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児相から自宅に戻るたび性暴力 長女被害、数年繰り返す ”児相はなんのために存在しているのか?”

2019-06-26 08:35:35 | 社会
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASM6P5CMZM6PUBNB00C.html?from=popin
2019/06/21 (朝日新聞)

 当時中学生だった長女に性的暴行を加えたなどとして、青森地裁八戸支部が青森県在住の50代の男に準強姦罪などで懲役6年(求刑懲役8年)を言い渡した事件で、長女が児童相談所に保護されては自宅に帰され、再び被害に遭う状況が繰り返されていたことが、捜査関係者などへの取材でわかった。児童相談所は「個別の事案についてはお答えできない」として、当時の状況を明らかにしていない。
 判決などによると、男は2011年1月中旬、県内の自宅で、長女に対して性的暴行を加えた。長女が小学6年生のころから暴行や脅迫、性的虐待を繰り返していたといい、抵抗することが困難な「抗拒不能」の状態に長女が陥っていることに乗じたものだった。
 長女は性的暴行を受ける直前の10年12月中旬に、男の暴行が原因で児童相談所に一時保護されていた。だが約1カ月後、長女は児童相談所から自宅に戻され、それから1週間もたたないうちに男から性的暴行を受けたという。
 岩崎慎裁判長は判決で、「安全であるべき自宅に戻ったにもかかわらず、再び性交を強要されることになった当時13歳であった被害者の心情は察するにあまりある」と指摘した。
 捜査関係者によると、長女はこのとき学校に性的暴行の被害を訴え、再び児童相談所に身を寄せた。だがこのときも約1カ月で自宅に帰され、性的暴行はその後も数年間にわたって繰り返されたという。
 当時、児童相談所から県警には通報がなく、県警は一連の事態を認知していなかった。昨年末、男が長男に対し暴行しているのを長女が止めに入ったところ、自らも暴行を受け、110番通報。県警が男を傷害容疑で逮捕したことで、長女が長年にわたって性的暴行を繰り返されていたことが明らかになった。

感想
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/260ff2274e95fee4e37c6aa8a3d572e4
「告発 児童相談所が子供を殺す」 山脇由貴子著 ”児童福祉司は誇りを持って活動されているか?”


https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/86e21b2ccad28104aec0479a32ca23c0
心愛さん母に懲役2年求刑 弁護側「夫の支配下に」 ”児相相談所&教育委員会の責任は?”


https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/38d71c81e853cff69449b09e1a8f2fca
2歳女児衰弱死、児相に通告複数回 1カ月前から暴行か "児相は会えなかったのではなく、是が非でも会おうとしなかった!”


児相の責任者はプライドがないのでしょうか?
自分たちが何のために存在しているか。
子どもたちを守るためであって、自分たちを守ることではないはずです。

こんな児相の責任者だと、きっと他でも問題を起しているでしょう。

それにしても、こんなに多くの児相で問題が起きているのは、児相のトップの問題なのかそれとも構造的な問題なのか。
きちんと責任を取らせることをしないと、また起きるでしょう。
このような児相は一部で、多くの人はプライドを持って一生懸命やられていると信じたい。


「戦国の群像」小和田哲男著 ”百姓とは農民にかぎらない”

2019-06-26 08:20:20 | 本の紹介
・戦国時代の見方
 北条早雲による伊豆討ち入りの1493年から、その北條氏が滅亡する1590年までのおよそ100年間と考えているが、応仁・文明の乱が勃発した応仁元年1467年から、大阪の陣で豊臣家滅亡までだとおよそ150年間になる。

・戦国大名の成り立ち
 1)守護大名;甲斐の武田、駿河の今川、薩摩の島津、豊後の大友
 2)守護代の下克上;長尾為景、尼子経久
 3)国人一揆;毛利元就
 それ以外;北畠、姉小路(公家から)

・北条氏が同時代の戦国大名の中でも年貢率が低かった。4公6民
 他は5公5民。

・国造り(川の洪水防止)
 ・武田信玄の信玄堤
 ・加藤清正の清正堤

・国力増強のための産業育成

・戦国時代の名乗り(諱(いみな))
 ・奥州の伊達晴宗、越後の長尾春景、甲斐の武田晴信
  室町幕府十二代将軍足利義晴の「晴」の字をもらっている。
 ・伊達輝宗、上杉輝虎、毛利輝元は十三代将軍足利義輝の「輝」をもらっている。
 実力の時代にあっても権威による支配がまだ生き残っていたことになる。

・「明智日向守が云う、仏の噓を方便と云い、武士の噓を武力と云う」

・名誉ある死が家名の存続へとつながっていったのである(子孫は優遇された)。

・百姓とは何か
 百姓は凡下と同じで、国家によって支配される者の総称である。したがって、百姓の中には漁師もいれば、商人・職人も含まれていた。たまたま、農業を主たるなりわいとした「農人(のうにん)」が人口も多く、また、田畠からの年貢収入が国家財政の基盤になったことから百姓の代表といった扱いを受け、百姓イコール農民という理解になっていったのである。
農民といういい方は中世史料には出てこない。「農人」として出てくることはある。

・農民は3つに分かれていた。
 ①名主層
 ②散田作人層
 ③「下人」「所従」

・闘いにたちあがる百姓たち
 「侘言(わびごと)」(文書)それがだめなら「郷中期」(逃散)

・百姓たちの闘いとしての新田開発
「六年荒野」;開発した水田は7年目から年貢が取られるがそれまでは、年貢・諸役がかかってこない。

・「欠落」(かけおち)と「人返し」
 散発的な逃散(欠落)した農民を探して戻す(人返し)。

・「本土寺過去帳」
 室町中期から戦国期にかけて、上は大名層から下は下人まで、あらゆる階層の物故者がおよそ1万人、死亡理由に至るまでしょうさいに記録された過去帳
 4月~6月まで志望者が多く、7月~12月までは少ないという、季節ごとにはっきりした違いがあったことになる。4月~6月は食糧が確保できない端境期にあたっている。

・あたりまえだった略奪行為「乱取り」
 家具道具、米などの食料を奪うことはもちろん、人間もさらっている。

・街道整備と伝馬制

・関所の撤廃と楽市楽座令
 商品流通の妨げとなっていた関所
 信長がこの関所撤廃にふみきった理由は二つあった。
 1)商人たちの往来をしやすくするため
 2)商品の値段を低くし、商品流通を活発にさせる

・御用商人に商人を束ねさせる

・商人たちの戦争協力と特権付与

・武具(刀・弓・槍・鉄砲)製造に携わる人びと 

・石垣を積む城の流行と石工

・金・銀・鉄の産出と金堀り・山師
 灰吹法の導入
 1533年、博多の豪商の一人神谷寿偵が、この進んだ精錬法を身につけた宗丹と桂寿という二人の吹工(精錬工)を中国から招き、この二人を連れて石見銀山に入って、銀の産出をさせたのにはじまるという。やがて、灰吹法は銀だけでなく、金の採取にも応用され、減少しつつあった砂金採取に代わる産金方法として隆盛をみた。

・「たたら製鉄」
 戦国大名尼子経久が短期間に出雲を中心に大きな勢力を築くことができたのは、出雲の良質な鉄があったからだる。

・「女戦国大名」今川寿桂尼
今川氏親の妻。氏親が死んだとき、あとつぎの長男氏輝はまだ14歳の若さであった。かつ病弱だった。氏親の補佐役となったのが、氏親未亡人。

・「女地頭」井伊次郎法師
 井伊直政が出、江戸時代には彦根藩主となった。

・内助の功を越えていた妻たちの働き
 ・秀吉の妻おね
  秀吉が長浜城下町を作るために「長浜に移り住めば、年貢。地子のほか、諸役も免除する」とのお触れを出した。またたく間に長浜には商人。職人たちが集住し、短期間で城下町として体裁ができあがった。その様子をみた秀吉、目的が達成されたと考えたのであろう。「これからは、年貢・地子を取り、諸役を賦課する」という命令を出している。すると、このことを知った秀吉の正室おねが、その命令を撤回するように秀吉に「異見」しているのである。
「それでは商人・職人たちに約束したことを違えることになる」。結局、秀吉はおねの「異見」を受け入れ、前言撤回し、元通り、年貢・諸役は免除するとしている。
 ・まつ(前田利家)
 「金ばかり貯めないで兵を養いなさい」

・合戦と性暴力
薩摩の島津勢が豊後に攻めこんできたとき、「薩摩勢が実におびただしい数の人質、とりわけ、婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃された」という証言を収録している。

・武将子弟の教育を託された禅僧
 武田信玄の師;岐秀元伯 臨済宗
 上杉謙信の師;天室光育 曹洞宗
 徳川家康の師;太原崇孚(雪斎) 臨済宗
 伊達政宗の師;虎哉宗乙 臨済宗
四書五経の他に武経七書(ぶけいしちしょ)を教育
武経七書
『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』

・宣教師がもたらした文化と技術
 地球儀、ぜんまい式時計、望遠鏡、メガネ

・戦国三大文化
 周防の大内氏、越前の朝倉氏、駿河の今川氏

感想
勢力を伸ばした武将は戦が強いだけでなく、産業立地や治水工事、農民の懐柔などを行っていたようです。
今までの延長ではなく、新しいパラダイムを導入し、力を付けていったのでしょう。

お家を維持するためには、きちんと引き継ぐものの教育が大切だったようです。