バスケットに栗入り赤飯、さつま芋の和風サラダ、デザート4種を詰めて
昨日は、父の従姉妹夫婦宅へ
10日ほど前に、顔見せしてくれた久仁子ねえさんの姉に当たる人
指宿市の西の外れ、開聞岳の麓で暮らすUターン夫婦です
妻の方は加齢黄斑変性症と頸椎骨折の後遺症で要介護3
夫の方は、前立腺癌が見つかり入院手術、退院後自宅で転倒し、大腿骨骨折で2度目の入院、パーキンソン病も発症もし要介護2
入院と高齢者施設(要介護者の住宅型有料老人ホーム)暮らしを経て、夫婦で6月に自宅暮らしし始めたそうです
前立腺癌の手術入院の時も 骨折した時も、僕がいないと妻は一人で家で暮らせないから、高齢者施設に
それはそれは辛い2年近い年月だったと、穏やかに、ニコニコしながらずっと話をしてくださいました
ニコニコしているのは、今の暮らしが不自由ながらも施設にいた頃に比べてはるかにいいからのようでした
お話しされた内容の要点は、
○ 高齢者施設にいる妻が可哀想だった
○ 大腿骨骨折して手術した後、術後錯乱状態が長く続き、体を拘束されたり、ナースステーション近くの部屋で、ずっと見張られている理由がわからなかった
○ 転院を含め3ヶ月入院して、妻と同じ施設に入所希望して入ったが
○ 通院が必要なのに、コロナ禍で通院前1週間を個室で隔離される事をずっと繰り返された(月に2回・・・半月は隔離)
○ 妻の施設からの通院には介助者が必要で、その負担が時給4,000円✖️3、タクシーも負担で1万円ほど
年金なんかでは全く足りず、どんどん蓄えが減っていった
○ 子供(大阪在住)が面会に来ても、タブレットでビデオ通話が短時間しかできなかった
○ それより何より嫌だったのが、食事が不味くて喉を通らない程なのに、他に食べる物もなく辛かった
○ 妻は少し認知が出てきたが、僕は全く頭はおかしくないので、2人で自宅で暮らす方が快適だと決断した
○ 医者は絶対に無理だと言ったが、色々サポートを受けながらどうにか暮らし始めている
そんな内容でした
今は週に2回をデイサービス、妻は週に2回訪問リハビリ、僕は週1回の訪問リハビリ
ヘルパーによる掃除、買い物、料理をお願いし、夕食はワタミの宅配
何にもないのは土日だけですよ、と
朝食はパンで、野菜を僕が炒めて、卵料理でさえ僕の作る方がはるかに上手い(下手なのに)
施設から帰ってきたら、庭も小さな菜園も草だらけで荒れ果てて、シルバー人材を頼んで綺麗にしてもらったり、菜園の半分はコンクリートを流してもらったそうです
父の従姉妹に当たる妻のMさんは、右手は手袋をして保護、それでもピリピリと痛いし、包丁も握れない
首はコルセットをはめているので、首が左右に回らないし、下を向くことも出来ない状態
この症状が辛いと言いながらも、2人でUターンして帰ってきて、楽しかった10年ちょっとの事、加齢黄斑変性症を発症して、県の大学病院に通い続けた思い出
作っていた果樹や作物の話なども朗らかに話してくれるのです
妻は施設に入っている間に少し物忘れをするようになったけど、僕はまだまだ頭はしっかりしているし、このようにひとりで生きていけない妻を残して先に死ねないですよ
ってニコニコしながら言うのです
するとMさんも、そうよ、お父さんがんばってね❗️って
1時間ほどの滞在のつもりが、引き止められて2時間ちょっと経過していました
開聞町を通る時は、また立ち寄ってと何回も言われて、私も次回を約束
お二人には父の葬式以来、14年ぶり?ぐらい
親が親しく交流していたので、私も可愛がってもらっていましたし、懐かしい再開でした
このような重度の生活困難状況の2人にお会いした後なら、とても気持ちが重くなりそうです
でもあまりにも淡々と 辛かった一年ちょっとの間の経験を飄々と話されたり、穏やかな話し方でしたから、こちらの気が抜けるほどでした
愚痴ることなし、絶望的な物言いなし
てとも勉強になりました
私はその後、市の温泉センターに立ち寄って、短時間ながらも体をほぐして帰宅
5時少し前に家に着き、朝は雨で短時間しか散歩できなかったベス🐕🦺の散歩に1時間ちょっと
午前中はほぼ台所で色々作っていたし、私にしては盛り沢山な一日
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
○ 夕食は、急いでいる時の鯖缶お助けメニューで、筍と鯖の味噌煮など
刺身用だったタカエビの残りを天ぷらにして
栗おこわ、美味しい
○ 今日の夕食は、筑前煮
蓮根の辛子明太子マヨネーズ和え、昨日の鯖の味噌煮の残りなど