先週土曜に訪問したわ鐵の34年前の写真である。
学生時代に二度ほど訪れているが、もう一回の時は貨物を撮りに行ってウヤで撃沈。
この時は、足尾線はおまけで近所のインダストリアルナロー狙いの行きの駄賃だったと記憶している。
朝の足尾駅に佇むDE10 55号機。
54号機と共に二両だけ氷柱切だか庇が付く異形機で、四角いデフォッガーも付く。
機関車の陰で見えないがタキがズラリと並んでいて、駅にはすでに導入されていたキハ40系が停車中。
残念ながら、操業中の銅山引込線のカットはない。
というのも、ヤマケイカラーガイドのローカル線の旅で見た荒涼とした禿山の写真と、鉱毒事件の話から敬遠していた覚えがある。
そして駅前の荷役線跡の写真が残る。
旭重工業製の6t機。
その氏素性は不明で、足尾駅構内の入換に従事していたのかはたまた鉱山内で荷役していたのか・・・。
1983年秋 足尾駅
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久しぶりです!
うーん、確か薄らいだ記憶ではA君と二人だったと思いますが・・・。
ちなみに写真の中にA君の愛車が同化しています(爆)
とても懐かしく拝見しました。
お帰りなさいませ。
今の筑豊は、本当にかつての産業の片鱗すら感じさせないほどですね。
寧ろ足尾の方が昭和の産業の跡が分かるかもしれません。少し遅すぎるかもしれませんが今の鉄道から見えてくるものを捉えて行きたいと思います!
筑豊からはもうもうすっかりヤマの気配は無くなくなっていました。
直方も飯塚も田川も後藤寺も伊田も、知らない人が訪れれば炭鉱町だったとは分からないでしょう。
炭鉱にせよ、鉱山にせよ、それは時代の確かな一過程で、そこにも細やかな人の営みがありました。
荒廃していく街を見るのは気が滅入ることでとですが、そんな風景も写真に収めていきたいものです。
夫々撮影に集中していた時期が違うと、色々なシーンが眺められるものですね。
よくよく記憶を辿ってみると、訪問は3度でした。
大学3年の頃でしたか、クラブの同期生が足尾線で2万キロを完乗したのを祝福しに行ったことがあり、その際に銅山観光施設に寄ったのを思い出しました。
次回はその産業の痕跡を歩いてみたいと思います。
久々の訪問でしたが、何とも昭和が色濃く残っていて好感が持てました。
ルーツがどれほど発見できるかは(?)ですが、ぜひご訪問なさってみてください。
昭和30年半ば生まれで、物心ついた時には成長著しい景気の只中でしたから敢えてダークサイドを知ろうとしませんでした。
しかし、鉱毒事件は水俣病と共に未だ幼かった脳裏に恐怖なまでに焼き付ており、
それがあのハゲ山の荒涼とした風景によって増幅された結果足尾の銅山へは近寄る勇気が出ませんでした。
今では、貴重な写真ですね。
腕木式信号機や貨物側線のレールは無くなりましたが、
今も同じ雰囲気を感じるのは、JRのローカル線よりも凄いかも。
この入換機も保存されているらしく、一部は動くとか・・・。
ps 鉱山内の軌道は明治当初から電化されていたので、構内用らしいです。
通洞の足尾銅山観光に、トロリー式電気機関車が保存されています。
C12の重連もDE10の時代も知りませんが、こういう写真を見せて頂くと、ルーツを訪ねる旅に行ってみたくなります。(もう手掛かりは無いでしょうが)
というより、足尾線に乗っていないはずで。。
筑豊は、その意味では怖いもの見たさで何度か訪れました。
入り込んだ撮影は出来ず、うわべをサラッと舐めただけの訪問でしたが。
DEの貨物、写真捜索中です(汗)
この駅のような、鉱山色のあるヤードに佇む機関車の夜景を撮りたいと思ってましたが、ついにその機を得ることがありませんでした。
鉱山線にも怖いもの見たさで突入すればよかったのですが、
どうも筑豊の廃れた町ですっかり嫌悪感というか恐怖感があって・・・。
変わっていないと言えば変わっていないとも言え、2枚目の足尾駅前は荷役線が無ければそのままですね。
でもあのガランとした空地、何かありそうとは思っていましたがこんなのが。
キハ40が入っていたのも初耳ながら、廃れたとはいえまだ生きている鉱山鉄道の空気が伝わります。