まだ9月の金曜日に北海道から雪の知らせが届いた。暑さも寒さも過ぎてしまえば・・・だが、この夏の仁万の暑さはきつかった。1982年盛夏 仁万~五十猛 181系おき
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何でも「大」を付けて力を込めるのは九州の方言というのは本当ですか。
小倉出身の松本零士にも「大四畳半物語」というのもあったし。
それはともかく、確かにこうしてみれば呆れるほどの高さの築堤。
前後の駅が高い位置にある故なのでしょうか。
堂々たる特急編成も似合いますがギリギリ収まって良かったね。
屋根上の大型ラジエーターも特徴でしたね。
昭和40年代初頭の木曽福島の鉄道官舎に住んでいた私にとっても良い思い出の車両です。
夏の水蒸気の多そうな、ジトッとした感じの暑さだったのでしょうか…。
ばかっ丁寧に語尾に「ですね」をつけるのも九州の方言ですし、やたら接頭接尾語をつけたがるのは事実でしょう。
東北が寒くて口を開きたがらないのに対して良くしゃべるのも南国のせい故かもしれません。
仁万の辺りは海食地形が隆起した様な感じですからその島の名残の様なポコポコした小高い丘を繋いだのでしょうね。
お父様は国鉄マンでいらっしゃいましたか。
しかもキハ181系の指導運転士だったとはすごいですね。
キハ181は、高校入学の年の春岡山から乗車したやくもが思い出でして、
食堂車でハンバーグ定食食べながら眺める車窓で、高梁川沿いの国道を行く自動車を上り勾配でやくもが抜いていくと言う快感を忘れません。
この辺りの地形の特徴から、隣の仁万~馬路間にも大きな築堤がありましたね。
昔の人は建設機械もろくに無い中、よくぞこんな工事をしたものだと思います。
かつて2万キロ以上の鉄路を張り巡らせた、先人の功績は偉大ですね!
あの餘部の橋脚を台船で海から運び入れたのですから恐れ入ります。それからすると技術力は高まった裏腹に奇想天外な事業を推進すると言うことは減ったように思います。かつておらが町に我田引鉄よろしく代議員先生が鉄道を敷かせたと言う方が、
御身の為に税金を湯水の如く無駄使いして、解散選挙をするより余程まともな政治だと思います。
DD51を撮らなかった事、後悔しています。
いきおい鎧・香住・餘部といった所に足を運んでしまい、機会を逃したのが残念で。
電関人も長門市周辺は手薄でして、かの行商列車など撮影題材は
ゴロゴロしていたのに、勿体ないことをしました(猛省)