・卒業式の答辞で、生徒の代表がきびしい学校批判をおこなった。来年度からあらたに制服が導入されることになった二、三の公立高校で、生徒会として学校側に議論を申し入れたが聞き入れられず信頼関係が壊された、学校で学んだことが学校によって根本から否定された・・・と、「涙声」で抗議したという。ここで生徒たちが問題にしているのは、制服の導入それ自体ではない。導入の仕方である。「生徒と二回話し合いをしており、手続きが間違っていたとは思わない」。これは校長の言葉である。たぶんそのとおりなのだろう。校長はそれで十分とし、生徒はそれを不足だと感じた。問題は、校長がそれを手続きの問題だと考えたことだ。教育の場でたいせつなのは規則を学ぶことではなく、規則がなりたつための前提がなんであるかを身をもって学ぶことだ。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則にしたがうだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。規則がなりたつための条件を傷つけた、そのことを生徒たちは訴えた。<信頼>という規則遵守の条件となるものを生徒が問うているのに、校長は「手続きは間違っていなかった」というふうに規則遵守の問題にずらせてそれを受けとめた。校長にとって「話し合い」は、それをいかに切り抜けるかという観点から発想されたらしい。が、たいせつなのはじっくりと議論することだった。理をつくして語りあることの練習、それをできれば回避しようという態度が、この国の予算審議にみられるような空白につながってゆくのではないだろうか。
・哲学者パスカル
われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。
・電話という罪
手紙を書いてから返事がくるまでの悶えの時間が、恋愛から消えた。
・哲学の「発見」
系列会社の経営者の研修があって、この責任者は全国の社長を前に、まず「規律、礼」と号令をかけたあと、「えらそうに」経営の心得などをぶっている。長時間の研修のあと、まとめの講義は他部署の責任者をしているワタシに任せて、ワタシの紹介だけすると、オマエの話などありがたく聴いていられるかとばかりに、さっと消えてしまった。・・・。終了まぎわに、平気な顔をして研修会場に戻ってきた。訊けば、ちょっとデパートをぶらついてきたのだと言う。・・・。後日聞いた話では、コイツはあの夕方、研修会場を出るとすぐさま地下鉄に乗って日本橋のデパートに走っていったのだった。このたびはじめて系列会社の社長になった十数人のために、土産を買いに、である。老舗の「鯛と赤飯」、それを部下に行かせず、じぶんで下位に行っていたらしい・・・。
(本人の言葉)「人生のあがりに、たとえ子会社であっても、社長になれた。彼ら、もしくは家族にとっては、人生の最大のイベントのはずですからね。営業時代のことをふと思い出したんです」。
このひとはかつて営業部で機械の販売を担当していて、売り上げが順調に伸びず、苦労していた。ある夜、こんな時間に自宅までうかがうのは失礼だと思いながら、思いあまって一面識もない販売先の社長宅を訪ねた。玄関にでてこられたのはその社長、言葉を荒立たせることもなく応接間に上げて、話を聞いてくださった。「副社長以下が合議で決めたことだから覆せないんだよ。意には添えない」。それが最後の言葉だった。お願いしながらも、ここまではしてはいけない・・・とすぐに申し訳なく思っていたので、「あいわかりました。申し訳ございませんでした」と、すぐに引き下がった。玄関口で靴の紐を結びおえ、もういちど深く礼をしたときのことだった。「きみもこんなに遅くまで働いて、奥さんや子どもさんに寂しい思いをさせているだろう。これをもって帰りなさい」と差し出されたのは、家族への土産としての菓子折りと、奥様の手作りのおにぎり弁当だった。腹を減らしているだろうからか家の「むしやしない」に、とのことだった。そう、腹の虫養いである。・・・かれは号泣した。聞いているうち友人も、そしてこのわたしも、しんみりとなった。
私の専攻は哲学である。「哲学者」はものごとを深く考えるひとだと思われている。そしてその考えつめたことをえらそうに語る。けれどこれはとんでもない思い違いではないかと思った。哲学は市井の多くのひとたちのなかに生きている。多くのひとたちによって生きられている。ほんとうに大事なものは何か、それをひとびとの生き方のうちに見つけるのが哲学ではないか。それがすべてではないにしても、哲学理論を「発明」するのではなく、哲学を「発見」すること、そして、生きられたそれを言葉や論理にして、多くのひとに伝えること、そういう媒介者の役をつとめるのが、「哲学者」の仕事ではないのか・・・。
そんな思いで同僚とはじめた「臨床哲学」の事業はまちがっていないと、確信を新たにした。
・「人には、自分がだれかから見られているということを意識することによってはじめて、自分の行動をなしうるということがある」とは、私の信頼する発達心理学者の言葉である。面前でじっと見つめられるというのでなくてもいい。だれかがわたしを気づかい、わたしを遠目に見守っている、そういう感触、それが<顔>の経験ではないか。顔とは、「呼びかけ」、あるいはささやっかな「訴え」であり、見られるものではなくて与えるものだ、そしてそういう顔の存在が他人を深く力づけるのだということを、つくづく思ったここ数日であった。「ボランティア」の精神というのも、実はこの、<顔>を差しだすという行為のなかにあるのかもしれない。
・霊長類学の山極寿一さんが「食べる社会性」と題したエッセイのなかで、食物をその場で摂取せず、仲間のもとに持ち帰ってみなと食べるというのが、食という点で人間をサルから分かつ唯一の特徴だと書いておられた。ファーストフードの店で出来合いの食物を買って、めいめいが勝手に食べるさまを見ていると、なにか人間の進化を逆行していうように見えてしまう、と。
・若いひとたちだけでなく年配のひとにも確実に広がりつつあるピアシング。・・・。いずれにせよ、多くのひとたちが、じぶんの<自然>を傷つけることなしにじぶんの存在を確認しえなくなっているといのは、どうもたしかなようだ。
・「鬱の力」五木寛之&香山リカ共著
香山さんが精神科医になられたばかりの頃は、「うつ病」だと診断書に書かないでくれとよく患者さんに言われて困った。ところが最近は「うつ病」だと書いてほしいという患者さんが増えて困っているというのだ。・・・。香山さんお理解はこうである。「ただの『鬱気分です』って言われてしまったら、あとは自分の考え方とか生き方とかに直面して、自分で取り組まなければいけない課題になってしまう。でも『うつ病』ということになれば、病人なんだから『お任せします』と言えば済む。受け身の立場で手当てされたい、ケアされたい、流行の言葉で言えば『癒されたい』っていうこともあると思うんです」。
・パスカル
「人間の弱さは、それを知っている人よりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている」。まずはこの言葉を反芻することから始めたほうがはるかにいい。
・「プライヴェート」という言葉は、ラテン語のprivare(奪う)という動詞からきており、あるものを個人がじぶんのものとして他人から奪い、それを思うがままに処理しうる権利を意味しているが、これが歴史のなかで普遍的なカテゴリーというよりむしろ例外的なそれにすぎないことは、エーリヒ・フロムがかつて指摘したとおりである。
・古い都会にあってニュータウンにない物が三つある。大木と、宗教施設と、いかがわしい場所である。・・・。都市にはどこか不幸を吸収する装置がいる。不満や鬱屈をガス抜きする場所がいる。じぶんをゆるめることのできる場所、つんとすましていなくていい場所がいる。・・・。あほになれないひとがほんとうのあほである。あほやなあ、おもとい奴やな、というのが、ちょっと羨望もこめた褒め言葉だというのは、関西人ならだれもがしっていることだ。
・「『ささえあい』の人間学」森岡正博著
・まずは聴くのが仕事、とでもいうべき臨床カウンセリングの先駆者、河合隼雄先生が生前、わたしに、口を閉ざしがちなクライアントに口を開いてもらうちょっとしたコツを伝授してくださった。それは、「ほう」と感心する才能、というものである。ちょろっと言葉がこぼれたときい、すかさず「ほう」と応じる。「ほう」、「ほうほう」、「ほう―っ」というぐあいに、色をつけて、これ、あなたの話を聴きたい、あなたの言おうとしていることにとても関心があるというアイズなのだ。
・「ことばが劈(ひら)かれるとき」竹内敏晴著
「話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を替えることである。ただ自分の気持ちをしゃべるだけではダメなのである。一般にことばは感情の発露だと考える傾向が多いようだ・・・もちろんそういう場合もある。だがそれは自分のからだが閉じられている場合である。言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、からだが他人(他者)に向かって劈(ひら)いていないのだ。」
感想;
哲学は難しいです。
本を読んでいてもわからないことだらけです。
でも、哲学は生きるための考えなのだと思います。
哲学に触れることも大切なのでしょう。
・哲学者パスカル
われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである。
・電話という罪
手紙を書いてから返事がくるまでの悶えの時間が、恋愛から消えた。
・哲学の「発見」
系列会社の経営者の研修があって、この責任者は全国の社長を前に、まず「規律、礼」と号令をかけたあと、「えらそうに」経営の心得などをぶっている。長時間の研修のあと、まとめの講義は他部署の責任者をしているワタシに任せて、ワタシの紹介だけすると、オマエの話などありがたく聴いていられるかとばかりに、さっと消えてしまった。・・・。終了まぎわに、平気な顔をして研修会場に戻ってきた。訊けば、ちょっとデパートをぶらついてきたのだと言う。・・・。後日聞いた話では、コイツはあの夕方、研修会場を出るとすぐさま地下鉄に乗って日本橋のデパートに走っていったのだった。このたびはじめて系列会社の社長になった十数人のために、土産を買いに、である。老舗の「鯛と赤飯」、それを部下に行かせず、じぶんで下位に行っていたらしい・・・。
(本人の言葉)「人生のあがりに、たとえ子会社であっても、社長になれた。彼ら、もしくは家族にとっては、人生の最大のイベントのはずですからね。営業時代のことをふと思い出したんです」。
このひとはかつて営業部で機械の販売を担当していて、売り上げが順調に伸びず、苦労していた。ある夜、こんな時間に自宅までうかがうのは失礼だと思いながら、思いあまって一面識もない販売先の社長宅を訪ねた。玄関にでてこられたのはその社長、言葉を荒立たせることもなく応接間に上げて、話を聞いてくださった。「副社長以下が合議で決めたことだから覆せないんだよ。意には添えない」。それが最後の言葉だった。お願いしながらも、ここまではしてはいけない・・・とすぐに申し訳なく思っていたので、「あいわかりました。申し訳ございませんでした」と、すぐに引き下がった。玄関口で靴の紐を結びおえ、もういちど深く礼をしたときのことだった。「きみもこんなに遅くまで働いて、奥さんや子どもさんに寂しい思いをさせているだろう。これをもって帰りなさい」と差し出されたのは、家族への土産としての菓子折りと、奥様の手作りのおにぎり弁当だった。腹を減らしているだろうからか家の「むしやしない」に、とのことだった。そう、腹の虫養いである。・・・かれは号泣した。聞いているうち友人も、そしてこのわたしも、しんみりとなった。
私の専攻は哲学である。「哲学者」はものごとを深く考えるひとだと思われている。そしてその考えつめたことをえらそうに語る。けれどこれはとんでもない思い違いではないかと思った。哲学は市井の多くのひとたちのなかに生きている。多くのひとたちによって生きられている。ほんとうに大事なものは何か、それをひとびとの生き方のうちに見つけるのが哲学ではないか。それがすべてではないにしても、哲学理論を「発明」するのではなく、哲学を「発見」すること、そして、生きられたそれを言葉や論理にして、多くのひとに伝えること、そういう媒介者の役をつとめるのが、「哲学者」の仕事ではないのか・・・。
そんな思いで同僚とはじめた「臨床哲学」の事業はまちがっていないと、確信を新たにした。
・「人には、自分がだれかから見られているということを意識することによってはじめて、自分の行動をなしうるということがある」とは、私の信頼する発達心理学者の言葉である。面前でじっと見つめられるというのでなくてもいい。だれかがわたしを気づかい、わたしを遠目に見守っている、そういう感触、それが<顔>の経験ではないか。顔とは、「呼びかけ」、あるいはささやっかな「訴え」であり、見られるものではなくて与えるものだ、そしてそういう顔の存在が他人を深く力づけるのだということを、つくづく思ったここ数日であった。「ボランティア」の精神というのも、実はこの、<顔>を差しだすという行為のなかにあるのかもしれない。
・霊長類学の山極寿一さんが「食べる社会性」と題したエッセイのなかで、食物をその場で摂取せず、仲間のもとに持ち帰ってみなと食べるというのが、食という点で人間をサルから分かつ唯一の特徴だと書いておられた。ファーストフードの店で出来合いの食物を買って、めいめいが勝手に食べるさまを見ていると、なにか人間の進化を逆行していうように見えてしまう、と。
・若いひとたちだけでなく年配のひとにも確実に広がりつつあるピアシング。・・・。いずれにせよ、多くのひとたちが、じぶんの<自然>を傷つけることなしにじぶんの存在を確認しえなくなっているといのは、どうもたしかなようだ。
・「鬱の力」五木寛之&香山リカ共著
香山さんが精神科医になられたばかりの頃は、「うつ病」だと診断書に書かないでくれとよく患者さんに言われて困った。ところが最近は「うつ病」だと書いてほしいという患者さんが増えて困っているというのだ。・・・。香山さんお理解はこうである。「ただの『鬱気分です』って言われてしまったら、あとは自分の考え方とか生き方とかに直面して、自分で取り組まなければいけない課題になってしまう。でも『うつ病』ということになれば、病人なんだから『お任せします』と言えば済む。受け身の立場で手当てされたい、ケアされたい、流行の言葉で言えば『癒されたい』っていうこともあると思うんです」。
・パスカル
「人間の弱さは、それを知っている人よりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている」。まずはこの言葉を反芻することから始めたほうがはるかにいい。
・「プライヴェート」という言葉は、ラテン語のprivare(奪う)という動詞からきており、あるものを個人がじぶんのものとして他人から奪い、それを思うがままに処理しうる権利を意味しているが、これが歴史のなかで普遍的なカテゴリーというよりむしろ例外的なそれにすぎないことは、エーリヒ・フロムがかつて指摘したとおりである。
・古い都会にあってニュータウンにない物が三つある。大木と、宗教施設と、いかがわしい場所である。・・・。都市にはどこか不幸を吸収する装置がいる。不満や鬱屈をガス抜きする場所がいる。じぶんをゆるめることのできる場所、つんとすましていなくていい場所がいる。・・・。あほになれないひとがほんとうのあほである。あほやなあ、おもとい奴やな、というのが、ちょっと羨望もこめた褒め言葉だというのは、関西人ならだれもがしっていることだ。
・「『ささえあい』の人間学」森岡正博著
・まずは聴くのが仕事、とでもいうべき臨床カウンセリングの先駆者、河合隼雄先生が生前、わたしに、口を閉ざしがちなクライアントに口を開いてもらうちょっとしたコツを伝授してくださった。それは、「ほう」と感心する才能、というものである。ちょろっと言葉がこぼれたときい、すかさず「ほう」と応じる。「ほう」、「ほうほう」、「ほう―っ」というぐあいに、色をつけて、これ、あなたの話を聴きたい、あなたの言おうとしていることにとても関心があるというアイズなのだ。
・「ことばが劈(ひら)かれるとき」竹内敏晴著
「話しかけるということは相手にこえで働きかけ、相手を替えることである。ただ自分の気持ちをしゃべるだけではダメなのである。一般にことばは感情の発露だと考える傾向が多いようだ・・・もちろんそういう場合もある。だがそれは自分のからだが閉じられている場合である。言うだけ言えばいい。相手がどう思おうと、言いっぱなし、という場合が多いのは、からだが他人(他者)に向かって劈(ひら)いていないのだ。」
感想;
哲学は難しいです。
本を読んでいてもわからないことだらけです。
でも、哲学は生きるための考えなのだと思います。
哲学に触れることも大切なのでしょう。