ちあきさんのブログで 読まれた本の中の一文が紹介されていました。
『佐藤愛子って なかなかの舌鋒鋭い人だったわねぇ まだご健在で 世の中切りまくっているのかしら?』と 二十数年ぶりに無性に読みたくなりました。 三十歳前後は 阿川弘之とか 遠藤周作とか 佐藤愛子とか 読みふけっていた時代もあったのですが、最近は文芸春秋で阿川弘之のエッセイをたまに読む程度になっています。
ちあきさんは 佐藤愛子さんの著書とだけ書いてあって 書名まではなかったので 教えていただきたくコメントをいれておきました。
しかし 待てない(暇を持て余していた)私は 図書館に行くというトトに 「佐藤愛子の随筆を借りてきてほしい」 と リクエストしたのです。
「タイトルは?」と聞かれても 答えようもなく、「最近の随筆で 面白そうなものを」 とだけ言っておきました。
すると 「たくさんあるねぇ、二週間で読み切れないかもしれないけど 6冊も借りてきたよ」と 袋からドーンと6冊出してくれました。 わが自治体の図書館は二週間を限度として貸し出しているのです。
トトは私と違ったところで 無性に綺麗好きというか 潔癖症です。 不要になった紙でまず借りてきた本にカバーをします。 今回も私が一冊手に取る前にさっさとカバーかけてしまいました。
そのカバーされてタイトルさえわからない中から一冊を選んだのが こんなことでよろしいか 老兵の進軍ラッパ という本でした。
なんと ちあきさんが読まれていた本と一緒だったのです。
読み進んでいくうちに 進軍ラッパというより 老兵のつぶやきぐらいのトーンに感じたのは 私だけでしょうか。 昔の佐藤愛子さんは もっと 世の中のことを鋭く切り込んでいたように記憶しているのは 私の記憶違い?
この本を読んで始めて知ったのは 佐藤愛子さんは五十代始めから二十年間にわたり 超常現象を経験したらしいのですが その経験から
(以下 抜粋です)
一 死は無になることではない
二 死後の世界はある。 肉体は灰になっても人間の魂はありつづける。
三 あの世とこの世の間には、あの世へ行ききれない未浄化の魂がうろうろしている。(以下省略)
四 この世での怨みつらみ、執着、未練などの情念や欲望を持ったまま死ぬと成仏できない。
五 こういう浮遊霊、悪霊は、同じ波動を持つ人に憑依し、その人の人格は損なわれる。
この五点を 二十年の辛酸によって 学習したとあるのです。
私は 霊感のかけらもない人間のようなのです。
二十七年ほど前 母が亡くなり 火葬に向かう車の中で 『おかあさん 化けてでもいいから もう一度会いたい』 と ほんとに泣きながら 心から願ったことがあります。
しかし 化けるどころか そのころ 夢にさえ母は現れてくれませんでした。
以後 母は私の心の中には存在するものの その母に向かって語りかけることもまずありません。
母に語りかけるのは 実家に帰り 仏壇の前で手を合せた時と 墓参りしたときだけのような気がします。
佐藤愛子さんの書かれている一~五のどれも 私は?って思うものの、ご先祖様だけは別なのです。
今ある自分は ご先祖様から受けたもの(生)であるという思いと、その受けたものを大事にすることが自分の努めであり、未来に続く(子供とか孫とか)ものを大事にすることも努めであると 漠然とそんなことを思っています。
辛い時や苦しい時には 墓前で手を合せる時間も長くなるのですが、というものの 墓の中に霊や魂を感じているわけでもありません。
子供の頃 祖父母のところで過ごすと 祖父は必ず 朝晩仏壇の前で手を合せてから食事をしていたました。
亡き母は 「どこの神様を拝むより ご先祖様の墓参りをするほうが一番 ご利益がある」というのが口癖でした。
そんな日常があったので、佐藤愛子さんいうところのすり込みが 私の中でも行われていて 実家の仏壇と墓参りは別なのかもしれません。
もちろん この実家というのは トトの実家も墓も含んでいます。
ところで もしあの世があったら もう一度母の胸に顔をうずめたいし 母の背中から手を回して抱きつきたいものです。
『佐藤愛子って なかなかの舌鋒鋭い人だったわねぇ まだご健在で 世の中切りまくっているのかしら?』と 二十数年ぶりに無性に読みたくなりました。 三十歳前後は 阿川弘之とか 遠藤周作とか 佐藤愛子とか 読みふけっていた時代もあったのですが、最近は文芸春秋で阿川弘之のエッセイをたまに読む程度になっています。
ちあきさんは 佐藤愛子さんの著書とだけ書いてあって 書名まではなかったので 教えていただきたくコメントをいれておきました。
しかし 待てない(暇を持て余していた)私は 図書館に行くというトトに 「佐藤愛子の随筆を借りてきてほしい」 と リクエストしたのです。
「タイトルは?」と聞かれても 答えようもなく、「最近の随筆で 面白そうなものを」 とだけ言っておきました。
すると 「たくさんあるねぇ、二週間で読み切れないかもしれないけど 6冊も借りてきたよ」と 袋からドーンと6冊出してくれました。 わが自治体の図書館は二週間を限度として貸し出しているのです。
トトは私と違ったところで 無性に綺麗好きというか 潔癖症です。 不要になった紙でまず借りてきた本にカバーをします。 今回も私が一冊手に取る前にさっさとカバーかけてしまいました。
そのカバーされてタイトルさえわからない中から一冊を選んだのが こんなことでよろしいか 老兵の進軍ラッパ という本でした。
なんと ちあきさんが読まれていた本と一緒だったのです。
読み進んでいくうちに 進軍ラッパというより 老兵のつぶやきぐらいのトーンに感じたのは 私だけでしょうか。 昔の佐藤愛子さんは もっと 世の中のことを鋭く切り込んでいたように記憶しているのは 私の記憶違い?
この本を読んで始めて知ったのは 佐藤愛子さんは五十代始めから二十年間にわたり 超常現象を経験したらしいのですが その経験から
(以下 抜粋です)
一 死は無になることではない
二 死後の世界はある。 肉体は灰になっても人間の魂はありつづける。
三 あの世とこの世の間には、あの世へ行ききれない未浄化の魂がうろうろしている。(以下省略)
四 この世での怨みつらみ、執着、未練などの情念や欲望を持ったまま死ぬと成仏できない。
五 こういう浮遊霊、悪霊は、同じ波動を持つ人に憑依し、その人の人格は損なわれる。
この五点を 二十年の辛酸によって 学習したとあるのです。
私は 霊感のかけらもない人間のようなのです。
二十七年ほど前 母が亡くなり 火葬に向かう車の中で 『おかあさん 化けてでもいいから もう一度会いたい』 と ほんとに泣きながら 心から願ったことがあります。
しかし 化けるどころか そのころ 夢にさえ母は現れてくれませんでした。
以後 母は私の心の中には存在するものの その母に向かって語りかけることもまずありません。
母に語りかけるのは 実家に帰り 仏壇の前で手を合せた時と 墓参りしたときだけのような気がします。
佐藤愛子さんの書かれている一~五のどれも 私は?って思うものの、ご先祖様だけは別なのです。
今ある自分は ご先祖様から受けたもの(生)であるという思いと、その受けたものを大事にすることが自分の努めであり、未来に続く(子供とか孫とか)ものを大事にすることも努めであると 漠然とそんなことを思っています。
辛い時や苦しい時には 墓前で手を合せる時間も長くなるのですが、というものの 墓の中に霊や魂を感じているわけでもありません。
子供の頃 祖父母のところで過ごすと 祖父は必ず 朝晩仏壇の前で手を合せてから食事をしていたました。
亡き母は 「どこの神様を拝むより ご先祖様の墓参りをするほうが一番 ご利益がある」というのが口癖でした。
そんな日常があったので、佐藤愛子さんいうところのすり込みが 私の中でも行われていて 実家の仏壇と墓参りは別なのかもしれません。
もちろん この実家というのは トトの実家も墓も含んでいます。
ところで もしあの世があったら もう一度母の胸に顔をうずめたいし 母の背中から手を回して抱きつきたいものです。
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