935)は、戯作文学の勧善懲悪主義や政治小説の政治至上主義に対し、1885(明治18)年に評論『小説神髄』を発表して、西洋の文芸理論をもとに、人間の内面や世相を客観的・写実的に描くことを提唱した。勧善懲悪の従来型の文学を否定し、写実主義を追求する明治文学革新の運動を始めた。日本の近代小説は逍遙にはじまると言われる。
2.さらに逍遙は、『小説神髄』に展開された理論の具体化として、小説『当世書生気質(とうせいしよせいかたぎ)』を発表した。書生とは、主として明治・大正期に用いられた「学生」を表わす言葉。これは、様々な場面で、当時の書生の風俗や気質を写し出した小説である。
3.また逍遙は伝統演劇の近代化を主唱、1906年、島村抱月(しまむらほうげつ)と文芸協会を設立した。
〈2016関西学院大学・全学部
文学や芸術の分野においても、言文一致体で『浮雲』を書いた二葉亭四迷や西洋画の黒田清輝らが活躍した。さらにf演劇や音楽でも新しい動きがみられた。
問5 下線部fに関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい。
ア.小学校教育で、日本歌謡を導入した唱歌を多く採用した。
イ.歌舞伎では河竹黙阿弥が文明開化の風俗を取り入れた新作を発表した。
ウ.小山内薫の文芸協会などは、新派劇と呼ばれた。
エ.川上音二郎らの壮士芝居は、新劇と呼ばれた。」
(答:イ〇。※ア×西洋風の日本人による作曲。ウ×小山内薫は自由劇場。エ×新劇→新派劇)
1924年 築地小劇場完成。
引く築地まで 押さないで。
1924年 土方与志 築地小劇場 自由劇場 新劇 小山内薫
〈2016早大・法
4月27日
昼食後、大隈公会堂のe.坪内博士脚本朗読会をききに行く。演劇博物館の資金を作るための会にて、博士自ら自作脚本を読むというので大入り也。二千人と注す。
問9 下線eが1885~86年に発表して日本近代文学の成立に大きな影響を与えた文学論は何か。その書名を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」
(答:小説神髄)
〈2012明大・文学部
文学界では、明治期に入ってからも江戸時代以来の大衆文芸である戯作文学の人気は衰えなかったが、1885~86年(明治18~19)に坪内逍遙は[ i ]を発表して、人間の心の動きや世相をありのままに描く写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となった。」
問10.空欄iにあてはまる、文学理論についての著作名を記せ。」
(答:小説神髄)〉